第3話

《カグラ特別行政区》という都市がある。

 古来から存在する巨獣は現代に至るまで確認されているだけでも個体数は約1500体に上り、その殆どは海外ではなく何故か日本にばかり出現している。

 そして殆どの巨獣は《常世トラフ》と呼ばれる沖合の海底谷に潜伏し、怪光と共に出現する。そこから上陸せんとする巨獣を迎撃する為に、平安時代初期の頃に塔の都カグラが造られた。

 近代においては巨獣の出現が増加傾向にあるため自衛隊の大型基地を擁する街だが、かつては首都近郊の遊楽地として名を馳せた観光の名所だった。それぞれの街区には寺社や歓楽街を構え、リアス式海岸から伸びる長い川沿いから枝葉のように広がった往年の街には人の波が絶えなかったという。

 取り分けカグラは他の防衛都市とは異なり、外周を長く分厚い城壁で囲むのではなく、三方が山々に囲まれた天然の要塞都市である。

 北と東と西に山々が連なり、南には大規模な軍港と基地が置かれており、そこから広大な海を望む。地理的な要因として津波を防ぐ為に高い防波堤を設け、海岸線には迎撃用の火砲が待ち構えている。

 かくしてカグラは半世紀の時を経て大規模な都市改造を進めた結果、今や世界で最も疎開者の多い都市として良くも悪くも有名である。一般市民の多くは都市の建設作業員や防災庁関係者、その家族で構成されている。

 そして今日、カグラはその都市機能の大半を要塞化してからもう五十九度目の真夏に包まれていた。


                ⑨


 2025年7月10日。

 レベルⅢの巨獣が撃破された夜から一年後、蝉の声が喧しく響く昼下がり。

 カグラ特別行政区は正午に公表されたニュースで持ちきりだった。午後になっても未だに報道の過熱さが衰える事はない。

 いや厳密に言えば、世界中のあらゆる情報機関や諜報機関も公開されたニュースに釘付けだった。新聞、テレビ、ラジオ、現在もSNSのトレンド世界一位から十位を軽く独占し、ありとあらゆる情報媒体を埋め尽くす一大事件である。

 往来を行く人々が見上げている街頭モニターには、カグラで最も静謐な場所が映されている。カグラ第一区の巫所である。特徴的な舗装路と綺麗に刈り込まれた樹木を見れば誰でも分かる場所だ。

 そんな場所を前にして興奮気味にマイクを握り締めているリポーターが、カメラの前で「見て下さい!」と叫んでいる。

 それを合図に画面が切り替わり、瀟洒な日本家屋のベランダから蜉蝣のような女性が姿を見せた。

 白衣と緋袴で身を包み、真っ白な絹の紗が掛かったような千早を羽織り、白砂青松が描かれた裳を棚引かせながら厳粛な雰囲気を纏っている。まさしく神に仕える女性の姿である。

「猿女君……」

 若い女性リポーターが陶然とした声を零す。

 猿女君、18歳。

 カグラ黎明期から第一区一番一号という場所に邸宅を建て不可侵的に暮らす、およそ一二〇〇年の歴史を持つカグラの統治者。前猿女君の逝去によって新たに猿女君に据えられた歴代最強と謳われる二〇代目。猿女君とは尊称であり、歴代の彼女達を輩出した稗田氏は代々巨獣使いの家系である。その浮世離れした美貌と、世界の軍事バランスの均衡を維持する抑止力としての存在感で国内外から注目を浴びる日本最古の巨獣使い。

 再び画面が変わり、居住まいを正したリポーターが一言一句はっきりと伝える。画面には『河鹿家初の戦闘能力喪失』等のテロップ。

「先程、初のウルティマ条例の登録抹消措置の布告を猿女君が宣言されました。幻獣に対し、河鹿家初の登録抹消が決定されました。抹消措置として総理ならびに国会の承認を得て、公職追放を目的とした、史上初の戦力外通告を猿女君が言い渡した模様です」

 追放である。

 ウルティマ条例とは、巨獣の大量出現に伴う巨獣使いの自警団的な非合法活動の増加を受けて1966年に制定されたカグラ特別行政区の条例である。これにより民間人や警察や自衛隊から敵視されていた巨獣使い達は、公職に就く対巨獣の防衛力として見做されるようになった。かくして巨獣使い達の暴走は、短い期間で急速に収束していった歴史がある。

