第6話

 2025年7月11日。

 カグラの危急存亡を回避する為に実施されたヒノ作戦は巨獣アミナーの活躍によって辛くも成功を収め、猿女君の口から作戦終了が宣言されてから十数時間が経過していた。

 時刻は23時を回っていた。シンジ湖では日中の内にバシヤルの遺体が回収されたものの、未だに湖面は血液の赤に染まっている。

 予想通り秘密裏にバシヤルの巨獣使いとなっていた人間がいて、しかもそいつは獣特対の一人だった。複数の巨獣との多重托卵/多重契約は前代未聞で、これもレベルⅣであり三大始祖の子孫であるバシヤルだからこそ為せた技かもしれない。

 因みに戦闘後に検査してみたらLv.3からLv.4にランクアップしていた。もはやLv.が上がった程度では驚かない。道理でレベルⅣのバシヤルに勝てた訳だ。

 寝室。

 カーテンの隙間から蒼い月光が差し込み、夜空を航空機の赤灯が移動していく。河鹿と亜美はダブルベットに寝転がり、背中合わせのまま寝付けずにいた。河鹿は未だに脳裏でバシヤル戦の最後を反芻し、それ故に亜美へ言わねばならぬ事があると理解しながら口を利けずにいた。冷房の効き過ぎで寒い訳でもないのに掛け布団に包まり、独り黙々と葛藤している。

 ふと亜美がもそりと寝返りを打ち、掛け布団が擦れる音が静まり返った寝室に響く。今晩の亜美はノースリーブのワンピースに縞々パンツ一枚とラフすぎる格好だったと思い出し、盛り上がるワンピースやパンツの縞々のラインや剥き出しの脚が脳内を埋め尽くし悶々とする。そのせいで葛藤が頭の隅に追いやられ、我ながら現金な奴だと自嘲した。

 やがて。

「ねえ……ご主人様。今こっち向いたら胸の谷間見えるよ?」

「……お前の胸なんか見て何の得があんだよ。さっさと寝ろ」

 むすっとした河鹿の声を聞き、亜美は「嘘つき」と楽しそうに笑う。これが挨拶代わりの誂いだと分かる程度には、亜美の言動に毒されていた。河鹿の懊悩を見透かして会話の糸口を提供した事もよく分かるから、なおさらムカつく。

「……あのさ」

「ん?」

「…………朝の件は、その……助かった。俺一人じゃ太刀打ち出来なかっただろうし、一年間のブランクとか自分の未熟さを痛感した。それに…………あいつが今でも無事でいられるのはお前のおかげだ。俺だけだったら、たぶん今頃……」

 それがずっと心残りだった。あの瞬間において猿女君を守れたのは亜美だけであり、驚異的な機転を利かせた。河鹿の表出した獣力結晶を遠隔的な防護に使うなんて発想は、巨人として一人で戦っていた頃でも思いつかなかった戦術だ。仮に発想できていたとしても九死に一生を得るようなタイミングで即座に実行できていたかと自問すれば、答えは否だ。そんな芸当は河鹿には出来ない。

「なに? 妾のあれがご主人様のプライドを傷つけてしまったかしら?」

「……」

 沈黙ほど雄弁なものはない。

「成功で悦に浸る者よりも、失敗で省みる者の方が妾は好きよ。それが歴戦の戦士なら尚の事アミナーポイント高得点って感じ。あれはね、半年前だったかな、常世トラフで祖母が他のG・ハダルと喧嘩になった時に使っていた技よ。残念ながら妾が思いついたものじゃないわ」

 ア・バオ・ア・クゥーが他の三大始祖と喧嘩した、という意味だ。それでも自信なく問う。

「そうなのか?」

「伊達や酔狂でヨイショする謂れがないわ。妾がご主人様に嘘をついたことある?」

「誂われた事はあるけどな」

「好みの雄にはつい意地悪したくなっちゃうの。許して」

 媚びるような声でそう抜かし、河鹿が包まる掛け布団をちょいと引っ張る。あざとい上目遣いで瞳をうるうるさせている様がはっきりと浮かび、その手に乗るものか自分は他の男とは違うと思い「ほざけ」と返す。

 一先ず心中に蟠っていた言葉は吐き出したので、残る本題を切り出す。

「半人前ついでに訊くけど、融合係数を上げる方法はあるのか? 今のままじゃマレビトには程遠い」

「そうね。現状のあの姿は蛹のようなもの、完全体にならないと祖母には勝てない絶対に。……妾も人の事は言えないわね、番に心を許してもらう努力を怠っていたわ。もっと頑張らないと……でも変な話ね、初物と交尾すれば自然と親密になれるものだとあの女も豪語していたのに」

