3.Case No. NE08-Ⅶ2018020061 小清水綾乃(後)
相手は、結局のところ、悪人ではなかった。だた、明らかに、だらしなく無責任な男だった。その面では、綾乃の方が間違いなく堅実で危機感もあった。
それでも、流されてしまった。
あまりの頼りなさに、「自分がいなければダメ」な人間を切り捨てることがためらわれた。
まさか、自分が
「愛情が薄れましたか?」
七峰の問いに、綾乃はただ首を振るだけだった。
それは無い。
優しさ、安らぎ、愛しさ。彼から得られる暖かな幸せは、綾乃にとってはかけがえのないものだ。
それでも、離れることは出来なかった。
「だから、彼の手を取るわけにはいかないのよ……」
綾乃が隠しているつもりのことに気づき、傷つき、一人で悩み、挙げ句に狂気へ墜ちて包丁を手に取るところまで追いつめた彼に救われるわけにはいかない。
許されないことだ。たとえ誰が許しても、綾乃が許せない。
「ならば、何故ご自身でここから出ることを選ばなかったのですか?」
問いかけを続ける七峰。
しかし、詰問調にはなっていない。むしろ、かすかに哀れみが感じられるほどだった。
もっともな意見に、綾乃に自嘲の笑みが浮かぶ。
「……怖かったのよね、やっぱり」
ここを出れば何かしらが“終わる”ことは、直感で理解していた。彼の手を取れない以上、選択肢はそれ以外には無い。至極当然の話だ。
しかし、“終わり”に進むことには恐怖を感じた。自分はもう死んでいるのに、救われることは許せないくせに、自分で地獄行きを選ぶ度胸は無い。
七峰に死神かと訊いたのは、終わらせてくれる誰かが来たのかと期待したからだ。
何と救いようのない人間なのだろう。
それが、綾乃の自己評価だった。
「私、ホントどうしようもない奴よね」
七峰は肩をすくめる。
「どうしようもない、と言うほどではありませんが……少し整理しましょうか」
腕を組んで、七峰が話を仕切り直した。
「貴女、小清水綾乃さんは彼、時津誠二さんと結婚も視野に入れた恋愛関係でした。しかし、時津さんの上司である熊谷宗次朗氏と男女関係を結び、以降、時津さんには内密に関係を続けることになります。今のお話では、貴女自身も熊谷氏との関係を望んでいたということでしょうか。一方、時津さんは貴女たちの関係に気づきましたが、気が弱く内罰的な彼は貴女に直接問い質すことは出来ませんでした。上司である熊谷氏は、元々女性関係で悪い噂がある人物ですが、上下関係を利用した圧力のかけ方が上手でした。また、それだけではなく、庇護欲を上手く刺激する方でもあったようですね。散見する状況証拠と疑心暗鬼から、時津さんは心神耗弱に陥りました」
関係を望んでいたわけじゃない、と言いかけて綾乃は口をつぐんだ。
拒絶しなかったのだから同じことだ。
「精神を消耗した時津さんは、貴女の部屋に盗聴器や隠しカメラを設置。貴女と熊谷氏が部屋で密会、情事に及ぶのを確認し、即刻貴女の部屋へと向かいます。車でなら1時間ほどで着きますからね。そして、合い鍵で部屋に飛び込みざま、持参した凶器で熊谷氏へ襲いかかる。それを止めようと貴女が割って入り、勢い余って時津さんの包丁が貴女を刺した……貴女の記憶ではこの辺りまででしょうか?」
無言でうなずく綾乃。
その後は、気がつけばここだった。
うなずき返して、七峰は続ける。
「では、その後を少し補足しましょうか……まず、刺してしまった時津さんはパニックを起こしたものの、救急車を呼ぶところまでは対応されました。119番へ電話した直後に自身の頸動脈を刺し貫いて自殺されましたが。ちなみに、熊谷氏は、時津さんがパニックに陥っている間に隙を見て逃亡されましたね」
彼の顛末を聞いて、綾乃が奥歯を噛みしめる。罪悪感が胸を刺す。
相手、あの男については、らしいとしか思わなかった。そういう男だということは分かってはいたのだ。
「この一件についての報道は、翌日のニュースで取り上げられた程度です。事件としてはそこまで目新しいものではありませんので。まあ、それでも、熊谷氏が社会的に死ぬには十分でしたが」