 日本国内に現存する巨獣使い達千人は全員余さずカグラに集結(或いは隔離)されているが、登録を抹消されるのは稀である。理由としては専ら巨獣使い自身が死亡もしくは消息不明になった場合に限るからだ。今回のように該当個体が生存している状態で登録抹消の憂き目に遭うのは、史上初めての出来事である。

 国防を請け負う二大戦力の一翼たる河鹿家の幻獣が事実上の『能無し宣言』を受けた、という衝撃は瞬く間に全世界を駆け抜けた。今後の巨獣対策に埋められない風穴が開いた証左であり、猿女君と共に維持してきた世界的な軍事バランスが看過できぬレベルで傾いた事を意味する。

 彼は登録された日から3278日という世界最速の期間でレベルⅢの巨獣を撃破した、千年に一人の逸材である。

 今から十年ほど遡り、当時弱冠八才という史上最年少でレベルⅡの巨獣を初撃破した歴代最強の幻獣でもあった。

 そんな稀代の天才が対巨獣戦の最前線から退く、戦闘能力喪失によって。


                ⑨


 同刻、防災庁カグラ局合同庁舎第4号館前ではマスコミ各社の取材陣がごった返していた。理由は無論、渦中の幻獣――河鹿家六代目当主たる河鹿喜八に詰問攻めをする為である。

 河鹿喜八、18歳。

 世界で類を見ない巨大化能力を持っていた唯一の個体、つまり幻獣を輩出する家系の最後の後継者になるかもしれない男性が、今まさに周りをSPに固められながら正門を通過した。

 途端に取材陣の人垣が我先にと詰め寄るが、彼はフードを目深に被り表情を晒さないまま正門前に停車されたバンに乗り込もうとする。焚かれる大量のフラッシュ、突き出されるマイクやボイスレコーダーやガンマイクを物ともせずに。

「来ました、河鹿元被告がやって来ました!」「河鹿さん何か一言お願いします!」「河鹿さん! 河鹿喜八さん!」「河鹿さん、今のお気持ちを聞かせて下さい!」「河鹿さんは逃げ遅れた住民がいると知りながら、被害規模を考えずに巨獣に攻撃したんでしょうか!?」「防災庁に対する命令違反が原因で登録を抹消されたのでしょうか?」「先の一件から巨獣の出現報告がない訳ですが、それについてはどう思われますか?」

 質問の濁流に呑まれて尚、彼は黙したまま車に乗り込んだ。バンは緩やかに発進し、報道陣を置き去りにして車道を駆け抜けていった。


                ⑨


 河鹿家の幻獣は代々その個体依存性の高さ故に色々と外敵に狙われやすい、主に敵性の人間に。故に現代では防災庁カグラ局の敷地内に暮らしていたのだが、この度は戦力外通告を受けた身なので早々に住居から追い出されたという経緯がある。

 以下は報道解禁直前に記録された河鹿喜八と猿女君が交わした会話、当然ながら機密情報である。



 河鹿:「密約でも交わしに来たのか?」

 猿女君:「……どうしてそう思うの?」

 河鹿:「俺は既に無能の幻獣だ。有害鳥獣として駆除しちゃっても良いくらいのな。もはや生態系被害防止外来種リストに登録された重点対策外来種の一種、そんな厄介な生物でしかない。今の俺に有用性なんてこれっぽっちもないんだから、手元に置く為の方便として密約なんざ結ぶ必要ないだろ」

 猿女君:「仮にそうだとしても、貴方は非巨大化時は人間を超越した膂力とプラナリアじみた再生能力を持ち、再生医療研究のモデル生物とされている。その体内には未知の新元素が存在しているから、国の最重要機密指定物でもある。付加価値なんて、いくらでも付けられる。そもそも分かっていると思うけど、これから先も貴方の行動にはかなりの制限がつくわ。だから」

 河鹿:「CIAだのSISだの防衛省だの公安だの、あらゆる組織の捜査員や工作員が付きまとう可能性があるので個人的に俺を匿っておきたい。でも立場的に私情だけでは他人を納得させられないから、何かしらの条約を締結させないといけない、だろ?」