 話が邪な方向に流れている気がする。

「……まさか融合係数ってのは」

「そう、読んで字の如くよ」

 好機を狙っていたかのように亜美が素早く掛け布団を引っ剥がして河鹿を晒し上げ、即座に背後から抱きつく。ふくよかな胸はブラの固さが分かるくらいに背中にぎゅうっと押しつけられ――固さがない。その事実に気付き河鹿の股間に電流が走る。亜美の胸の感触から今すぐ逃げ出そうとした河鹿を先読みし、亜美は脚を絡めて腕を腹に回し完璧に拘束した。反応を楽しむみたいに河鹿の耳に吐息を吹きかけ、びくりと体が強張る。

「もっとヤれば融合係数は上がるわよ。地道な作業だけど二人で頑張りましょ、ご主人様」

「人を性欲の捌け口にするな! その理屈にエビデンスなんかねえだろ!」

「でもヤらなくても自動的に融合係数が上がるというエビデンスもないわ」

「屁理屈だろそれは!」

 まるで捕食される寸前の虫のように足掻く河鹿に、追い打ちを掛ける為に亜美が蒼メッシュ入りの黒髪を触手へと変態させる。八本の触手はまず腕に巻きつき次は首を緩く締め、先端を鉤状に変質させたものが器用にズボンとパンツを脱がし脚を開かせて絡まる。残りが脇と胸を這って最後の一本が股間の上で鎌首をもたげる。

 もはや磔に近い姿勢で拘束され、亜美は馬乗りになりながら恍惚そうに見下ろす。頬が火照り、息が荒く、触角がビンビンである。

「あくまで利害が一致してるから仕方なくヤるだけなんだからね! べ、別にアンタの事がす、好き、とか、そう言うんじゃないんだから! 勘違いしないでよね!」

「急にキャラ変するな! お前のキャラが気に入らねえからヤリたくないとか、勝手に決めつけて頭に乗ってんじゃねえ! 問題をすり替えやがって!」

「良いから黙って大人しく妾に捕食されなさい! 今の妾はかなり気分が高揚しているわ、気が向いたからご主人様のご要望通りにしてあげる。感謝してね」

「俺がいつ望」

 触手を口に突っ込まれ抗議も封じられてしまい、河鹿は抵抗虚しく亜美に良いようにされてしまう。

 ただでさえ戦闘で疲れ切った体である。今日こそはぐっすり泥のように眠れると思っていたのに。これを不幸と呼ばずして何と呼ぶか。

 無理やり覚醒させられる意識の中で、河鹿は情けなく白旗を上げるのだった。

 今日は何回戦するのかと思いながら。


                ⑨


 翌日。

 有無を言わせず二人して着替えさせられ豪勢なリムジンに押し込まれたかと思えば、カグラ第一区――巫所のど真ん中に到着して流石に肝を潰した。車内でSPから『ヒノ作戦成功を祝した式典がありますので、お連れするようにと猿女君から仰せつかっております』と言われた時点で嫌な気はしていたが。

 凛々しい顔つきのガードマンはID認証と顔認証で河鹿を見るやいなや表情を綻ばせ、『お待ちしておりました』とにこやかに顔パス。

 巫所に来るのは三年ぶりだったが、相変わらず金殿玉楼といった趣がある場所だ。巫所は基本的には和風建築だが式典など客人を饗す場合は洋風の建物に通される。大理石の石柱が林立し、アーチを描いた天蓋や磨き抜かれた床にはモザイク画が描かれている。

「馬子にも衣装ね、ご主人様」

「嫌味なら他所で言ってくれ」

「本音を言っただけなのに、ツレないのね」

 リムジンを降りて通された式典会場の大扉の前に立ち、柄にもなく緊張している河鹿を見かねて亜美がそんな事を言う。河鹿は頭を掻きながら着慣れない真っ白なフォーマルスーツの襟を正す。対する亜美は嫌そうにしていたが渋々纏った黒薔薇を束ねたようなフリル付きのドレスを見事に着こなし、頭には同じく黒いリボンが結んである。