憎悪があるわけではなかったが、ざまあみろ、とは思った。言い換えれば、今となってはその程度しか感慨がわかない。
何にしても、想定の範囲内というか、大体そうだろうなと思っていたことだ。覚悟、というかもはや確信があっただけに、泣き崩れるだの取り乱すだのといったことはなく、綾乃は表面上は体裁を保っていた。
それでも、彼への罪悪感は、めまいとひどい頭痛を引き起こしていたが。
「以降の貴女の医療費は弟さんが工面していました。貴女が入られていた保険も役には立ったようですよ。二人だけの姉弟ですよね? 唯一の肉親の助けになったようですから、入っておいた甲斐もありましたね」
そこで一度切って、七峰は呟くように続けた。
「……恵まれたとは言い難い家庭環境でしたから、時津さんから注がれる愛情はかけがえのないものだった、ということでしょうか……」
そう、なの、かも、しれない。
綾乃に自覚はないが、そう感じた。
分からない。自分のことなんて、何も。
それにしても、弟の弘樹にはずいぶんと迷惑をかけたのね……と落ち込みかけたところで、はっとした。
「……医療費? 医療費って、何?」
「貴女のその後の入院費用などですよ」
「何を言ってるの? 死んだのに入院って……え?」
混乱する綾乃を見る七峰。
悲しげな目。
「刺された貴女は重傷で、一時は心肺停止状態でしたが、奇跡的に一命は取り留めました。しかし、意識は回復せず、いわゆる植物状態だったのです。弟さんは一縷の望みを捨てず、ずっと看病していたんです」
……一命を取り留め……? 植物状態……?
七峰の言葉が頭の中をぐるぐると駆け回る。
先ほどよりもひどいめまい。足下の感覚が、地面が感じられないみたいに頼り無くなる。
そのすがるような視線に応える七峰の目は、やはり悲しげだった。
「貴女は生き残った。しかし目覚めることなく、ここに閉じこもってしまった。寿命を迎える今、この時まで、52年間」
ため息を吐いてから、しかし、はっきりとした口調で七峰は言い切る。
「ここは生と死の狭間などではありません。貴女の夢なのです」
よろける綾乃。
つまずき、後ろに倒れるように、椅子へと座り込む。
「中途半端に素質があったことが災いしましたね。道化師が時津さんだと感づいたり、手を取ればどうなるかを察したり、この部屋を出れば何かが“終わる”と理解していたり……。大抵は気づかないはずのことなのです。気づかずに、道化師の手を取るか、あるいはこの部屋を出るか、何かしらのアクションを起こすもの。そうすれば、次に進むか、植物状態を脱するかしていたことでしょう」
綾乃の口が開く、が、言葉がない。
想定していなかった事態に、綾乃の頭が処理しきれない。
つまり、この部屋が死後の世界へいく手前などとは勝手に思いこんでいただけで、ただの夢だと? ただ単に眠り続けていただけだというの?
夢だと言うのなら、この部屋から出れば、目を覚ませば……しかし、寿命を迎えると目の前の男は言った。ならば、今こそ私は死ぬのだろうか?
綾乃の思考をたどるように、そして拾うように、七峰が続ける。
「そして、ただ今をもって夢のモラトリアム期間は終わりました。寿命です。しかし……」
七峰が話を一旦切った。迷いというか、言いにくそうな雰囲気を感じる。
綾乃の手のひらに汗がにじんだ。
この上、言いにくいことがある、というのか。
「半端ながら素質があったこと、自らの意思で停滞を選択したこと、それが規定の期間を超えたこと。死者なら別ですが、生者であれば50年が規定ですので、貴女は要件を満たしてしまった。私個人としては――貴女には失礼ですが――この程度のことでと思うと不本意なのですが、係の者としての職務を果たさねばなりません」
七峰が頭を下げる。
その一礼は、礼儀正しくも、芝居がかってもなかった。
ただ、事務的だった。
「お迎えにあがりました、小清水綾乃様。“こちら”側、生と死の理から外れた世界へ、ようこそ」
そして、夢は終わる。
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