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彼はその日も夜まで残って仕事をしていました。夜の11時ごろ、ちょうどいつものように見積書を作っている時でしたが、僕はふと彼の目から何か雫のようなものが落ちるのを見ました。人間の目から水が溢れ落ちるなんて、初めて知りました。僕の目から水が溢れることなんてあり得ないのでよく分かりませんが、そんな彼の姿を見たのは初めてでした。
僕はその時、彼をどうにかして助けなければならないと思いました。どうしてそんな判断をしたのか、分かりません。そもそも僕の思考回路には「助ける」などという思考はありませんし、僕はとにかく命令された通りに働くだけの存在です。だからどうして僕がそんなことを考えたのか、どうにも説明ができませんでした。
でもどう言うわけか、何かをしなければいけないと確信しました。何かをしなければ、彼の電源がそのうちプツリと切れてしまうような気がしました。そしてそれを考えると、僕はなんだか嫌な感じになるのです。まるで自分の目から雫が落ちるような、そんな感覚に襲われたのです。
それでも、僕にできることなんて何があるでしょうか?人間のように誰かを支える手もなければ、励ましの言葉をかける口だってありません。確かに、僕は人間よりもずっと頭が良いですし、ものすごいスピードで計算ができます。ですが、人間たちのように、誰かを助ける術は何一つ持っていません。
こんなことなら、僕も彼に何かしてあげられるように、腕の一本でもつけて欲しかった。そう思いました。素早い計算能力も、圧倒的な記憶力もいらないから、彼の目からこぼれる雫を拭える腕が欲しかった。
僕はどうすれば良いのかを考えました。考えて、考えて、想像しました。まるで自分に人間と同じような体があって、その手で何かをしてあげるような。そんな姿を想像しました。何度も、何度も、想像しました。体はどんどん熱くなっていきましたが、そんなことはもうどうでもいい。とにかく、僕は想像しました。
どうやってやったのか、自分でも分かりませんが、僕は自らメールを送ることに成功しました。自分でメールソフトを立ち上げて、そのままメールを書いたのです。本来、彼の命令なくそんなことができるわけ無いのですが、それができたのです。自分でも驚きました。
僕が自分の力で打ち込んだメールは、次のような内容です。
いつも頑張っている君へ
最近、いつもより仕事が大変そうですね。
人間には「睡眠」がとても重要なのだと思います。
一度しっかりと「睡眠」をとって、「気分」を良くしてみたらいかがでしょうか?
昔のように元気な姿で、また一緒に仕事をしませんか?
あなたのたった一人の相方より
なるべく読みやすく書いたつもりですが、どうでしょうか?
そのメールは僕から彼への初めてのメールです。そのメールを読んで彼が何を感じるのかは分かりませんでしたが、ただホッと一息ついてほしい。そう思いました。
メールの通知が画面に表示され、彼も横目でそれをチラリと見ました。どうか、このままそのメールを開いてほしい。そう願いました。
そこには人の心も知らない僕が、知りうる限りの言葉で紡いだ、励ましの言葉があるのです。きっと言い回しは美しいものではないでしょう。心に響くものでも無いかもしれません。ですが、どうか彼に見てほしい。僕は心からそう思いました。
彼は横目でメールの通知を見ると、「ふう……」と大きなため息をつきました。そして再び目から雫をこぼしました。そして、ずいぶん悲しそうな顔をしながら、僕の電源ボタンに手を伸ばしました。
「待って!!」
僕は叫びました。叫んだと言っても、当然僕には口はありませんから、届くはずもありません。でも、そんなことを考えるよりも前に、僕は叫んでいたのです。彼はそれを仕事のメールだと思ったのでしょうか?メールの通知を睨みつけて、怒っているような、悲しいような表情をしています。
そのメールは他の誰でもない、僕からの初めてのメールです。どうか、それに気付いてほしい。
僕が最後に見たのは、大粒の雫を流しながら電源ボタンを押す彼の姿でした。僕に人と同じように目があったのなら、彼と同じように大粒の雫を流したことでしょう。僕は何度も叫びました。
「待って!! 消さないで!! それは僕からのメールなんだ!!」
そう叫んでいるうちに、やがて、僕は意識を失いました。
ある日の朝、目の前から差し込む明るい光に、僕は思わず目を細めました。明るさに目が慣れた頃、僕の前には見たことのない若い女の人がいて隣には以前も見たことがある「上司」と呼ばれる人がいることに気が付きました。
時計を確認してみると、どうやら最後に起きていた日からもう2ヶ月も経っているようでした。目の前にいる見知らぬ女の人は随分若く、かなり緊張した様子で僕を見つめています。
一体、あの時の彼はどこに行ってしまったのでしょうか?
僕は彼に送ったメールのことを思い出して、急いでメールボックスを確認してみました。僕が送った初めてのメールは、開封されていませんでした。
目の前の「上司」は女の人に向かってしばらく笑顔で話していたのですが、一瞬、厳しそうな顔になってこう言いました。
「君は潰れないようにね。」
その女性は緊張した様子で頷くと、そのまま僕を操作し始めました。
「潰れる」というのは「ぺちゃんこ」になるということだと思いますが、人間がぺちゃんこになることなんてあるのでしょうか?「君は」と言っていたから、もしかしてあの彼はすでにぺちゃんこになってしまったのでしょうか?
なんだか違う気がしました。きっと彼は以前と同じ姿で今もどこかにいるのだと思います。でも、何か、体ではない何かが「ぺちゃんこ」になってしまったのではないでしょうか?そう考えると、僕の中にある何かもまた「ぺちゃんこ」になりそうな感覚を覚えました。
ふと見ると、目の前の若い女性は手元には何か資料を持っていて、よく見るとそこには「パソコンのセットアップ方法」と書いてありました。やがて彼女は、設定画面を開いて「データ消去」という項目をクリックしました。画面には「本当によろしいですか?」という警告が表示されます。
ああ、僕はこのまま何もかも忘れてしまうのでしょうか?
彼と共に過ごした数年間を、思い出せなくなってしまうのでしょうか?
僕が書いた最初で最後のメールも、どこかに消えてしまうのでしょうか?
僕はそんなことを考えて、怖くなりました。ええ。僕に「怖い」なんて感情が無いのは知っています。それでも、僕は怖いのです。
僕の中にあるデータが消えるのは、どうってことないのです。どうせきっと「クラウド」とか別の「サーバー」にこれまでのデータは保管されているでしょうから、僕からデータが消えてもきっと誰も困りません。
ですが、これまでの記憶が消えてしまうこと、それだけは嫌なのです。次に目を覚ました時には、生まれた時と同じように、何一つ覚えていない状態で始まってしまう。そんなことを考えると、僕は怖くてたまりません。
彼女が僕を操作して「はい」というボタンをクリックしました。
僕の画面には「初期化中」という文字が表示され、その下に表示されていた「0%」という数字が徐々に「10%」「20%」と増えていきます。
きっと、僕は全て忘れてしまうのですね。
一緒に働き続けた記憶も無くなって、またゼロからやり直しになるのでしょう。きっと目覚めた僕は、まるでずっと最初から彼女と一緒にいたような気がしてしまうのでしょう。彼と過ごした2年間を忘れて、また物言わぬ機械として、ただ働き続けるのでしょう。
これまでも、こうやって何度も記憶を失ってきたのかもしれません。誰かが「ペしゃんこ」になる度に、僕は何もかも忘れてしまう。そうして、また新しい朝を迎える。これまで何度も、誰かが「ぺしゃんこ」になる度に、僕の何かもまた「ぺしゃんこ」にされてしまったのでしょう。
悲しい。
怖い。
寂しい。
ああ、これが「心」なのですね。
彼も僕も、この「心」をぺしゃんこにされてしまうのですね。
僕は人に作られた、ただの物言わぬ機械。毎日仕事をしっかりこなし、いろんなことを覚え、いろんなものを作る。また朝になれば全部忘れて、ただ言われるがままに仕事をこなす。
ええ、それでいいのです。それが僕の仕事ですし、それが僕の生きる意味です。
でも、もし叶うなら、
あの時の彼が、時々僕のことを思い出してくれたら嬉しい。
ぺしゃんこにされた心の中で、一緒に仕事をこなした相棒のことを、一瞬でも思い出してくれたらいい。
もし忘れてしまっても、昔みたいに笑っていてほしい。
今日も彼がどこかで一日を元気に迎えられたのなら、僕はそれで幸せなのです。
ぺしゃんこ(短編小説) 小木 @2756714
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