「タイが曲がっていてよ」

「お嬢様ぶるな、巨獣のくせに」

「あら、血統的に見れば妾ほど令嬢と呼ぶに相応しい巨獣は他にいないわよ」

 肘まで覆うレースの黒手袋を嵌めた手が河鹿の胸元にするりと伸び、昨晩の顛末を思い出してドキリとする。身長差が三〇センチもあるので屈み込み河鹿のネクタイと格闘していて気にも留めていないようだが、肩が露出したドレスから豊満な胸元がばっちり視界に入る。河鹿の鼻先を掠めた亜美の黒髪から凄く良い匂いがした。

 努めて胸元から視線を上げると、口角を上げた亜美と目が合う。紺碧の瞳すらニヤついていた。

「もう何度も見てるくせに、飽きないのね」

「お、男は皆そうなんだよ。俺だけじゃない」

「やっぱり全部見えない方が想像力を掻き立てられて興奮するみたい」

「そんな訳グエッ」

 ネクタイを結び直すのに難儀していた亜美がいっその事と思い切り引っ張り、河鹿の首が凄い勢いで締まった。

「ご主人様、妾達は今日の主賓なの。だらしない格好してちゃ駄目よ、ネクタイは自分で締めなさい」

「勝手に挑戦して勝手に諦めやがった……。そもそも何でわざわざ盛大に祝う必要があるんだか。時間の無駄だろ」

「『目覚ましい戦果を上げた二人には、猿女君直々に叙勲式があります』と黒服の人達が言ってたでしょ。妾達はカグラを救った救世主なんだし、無料タダで貰える物は素直に受け取って損はないわ」

「お前は式典後の会食で出る美味そうな飯を食いたいだけだろうが。涎拭け、ガキかよ」

「……」

 ガキ扱いされて怒ったのか、亜美は不意に黙り込む。だがそれは早とちりと言うもので、小癪な巨獣は当然怒ったりなどしなかった。

「可愛い?」

 丁度良く屈んだのを良い事に小首を傾げて上目遣いで甘える亜美を見て、河鹿は無言でデコピンを食らわせてやった。

「今時流行らないわよ、ツンデレなんて」

「ほっとけ。……そろそろ時間だ」

 腕時計を見てそう言い、亜美は素直に居住まいを正す。

「さっき教えたけどもう一度言うぞ。基本的にこういう式典は猿女君の貴重な政務の時間を削って行われるから、滞り無く終わらせるのが暗黙の了解なんだ。だから私語は慎んで、質問にだけ答えろ。いちいち無駄口を叩くなよ」

「失礼しちゃうわ。妾だって場を弁えるわよ。むしろご主人様の方が口答えせずにいられるかしら? あの女のやりそう事なんて手に取るように分かるもの」

「どういう意味」

 疑問を挟む余地を残しておきながら亜美はそっと扉を押し開け、奥から帯状の光が差し込み質問の出掛かりを潰された。大扉が閉まり前を見据えると、正面にはレッドカーペットと小さいつづら折りの大理石の階段が伸びており、その小高い頂上の玉座には猿女君がゆったりと腰掛けている。河鹿と共にいる時とは似ても似つかない威厳のある姿だ。

 部屋はやたら広く天井はべらぼうに高い。儀仗兵の横にはセレブっぽい紳士淑女が卓を囲んでひしめき、よりにもよって三浦総理や三浦晃志の姿まで見える。命令違反で更迭されたと思っていたが、総理や危機管理監からお目溢しを受けたようだ。

「河鹿喜八さん、河津亜美さん。よく来られましたね」

 為政者らしく猿女君は薄い微笑みを湛えながら階段を降りてくる。

 毎度の事ながら目を疑う変わり身だが、和紙のように薄くて真っ白い生地を幾重にも羽織りヴェールを纏うウエディングドレスじみた姿を見れば、誰もが気品ある統治者だと思うだろう。

「先の作戦において身を挺し余を護った事、改めて感謝しますわ」

「……当然の事をしたまでです」

「ご主人様の命に従ったまで」

 真顔でそんな事を言う亜美を見て猿女君の心情は如何に。

「どうですか、三度カグラの救世主になった感想は?」

 ほんの一瞬だけ微笑を形作る口の端がひくついたのを河鹿は見た。三度目は対バシヤル戦、二度目は一年前の対ネーレウス戦、一度目は五年前の対巨獣使い戦。河鹿の心中を慮り言及するのは憚られたのであろうが、公の場で無かった事にする訳にもいくまい。河鹿はその葛藤を汲み取る。