 猿女君:「…………稗田氏の沽券に関わるから、貴方の現状は内密にはできなかった。報道管制を敷くことも考えたわ、でも……余の一存で強行する訳にはいかない」

 間。

 猿女君:「核ミサイルのボタンをチラつかせて、情報供与を政府に迫る国もある。一時間前、横田に米軍の特殊部隊も到着したそうよ。幻獣の生体情報を解析できれば人間の巨大化、ひいては軍事利用に繋がる糸口が掴める可能性もなくはない。その為に貴方の拉致程度ならまるで厭わないでしょう。……一年前、日米安保を適用し貴方に駆除を肩代わりさせたくせに面の皮が厚い、誰のおかげでニューヨークへの核攻撃を回避できたのか分かってないのよ。それさえ無ければ巨獣の発見直後、水際での対着防衛作戦で貴方は即応できていた」

 河鹿:「買い被りだな、仮定の話をしてもしょうがない。昔の話はともかく、連中のしたいようにさせれば良いじゃねえか。どうせ俺から絞り取れる情報なんざ、この一年で何もなかったんだから。調べたのはお前ん家なんだから、よく分かってるだろ。稗田氏の科学力は世界一だ。今の俺はすっからかんの抜け殻だよ」

 これは公然の秘密だが、二人は幼馴染である。稗田氏と河鹿家は実に四〇〇年の付き合いがある。

 閑話休題。


《注釈》

 どういう訳か、河鹿喜八は一年前の出撃を最後に巨大化能力を喪失した。

 原因は不明。

 戦闘能力喪失、それは競走馬で言うところの競争能力喪失に近い。予後不良と診断され安楽死処置は取られなかったが、引退を余儀なくされた。例えるならそんな感じ。

 今の河鹿喜八には、何の価値もない。種馬のような値打ちもない。

 役立たずの穀潰し、だから切り捨てられた。

 世界の河鹿家が地に落ちたものだ。


 猿女君:「そう、分かっているから余だって色々考えたのよ。貴方がスれてぐちぐち言い訳するのも目に見えていた。だから」

 間。

 間。

 猿女君:「余と婚約なさい、河鹿喜八。余はそなたを愛してる」

 間。

 間。

 河鹿:「今の俺じゃア・バオ・ア・クゥーの成獣が現れても斃せないぞ。俺はもう巨人になれない。光波熱線も撃てない。レベルⅠの巨獣すら斃せない。そこんところはお前も政府もよく分かってる筈だ。……防衛出動は、武力攻撃を加えてくる主体を国または国に準ずる者と想定している。だけど、さすがにレベルⅤの巨獣ともなれば防災庁特別条項で非常事態宣言を特Aレベルに引き上げられる。どの道、そんじょそこらの巨獣使いじゃ勝負にならない。もしそうなったら、超法規的な処置として猿女君にア・バオ・ア・クゥーを斃してもらうしかない。まあ一年前とは違って塔の発射態勢も整えられるだろ、援護射撃には万全を期すだろうからな。つまり俺なんかと結婚しても得はない、損しかない。所詮その程度の価値しかない奴だってことは、俺を追放して無職にしたお前が一番よく分かってんだろ……! だから、この話はこれで終わりだ」

 音声記録終了。



 現状は最悪だ、河鹿喜八は今でもそう思う。

 一年前に河鹿が斃した巨獣はレベルⅢでありながら幼獣、要するに子供だった。そいつの遺体を回収・調査した結果、五〇〇年前に保存された巨獣のDNAと一致した。一年前と五〇〇年前の個体はいずれも同じ親から産まれている。

 その親とは巨獣の三大始祖、その内の一体である伝説の巨獣、レベルⅤのア・バオ・ア・クゥーである。

 お伽噺に出てくる最強の巨獣だ。

 河鹿家の誇りに掛けて三大始祖を斃す事を目標にしてきた。それが河鹿家の四〇〇年に渡る真の使命だった。しかし今やその悲願は潰えた、自分のせいで。

 いつかア・バオ・ア・クゥーを斃す――他の誰でもない、河鹿喜八にしか出来ない、自分のやるべき事だと思い続けてきたのに。

 今の自分は使命すら失くしてしまった。

 ステイタスを見ても、諦めざるを得ない現実に直面している。

 国際巨獣監督機構IKSOの規定によって設定された客観的な数字の羅列、それがステイタスである。人類が数千年に渡る研究で解明した巨獣のメカニズムを数値化・言語化したもので、幻獣たる河鹿は厳密に言えば対象外なのだが特例として登録されている。一年前と比較した河鹿のステイタスの変遷は以下の通り。


