第5話
三自衛隊の統合運用並びに在日米軍との共同戦線を基盤とする1次及び2次展開を考慮した防衛作戦――レベルⅣ巨獣バシヤルの駆除を目的とする勝利の塔を用いた砲塔射撃を主軸とした作戦要項――通称・ヒノ作戦。
なお予備戦力として巨獣特設対策室専従班、通称・獣特対専従班の巨獣使いを配置し、一級河川・簸川を絶対防衛ラインと想定する。
防衛計画書に河鹿喜八と河津亜美の名前は記述されていない。この二体を頭数に入れた運用は不確定要素が目立ち、信憑性に欠けるため便宜上は存在しない個体として扱う。
時刻は9時、晴天の空には既に燦々とした朝日が上り、熱すぎる日差しで地上を焼いていた。海上には入道雲が浮かび、海沿いの道路では戦車大隊が砲身を水平線に向け、港からイージス艦が緊急出港し、爆装した要撃機2機はカグラ基地で臨戦態勢に入り、先んじて在日米軍の戦略爆撃機は既に離陸し、約一年ぶりの巨獣襲来に備えている。
防災庁から非常事態宣言Bが発令され、カグラの統治者たる稗田氏に対し強制的広域避難命令が通達された。ついさっき全該当地区の避難が完了し、
かくして河鹿と亜美は『存在しない戦力』として輸送ヘリから降りたものの、現地対策本部に身を置く訳にもいかず、簸川櫛名田神社境内のヒノ作戦前方指揮所に忍び込むなど言語道断であり、たらし回しにされた結果として特科の
「妾達、お邪魔虫って感じなのかしら? ね、ご主人様」
「……秘密兵器ってのは悪目立ちしたら駄目なんだよ。ま、作戦要項を踏まえたら妥当な待遇だ。文句を言うのは筋違いだろ」
「うーん、でもぉ、ご主人様は世界で唯一無二の幻獣なのにぃ~、めっぽう強いのにぃ~……。よし! あの女に直談判してくる!」
「やめろ待て、ちょっと座ってろ。あいつは巫所で静観してるだろうし、
退屈そうに長い脚を伸ばし、むすっとしていたかと思えば唐突に決意し、両手ガッツポーズを胸元でふんすっと作って起立しようとしたので半ば強引に引き止めた。一度はクビを切られた身、ケチをつけるなんざ恥知らずにも程がある。
「それよりも本当に巨獣は今から上陸してくんのか? こんだけ準備したのに実は現れるのが一週間後でスカりましたじゃ洒落にならねえぞ」
「来る。バシヤルは、絶対に来る。必ず借りを返す執念深い奴だから」
確信の籠もった声で呟く亜美が真剣な目つきで見通す先、その遥か向こうには水平線が広がる方角だ。真面目に答える亜美を茶化す訳にもいかず、河鹿も腕を組んで大人しく待ちぼうけを食らう。
訓練通りに動く陸自隊員達を眺めながら、二人の間に沈黙が流れる。
コンテナ型のシキツウの陰で待機しているから直射日光は受けないが、こんな調子で亜美に付き合ってやらないといけないと思うと気が滅入る。徐ろに立ち上がる。
「ん、どこ行くの?」
「トイレ。ついて来んなよ」
そう念押しすると、何故かドン引きされた。
「いえ……あの、次の機会に気が向いたらしてあげるとは言ったけど、さすがにトイレでするのはちょっと……。都合の良い時だけ下僕扱いされても、ついていけないと言うか……」
「……? ……っ、人を勝手に欲求不満にするな! このアバズレ!」
「なにを想像したの? 妾はただ膝枕の話をしただけよ。ご主人様、やらし~」
青褪めた顔から一転してにやにや笑む亜美に上手く切り替えされ、ぷっつんときた。
「そこにいろ! これは命令だぞ! ったく」
歯軋りするように叫んだ河鹿は、それから一度も振り返らず立ち去った。主人に言い付けられた亜美は物怖じせず、猫のように欠伸を噛み殺して尻尾を振るが如く触角を動かすのだった。
⑨
言った手前、本当に仮設トイレに行った。
作戦決行が今日中のいつになるか分からないので気を引き締めなければと思いながら、河鹿はハンカチで手を拭き仮設トイレから出た。
仮設トイレはシキツウとか陣地用のテントが張られている場所からは少し離れた木陰にある。ハンカチをポケットに突っ込みながら暫く歩き、見上げれば木立の向こうで晴れ渡る青空にはちょこちょこ薄い雲が掛かっていた。地上を包む開戦前特有の静けさも夏の空には無縁なようで、平時と同じように風で雲が流されていく。
――いっそはっ倒してやろうか。
ふう、と重いため息を吐く。亜美は得体の知れない奴だと思う。
いけ好かない奴だし、何より知らない部分が多すぎる。
亜美は巨獣だ。他の巨獣達と同じように『人類を蹂躙』する為に上陸する個体の筈だ。巨獣使いの使役する《従属巨獣》のように陸で他の巨獣とやり合いたいという闘争本能に従い、そうして人間の傘下に加わった奴等とも違う。なのに亜美は『ご主人様をお護りする為』に陸へ上がったと、確かにそう言った。だがその外見は人間と殆ど見分けがつかず、不遜な態度も相まってしばしば巨獣を相手にしている事を忘れる。
それでも――やはり亜美に人間味を感じられない瞬間がどうしてもある。触角を動かしたり擬態が解けて髪が触手になったり、ふと猫や犬のように誰もいない遠くを見て「反応」を察知したりする。後者に関しては幻獣として人の事は言えないけど。
猿女君や
とはいえ気を許すつもりは毛頭ないが。自分とさして年齢も変わらない少女の姿だろうが本来は軟体生物じみた巨獣な訳だから、いつ寝首を掻かれるか知れたものではない。虚言癖持ちの巨獣だっているだろうからな。
