第10話 価値

「部屋に案内するわ」

 朝食後、ナターシャはラーシャに誘われ二階へと上がった。廊下を一度折り、突き当りまで進む。右手に扉があり、ラーシャはぎりぎりと音を立てながらその扉を開けた。

「さぁ。ここが貴方の部屋よ」

 ふわっと埃が舞い、鼻をかすめる。埃の先に薄暗い空間が見えた。部屋には窓がなかった。地面はひらの付いたワンピースや着飾ったドレスが無造作に散らばっている。

「ここが、私の部屋?」

 視界の端でマネキンが五体、壁にもたれかかっているのが見えた。扉から差し込む光で、白い手首だけが奇妙に浮かび上がっている。

 ナターシャは苦笑いを堪えきれなかった。

「ええ。そうよ。空き部屋なんてここしかないもの」

「ジニーさんが、本当にここって言ったんですか?」

「そうよ。なんたって貴方は奴隷でしょ?きれいな部屋をわざわざ用意するはずないじゃない」

 ラーシャは平坦な声でそう言った。彼女は自分の言葉が正しいと信じているようだった。

(奴隷)

 ナターシャにその自覚はない。今でも、自分は奴隷ではないと信じている。

「あの、私…」

「ねぇ、貴方のペンダント見せてくれない。さっきから気になってたのよ、それ」

 ラーシャの白い腕が、ナターシャの首元に伸びていく。

 ナターシャは思わず体を捻り、その手を避けた。

「何よ。見せてくれてもいいじゃない」

「大事なものなので。すみません」

「奴隷のくせに。ほら、早く見せなさい」

 ラーシャが乱暴にナターシャの肩を掴んだ。

 ナターシャは右手でペンダントを握りながら、叫んだ。

「嫌です。私、奴隷じゃありませんから」

 ラーシャの動きが止まった。

「何よ、それ」

 彼女の眼力が強くなる。

「私はね、ジニーさんの妻なのよ?貴方、あの人に活かしてもらってる立場何でしょ?わがまま言わないで、さっさと見せなさいって」

 ラーシャの手に力が入る。ナターシャは逃げるように部屋へと走った。

「チッ。ずっとその汚らしい部屋にいなさい」

 ドン、と扉が閉められた。

(ああ、よかった)

 安心していると、

 カチャリ。

 と、音がした。

「え?」

 足音が遠ざかっていく。

 ナターシャは扉を押した。開かない。ドアノブがある。ひねって押す。だが、扉はびくともしなかった。

「え?え?…閉じ込められた?」

 何だそれ。

 何だそれ。

 平面な板が、眼の前でそびえ立っている。

「げほっ。がっあっ」

 何度もドアノブを捻っているうちに、喉に埃が入った。目を開けると、暗闇にもハッキリとホコリが浮かんで見える。

「がはっ。がはっ。げほっ」

 ナターシャはその場でうずくまる。

「はっ、はっ、はっ…」

 なんでこんな目に…。なんで…。

 まともに息が吸えない。

 ナターシャは扉の前で、何度も何度も咳を繰り返した。


 其の内、昼になった。


 埃を見ないように目を閉じていると、ギギギ、と扉が開かれた。閉めるときは勢いがあるが、開けるときはゆっくりとしか開かないようだった。

「昼飯よ」

 ラーシャがパンとスープとサラダを乗せたお盆をナターシャの前に置いた。その放り投げるような置き方から、中には絶対入りたくないというラーシャの気持ちがナターシャにはよく伝わった。

「あの、トイレに」

「トイレ?え?チッ。しょうがないわね。さっさと出てきなさい」

 彼女の苛立った声とともに、ナターシャは部屋を出た。一歩部屋から出るだけで、地獄から開放された気分になった。一階の突き当りがトイレだと示されると、ナターシャは鍵を掛け、そこに籠もった。ラーシャの気配が扉のすぐ前にあった。ナターシャは用が済んでも、トイレからは出なかった。ラーシャの苛立つ声が、何度も聞こえてきたが、それでもナターシャは扉を開けることはしなかった。

 暫く待つと、新たな声が聞こえた。

「ラーシャ。そんな所で何してるんだ?」

「ジニーさん。いや、何でもないわよ」

「そうか。まぁいい。朗報だ。明日、エルラック伯爵家で晩餐会が執り行われる。別荘の設立を担った親父に感謝を示したい、ということだ。俺もそこに参加する」

「す、すごいわ。ねぇ、私も行きたいわ。行けるでしょ?」

 ラーシャが特別甘えた声を出した。

「ナターシャが居るだろ。それに、招待されてるのは俺の一族だ。ラーシャはダメだ」

「何よ。結婚してくれる約束じゃない」

「俺はまだそんなことは言ってないだろ。使用人として雇ってるだけだ」

「何よ。キンベル教団に近づけたのは私のお陰でしょ?」

「それは助かってるが、この件は大事なもんなんだよ。俺の家が関わってるからダメだ」

 ジニーはふてくされた子供をなだめるように説明した。

「あ、あの娘はどうするのよ」

「俺が帰るまでお前とアレクに管理してもらう。もし、何者かが挨拶に来たら名前だけ聞いて不在と言え」

 それと、とジニーは続けた。

「ナターシャを絶対に外に出すなよ」

「…どういう意味よ」

「あいつは特殊体質だ。キンベル教団出身なんだよ」

「嘘」

「日光に皮膚が当たれば発火する。だから…」

「は、はっか?何よ。あ、貴方、そんな化け物を飼ってたの?」

「化け物、か。だがな、あいつも理性はある。自分の特性を使って何かを燃やすなんて出来ないはずだ。なんたって、あいつにとって何かを燃やすことはトラウマだからな」

「トラウマって、どういうことよ」

「あいつは以前、自分の発火体質で両親を焼き殺してんだよ。まぁ、殺されてもいいような両親だったようだが…それ以降、あいつは自分の存在価値はないと思いこむようになった。そこを俺が、仕事を与え価値を与えてやったからそうそう裏切らないと思ってたんだがな…。まぁ、つまり、そう簡単に自ら日光に当たらないはずだ」

「ほ、本当なのね?」

「ああ、本当だ。それじゃあ、俺は支度をしてくる」

「え?今から行くの?」

「ああ。まずは親父に挨拶と、色々報告をしなくちゃならんからな。早いほうがいいんだよ」

 足音が去っていく。

 ドン、とラーシャが扉に背を預けた。

 浅い呼吸が聞こえてくる。

「貴方、キンベル教団出身だったのね」

 震える声だった。

「ふふふ、ふふふふふ…。ねぇ、出てきたらどう?いつまでそこにいるつもりなの?」

 ナターシャはゆっくりと扉を押した。

「ひっ」

 ギラリとした目がナターシャの方を向いていた。

「話しは聞いてたわね。絶対に外には出ないで。それと、私に危害を加えたりした、そのときは私が貴方を殺すから」

 言ってすぐ、ラーシャはナターシャの手首を掴んだ。

「え?」

 ぐっ、と引っ張り、大きな荷物を引きずるように階段をどんどんと上がっていく。ナターシャに抵抗する余裕はなかった。彼女の腕力と勢いはそれほどまでに強かった。

 簡単に部屋までたどり着いた。扉が強引に開けられ、ナターシャが無造作に放り込まれる。目線をラーシャに向けたときには、扉は閉められ、カチャリ、という音が空気を震わすだけだった。

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