3.Case No. NE08-Ⅶ2018020061 小清水綾乃(前)

 綾乃は本を読んでいる。


 クラシックだが立派なハードカバーの本は重く、両手でしっかりと支えながら、窓際の椅子に腰掛けている。


 目の前の小さなテーブルには、特に何も無い。それどころか、それ以外には、この小さな部屋には何も無かった。


 あるのは、ただ、テーブルと、椅子と、本と、綾乃だけ。見るものとしては、本か、窓の外の景色ぐらいしか見当たらない。


 たったそれだけの部屋だった。


 閉ざした窓の外は、雨。小さな庭に、滴が降りしきっている。広さは部屋と変わらない程度の芝生、その周りには、色鮮やかな緑が繁っていた。


 濡れた緑は、つややかに、ぬめりを感じるほどに、その色合いを増している。雨の滴が弾かれて細やかに散り、まるで緑が煌めきを放っているみたいに。


 窓は、まるで、絵画のよう。


 完全な、欠けることのない完成品。


 そこに、異質な登場人物が現れる。


 綾乃は、本を持ったまま、顔を向けた。


 芝生の真ん中に現れたのは、道化師だった。赤い服に白と黄色で模様が描かれた、立派な衣装をまとった、瀟洒なクラウン。閉じた傘も赤白の縞模様で、ステッキのように携えている。


 ただ、顔は仮面で分からない。


 表情の無い、起伏のない、真っ白な仮面。


 綾乃の視線を受ける、クラウンの無表情。


 クラウンはうやうやしく一礼し、その手の傘をかざして広げた。


 すると、彼へと注いでいた水滴が粉々に砕けて宙を舞い、空へと昇って、虹となった。その虹を通った雨粒は、みんな七色に彩られる。


 瞬く間に、窓の外は極彩色の舞台と化した。


 揺れる、赤、橙、黄。


 落ちる、緑、青、藍。


 弾ける、紫。


 きらきらと、目も眩むようだ。


 その中で、クラウンが傘を大きく振り回した。その先が芝生をかすめて、弧を描いて一周する。


 すると、今度は、傘が触れたところからシャボン玉が弾け飛んだ。スイカよりも大きく、白いそのシャボン玉は、まるでボールのように跳ね回る。


 当たって散った雨粒で、小さな虹を作りながら。


 白いシャボン玉が、ぽぉん、ぽぉんと跳ねる。七色の軌跡を描きながら。


 同じく、七色の雨粒が緑を染める。空の大きな虹をくぐって、きらきらと。


 あっという間に、窓の外は、さながら華麗なサーカスのようになった。


 カラフルで軽快な、夢の一時。


 その真ん中で、クラウンがうやうやしくお辞儀をする。


 それを、綾乃は穏やかに見つめていた。


 遠い目で。


 頭を上げたクラウンと視線が合う。


 クラウンが踏み出す。艶やかな緑と華やかな七色を背景に、白球の合間を縫って、虹の軌跡をすり抜けて、一歩一歩、優美に、軽やかに、窓へと歩み寄ってくる。


 止まった。


 窓を挟んで、綾乃とクラウンが向き合った。


 クラウンの手が延びてくる。油が流れるように。


 鍵が開いた。


 窓が開く。


 クラウンは綾乃を見つめる。


 綾乃もクラウンを見つめる。


 やがて、クラウンは手を差し伸べた。少しだけ上半身を倒し、真っ直ぐに顔を向けながら、その手を彼女に取ってもらうために。


 夢の演者の、真摯な誘い。


 クラウンの動きが止まるまで見届けて、綾乃は、穏やかに微笑んだ。


 そして、静かに首を振った。


 クラウンは動かない。


 綾乃も動かない。


 雨は降り続け、シャボン玉は跳ね続けた。


 やがて、根負けしたクラウンは肩を落として手を下げる。綾乃は微笑んだままで、わずかに首を傾げる。


 あやすように。


 うなだれつつも、クラウンはうやうやしくお辞儀をして、きびすを返した。そして芝生の中央へと戻り、名残惜しげに傘を閉じる。


 舞台が終わり、元の緑の風景になった。


 開いた窓から、芝生を打つ雨音が聞こえてくる。


 遠くまで見送るようにしていた綾乃は、本を閉じ、席を立って、窓を閉めた。


 そして、鍵をかけ直す。


「それで良かったのですか?」


 誰かの声がした。


 初めて声をかけられて綾乃は驚いたが、不思議と過剰なリアクションは起きなかった。まるで道を尋ねられたかのように、その程度の反応で、綾乃は声へと振り返る。


「ええ。初めてお目にかかるわね。死神さん、なのかしら?」


 頬に指を添えながら、綾乃は男へ尋ねた。


 声の印象よりも若い。黒のスーツに黒のネクタイ、葬式帰りのような出で立ちだが、陰気な雰囲気は感じられない。むしろ、ネクタイが白だったなら雰囲気とぴったりだっただろう。