それに、亜美の明け透けな態度は母を連想させる。心の内側に容易く滑り込んで来るような不思議な干渉を事もなげにやってのけ、現に河鹿は掌の上で踊らされている感覚に陥ったりしていた。
その感覚は、五年前という遠い昔に置き去りにしたものと手触りが似ていた。
だから昨夜、亜美と情事に耽っても唇を塞ごうとはしなかった。亜美の為と言うよりは、自分の為に。
線引が必要だ。心の、立入禁止の線引だ。
それを越えてしまったら最後、河鹿喜八という人格を形成する『核』が崩れてしまう気がしたから。
「よお、英雄くん」
いつしか俯きながら歩いて思案に耽っていたので反応が遅れた。
視線を上向けた頃には顔面に拳が迫り、あわや殴打される寸前で躱す。お返しに鳩尾を殴り、よろける相手に足払いを掛けて転倒させた。
「そこまでだ」
カチリと撃鉄を起こす音が聞こえ、河鹿は動きを止める。
ゆっくり振り返ると、そこには制服組の男達が五人立ち、内の二人は河鹿に拳銃を向けている。河鹿にカウンターを食らった一人は腹を押さえながら距離を取る。見知った顔ぶれだ。何を隠そう、こいつらは今回のヒノ作戦で予備戦力として出動要請を受けた獣特対専従班の面々である。特に声の主は面倒な奴だ。
西城晃志、今の三浦内閣が八年前に発足した際に目玉政策として設立した対巨獣用の緊急参集チーム、そのチームの班長を務める男。年齢は三十歳、階級は三尉、防衛大学卒業、卒業後に短期間で班長に就任。
そもそも緊急参集チームとは、稗田氏や河鹿家の圧倒的な個体依存性に危機感を抱いた政府内で内閣危機管理監が主宰する組織であり、その管下の対巨獣戦力として招集されたのが彼等である。一年前の巨獣襲来以降は獣特対専従班として改組された。
とは言うものの、彼等はあくまでエリート階級の人間達が奇遇にも巨獣使いとして高い適性を持っていただけの存在で、正直なところ取り分け優れた巨獣使いという訳ではない。あくまで首輪つきとして政府が管理しやすく、対外的な面で手元に置いても批判されない融通が利く巨獣使い、つまり政治的な利用価値しかない存在だ。実質的な戦闘単位としては、他の凡百の巨獣使い達と大して差はない。
要するに高い地位と戦闘能力が比例すると勘違いした連中、という事だ。政府の御側付きでありながら、政治的な判断というヤツをろくすっぽ理解していない。
その中でも特に浅慮な奴がこの男、西城だ。胡散臭い奴だな、というのが第一印象だった。長身で仕立ての良いダークグレーのスーツに包み、整った目鼻立ちでフレームレスの眼鏡を掛けている。薄いレンズ越しの目は糸のように細く、神経質そうな雰囲気を醸し出し、河川敷後方の丘という場所も相まって再開発現場に訪れた副社長みたいな感じだ。
初対面はもう四年前になるが、その時から西城は人目を憚りつつ自分に対して敵愾心を露わにしている。まあ理由については察しがつくけど。
西城は部下に銃口を向けさせたまま、嗜虐的な笑みを頬に刻んで河鹿を睨む。
「落ちぶれた英雄くん……クビになった奴が今更こんな所で何をしているんだい? 生憎トライアウトは受け付けてないんだ。ここは子供の遊び場じゃないんだぞ」
三自衛隊も在日米軍も獣特対も最終の
俗に言う『馬鹿は頭が悪いのではなく、そもそも話を聞いていない』という事案なのだろう。
「作戦開始前にふざけてる奴には言われたくねぇな」
「相変わらず目障りだね、君は。三大始祖の幼体を斃したくらいで救世主気取りか。弱腰の政府が人口密集地での戦闘による被害を懸念したせいで初期対応が遅れ、その隙を突いた君が運よく幼獣を撃滅できただけの話だ。自惚れるな。あの場に僕がいれば、僕の巨獣がア・バオ・ア・クゥーJr.を斃していた」
正確にはネーレウスだが。
「…………」
「そもそもね、なぜ君なんだ? 君は学歴や職歴が何の意味も為さない幻獣という立場だ。片や僕は栄えある獣特対の班長で、三年連続で撃破数トップの選ばれし天才なんだよ。レベルⅡの巨獣が現出する時くらいしか仕事をしないサボタージュの家系とは格が違う、現に巨人不要論を君も聞いたことがあるだろう?」
「勝利の塔が2007年に竣工されたから、それ以降は河鹿家の出撃数が減っただけだ。
「阿呆が、しらばっくれるな」
西城は歩み寄り、わざとらしく低身長の河鹿に合わせて屈み込み、にやりと微笑し生理的嫌悪感を催す舌なめずりをした。
「猿女君はお美しく成長され、今年で十八歳になられた。君も話は聞いているだろう、稗田氏は巨獣使いの血を絶やしてはならないと。君のせいで河鹿家は凋落し、最終防衛ラインとして最強の巨獣使いの重責を猿女君が一身に引き受けなければならなくなった。先代のように何時ぞや心労で床に伏せられるか分かったものではない。そこは総理も憂慮しておられる。稗田氏もカグラの元首として世継ぎを欲している。そう思わないか、な?」
「……なるほどな。気色悪いな、あんた」
盛り上がってるところ水を差すようだが、猿女君は西城の事を嫌悪している。曰く「目つきがケダモノだから」なんだそうだ。完全に見透かされている。だからこそ西城は前々から河鹿に突っ掛かり、事あるごとに恋路の牽制として噛みついてくる。