「河鹿家の幻獣として誇らしく思います」

「……」

 つい表情が強張ってしまい、隣に立つ亜美がじっと見つめる。

「貴方のお祖父様もお父様も……お母様も、きっとお喜びになられているでしょう。余も嬉しく思うわ」

 猿女君は瞬間だけ言い淀み、それ以降は真心を込めて言った。河鹿は微かに動揺する。五年経った今でも未だにあの時に下した判断の是非を自分でも決めきれずにいる。心を乱す疼痛を抑えるように胸元に触れ、服越しに獣力結晶の存在を感じる。

「貴方のような貴重で有為の人材が戦線に復帰し、作戦に参加してくれた事を余も誇りに思います。河鹿喜八さん、そして河津亜美さん。貴方達はこれからもカグラの為に尽力してくれますね?」

 河鹿は慣例通りに跪き、亜美もそれに倣う。

「はい、この命に替えても」

「……」

 亜美はずっと河鹿の横顔を見つめていた。

 猿女君は大仰に両手を持ち上げると厳かに告げた。

「お集まりの皆様、お聞きになられたでしょうか? ここにいる英雄達はこれからもカグラの為に戦ってくれる事を誓いました。――昨年のレベルⅢ巨獣ネーレウスの撃破、並びにレベルⅣ巨獣バシヤルの撃破。どちらもかの三大始祖ア・バオ・ア・クゥーの血統に当たる巨獣達です。更にLv.3からLv.4へのランクアップ。以上の事から、余とIKSOは協議の結果、今回の戦果を『特級戦果』と見做し、河鹿喜八と河津亜美ペアをIRFの隊員として認定する事を決めました」

 観衆がどっと歓喜に沸く。

 つまり今後からレベルⅣ以下の巨獣が出現した場合、勝利の塔だけでなくアミナーでさえ敵性個体を駆除できなかった場合に限り熱核攻撃を断行するという意味だ。仮にレベルⅤ巨獣との交戦に至ったとしても、猿女君の従属巨獣とアミナーが敗北しない限り熱核攻撃には踏み切らない。これまでのような通説ではなく公式決定として、名実ともに猿女君とアミナーを対巨獣限定とはいえ地球防衛の要として世界的に認めたという事である。要するに国家や人種問わず遍く人類を巨獣から護る救世主として告知する訳だ、この歴史的ニュースは瞬く間に全世界を席巻するだろう。

 もはやカグラや日本を守護する英雄から、世界を救済する守護神へと格上げされてしまった。

 ――見返してやりたいとは思ったけど持て囃しすぎだろ。面倒臭いな。

 自身を称える周囲の喝采に包まれながら酷い有名税を掛けられそうだと辟易していると、猿女君が肩口に掛かる毛先を細い指で梳いた。幼馴染の河鹿には分かる、あれはサプライズを企図してそわそわしている時にする仕草だ。嫌な予感がする。

 案の定、猿女君がぴしゃりと言う。

「よって猿女君は河鹿喜八との婚約を正式に受理しました」

 今日一番のにこやかな表情で宣言した。辺りの空気が一瞬にして張り詰め、話の流れが唐突すぎて困惑と引き気味の称賛でざわめきを生む。総理と晃志があんぐりと口を開けていた。

 ――こいつ既成事実を作りやがった!

「ちょっと待て! 何で俺がプロポーズしてお前が引き受けたみたいになってんだよ! 勝手に決めるな!」

「ご安心なさい。お父様は此度の戦果を受けて改心し結婚を快諾してくれたわ。関係省庁には順を追って周知しますから、ご心配なく。結婚式や新婚旅行の日程はまだ決めてないから焦らなくても大丈夫よ」

「話が進みすぎてる! 俺の言い分も聞け! ここじゃ邪魔が入る。ちょっと裏で話すぞ」

 ぱっと手を掴もうとして、猿女君がにこりと笑う。だが目が笑っていない。

「おやめなさい。この場で余に不埒な事をすれば不敬罪で処刑されますよ」

 本気の脅迫ではないかと思う程の凄みが河鹿の動きを止め、据わった目つきのせいで反駁するのを躊躇う。猿女君がこの状態にシフトしたら梃子でも動かない、ソースは俺。

 援護を求めて亜美に目線を送るが、意外にも澄まし顔で平静としている。すぐ食って掛かりそうなものだが。

「ほらね、やっぱり黙らなかったでしょ。ご主人様も幼馴染ならこの程度の流れは想定して然るべきでしょうに」

「分かってたなら先に教えろよ」

「教えたところで逃げ場なんてないわよ。この女は黄泉比良坂まで追って来て決して逃さない」

「人を勝手に黄泉送りにしないでもらえます? 二号さん」

 聞き捨てならぬ、亜美の触角がビンと硬直した。

「誰が二号さんよ。幼馴染のくせに余裕ぶっこいて、ぽっと出の女に先を越されて意中の男と同衾できなかった行き遅れの分際で」

「婚姻届すら用意できない社会不適合者の人間もどき巨獣に言われたくありませんわ。余はてっきり自覚がおありだからご自分の事を『妾』と自称しているものだとばかり。お似合いの一人称で素敵ですよ」

