第7話 文字
ナターシャは与えられた部屋で朝食を取っていた。居間には日がさす暖炉があって、もしものことを思うと、ナターシャは日中あまりそこに近づきたくなかったのだ。
それでも、一人で食事をしているとたまらなくフローラに会いたくなった。フローラに触れた時のあのぬくもりが頭を刺激し続けるのだ。朝食を食べ終えると、ナターシャはフローラを探した。だが、フローラはなかなか見つからなかった。
そうして、似たような場所をうろちょろと、ゆっくりと歩みを進めていると黒服の執事に見つかった。
「これは、はじめまして。ナターシャ様。お話はシーナとお嬢様から伺っております。私、ディーラと申します。以後お見知りおきを」
老執事は華麗な一礼を見せた。
「あ、う、な、ナターシャです。どうも」
ナターシャは急速に頭を垂れた。
緊張で声が震えていた。
人と喋るのは、慣れていない。
「お食事は取られましたかな?」
「は、はい。美味しかったです」
「ありがたき御言葉。きっとシーナも喜びましょう。して、これからどちらへ?」
「え、えっと…フローラ、さんを、さが、しに?」
「お嬢様でしたら、現在お部屋にいらっしゃいます。ご案内いたしましょうか?」
「え!あ、…お、お願いします」
ナターシャは頭を下げた。
「どうか、頭をお上げください。私めに下げる頭など、貴方様にはございませんよ」
「えっ、あぁ、すみません」
ナターシャは大急ぎで頭を上げる。
ディーラは慌ただしいナターシャを、優しい瞳で見つめていた。
「それでは、ご案内させていただきます」
フローラの部屋の扉の前まで来ると、ディーラはコン、コン、と白手袋手でノックをした。
「誰?」
扉の向こうから、フローラの鋭い声が聞こえた。
「ディーラです。ナターシャ様がお嬢様に会いたいとのことでこちらまでいらしています」
「え、ちょっとまって」
それから、部屋の中で、バダン、と言う音が数回した。その後、いいよ、入っておいで、という優しい声が聞こえる。
ナターシャはディーラの瞳を見た。
彼は静かに頷いた。ナターシャは、ゆっくりとドアノブをひねり、部屋への一歩を踏み込んだ。
「し、しつれいします」
礼儀など知らないので、そう言いながら入室をする。
「いらっしゃい。なにもないけど」
そういう彼女の部屋は、本棚で満ちていた。左右の壁にびっしりとある本棚に本が埋まっており、床は赤色の刺繍の入った絨毯が敷かれている。眼の前に、ソファが二つローテーブルを挟んでいた。奥の大きな机にフローラは座っている。服装は昨晩とは違い、白いワンピースだった。なにか物書きをしていたようだ。彼女の後ろに大きな窓が見えた。だが、それは今閉まっている。
「あの、忙しかったですか?」
「ん?そんなことないよ。全然大丈夫」
フローラは両手を上に伸ばした。
「んん~はぁぁ……窓閉めて置いたから、日は入らないから安心して。さぁ、ソファに座って」
ナターシャは手前のソファに腰をかけた。フローラが対面に座る。
「ディーラ。お茶とお菓子を」
「かしこまりました」
ナターシャの後ろで扉が閉まった。
「…すごい本があるんですね」
「そうかな。アレは、私が個人的に集めてる資料なんだ。薬学とか、そういう分野の本だよ」
「私、本なんて読んだことないな…」
「文字は読める?」
「あんまり、読めないです」
「そっかぁ。なら、ナターシャちゃんには無用の長物かなぁ」
フローラはくぅと腕を上に伸ばした。
「…あの、お仕事をしてたんですか?」
「ううん。手紙を書いてたんだ。姉へのね」
「あの、やっぱ、おじゃまじゃ…」
「大丈夫。それより、お菓子が来るわよ」
コン、コン、とノックが鳴った。
ほらね、とフローラはウィンクをした。
「入っていいわよ」
「失礼します」
シーナがお盆を持って入ってきた。
「あ、ナターシャちゃんもこちらに居たのね」
「ナターシャちゃんの分もある?」
フローラが問いかける。
シーナは自慢げな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんです。こちら、紅茶と和菓子店ミャルの新作ケーキになります。美味しくどうぞっ」
そうして、テキパキと、机の上に並べていく。
「あら、新作って用意がいいわね。さすがシーナ」
「恐縮です」
「いつもありがとね」
「あ、ありがとうございます」
ナターシャは眼の前に置かれた、いちごとブルーベリーが乗せされたショートケーキを眺めた。すると、なにやらシーナがフローラに耳打ちした。
「あの、例の話は」
小声だった。ちらりと、視線がナターシャを向く。
「そうだね。でも、まだあとかな」
「わかりました」
お辞儀をして、シーナは部屋から出ていった。
「あ、あの…」
ナターシャは小話が気になって口を開いた。
フローラは冷たい紅茶を一口飲んで、小さな唇を動かす。
「ねぇ、ナターシャちゃん。文字を覚えてみる気はない?」
「あ、え、もじ、ですか?」
「ええ。そうよ」
きっと楽しいわよ、と彼女は続けた。
「私が一から教えてあげるわ」
そう言って、フローラは席を立った。それから、近くの本棚から一冊の本を取り出した。薄い本が机の上に置かれる。
「これが、文字を覚えるための本よ」
「あの、私、少しなら読めます」
ナターシャはそう言って、題名を読んでみせた。
「シーラ王国文字全集」
「まぁ、ちゃんと読めるてるわ。すごいじゃない」
「で、でも、ほんとに、少しですけど。昔、一度だけ習ってたことがあったんです」
「どこで習ってたの?」
「教会です。えっと、キンベル、って名前のところで…」
「え?それはほんと?ねぇ、そこにリーシエって女の人が居なかった?」
「え、あ、はい。居ました、けど…」
ナターシャは慌てて答える。
すると、パァっとフローラの顔が輝いた。
「その人、私の姉よ。もしかして、姉に文字を教えてもらったの?」
「はい、たぶん…」
「そう。良かったわ。ほんとに良かった。それなら安心ね」
「…安心?」
「いいの。こっちの話よ。それより、文字を覚えましょ。まだ完璧ではないのでしょう?お菓子を食べながらでいいから」
「あ、はい」
フローラは本を持って、ナターシャの隣に座った。
「えっと、じゃあ、ここからにしようか…ああ、ちょっとまって」
ページを捲った時、フローラが移動し忘れたカップを取ろうと、前のめりに手を伸ばした。
フローラの腕が、ナターシャの眼の前に躍り出る。
ゴクリ、とナターシャはつばを飲み込んだ。その肌に、たまらなく触れたくなってしまった。
「よいしょ…それじゃあ、まずはここ、一緒に発音してみましょ。私のあとに続いて」
フローラの後に、ナターシャが声を続ける。
それだけで、ナターシャは幸福だった。
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