阿呆くさ。
やや小さい瞳孔を三白眼気味に覗かせ、それまで常に浮かべていた酷薄な笑みを収めて、西城は冷ややかな声で告げる。
「既に君は政府や稗田氏の庇護下から外された用無し、つまり不慮の事故なり僕の正当防衛によって死んでもロクに捜査されない、路傍の石にも満たない存在な訳だ。……こうしよう、君は体内にまだ残りカスの獣力を保有している。だから勤勉に待機していた僕に対し妨害工作を仕掛け、行き過ぎた獣力制御によって僕も止むなく正当防衛で君を殺すしかなかった、と。獣力持ち同士が生き死にの話になるのは珍しくない。僕も邪魔者が消えて清々するよ」
「そ、それは止めた方が良いんじゃないですか。西城班長」
これまで二人の成り行きを固唾を呑んで見守っていた部下の一人が恐る恐る口を挟む。
「相手は河鹿家の幻獣ですよ。神に最も近い男、国防の要、歩く新元素、そもそも殺せるような奴じゃない。五年前のクーデターを単独で鎮圧したこと忘れてないでしょう? 九体の従属巨獣をたった三分半で殲滅した英雄……」
「厳密に言えば三分だけどな」
従属巨獣の出現時間は、獣力を共有している巨獣使いの獣力許容量に依存している。大抵の巨獣使いは二分が限界だが、幻獣と猿女君は五分間の戦闘が可能な程の莫大な獣力を誇る。それも熱線の使用込みで五分という、他の巨獣使い達が束になっても到底到達できない領域にいる。
五年前の件を引き合いに出されて自然と河鹿の声が冷徹さを帯びる。その擦れ切った瞳と抑え難い感情を孕んだ声で否が応でも理解らされたか、四人の部下達は威圧されたように目を剥く。
だが西城だけは癇に障ったように歯を剥き、
獣力制御。
不意打ちの獣圧を受け、河鹿は堪らず膝をつく。
脳裏に
――クソッ、仕返しできねえとか理不尽だろ。
「見給え、諸君! あの河鹿家の幻獣が、巨獣使いのこの僕に歯が立たず頭を垂らしているぞ! ……いい事を思いついた、ここで一つ生物学的実験をしないか? お題は、『幻獣』はどれほどの獣力を掛ければ潰れて死ぬのか、だ。僕の隣で白無垢を着た猿女君を見せられないのは非常に残念だよ。安心しろ、骨は海に撒いてあげるさ。常世トラフは暗くて深いから見送ってやるよ、僕は優しいからね。君も故郷に帰れて嬉しいだろ?」
流石に不味い。
「ご主人様!?」
生い茂る木立の陰から飛び出してきた亜美が傍に駆け寄って来たので制する。亜美は飛んで火に入る夏の虫、西城に巨獣だとバレるのは不味い。
「来るな! そこにいろ!」
「でもっ!」
「おやおや、幻獣風情が召使いを侍らせているのか? それとも風俗嬢と同伴出勤かな?」
西城の目配せを受けて、取り巻き達がぎこちなくせせら笑う。
西城は獣力制御を展開したまま亜美に歩み寄り、横柄に立ち塞がる。亜美と同じ長身で同じ高さから目線を合わせる西城は、雪化粧したような頬を掌で撫でようとして亜美に振り払われる。
「手癖の悪い従僕だね。君のご主人様は今そこで為す術なく無様に跪いている。Lv.1の幻獣とはいえ所詮は虚仮威しの雑魚だ。良い機会だ、殊勝に願い出れば僕の小間使いにしてやってもいいぞ。あんな用無しが主人じゃ君の品位が下がるよ、せっかくの美人が台無しだ。君はおろか自身すら守れない無能者で、軟弱で、救えない。口だけは減らないイキリ野郎よりも、獣特対のエースである僕の方が君に相応しい。君だってそれはよく分かっているんじゃないかな?」
芝居がかった口調で捲し立てた西城を間近にして、亜美は柳眉を吊り上げ烈火の如き双眸で視線を飛ばす。隈取じみた目元の紅が色濃くなったと錯覚する程の眼光で西城を射抜く。
「……貴方は小さく、得体の知れない巨獣を守ろうとしますか?」
「は? 巨獣使いが巨獣を守る訳ないだろ」
「ご主人様は妾の為に色々な事をしてくれたわ。自分が窮地に瀕しているのに妾の身を案じ、立場が危うくなろうとも妾を庇い、妾の体を気遣いながら抱いてくれた。一言もなく身勝手に妾の顔に触れようとした貴方なんかよりも、よっぽど品格のある男よ。貴方には何一つ出来ない事ばかりでしょうけどね」
――あいつ……そんな風に思ってたのか。
不覚にも胸を打たれてしまう。巨獣のくせに生意気だと思う。
「……女、言わせておけば――」
逆上した西城が平手打ちを食らわせようとして、
「――そこまでです!」
唐突に割り込んだ厳粛な一喝が、この場の全員を凍りつかせた。
皆が見つめる一点には、黒薔薇の如き麗人が佇んでいる。
誰ともなく「猿女君……」と呟く。
公の場では隙のない表情を見せる美貌が、今や稲妻じみた眼光で獣特対の面々を貫く。この場にいる筈のない漆黒の統治者がそこにいた。
河鹿を照準していた二人が拳銃を取りこぼし、西城が真っ青になって後退ると同時に河鹿に掛けられた獣圧が消失した。西城は慄きながら「何故ここに……」と漏らす。
「本作戦には政治的な判断が必要な状況が予想されます。よって即座にそれができる者が必要です」
「しかしっ、だからと言って一体どうして特科の指揮所なんかにッ」
「本作戦の最終防衛ラインとして幻獣・河鹿喜八がこの場に配置されているからです。