 互いに目くじらを立ててバチバチ視線をぶつけ合う二人に挟まれ針の筵。進退極まった河鹿は脂汗を掻きながら、項垂れるようにしゃがみ込んで頭を抱えて塞ぎ込み現実から目を逸らす。

 もう何も見たくない、もう一言も聞きたくない。誰か助けてくれ。

 救世主は醜態を晒すのも厭わない程に追い詰められていた。


                ⑨


 あの後、会食時に三浦総理と話す機会があったのだが「猿女君は人を見る目がある御方だと思っていたのだが、まだお若いですからな。恋は盲目と言う、どうやら恋愛と結婚を履き違えておられる」と言いやがったので、「そうですか? 猿女君に見初められて恐縮しておりますが、幼馴染として気心が知れていますし稗田氏と河鹿家が良好な関係を築けるのは外交的にも風通しが良くなるのでは? 自分で言うのも恐れ多いですが、IRFに入隊できる逸材であれば防衛力としても申し分ないかと。明瞭な人間関係で勘ぐられる事もなく、実力と社会的背景の釣り合いも取れています。僭越ですが総理こそ人員の選定にお気をつけた方が良いですよ。派閥の寄せ集めでは悪循環に陥るのが世の常です。獣特対は鳴り物入りの組織ですからね、良い機会なので再編成でもしたらどうですか? 特に班長の人選には慎重になられた方がよろしいかと存じます。身内贔屓なんかお止めになって」と言ってやった。

 三浦総理は眉を顰め、傍に控える三浦晃志は卒倒するじゃないかと思える程に血の気が引いて顔面蒼白だった。

 これが河鹿なりの『ざまあみろ』である。

 閑話休題。

 異例のIRF入隊報告と婚約発表で世間がざわついてから、二日後。

 明朝、河鹿は一人でシンジ湖近辺にある病院に赴いていた。受付を済ませ案内通りに進み、扉の前で待たされる。掲げられたプレートには霊安室の文字。

 毎度の事ながら気が重い。慣れる日は来ない。

 やがて扉が開き、手に白いニトリルゴム手袋をつけた自衛官が現れ、いつものように合図をする。顔馴染の自衛官だ、こういう時はいつも世話になっている。河鹿は黙礼し中に入る。

 そこは六畳一間程度の一室だった。照明は薄暗く、線香の匂いがする。室内は白い布で盛り上がったストレッチャーがひしめいており、夏場なのも災いして饐えた臭いが鼻につく。数は全部で九つ、隣の部屋にもまだたくさんあるらしい。