 河鹿喜八

 Lv.2→Lv.1

 筋力:A977→J82 耐久:A913→J55 活性:A993→J96 敏捷:A948→J72 獣力:A999→J9

《獣法》

【光波熱線】→【 】

《スキル》

稀人模倣ウルティマ・ラティオ】→【 】


 ステイタスは基本アビリティの『筋力』『耐久』『活性』『敏捷』『獣力』の五つに分類され、更にA、B、C、D、E、F、G、H、I、Jの十段階で能力の高低を示す。

 アルファベットに付随する数字は熟練度を意味し、999を上限値とする。それ以上の数値も存在するが、そこは稀人の領域なので上限突破する事は不可能だ。

 最も重要なのはLv.である。これが1上昇するだけで基本アビリティ補正以上の効果が付与される。Lv.1とLv.2の間には歴然たる差があり、レベルが一つ上の相手は格上とされる。つまりLv.1の巨獣ではLv.2の巨獣にはまず勝てない。これを巨獣使い達はレベル制の理不尽さと呼び、故にレベルアップした暁には赤飯だって炊く。基本アビリティのどれかが十段階目のAまで到達すればレベルアップ可能になるのだが、今の河鹿ではご覧の有様である。

 獣法とは、所謂必殺技である。これがあるかないかで勝率がガラッと変わる。

 スキルとは、数値とは別に一定条件の特殊効果を巨獣や幻獣に齎す能力の事だ。ステイタスが器そのものの材質を変化させるとしたら、スキルは器の中で極めて特殊な化学反応を起こさせる物質のような代物だ。これの有無で一転攻勢による逆転勝ちを起こせる確率が大きく変動する。

 そんな無くてはならない二大要素さえ、現在の河鹿は喪失していた。


                ⑨


 夕暮れ。

 もう五時を過ぎていたが、真夏の太陽は未だ沈まず、塔の都をオレンジ色に染め上げていた。まだ蝉の声が聞こえ、西の空に藍色が滲む時間帯、暑い西日を浴びながら足を引き摺るようにして家路についたのが河鹿喜八である。

 閑静な住宅街にある平屋の一軒家の前で足を止め、家を囲うブロック塀に目を滑らせ嘆息する。外壁には「この街から出ていけ、税金泥棒ッ!」「俺達の血税を返せ! 疫病神!!」「お前のせいで巨獣が出てくる、お前が街を壊す。お前が悪い!」「この人殺し! 偽善者っ!」と罵詈雑言がスプレーで所狭しと殴り書きされている。

 実家に帰省するのは五年ぶりだが、この光景は何も変わらない。河鹿家の実家は稗田氏が週一の間隔で清掃業務を担当しており、器物損壊や空き巣防止の為に警備員を常駐させたりしていたが、塀には手出しするなと河鹿が注文をつけていた。鬱憤を晴らせる場所を一箇所くらい残しておいた方が、そういう人達にとって良いガス抜きになると思ったから。

 カグラに定住する人間なら誰もが知っている有名スポットだ、何故ならば十年前にマスコミが無許可で家屋の外観をテレビで流したから。住所が特定されるのは実に早かった。当時、神童だと喜八を持て囃した成れの果てが御覧の有様である。

「これも河鹿家の仕事の範疇だしな……」

 これが父や祖父の口癖でもあった。つい同じ言葉を呟いてしまって、自分もついに焼きが回ったかとゲンナリする。他人からの悪意を許容するなんて馬鹿げてる、そう思っていたのに今やこのザマだ。

 家の重い門を押し開け、手入れが行き届いた庭を横目に玄関の引き戸を開け放つ。なんてことはない田舎の一軒家に踏み入り、後ろ手に戸を閉めて一息つく。西日の差し込む寂れた玄関は、どこか物悲しい雰囲気を漂わせている。