図星を突かれた獣特対の連中は押し黙るしかない。知らなかったのは西城だけらしい。
呆然としながら立ち上がる河鹿と一瞬だけ視線を交錯させた猿女君は、炎天下に厳かな声を響かせる。
「それぞれ持ち場に戻りなさい、今すぐに! 拒否する者がいれば反逆罪として、余がこの場で獣殺します!」
⑨
「で、何でお前が前線部隊に同行してんだよ?」
「だから言ったでしょ。本作戦には政治的な判断が必要な状況が予想されるわ。よって即座にそれができる者が必要よ」
「……その手に持ったバスケットを差し出してこなきゃ、説得力があったんだけどな」
あの後すごすごと退散した獣特対を見届けて、それから猿女君がSPに持ってこさせたのが白いバスケットである。亜美が物欲しそうにお手つきしようとしたのをぺしっ! と叩いてから、猿女君は「どうせ朝ご飯食べてないでしょ? サンドイッチなら手頃に摂取できるし、喜八の好物だもの」と言ってのける。
決戦前なのに緊張感がない、カグラの統治者のくせに。
「軍事作戦は遠足じゃないんだぞ、いくら指揮は取らないからって……。でも助かった、礼を言う」
「妾も一応褒めてやる。ご主人様が一悶着を起こすんじゃないかと肝が冷えたからね」
「お前だって挑発してただろ。あれで叩かれてたら、どうするつもりだったんだよ?」
「妾は事実を言ったまでよ。それに、やられたら殴り返していたわ」
「やっぱり駄目じゃねぇか!」
「別に良い、礼など。あやつらの狼藉は姫から密告を受けていたから。それにしても、余の喜八をよくもまあ好き勝手に愚弄してくれたな。せめて巨獣珠の遠投距離が五百メートル越えてから物を言えって話よ」
「あんな小さいやつの飛距離を獣力制御で伸ばし続けられるのはお前くらいなもんだよ、端から無茶ぶり……」
頭を撃ち抜かれたような衝撃が脳天を貫く。巨獣、巨獣使い、巨獣珠、上陸、巨獣/亜種、獣力制御――全ての点と点が線で一気に繋がり喫驚して冷や汗が出る。この推理が正しければ敵に一杯食わされた形になる。
「河津、バシヤルの知能指数はお前と同程度だと思って良いんだよな?」
「え? うん。 彼は頭が良いわよ、認めるのは癪だけど」
「珠になった巨獣は海水を触媒として巨大化する。海水を摂取し続けないと巨大化を維持できない。だが短時間なら水場から離れても活動できる」
「喜八……、何か分かったの?」
「もしバシヤルが俺達の裏を掻く為に、人間と共謀もしくは逆に使役していたとしたらどうする? 俺が敵の立場だったら宿主である巨獣使いを都合よく動かして、意表を突いた場所に巨獣珠を着水させて巨大化する。例えば海岸線よりも後方、戦車大隊が陣地変換しないと射撃できないポイント……」
新参者の亜美はちんぷんかんぷんだが、猿女君は統治者として地理に詳しい。河鹿の推測を聞いて即座に思い当たる。
「汽水域……! 簸川の本流……ヒノ作戦の絶対防衛ラインと繋がっているシンジ湖!」
突如としてシンジ湖の水面が爆ぜた。
河鹿達が今いる前方指揮所後方の小高い丘からも見える程の巨大な水柱が天を衝く。沸き立つ水蒸気煙が水上から上空へ物凄い勢いで噴出し続け、水面を同心円状の赤色の泥砂による変色水が撹拌していき、水蒸気爆発が原因だと分かる。
つまりそれは水中に何らかの熱源が存在する事象であり、汽水が沸騰するような百度を超える体温の生物が唐突に出現した事を意味する。
「従属巨獣の初期状態と同じよ……!!」
見知った河鹿と猿女君は仰天して目を見開く。従属巨獣は初めて巨大化した時にはまだ体温調節が上手く働かず、水分を沸騰させて劇的に出現してしまう。
水上に濛々と立ち上る分厚い水蒸気煙の中に薄っすらと巨大な影が見え、眼だけが炯々と光っている。亜美が震える声で、その名を呼ぶ。
「バシヤル……!」
直後、けたたましい咆哮が水蒸気煙の幕を吹き飛ばした。巨体のベールが派手に取り払われる。
レベルⅣ巨獣《バシヤル》、現出。
バシヤルの体格はオーソドックスな二足歩行の直立形態で、人間ならば頭部がある位置から前方に伸びた流線型の首と頭が一際目を引く。もはや胴体の上に長大な深海魚が乗っかっているに等しい。どっしりとした肢体は重量感満載で、前肢には鋭利な爪を備えている。背部が盛り上がるその姿は、二人羽織を彷彿とさせる。全身に銀色の鱗を鎧い、太陽光をギラギラと反射させている。鱗の隙間からは赤熱化した朱色の内皮が露出している。全高は五十メートル程で、風に冷える鋭い尻尾も含めれば全長は百二十メートルを優に超える。
頭部に比して大きい眼が、ぴくりとも動かない。
視ている。
白目の殆どを占める大きな黒目が、こちらを捕捉している。
再びシンジ湖が大きな水飛沫を上げる。体中から滝のように水滴を滴らせながら現れたのは、巨獣使い西城晃志が使役するレベルⅠ巨獣《アフォウティク》である。赤色のダイオウイカがそのまま巨大化したような姿をしており、獣力制御で水面から顔を出し全高四十メートルの身を晒し直立している。湖の辺りから巨獣珠を湖面に投擲して巨大化させたのだろう。迅速な行動ではある。だが。
「砲塔射撃で撃破できなかった時に、追撃する為の予備戦力だろうがッ! 先走って手柄を立てようってのか!?」