 現実はいつも非情だ。

 擦れた目をした自衛官は、乾いた表情で手を広げる。

「今更だけど、本当はおたくが確認する必要はないんだぞ。別にあんたのせいじゃないんだから。自己満足で内罰的になっても辛いだけだ」

「俺はサボり魔だから。こうでもしないと今にも責任感を失くして、自棄を起こしたみたいに戦うようになる。これはケジメだよ」

 最善は尽くしても完璧ではない守護神としてのケジメ。

 自衛官は諦念を込めて嘆息し、取り直して白い布を捲る。

 むっとする程の血液の臭いが鼻腔に突き刺さり、眉を顰めるだけで堪える。初めの頃は嘔吐しかけていた。これに関しては皮肉にも慣れた。

 眼前に横たわる物体は、非道な現実を物語っている。

 エアコンの作動音が静かに響く。場所に似つかわしい涼しさだ。

「今回は酷かったな」

「見つけ出すまでに二日かかった。土砂崩れに巻き込まれた遺体もある。これはまだマシな方だよ」

 自衛官はすっとゴム手袋を差し出した。

「ご遺族による身元確認が突っかえてるんだ。手早く済ませてくれ」

「分かってる。いつも通りにやる」

 河鹿は首を巡らせて隣室にも満ちた絶望的な数のストレッチャーを想起し、無表情でゴム手袋を受け取る。

 河鹿はシーツをめくっていく毎に地獄とご対面し、傍らでバインダー片手に控えている自衛官が名前と所属を読み上げていく。

 これらは全部、自衛隊員だった物体である。

 バシヤルが吹き飛ばした特科大隊に所属していた者達ばかりだ。

 長針が一回転ほどした時、ようやく地獄を見届け終わった。

 自分が護り切れていれば顕現せずに済んだ筈の地獄を。

 全てを護れずに悔いるのは自惚れだと、かつて局長せんせいはそう言った。そのくらい分かっている、それでも。

 心労が滲む深いため息を吐く。「お疲れさん」という声を背に受け、足を引き摺るような歩みで室外に出る。暫く待合室のソファに腰掛けたかったが遺族達と鉢合わせるのは避けたい。重い足取りで受付を通過しようとして、

「何で貴方がここにいるのよ!」

 しまった。

 高齢の女性に呼び止められ、有無を言わせず詰め寄られた。同伴する夫らしき男性の静止を振り切り、女性は河鹿の胸ぐらを掴んで怒鳴る。仇敵を睨むような目つき。

「貴方のせいで、あの子は!! 貴方が身代わりになれば良かったのよ!!」

「……」

 河鹿の無表情が逆鱗に触れたのか、遺体の母親と思しき女性が片手を振り上げた。覚悟したが、寸前で父親と思しき男性が手を掴み制止する。

「止めなさい。誰のせいでもないんだ。あいつだって入隊した時点で覚悟していた筈だ」

 すると女性は男性の胸に顔を埋めて、人目を憚らず嗚咽を漏らし始めた。男性は労るように頭を撫でてから、河鹿を見る。

「君は、君の為すべき事をした。君のおかげで助かった他の自衛官達だって大勢いる。君がいなければ成功しなかった作戦だったんだ。うちの子は……任務を全うしようとした、君と同じように。状況は同じ、君が責任を感じる必要はない。僕はむしろ感謝している。戦線に戻って来てくれて、ありがとう」

 それは五年前に猿女君が掛けた言葉と似通っていた。河鹿にとっては慰めにもならず、むしろ糾弾された方がマシだ。それを織り込み済みで毎度こんな自己憐憫に浸るような事をしているのだから。


                ⑨


 あれから何処をほっつき歩いたのかうろ覚えで、防災庁内の住居に帰り着いたのは夜になってからだった。

 覚束ない足取りで靴を脱ぎ、ふらつきながら廊下を通り過ぎ、リビングを素通りしてダイニングで立ち止まる。台所では珍しく亜美が夕飯の支度をしており、鼻歌なんか唄って鍋を掻き混ぜていた。振り返らず浮ついた声で言う。

「ん? ご主人様、おかえりなさい。今ね、カレー作ってるの。あの女がね、教えてやらないとフェアじゃないからってうるさくて敵わん。恋敵に塩を送るなんてお人好しね、嫌いじゃないわ」

 河鹿は無言で近寄り、亜美の背後に立つ。身長差三〇センチのせいでポニーテールに纏めた黒髪を見上げる形になる。

「もうすぐ出来上がるから、先にお風呂でも入ってきたら? それともご飯待つ? 或いは妾? なんちゃって……きゃっ」

 いきなり背後から抱き締められ、亜美の長髪に擬態した触手がびくつく。河鹿は構わずエプロンの下から手を差し込み、上半身は白のビキニで剥き出しの腹に手を回して素肌の存在を確かめるように撫で擦る。

「煽り過ぎちゃった? ご主人さ、あっ」

 右手を滑らせ水着の上から胸元をまさぐり、圧倒的質量を誇る果実の生々しい肉感を確かめながら質感を堪能すべく揉みしだく。左手を這わせて黒地に白い縁取りのドルフィンパンツに指を掛けて摺り下ろし、白いパンツの内側に指を突っ込む。

「やっ、こんな所で、だめ……恥ずかしいよ。せめてベッドで」

「……」

「どうしたの? 何かあった?」

 ずっと黙りこくったままの抱擁に異変を察知したのだろう、亜美は腕を回されたまま振り返り河鹿の顔色を窺う。河鹿の顔は酷くやつれていた。憔悴し切った河鹿を見て紺碧の瞳が見開かれて揺れ動き、すっと息を呑む。

 静寂が流れ、IHキッチンと換気扇とエアコンの駆動音だけが響く。

 やがて。

「一緒にご飯食べて、お風呂入って、それからは好きにして良いから。ね?」


                ⑨


 その日は夜更けまで何度も亜美を求めた。

 何度も何度も前から後ろから突き続けた。

 亜美の皮膚を、血管を、筋肉の存在を確かめるように。亜美の体温と汗が自分と混ざり融け合って、お互いの肉体の境界線を失くしてしまおうとするくらいにきつく抱き合って。

 亜美の方から掌を重ね合わせて指を絡め、律動を激しくした最後には首に手を回して縋りつき、二人して果てた。

 がむしゃらに抱いた。自分が生きている証を探すように。



「どうぞ」

「……悪い」

 冷蔵庫から取り出してきた麦茶が注がれたコップを差し出され、一息に飲み干す。同じくベッドに腰掛ける亜美が飲み終わるのを待ち、いざ切り出そうとして先を越される。

「……ご主人様がたくさん可愛がってくれるなんて夢みたい。今日は良い夢が見れそう。ご主人様もお疲れでしょ? そろそろ一緒に横になろ?」

 珍しく打算のないピュアな微笑を湛えて手の甲に掌に重ねる亜美を見て、改めて仕切り直す。

「すまない。無理をさせたな」

「別に。むしろ……嬉しい」

 はにかむ亜美は、河鹿の手を握る力をほんの少しだけ強めた。それこそ、嬉しい、と打ち明けた事を恥ずかしがるように。

 その表情を見て、少し魔が差したのかもしれない。

「俺は……お前が思っているような奴じゃないよ。狡くて、弱くて、可哀想な自分に陶酔するキモい男だ」

「それは……バシヤルにやられた人達を守れなかったから? それとも……お母さんを助けられなかったから?」

 河鹿は瞠目して亜美を見つめる。亜美も確信があって口にした訳ではなかったのだろうが、河鹿の正直すぎる反応で得心したようだ。不思議と誤魔化す気にはなれなかった。

 河鹿は目を伏せ、亜美の手を握り返す。勇気を振り絞るように。

「…………もう随分と昔……、五年前だ。あの日、カグラで巨獣使いによるクーデターが起こった」

 自分でも意外なほど素直に打ち明けられた。母の自室を見て嘔吐した事を思い出して口を噤みかけたが、掌から伝わる亜美の体温と真摯な眼差しが暗澹たる記憶に伴う疼痛を癒やしてくれるような気がして、口を開く。

「一度に九体もの巨獣を出現させた強襲作戦だった。もちろん勝利の塔が次弾装填期間中を狙ってのもので、ぞっとする程に従属巨獣同士も連携が取れていたから他の巨獣使い達は苦戦していた。あの場であの瞬間、最も迅速に事態を収拾できたのは俺だけだった」

 篠突く雨が巨体を濡らす嵐のような夜だった。前触れのない凶行に民間人は蜂の巣を突いたように逃げ回り、そんな彼等を踏みつけず戦闘に巻き込まないように細心の注意を払いながら九体もの従属巨獣を殲滅するのは河鹿にとっても至難の技だった。そもそも二体以上の巨獣達を相手取る事ですら初体験だったのだ。訓練もしていない想定外の事案だった、河鹿を含めた誰にとっても。

 民間人の被害を最小限に留める為に光波熱線の使用は避けた。光線の余波や直撃させた巨獣の爆発で死者が出るのは火を見るより明らかだった。だが結果的にその判断が戦闘時間を長引かせ、河鹿が今でも後悔している結末へと導く原因を作ってしまう。

 奴等は河鹿が飛び道具を使わないと確信すると、こぞって熱線や熱焔で攻撃し始めた。無論、周囲への被害は一切考慮しない。建物は焼け落ち、逃げ惑う人々を焼き殺し、街はあっという間に火の海になった。

 その惨劇を目の当たりにして、河鹿は吹っ切れた。後先考えず一秒でも早く奴等を駆逐してやる一心で光線を連発し、それまでの九対一による袋叩きが一気に形勢逆転した。今にして思えば従属巨獣の活動限界まで粘り、相手側の時間切れで事態収束を図るべきだったのかもしれない。

 一挙に五体目を斃した時、とある一体の従属巨獣が位置する区画が母の職場に近い事に気付いた。その事自体は偶然だったと思いたい、それが作戦の内だったのかは今でも分からない。

 河鹿は敵の熱線を躱しながら無線を入れた。母はすぐに出た。そして、あの言葉を一方的に言い募って連絡を断った。河鹿の戦況や心理なんて母からすれば聞かずとも一から十まで全て分かっていたのだろう。自分はともかく、母の判断は的確だったと思う。