 ラフな感じだがちゃんと整った髪の下、バランスよくまとまった顔の中の、人の良さそうな目。黒目がちのそれは、穏やかにたたずんでいる。


 ただし、笑ってはいなかった。


 その相好が、少し崩れる。


「そんな大それたものじゃありませんよ、畏れ多い」


 苦笑してから、男は腕を組んで首をひねった。


「さて、何と言ってよいのやら……まあ、係の者、でしょうか? 遊園地とかで見かけません? あんな感じの役割ですよ」


 そう言ってから、芝居がかった振りで一礼する。


「七峰と申します。お見知り置きを、小清水綾乃さん」


 くすりと笑って、綾乃もスカートの裾を摘む。


「これはご丁寧に。こちらこそ、七峰さん?」


 何かの映画で見たお辞儀を適当に真似た綾乃に、七峰も軽く笑いだした。


 愛嬌のある笑顔にウィンクで応えて、綾乃は姿勢を戻す。それから、話を戻した。


「それで、何のご用かしら?」


 七峰も姿勢を戻す。併せて、表情も元に戻った。


「いえ、良かったのですか? これが最後のチャンスだったのですが……」


 話しながら、七峰はポケットを探り、時計を取り出す。


 手にとって見なくても分かる、凝った作りの銀時計。跡を引くように連なる鎖も、銀色に輝いている。


 懐中時計へ目を落とし、それから、七峰は綾乃へ顔を向け直した。


「貴女はずいぶんと居続けた。いえ、居過ぎなのです。もうこれ以上ここに留まることは出来ません。彼の手を取れば、貴女は次に進むことが出来たのですが……気づいておられたのでしょう?」


「で、彼はどうなるのかしら?」


 即座に返された綾乃の問いに、詰まる七峰。


 やがて、ため息とともに口を開いた。


「……彼は、自身と代償としていますから、報いを全て被ることになりますね」


 微笑む綾乃。


「ね? 行けるわけないでしょう?」


 対する七峰の顔は複雑そうだった。


「しかし、彼は自分自身の報いを受けることが確定しています。貴女の分を背負って多少重くなったところで、結果はそう変わりませんが……」


「私を殺した報い?」


 七峰が濁したところを、綾乃がさらりと補完した。


 応えない七峰。


 足下へ目を落とし、揺らす自分のつま先を目に留める綾乃。


「共に地獄へ墜ちるとかなら手を取ったけど、私が助かるために彼が背負うというのならば御免被るわ。彼をあそこまで追いつめたのは私なんだから」


 小さいながらも、綾乃ははっきりと言い切った。


 長いため息の後、七峰が口を開く。


「いくつか勘違いもあるようですが……正気とは言い難かったとはいえ、貴女を刺したのは間違いなく彼です。その彼に義理立てするのですか? そもそも、彼を裏切らなければこんな事態にはならなかった。愛していたんでしょう?」


 分からないことだらけだ、と言わんばかりに七峰は首を傾げた。


 苦笑する綾乃。困った表情で。


「そう。愛していたわ、間違いなく」


 綾乃の右手が左の肘を押さえる。


 自分を絞めるように。


「でも、あいつも放っておけなかった……」


 きっかけは、端的に言えば、一度の過ちというやつだ。


 酔い潰されたところを襲われた。

 襲われた、というほど犯罪的ではない。組み敷かれて抱かれたのは間違いないが、前後の記憶があやふやなほど酔っていたし、彼の上司で断り辛いと思ってしまったわけだし、相手も決して乱暴ではなかったのだし。


 いや、乱暴どころか、驚くほど丁寧で、そして執拗で、力強かった。


「引き返せなかった?」


「……」


 途切れる綾乃の返答。

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