「しかも特科大隊の側面にそのまま出現させるなんて……! もし敵が飛翔体を射出できるような能力を持っていたら、射線上にいる特科大隊も我々も巻き添えを食らって全滅するわよ!」
「来る……! 二人とも逃げるよ!」
亜美は長髪を触手に変態させて回避行動を取る。触手が容易く二人を絡め取ったのを確認し、亜美は思い切り踏み切る。顔と足だけ出した二人はぶっ飛ばされるような横殴りの衝撃を味わう。
温い風が頬を叩き、風圧に抗いながら瞼を開けた瞬間には既に空中にいた。亜美が二人を触手で捕縛したまま二十メートル近く跳躍したのだ。服の裾がはためき、空中の突風に全身を洗われる。跳躍の最高到達点に達した一瞬だけ空中でぴたりと静止し、一秒後には自由落下の軌道を描き猛烈な勢いで眼下の森が迫る。
亜美は冷静に太い枝を着地点と見定め、両足で枝を噛み折れる前に再跳躍。五メートル間隔で次々と枝に飛び移り、目にも留まらぬ速度で木立の隙間を跳び渡っていく。河鹿と亜美を縛る触手は決して二人を振り落とさないが、二人は強烈なGに振り回されて目を白黒させる。自分で跳躍して移動するのとは感覚が違い過ぎる。
「間に合わない……! 一気に跳ぶ!」
亜美は着地した梢に脚を撓ませ、斜め上へ大ジャンプ。迫る無数の葉と枝を獣力制御で一息に吹き飛ばしながら潜り抜け、枝葉と共に宙を舞う。ざあっと一気に視界が開ける。ヒュオンと強風が吹き、木立から飛び出して空中に躍り出る。遥か下に湖畔が広がった。
開けた視界の遠間に二体の巨獣を認め、アフォウティクが水中から一対の触腕を持ち上げ先制攻撃を仕掛ける。手始めに口から膨大な墨を吐き出し、煙幕にしてバシヤルの視界を遮る。そして水面を駆けた触腕はあっという間もなくバシヤルをぐるぐる巻きにして拘束し、鱗にへばり付く吸盤から触腕の根本にかけて斑点模様が浮かび上がり仄かに光り輝く。ブウンと音がしたのも束の間、
放電。
電磁が爆ぜ、黒煙が撹拌される。触腕から放たれた電撃で空気がスパークし、シンジ湖中に幾重もの耳障りな音を刻む。凄まじいまでの電圧の眩い閃光が湖面を照らし、バシヤルに激烈な電気ショックを叩き込む。推定五十万キロワットの電気で感電死に追い詰めようとする。
蒼い電光が弾ける只中で、バシヤルの眼が怪しく光る。
ぐっと全身に力が漲り、自身に巻き付く一対の触腕を力尽くで容易く千切り飛ばした。前肢を大きく開いただけで拘束から逃れ、爪が伸びる前肢を持ち上げ不気味に構える。突き出る流線型の頭の下、不格好に並ぶ幾本もの牙を生やした口が開く。驚異的なのは、下顎は喉と緩い靭帯のみで繋がる剥き出しの骨である。
その口中から一瞬だけ閃光が迸る。
数瞬後、アフォウティクの赤い躰が真っ二つに裂けた。
そして閃光は留まる事は知らず、縦に裂けた亡骸が斃れて水中に没するよりも早く尋常ならざる破壊を巻き起こした。
聳え立つ山々が一撃で砕かれた。斜面だった場所は山肌に真っ黒な傷跡を刻みつけられ、それどころか元より谷間が存在したのかと錯覚する程に大きく深い溝が地を割っていた。湖畔の地面が吹き飛び山中の木々が薙ぎ倒され高圧鉄塔が倒壊し、整列した自走榴弾砲群が行き掛けの駄賃とばかりに一掃された。
特科大隊、壊滅。
亜美達三人が湖畔に着地するまでの僅か数秒間で起きた惨状である。
今になってようやくアフォウティクの死体が湖面を蹴立て着水した。
「なんてこと……!!」
「ショックを受けてる場合じゃないぞ。今すぐ砲塔射撃を開始させろ、特科の犠牲を無駄にするな……!」
顔面蒼白になる猿女君の肩を掴んで向き合い、正面から顔を覗き込む。猿女君は動悸を抑える為に深呼吸し、重々しく首肯した。すぐに無線で連絡を入れる。
「――こちら猿女君、統治者権限を行使し防災庁特別条項に則り非常事態宣言をAレベルに引き上げる。現時刻をもって指揮権は猿女君に委譲し、ヒノ作戦フェイズ1を開始。直ちに砲塔射撃を開始しなさい」
河鹿は湖に立つバシヤルの更に向こう、蒼天を衝く威容を仰ぐ。
カグラ特別行政区は海岸線の反対側、天然の要塞たる山々の北側に巨獣制圧用絶対兵器《勝利の塔》を建造していた。稗田氏が千年かけて建設した獣力結晶による巨塔。歴代の猿女君が何十世代に渡り獣力結晶を積み上げた、次世代の対巨獣兵器。これは猿女君の圧倒的な獣力に頼る個体依存性に危機感を抱いた当時の朝廷から時の幕府、そして政府へと引き継がれた一大プロジェクトである。
比類なき制圧能力を有するため一発につき巨獣使い千人分の獣力を必要とし、次弾装填までに一週間かかる。
故に今や防災庁の主力は勝利の塔であり、かつて戦場を支配していた巨獣使い達は巨塔を見上げながら動力の供給源となり、同レベルの敵性巨獣と戦う尖兵へと成り果てていた。彼等はもはや代替可能な動力源として機能し、レベルⅠの巨獣に対する防衛力だけを期待される存在だ。
そして今、直径一キロは下らない花に似た獣力結晶の構造物が稼働する。
緊急弁閉鎖、獣力超伝導回路開放、全開閉器接続、強制注入器作動、インジケーター異常なし、フライホイール回転開始、獣力圧縮密度発射点まで上昇中、強制収束器全力運転開始、獣力子臨界点突破、獣力子加速管磁場安定、全真空チェンバー異常なし、最終安全装置解除、射撃装置目標自動追尾中。
