第42話 名無しの英雄
隠し通路を通って支部長室に辿り着いたハルカ。
「やあ。よく来たね、我らが英雄」
彼は部屋の主である男の笑顔を視認した瞬間、弾けるように飛び出していた。
瞬く間に支部長を間合いに捉え、殺意すら込めた拳を放つ。
それに対し支部長は笑ったまま―――
机に置かれたアタッシュケースをかざして防御体勢を取る。するとハルカが血相を変えて急停止した。
「チッ」
道徳心から暴力を抑えた訳ではない。
むしろ逆、ハルカは理性で拳を止めたとは思えないほどに歪み切った表情をしていた。
この世の全てを呪ってもまだ足りない。そう感じさせるほど強い殺意を込めて支部長を睨み付ける。
「あはは、さっきの電話で殴るとまで言われちゃったからねえ。こちらもそれなりに準備してきたんだよ。はいこれ、君の切り札だろう?」
軽薄な口調でそう言った支部長は、アタッシュケースを開いてその中をハルカに見せる。
中には密閉性の高い特殊な構造の注射器が一本だけ入っていた。ご丁寧に耐衝撃ケースで保管されており、よほど貴重な代物であることがうかがえる。
「ッ」
それを見たハルカは―――怒り、恐怖、憎悪、絶望、悲しみ、無数の感情が混ざった凄絶な貌をしていた。
「小難しい話も回りくどいことも無しにしようか。この前から伝えてた通り、君にはこれを使ってヒトガタを倒して貰うよ」
「······ああ」
「ふう。本気で戦う以上、これと向き合うことも覚悟していたはずだ。今さら腑抜けた返事はしないで欲しいねえ。ま、気持ちは分からないでもないけど」
「覚悟が決まってねえ訳じゃねえよ」
「本当に現状を理解できているのかな?あと五つしかないこの切り札を切る以上、絶対に失敗は許されないんだよ?」
「問題無い。俺は、俺たちは最強だ」
不自然な言葉を言い切ったハルカを正面から見つめて支部長はしばし黙り込む。
無言の裏、刹那ではあるが彼はとてつもない速度で思考を巡らせていた。
ハルカを細部まで観察し、そこに僅かでも違和感があれば即座に『これ』の使用を取り止めるつもりだ。
(俺たちは、ねえ。―――うん。まあ、特に問題はなさそうかな)
「分かった。疑って悪かったよ」
「別に、てめえにどう思われようと知ったこっちゃねえよ。勝手に疑ってろ」
「あはは、手厳しいねえ」
「当たり前だ。俺はお前と馴れ合いをするつもりはねえ」
ハルカはそう強引に話を打ち切ると、引ったくるようにアタッシュケースを奪い取る。
「はあ、分かった。分かったよ。そこまでいうならお手上げだ。早く作戦を始めるとしよう。
支部長は自分の秘書を呼び寄せた。
「はっ」
「ハルカ君に作戦の概要と注意事項を教えてあげてくれ」
「支部長はどうなさるのですか?」
「僕は色々と準備に取り掛かるとするよ」
「かしこまりました」
―――その後ハルカは、蛇蝎のように嫌っている支部長からではなく、その秘書から今回の作戦概要を説明された。
内容はいたってシンプル。
じきに再編されるであろう部隊がヒトガタの討伐に駆り出される前に、一人で作戦区域まで乗り込んで倒して来い。
その際、誰にも正体を悟られるな。
ハルカが求められたのはそれだけだった。
常識的に考えれば明らかに狂った命令だ。
佐久間中将ですら倒しきれなかった敵に一人で挑むなど自殺行為にも等しいだろう。
しかしそれを聞かされたハルカは、狼狽えるどころか表情一つ変えずに頷く。
まるで、この程度の作戦は完遂して当たり前だと言わんばかりの様子だった。
○
その後説明を聞き終えたハルカは、またしても隠し通路を用いて装甲輸送車の格納庫まで移動し、支部長に指定された車輌に乗り込んだ。
車内には支部長の息が掛かった数人の作業員が、今はハルカのためだけに存在している。
彼らの間には何一つ会話がなく、ハルカは淡々と準備に取り掛かる。
ハルカがまず取り付けたのは、車内にあらかじめ用意されていたヘルメット式の黒い面だった。
正体を悟らせるなという要望を叶えるような、顔全体を覆い隠す代物。それは単に正体を隠すための物ではなく、ヘルメット自体が超高速の圧力や衝撃への強い耐性を有している。
その用途例は当然戦闘である。
ヘルメットで顔を覆ったハルカは、次に作業員から一着の強化スーツを受け取った。
これもまた黒を基調としており、また使用者のスタイルを誤認させるため、一般的なスーツよりもシルエットの大きいデザインをしていた。
それを着用すれば、頭部を覆うヘルメットもあいまって、最早ハルカの正体を判別することは不可能であった。
「あと五分で出発致します」
「ああ、分かった」
作業員の短い報告に言葉を返してから、ハルカは一度自分の姿をぐるりと確認する。
万が一にも強化スーツに不備があってはならない。
これから行う戦闘は文字通り人智を越えた領域に踏み込んだものとなるだろう。
その際、強化スーツが十全に性能を発揮できなければ、超高速の移動によって発生する衝撃にすら耐えられないのだから。
「はぁ」
どこにも異常が無いことを確認してハルカは小さくため息をつく。そして、ヘルメットの内でくぐもった吐息を直に感じて、僅かに顔をしかめた。
彼はこの閉塞感が好きじゃない。
確かに今は、今だけは誰よりも強いのかも知れないけれど、一切の自由を奪われたこの瞬間は、あの頃に戻ったような気がして―――
「出発します」
一瞬深く潜り込んだ思考は、運転手の声に引き戻された。
これより機密作戦が始まる。
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