 そのやり取りを終えてから数秒後だった。残る四体の従属巨獣達が一斉に十字砲火を仕掛け、熱線と熱焔で大火が広まり延焼範囲が更に拡大したのは。たった数秒の判断、母の安否に現を抜かして熱線を回避して連絡を入れたのがそもそもの失態だった。あの瞬間での最適解は光線を撃ち返し、そのままの勢いで一息に四体全てを撃破する――これしかなかったのに。

 それからの戦闘経過はよく覚えていない。後日の検査結果でも記憶の混濁という診断が下された。正気を取り戻した頃には、最後の一体の胸部を突き破り心臓を握り潰していた。その四体だけは見るも無惨な肉塊へと成り果て、夥しい血液を驟雨が薄めて簸川へ流れていた。光線による損傷は認められず、全て肉弾戦によって絶命させられたものだと事後調査で判明した。

 しかも四体の傷跡は四肢切断や内臓破裂ばかりで、要するに河鹿がその四体に関しては嬲り殺したという証左に他ならない。憎悪と復讐心に駆られて執拗に無駄な攻撃を加え、クーデター鎮圧ではなく自分の怒りを晴らす為に戦っていた。

 それは河鹿家の幻獣が数百年に渡り守り続けてきた誉れを捨て去り、私欲を満たす為に巨人としての力を振るってしまったという紛れもない物的証拠だった。

 不必要に戦闘時間を長引かせ、その結果として被害範囲を無駄に拡大させ、挙句の果てにはこの世で一番大切な人を守れず、悪戯に従属巨獣を痛めつけて正義の巨人としての誇りと体裁さえかなぐり捨てた。

 全てが終わってしまった後の夜が明け、それから河鹿を待ち受けていたのは謂れのあるマスコミからのバッシング、正当性のある被害者と遺族からの糾弾だった。初めから敵とはグルで、その為に手抜きして戦っていたのだという誹謗中傷まであった。中には作戦途中で裏切り殲滅する事で英雄として名を馳せようとした等というマッチポンプの陰謀論まで出る始末。お前のせいで家族が死んだという言葉を何度浴びせられたか数知れない。

 マスコミからは河鹿家への信頼を失墜させた馬鹿当主として、被害者と遺族からは戦闘に市民を巻き込んだ狂人として、永遠に記録され記憶される存在となってしまった。

 この一件は現在に至るまで河鹿の経歴に影を落とし、何より母の死は河鹿の心を徹底的に切り裂いた。



「皆を死なせたのは俺だ。俺がもっと強ければ、間違いさえ犯さなければ、一分そこらで敵を全滅させられていた筈なんだ。民間人を……母さんを殺したのは俺だ……」

 声が詰まる。涙で薄闇が滲む。初めて自分の言葉として洗い浚い吐露する事で、あの頃の痛みが鮮烈にぶり返してきた。目を見開き、食い縛った歯の間から絞り出した声は掠れて震えていた。繋ぐ亜美の手を固く握り締めていた。

 懺悔するような訥々とした告白を黙って傾聴していた亜美は、優しく手を振り解く。愛想を尽かされたと思って河鹿は悄然と俯く。そんな河鹿の背後で横になった亜美は、ちょいと河鹿の裾を引っ張る。河鹿は鼻を啜りながら振り返る。

「ん」

 亜美は生まれた姿のまま両手を広げて、そのまま河鹿の顔を包み込んだ。穏やかな微笑を湛えた顔が、微睡むような視線を送る。

「妾は死なないよ」

 囁くような、しかし芯の通った声。そう断言して亜美は河鹿の頭をそっと包み込むようにして抱いた。河鹿は無抵抗のまま横になり、柔い胸元に顔を埋める。体温で温かい暗闇が視界を覆う。左手を河鹿の項に添え、右手であやすように頭を撫でる。硬直した体からふっと力が抜け、自分でも驚くほど素直に両手を亜美の背中に回して緩く抱き締め返す。

「妾の使命はご主人様を護ること。だから妾から離れちゃだめよ、絶対に。ご主人様の身辺警護を独り占めにして良いのは、妾だけなんだからね」

 安らかに目蓋を閉じると、記憶の暗幕の向こうで、いつも通りの母が見慣れた快活な笑顔を浮かべている姿が視えた気がした。

 自分が赦される日は決して来ない。償いは永遠に出来ない。

 それでも、今伝わってくる温かさは河津亜美のものだ。

 その慰安を無碍にする事は、今の河鹿には到底できなかった。


                ⑨


 五日後。

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巨獣アミナー @kyugenshukyu9

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