内部に高エネルギーを充填させ、その
照準器調整完了、獣力子加速管最終補正、パルス安定問題なし、地球の自転及び重力による誤差を修正、塔内で圧縮・収束した粒子の気配――
勝利の塔が、撃った。
蒼天に光が瞬いた頃には、もう既に粒子の奔流がバシヤルを呑み込んでいた。この世の物とは思えぬ超高熱・超高圧の瀑布じみた重金属粒子に晒された事でシンジ湖は再び水蒸気爆発を引き起こし、もはやバシヤルの姿は奔流と水蒸気で掻き消えてしまう。
網膜を焼かんばかりの閃光を浴びて、湖畔にいる三人は両腕で目を庇う。暫くして耳を聾する轟音と眩い光が途絶え、眩んだ目を凝らして放射地点を見遣る。
果たして、水蒸気の壁の向こうで巨大な影が動いた。
バシヤル、健在。
「そんな……まさか……!?」
「いや待て、諦めるのはまだ早い」
絶望する猿女君をよそに河鹿は目を凝らす。緩慢な足取りで前進したバシヤルの姿は惨憺たる有様だった。銀色の鱗はどろどろに溶解し、赤熱化する朱色の内皮が覗くけど所々が黒焦げで焼け爛れてぷすぷすと白煙を燻らせる。流線型の首と繋がる丸い頭にぎょろりと覗く目玉の片方は眼窩から外れ、ぷらぷらと今にも千切れて落ちそうだ。前肢の爪も半分以上が融解して欠損し、尻尾は中程まで炭化している。
「あの鱗で光線を減衰させたけど、流石に無事では済まなかったって感じか……。ならば勝機はあるな。……河津」
「短期決戦なら勝ち目はあるわ。分かってるわよ、ご主人様」
二人は目も合わさずに呼応して肩を組み、二重の獣力制御による加速態勢に入る。あまりの獣力で周囲数メートルの小石が浮かび、湖面に波紋が生まれる。
「喜八っ……」
「まだ残ってる戦力に連絡してくれ。一瞬だけでも良いから隙を作ってくれれば俺達が一撃でぶっ飛ばすから」
「…………ご武運を。気をつけて」
不安そうに胸元で拳をきゅっと握る猿女君を尻目にして、笑う。
「誰に物を言ってんだよ。俺は河鹿家の幻獣だぞ……任せとけよ」
獣力制御、加速。
湖畔から一瞬にして最高速に至る。風を切り裂き、彼我の距離を縮めるため一直線に、飛ぶ。日差しを反射し煌めく眼下の湖面が高速で前から後ろへ流れていく。水面すれすれを駆けるように飛ぶ二人を、バシヤルが片目で捉えた。開く口腔は宛ら真っ暗な砲口の如し。
「ご主人様、妾が視る! 任せて!」
「っ頼むぞ!」
バシヤルの口の奥が閃く。
光を認識した瞬間、水面が裂かれるよりも早く二人は回避機動を取る。
閃光の軌跡には既に二人の姿はなく、水面が弾け飛ぶように飛沫を散らす。虚空に舞う水滴が思い出したように湖面へ還った時には、二人はものの一秒で百メートルもの距離を飛ばしていた。
体格比にして芥子粒にも等しい二人が接近する最中、バシヤルは獣の如く反応した。
閃光が連続して瞬く。二人の回避軌道を閃光の衝撃が続け様に辿った。周辺の湖面一帯は目も開けていられぬ程の閃光と水飛沫と爆音に埋め尽くされる。曳光弾、乱射乱撃雨あられと言わんばかりの荒ぶる閃光が湖面を舐め尽くす中、Tシャツとアオザイの裾を翻す河鹿と亜美の身には一発たりとも命中しない。
永遠にも等しい数十秒に渡り獣力制御で飛び、飛び道具を躱し続けた二人は湖面を数キロ駆け抜けてバシヤルの懐に飛び込む。
瞬間、ぼろぼろの前肢を振り下ろし叩き落とそうとするバシヤル。
ほぼ同時にバシヤルの首元に着弾したのは、特科の多連装ロケットシステム・自走発射機M270 MLRSから次々と射ち出されていたM31単弾頭ロケット。
弾着の衝撃で躰がブレて、前肢は標的を外し水面を叩く。
「上手くやれよ!」
「妾を誰だと思ってるのよ!」
空中で密着したまま、亜美が河鹿の喉笛に噛みついた。八重歯が皮膚に突き刺さり、血が滲む。血液は魂の通貨――DNAを内包する血液の一滴を亜美が嚥下した。
バシヤルの眼下で爆発が起きた。晴天の朝でありながら山肌が陰影を刻む程の眩い閃光が爆ぜて、バシヤルの視覚でさえ一瞬だけ真っ白に塗り潰す。
そして閃光の爆心地から巨大な影が生まれ、頭部の鋭いシルエットがバシヤルの首元を激しく突き上げた。ぶっ飛ばされて転倒したバシヤルが豪快な水飛沫を上げる。舞い上がる無数の水滴が雨となって降り注ぐ只中に、直立する巨躯が一つ。
闇を塗り固めたかの如き光沢のない漆黒を全身に鎧い、フレームを彷彿とさせるガンメタルの背筋には制御棒じみた突起が幾つも背びれのように生えている。溶岩もかくやな凸凹の表面には出鱈目に亀裂が走り、その隙間から覗く内皮は赤い光を湛える。鋭角的に隆起した胸部を持つ上半身はやや細身で、それに比して下半身は異様に肥大化し太すぎる両脚で水底を踏み締めている。不格好だが鋭利な爪を携えた前肢を油断なく構え、指の隙間から水滴が零れ落ちる。
何よりも際立つのは満月に似て丸い頭。半開きの寝ぼけ眼は白目の部分を電飾のように光らせ、紅の隈取に縁取られた半眼の黒目でバシヤルを睨む。半開きの口は頬までざっくり裂け、唇も舌もなく削り出したような彫刻じみた歯の奥に広がる口腔は真っ暗な空洞である。
頑強な姿には不釣り合いな程に緩い頚椎はゴム状に弛み、そこには十字状の穴が四つ開いている。
冷えて固まりかけたマグマを彷彿とさせる衝角じみた触角が、雄々しく天を衝く。
全高六十メートルの体躯が、シンジ湖に立つ。
【巨獣/亜種・幻獣融合形態】巨獣《アミナー》が戦域に爆誕した。
「あれが、生体融合した姿……」
湖畔で見守る猿女君が困惑気味に呟く。
宜なるかな。それは想定していた姿とは、あまりにもかけ離れていた。
『おい、まさかこの土壇場で失敗したとか言うなよ。絶対に言うなよ!』
『……てへっ』
『ふざけんな!』
『冗談はともかく、初変身だから融合係数は四〇%ってところかしら。ご主人様が妾とドロドロに融け合う気がさらさら無いから不完全なのよ。お互いに体を許し合った仲なのに、この体たらく……妾、泣きそう』
『ぶっつけ本番で、そんな完全変態の昆虫みたいな事させられた俺の身にもなれよ! てか、お前さっき噛んだよな! すっげえ痛かったぞ!』
『仕方ないでしょ、トリガーとしてDNAを直で取り込む必要があるんだから。それともベロちゅーの方が良かった? やーん、ご主人様のスケベ』
『ベロちゅー言うな! 口腔粘膜上皮の採取と言え!』
『漫才してる暇はないわ。戦うよ、ご主人様!』
『お前が先にボケたんだろうが!』
思念でやいやいボケとツッコミを熟すアミナーは、半開きの口で寝ぼけ眼のまま吼えた。野太い咆哮が空気を震わせ、大音響で水面に波紋が広がる。
体勢を立て直したバシヤルが敵愾心も露わに睨めつける。
汽水域・シンジ湖の真ん中で二体の巨獣が対峙している。
『……あいつの攻撃方法、ありゃ何だ? 速すぎて俺には視えなかったぞ』
『舌、よ。バシヤルの舌は流体金属で構成されてる。体内の電気袋から一定のシグナルで干渉すれば、舌は強靭な鋼鉄として凝固する特性を持ってるの。その性質を応用して流動と凝固を絶えず繰り返し、鋭い刃に変形させる』
液体金属は常温・常圧で液状化している特殊金属であり、それを構成するナノマシンを操作すれば千変万化の鋼鉄と化す。
『近接戦闘は無理って事か……』
『舌の斬撃を掻い潜ったとしても、防御態勢に移行されたら妾達の爪でも突き破るのは難しい。そうなれば』
『飛翔体を撃発して一撃で仕留めるしかない。結局やり方はいつも通りか』
『この間合いで撃てる暇があれば、の話だけど』
それを知ってか知らずか、バシヤルが機先を制する。
流動する舌の刃が、レーザーの如く閃いた。
アミナーが弾かれたように反応する。ほんの数メートルだけスライドし、寸毫の差で舌が空間を舐め、長い射程で後方の山肌を切り裂く。
『砲撃かよ……!』
『バシヤルは目元に二種類の発光器を持っていて、一つは赤外線を出して熱源ロックで精確に敵を捉える』
バシヤルの猛攻撃が始まる。
銀光が瞬き、舌の嵐に晒される。ありとあらゆる方向と角度から空間を裂く舌は縦横無尽に乱舞し、照り返し自体が切れ味を持つかのように鋭く標的を狙う。水面を疾走り、散る水滴すら切り裂き、空気を斬って真空を作る。
アミナーは頑健な前肢を翳し交差させ、ひたすらに耐えるしかなかった。切り刻まんと半円を描く舌が外皮に命中する度に火花が散り、バシヤルの舌は交錯する事に鋭さを増していく。防戦一方に追い込まれ、反撃しようにも付け入る隙が見出だせない。
瞬間、二種類の発光器の一つがヘッドライトのハイビームの如き閃光を放つ。不覚にも目眩ましを食らい、アミナーの視界が一瞬だけ塗り潰された。
ふと腹部に衝撃が走る。目眩ましで僅かに緩んだ前肢のガードを掻い潜って突かれたそれは半ば炭化した鋭利な尻尾であり、不意を突かれたアミナーは堪らずたたらを踏む。重心が後方に傾いた瞬間をバシヤルは見逃さず、尻尾と舌をアミナーを後肢に巻き付かせ力任せに持ち上げた。
『うおっ!』
『きゃっ!』
ぶん投げる。
体重など知らぬと言わんばかりにソフビ人形の如き軽々しさで振り上げられたアミナーは空高く放物線を描き、縦方向にくるくると回りながら遥か後方の山間部に落下した。鬱蒼と生い茂る木々を根こそぎ押し潰し、隆起した山肌を陥没させ、電柱が倒壊し、鳥が一斉に羽撃き、震動で近場の鳥居が軋む。
ここに至り、一歩たりとも動かず一方的な攻勢を展開していたバシヤルが後肢を動かす。
激走。必死に汽水を掻き分け湖畔に上った後肢は猛烈な勢いで山々の斜面を駆け上がりアミナーに迫る。障害物を避ける気など皆無で、民家も電柱も高圧鉄塔も何もかもを巻き込みながら地形の起伏をなぞって踏み越え、ついにアミナーを接近戦の間合いに入れた。
頭と同じくらいの長さがある顎をグワッと限界まで開く。顎は恰もトラバサミのように展開し、長大な首と同等の長さまで伸長しアミナーに齧り付かんと空を走る。不揃いな乱杭歯が並ぶ大開きの口を寸前でガシッと掴み押し止め、眼前に広がる口腔からアミナーの顔に涎が垂れる。獰猛に食らいつかんとするバシヤルと必死に受け止めるアミナーとの間で押し合いへし合いの攻防が続き、先に痺れを切らしたのは前者だった。
暗闇を内包する口の奥で銀光がちらつく。この至近距離で舌の斬撃を食らえばアミナーの外皮と言えども流石に保たない。
『不味いぞ!』
『こっちにだってまだ手はあるんだから! 一転攻勢よ!』
