2.Case No. NE08-Ⅶ2017030891 津村和志(後)
「……は?」
面食らう和志。意表を突かれて、視線を駅員へと向ける。
月の光が鼓動を打つ。
少しだけ、長く。
陰にかくれた影が、穏やかに首を傾げた。
「奥様は命を縮めた、それだけでしょうか? そうではない時はなかったのでしょうか? 一時も?」
相変わらずの、静かで暖かな声。
否定でも肯定でもない、純粋な問いかけに、和志は戸惑った。
「あ……いや、それは……」
純粋であるが故に、感傷抜きに記憶が蘇る。
それだけ、とは言えない。
少なくとも、志津子が回復して以降、逝くまでの十年ほどは、穏やかな日々だった。彼女が心から安心した笑顔を見せてくれたと思える、そんな日もあった。
忘れていた。
「しかし……」
呟いて、和志は唇を噛む。
だからといって、どうだというのだろう。それがどん底の二十年と釣り合うとでもいうのか?
冗談じゃない、彼女はもっと幸せになれるはずだったんだ!
吐き出す代わりに、握る拳に力を込める和志。
影が息を一つ吐いた。
「……なるほど、確かに少々頑固者ですねぇ」
「は?」
影が呟いた言葉に引っかかった和志の口調に、少し険が混じる。
月の鼓動が過ぎ、影から戻った駅員の顔には、わずかに苦笑いの気配が表れていた。
ただし、嫌みなものではない。どちらかと言えば、拗ねた子供をあやす大人のような。
が、それも一瞬で、元の、向かい合う者の毒気を抜いてしまう笑顔を見せる。
「いえ、何でもありません。それより、間もなく昇りの最終電車が参ります。少しの間停車しますので、一つご検討ください」
また気勢を削がれた和志だったが、それは笑顔のせいだけではなかった。
言われたことが理解できない。和志は終電で帰ってきたはずだ。いや、和志の乗ってきた終電は下りの最終だったのかもしれないのだが、しかし、そもそも上りはその前に終わっているはず。
それに、何を検討しろというのか。
「いや、僕が乗ってきたのが終電のはずで……? 検討って……?」
「今日はもう一本、特別に走るんですよ。乗る乗らないはお客様の自由で……そろそろのはずなんですが……」
少なからず戸惑う和志をよそに、駅員は懐を探って時計を取り出した。
銀の鎖に銀の細工物らしき懐中時計。薄明かりの中で複雑な表情を見せるあたり、おそらく相当に凝った作りなのだろう。
何故か、美しいと感じた。
よく見えたわけでもないのに。
「ああ、うん、ちょうど時間ですね」
駅員の笑顔に合わせるように、和志の足元に微かな振動が伝わってきた。それは徐々に大きくなり、近づいてきて、やがて電車がホームへと滑り込んできた。
音も無く。
一昔前の形式のくたびれた車体の扉が開く。
車内は光に満たされていた。
目もくらむほどに。
その光を背に、影が一人。
「まだいる気?」
二十代ぐらいの女性の声。歯切れの良い、涼やかな。
懐かしい声だった。
故に、和志は理解した。
全てを。
ややばつが悪そうに肩をすくめる和志。首に手を当てながら頭をひねり、おずおずと応える。
「どうしよう、かね?」
「どうしようも何もないでしょうに」
即答で切り返され、さらに、呆れたように小さく笑われる。思わず和志も苦笑いしてしまった。
「そうだね」
頬を刺す風が、緩やかに、緩やかに、なでるように流れていった。葉音が楚々と鳴り続ける。
ややあって、和志がうつむきながら呟いた。
「なあ……訊いていいかい?」
「なぁに? ワタシはシアワセでしたって言って欲しいの? それとも、アナタのせいでって責めて欲しいのかしら? 気の済む方はどちら?」
影が呆れた口調で応える。立て板に水の如く、そして辛辣な言葉だったが、害意は全く感じられない。
そう、長い付き合いの間柄の、気の置けない間柄での言葉のやり取り。
「相変わらず、厳しいね」
「あなたが甘いのよ」
和志が頭を掻き、影が勢いよく息を吐く。
和志の目が少し慣れてきた。光の中のシルエットが見て取れる。
手を後ろに回しながら、影は少しだけ前かがみになった。
「……私は私、貴方は貴方よ。私が自分の人生をどう思おうと、どう感じようと私の勝手。貴方が捕らわれることはないのよ」
語りかけられる声は、やや低めの声になっていた。
諭すように、慈しむように。
それから、影は姿勢を戻してそっぽを向いた。
「大体、私はありがとうって言ってたはずだけど? 何度も。信じてもらえてないって心外だわ」
不満げに言われて、頭に手を当てたまま、和志は首を傾げた。
「そうは言ってもなあ……」
「そうなのよ」
和志の釈然としない呟きへと、影が即座に切り返す。一連のやり取りを黙って聞いていた駅員にも軽く吹き出されて、和志はもう苦笑するしかなかった。
「さ、行くわよ」
影が一歩踏み出し、和志へと手を差し伸べる。
遠い日の、出会った頃の、懐かしい姿。
志津子の微笑みが、そこにあった。
「わざわざ、このために?」
「そうよ? 死ぬまで添い遂げた間柄とはいえ、一回順番を飛ばして来たんだから。感謝しなさいよ?」
軽やかにウインクしてみせる志津子。
「かなわないなぁ」
和志は、ばつが悪そうに肩をすくめるしかなかった。
さあ、と催促されて、和志は志津子の手を取った。
引かれて電車へと乗り込むその姿は、老いたものではなく、志津子と同じく、出会った頃のものだった。
車内に戻った志津子が、駅員へと振り返る。
「ありがとうね、七峰さん。この電車のことを教えてくれて。でなきゃ、この人この世でずっと迷いっぱなしだったわ」
和志が苦笑する。
七峰は駅員の制服を摘んでみせた。
愉しげに。
「いえいえ、それが私の仕事ですから」
それから、懐中時計に目を走らせる。
「では、発車の時間です。お二人とも、永らくお疲れさまでした」
静かに頭を下げる七峰の前で、音も無く扉が閉まる。二人を乗せた車体は何も告げずに滑り出し、速度をあまりあげることなく駅を出て、そして、闇の彼方へと去っていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
夫婦を見送りながら、七峰は微笑んでいた。
「幾世までも、末永くお幸せに」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます