3章

第9話 帰宅

 翌朝の六時ごろ、ナターシャは別荘を出、その十五分後にはレンガの家に帰ってきた。このまま教団まで行っても良かったが、なにか食べ物が無いかと探りに来たのだ。

 扉を開けてすぐ、ナターシャは死臭に鼻をつまんだ。ここ数日死臭を嗅がなかったため、前回よりも一層嫌味がある。隣の部屋を覗くと、三体の死体が重なっていた。ナターシャは静かに扉を閉め、料理の支度をした。

 樽にはまだ水があった。人参とじゃがいもが一つずつあったので、それを切って水で煮込む。塩をふって、簡単な味付けをする。固くなったパン切れを出来上がったスープに浸け、小さな口に放り込んだ。

 食べ終わると、ナターシャは家を出た。今日は天気が悪く、曇り空だ。それが、ナターシャを助けていた。街に向かおうと土の道を歩くと、正面から男性が歩いてきた。

「あ、え。うわぁ。まじか。おい」

 彼はナターシャを見ると、はしゃぐようにこりらにむかって走ってきた。両手に抱えた袋から、長いパンの先が未目隠れしている。

「え?え?」

 ナターシャその唐突な行動に、その場で固まってしまった。

 そうしているうちに、その男はナターシャの前で立ち止まった。

「えっと、ナターシャさんっすよね?」

 男はいぶかしる表情でナターシャを見ている。

「え、あ、はい。そうですけど…」

「あの、俺アレクって言うんスけど、ジニーが呼んでるんで、来てくれません?」

「ジニーさんが?」

 ナターシャは驚きで、高い声を出した。

「そうっす。あんま断らないでほしいんスけど」

「え、あ、はい。でも、その…」

 ナターシャは一度、ジニーにお礼をいいたいと思っていた。今まで雇ってくれたお礼だ。ナターシャもう、ジニーの元で生活する気はなくなっていた。

「今からいけますか?無理なら、俺、待ちますけど」

「あ、いえ。大丈夫です…」

「わかりました。じゃあ、ついてきてください」

 彼は背を翻し、ゆっくりと先導した。

 ナターシャはしばらく迷い、その背中をついていくことにした。


 道中、アレクはよくナターシャに話しかけた。

「ナターシャさんは、今おいくつなんですか?」

「えっと、十五ですけど」

「…思ったよりも若いですね。僕は二十三です。ジニーから話は聞いてますけど、まぁ、難儀な体質のようで」

「えっと、すいません」

 ナターシャは反射で頭を下げる。

「謝ることは無いっすよ。あ、そうそう。ジニーのやつ、悔しがってましたよ。何処へ行ったぁ!って。まぁ、この分だと罰が下りますね」

「罰、ですか…」

「そうっす。ナターシャさん、どうして、逃げたりしたんですか?」

「え?」

(逃げた?)

 すぅっと、その言葉がナターシャの中で拒否された。

「なんかありました?」

 アレクはナターシャの目を見る。

 ナターシャは縮こまりたくなった。

「い、いえ、何も…」

「そうっすか。まぁ、俺には関係ない話っすね」

 

 ジニーの家についた。

「ごめんくださーい」

 アレクが言いながら、呼び鈴を鳴らす。

 カラン、カラン…。

 カラン、カラン…。

 しばらく経って、扉が緩慢に開かれた。

 眠そうな目をしたジニーが姿を見せる。

「ジニーさん。探しものを連れてきました」

 アレクは片手を上げて、得意げに言った。

「ああ、アレクか」

 その時、ジニーの目が開かれた。

 彼の視線の先に、ナターシャが居た。

「ナターシャ…」

 ストン、と声が落ちた。

 ピクリ、とナターシャの肩が震えた。

 ジニーはそれから、空の色を確認する。

「まぁ、上がれ」

「あ、俺、朝食まだなんで、なんか作ってくださいよ」

 アレクが袋を見せびらかしながら軽々と玄関の敷居をまたいだ。

 ナターシャが呆然としていると、アレクが腕を掴んできた。そして、引っ張られるようにして、ナターシャはジニーの家に入った。

 二人は一階の居間に通された。

 そこは広く清潔な空間だった。天井は吹き抜けがあり、四角く削られた太く長い木が空を横切っている。ナターシャが座ったソファは暖かく、布生地がふんわりとしていた。

 彼女の隣に、アレクが我が物顔で座っている。ジニーは三人分の紅茶を机に置いた。アレクがいち早く手にとって、グビグビと飲み干した。ナターシャも手に取る。紅茶は冷たく、氷が3つも入っていた。

「意外に早かったな」

 ジニーがアレクを労う。

「そうっすね。俺は一週間は覚悟してましたから、朗報だったっす。にしても、あの倉庫に何年も住んでるとか、ナターシャさんは度量があるっすね」

「ふっ。そう言ってやるな」

 ジニーは微笑みながらナターシャの方を見た。瞬間、笑みが消えた。

「それで、ナターシャ。どうして姿を消した。何処へ行ってたんだ?」

 ジニーは眠気と苛立ちが混ざった声を出した。眠いから、思考が鈍って感情も鈍くなる、ということは無いらしい。

「…すみません」

 ナターシャはつい、そう言ってしまう。怒られることに、ナターシャは未だ慣れてはいないのだ。

「何処へ言ったのかと聞いている。それだけ答えてくれればいい。見た所、服も新調したようだな」

「は、はい」

 ナターシャは顔を上げた。

 ナターシャの目的は、ジニーへ別れの挨拶をすることである。

 ジニーは嫌そうな顔をしていた。

 一つ息を吸った後、ナターシャ思い切ってこういった。

「あの、私、仕事をやめたいと思います。今までありがとうございました」

「…何言ってやがる」

「え…」

「辞める?何だそれは?誰が許すと思っている。誰にそそのかされた?言え」

「それは…」

 言えるわけがない。

 フローラはもう居ないのだ。これ以上迷惑をかけるわけには行かない。

「…言えません」

「なぜ?」

「……」

 ナターシャは沈黙を選んだ。

 ジニーから放たれる重圧がナターシャを攻める。

「…そうか。やっぱり誰かに匿われてたか。それも、大層品性のある人間みたいじゃないか…」

 しばらくして、ジニーが静かにつぶやいた。

 ナターシャはつばを飲む。

「アレクはなにか知ってるか?」

 視線がアレクに向いた。

 ナターシャは小さく息を吐く。

「はぁ。知りませんよ俺は。なんたってさっき会ったばかりでしたからね」

「まぁ、そうだよな…」

 ジニーは右手を顎に当て、考え込む仕草を取った。

「…ナターシャ。お前は帰る宛があるのか?」

「はい」

「相手はお前の特性を理解してるんだな?」

「はい…」

「チッ。何処のどいつだ…」

 ジニーはイラつき、ドン、と靴底を床に打ち付けた。

「あのジニーさん。俺への報酬はアルっすよね?」

 アレクが真面目な表情でジニーに聞いた。

「…ああ。お前にはまだ働いてもらわないと行けないしな。後でちゃんと払うさ」

 ジニーはアレクをにらみ、憎しみ口で綴った。

 だが、アレクはその言葉を聞いて安堵したようすである。

「ナターシャ。今日はうちに泊まれ。あのレンガの家は嫌なのだろ?」

「…その、行く宛があるので、帰ります」

 ナターシャは震える脚を無理やり動かして立ち上がった。

「座れ」

 即座に、ドスの効いた声が響いた。彼はとても冷たい瞳をしていた。身体の熱が冷めていく。ナターシャは初めて、ギャングを相手にしている気分になった。

「……」

「座れ」

「……」

 ナターシャは席に座った。急激に視野が狹ばり、息が詰まるように呼吸がしづらかった。

 心臓の音がうるさい。

「今日は家に泊まれ」

 ジニーはそう吐き捨てると、ラーシャ、と天井に向かって大声で名前を叫んだ。

「はぁい」

 と、天井から返事がくる。その後、バタバタと音を立てながら、女性が一人階段をおりてきた。背が高く、小さなハサミを手に持っている。ボブカットで目つきの鋭い女性だった。

「なに?ジニー」

 彼女はナターシャの方をちらりと向いた後、すぐにジニーに駆け寄った。

「お客さん?私は何をすればいいのかな?」

「ラーシャ、そこの娘に部屋をあててやれ。一つ、あったろ。今晩、ここに泊まらせる」

 ジニーはナターシャを指さした。ラーシャナターシャを見ると、まぁ、と小さく声を上げた。

「この前家を訪ねた子じゃない。ほんとにジニーの知り合いだったのね」

「そうだ」ジニーは呆れ顔で頷いた。「後、朝食の準備を頼む。アレクが食材を買ってきてくれた。台所に置いてあるから使え」

「了解。もしかして全員分?」

「もちろんだ」

「はぁい」

 ラーシャは台所へと姿を消した。ジニーは、ふぅ、と息を吐いた後、ナターシャをじっと見つめた。

 そして、ぶっきらぼうにこう言った。

「俺の元から離れたいなら、お前を匿っている人間を教えろ。俺が、そいつと交渉する。お前に仕事を変える権利はないんだよ」

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