威勢の良い声に呼応してアミナーの背びれが展開する。制御棒じみた背びれの形質が変化し、八本の触手へと変貌した。触手はばっと山の斜面を這って放射状に広がり、ビュンと空を駆けてバシヤルの首や後肢や前肢に絡みついて拘束した。ぐっと力を込めると、バシヤルの巨体が嘘みたいに持ち上がる。トラバサミの口が虚しく空を噛む。
『さっきのお返し、よッ!』
余った二本の触手で躰が凭れ掛かる斜面をバンッと叩き、巨躯を跳ね上げさせたアミナーは空中で固定したバシヤルにドロップキックをかます。バシヤルが吹っ飛ぶタイミングで触手を解き、解放されたバシヤルは怒涛の勢いで宙を飛んだ。山の麓に落下したが勢いは衰えず、そのまま湖畔まで地面を削りながら擦過しシンジ湖に入水。大量の汽水を裂きながら滑走し続け、水圧で減速してようやく止まる。
一転攻勢、地面を踏み砕き山麓に着地したアミナーはガクッと片方の後肢を突く。まるで跪くみたいに。
『おい、どうした?』
『そろそろ時間切れかも』
『は? まだ五分も経ってないだろ!』
『生命体が二体融合して巨大化してるのよ。さすれば二分三〇秒で活動限界が来るのは自明の理、因みにあと三〇秒ってとこね』
『そう言うのは先に言え! さっさと決めるぞ!』
『背びれは全部抜いてる。後は発射するだけよ!』
大樹じみた後肢で地を噛み、前肢をゆらりと開き、重心を前に傾ける。八本の触手を耐衝撃アンカーとして地面に打ち込み、発射の衝撃に備えた防御態勢を取る。溶岩みたいな色の角が仄かに赫きを灯す。電飾のような双眸の黒目が裏返り、角膜が絵の具を垂らした水面じみた様相を呈し、ギュルッと渦を巻いてマーブル模様を描く。思い切り頭を振り上げて照準――
発射態勢は必然的に無防備になり、その度し難い隙をバシヤルは逃さない。
鋼鉄の舌を速射、
二本の飛来物がバシヤルの二人羽織じみた盛り上がる背部を貫通した。鮮血が迸り、首がガクリと下がった瞬間に連続爆発が起こりバシヤルの上空に火球の花が咲く。空を貫く舌は照準がズレて、アンカーとして伸びる触手を一本だけ切断して地面を抉る。
在日米軍のB2戦略爆撃機が投下した大型地中貫通爆弾が直撃したのだ。
そしてアミナーの
だがバシヤルが防御態勢に移行。生き物の如く流動する金属の舌をアミナーが見極めた狙撃点に合わせて超高圧縮展開し、更に何層にも重ねて超高圧密度で形成された鋼の盾を構えた。ぎん、と甲高い金属音が響
――ご主人様の獣法は以前とは別種の進化を遂げたの。さしづめ――
かなかった。ぎゅん、と放たれた真っ黒い「球」が銀の盾に触れた瞬間、ナノマシンで構成されたそれは飛沫となって木っ端微塵に四散した。射線は一ミリもブレず、弾体は狙い違わずバシヤルの胴体へ向かって直進する。
獣法【
――消えなさい。
バシヤルの胴体が誇張抜きで消失した。
それは、アミナーが造り出した極小の圧縮獣力弾だ。爆撃でもなければ斬撃でもない、ただひたすらに圧し潰す為の弾丸。命中箇所は文字通り消滅し、塵一つとして残らない。
半身に大きすぎる弧を描く風穴が開いたバシヤルの躰が倒れる。後肢が力を失い折れ、でかい図体はざぶん、と湖面を蹴立て着水した。巻き起こった波が湖畔を越えアミナーの後肢を濡らす。湖に浸る首と顔はぴくりとも動かない。
『やったか?』
『……』
アミナーはアンカーの触手を引き抜く。湖面に踏み入り、油断なくバシヤルに近づく。胴体の消滅箇所から溢れる血液で水中が真っ赤に染まり、周辺に残っているのは激闘の傷跡と死体だけだと思われた。
アミナーが後肢で横たわるそれを小突こうとして、
半ばまで浸かった頭部、弛緩して開いたバシヤルの口から舌が迸る。水面を裂いて一直線に伸びる舌の先には、反対側の湖畔で戦闘を見届けていた猿女君。
『っやめ……!』
間に合わない。虚を突かれた河鹿の脳裏に五年前の光景がちらつく。
棺に収まる母の姿が。
『――疾ッ!』
アミナーの口の端から吐息が漏れる。硬質化し背びれとなって背中に収まるそれがパキッと結晶化した。それは河鹿の胸に表出している獣力結晶そのもの。剣山じみた突起を背負うアミナーは狙い澄ました。
舌が猿女君を呑み込む直前、水際に結晶の塊が生まれた。岩壁の如く出現した結晶体は舌をガキンッと弾き、軌道を逸らされた舌は力を失くし着水した。
消えゆく灯火のような命を振り絞って放った一撃を最後に、レベルⅣ巨獣《バシヤル》は、完全に沈黙した。千切れかけた片目からも光が失せる。
自暴自棄によるものか執念の為せる一撃だったのか、それは分からない。
それまでの数分間が夢であったかのようにシンジ湖が静寂に沈む。だが崩壊し原型を留めていない建物や地形を見渡せば、それが夢ではなく現実であった事がよく分かる。時間にしてみればバシヤル出現から五分も掛かっていない、嵐のような闘争だった。
撃破を確認。死した鯨がそうであるように、絶命した巨獣は一種独特な静謐を纏うものだ――これまで幾多の巨獣と人間の「死」を見てきたアミナーは亡骸に向き合い、黙って頭を下げ瞑目した。
たとえ相手が巨獣であろうとも、同じ生きとし生ける者である事に変わりはないのだから。
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