「家の匂いだ……」

 実家の匂いを嗅いで安心する。清掃を委託していたとはいえ、可能な限り五年前の状態で保存して欲しいと頼んでいたから、廊下には工具箱やらスコップや草削りが入った段ボールやらが置かれ全体的に雑然としている。左側の角を曲がれば便所と風呂場がある。

 薄暗い廊下を通り過ぎ、扉を開けて花柄の暖簾を潜ると居間に入る。縁側の引き窓からカーテンを透かして夕日が差し込み、照明も点けず薄暗いまま河鹿は立ち尽くす。テレビ、ソファ、茣蓙、食器棚、テーブル、椅子、銀色の台所、ガスコンロ、換気扇、シンク横の冷蔵庫、燃えるゴミと燃えないゴミのゴミ箱二種類、箪笥、デスクトップPC、有線LAN、コピー機とFAX、全てが五年前のまま。

 郷愁に浸りながら食器棚から硝子コップを取り出し、台所の流し台で水道水を一杯飲み干す。家主が一人だけになってしまった静かな居間で、台所にコップを置く音がやけに大きく響く。

 この家に母と父と祖父と自分の四人で暮らしていた、もう昔の話だが。

「死に損ねたな……」

 本当は一年前のあの夜に死んでも良かったのに。

 ふと思い立ち、河鹿は居間を横切り戸の前に立つ。隣の一室と隔てる戸、そこは母の自室だった場所。当然あの日から一度も立ち入っていない、ずっと避けてきた部屋。

 まるで希死念慮に突き動かされたようだった。

 引き戸を掴む手が震える。ふうと数回深呼吸し、背筋に這う怯えを振り払う。覚悟を決めて思い切り開け放つ。タンと扉を開け終えた音が響く。

 カーテンが閉め切られた暗い部屋の隅々まで見渡した瞬間、予想された最悪の結果を招く。

 パニック発作。

 心臓の音が直に聞こえると錯覚する程に鼓動が早まり、すっと血の気が引く。呼吸が浅くなり、胸が苦しい。気持ち悪い。視界に黒い靄が掛かり、闇の淵が迫る。見当識が薄れていく。指先まで冷たく感じ、神経が凍りついたみたい。いつの間にか一気に体の力が抜け、無抵抗なまま重心が傾く。足元の感覚がない、床が硬さを失う。

「ぁぁぁぁ…………!!」

 世界最強の名を欲しいままにしていた河鹿家の幻獣が、無様に呻いている。

 闇の奥に、母の顔が見えた。

 母が、河鹿の目をひたと見据えている。

『喜八、あんたはあんたの為すべき事をする為に今そこにいる、そうでしょう? 優先順位を間違ったら駄目。私は河鹿喜八の母親よ、だから大丈夫。もう切るわね…………頑張って』

 突然、視界の黒が酷く滲み、ぐにゃりと歪む。両目から滂沱たる液体が溢れ出し、ぽろぽろと落ちて床を濡らす。

「ぁ……ぁ…………っ」

 細い叫び声を漏らす喉の奥で唐突に舌が張りつき、呼吸ができなくなった。同時に胃が激しく収縮するのを感じる。

 河鹿は何とか歯を食い縛り、よろよろと走り出し居間を出て角を曲がり、便所のドアノブを汗で濡れた手で回す。

 便器の蓋を跳ね上げ、倒れるように屈み込むと、途端に胃がもんどり打って底から熱い液体が喉を通って迸った。四肢をぐりっと捩らせ、びくりと痙攣させ、幾度となく呻き声を漏らしながら胃の中にあるものを全て排出するように嘔吐した。余す事なく吐き捨て、最後は黄色い胃液を何度も何度もぶちまけた。

 どのくらいそうしていたか、胃の収縮が収まった頃には河鹿は力尽きていた。

 ふらりと左手を伸ばしてタンクの水洗ノブを回す。難儀しながら立ち上がり、洗面台で両手と顔を何度も何度も洗う。夏場に心地よい筈の冷たい水は、生きた心地がしないような冷たさだった。

 最後に口を濯ぎ、壁際に掛けられた洗濯済みの清潔なタオルを力なく手に取って顔を拭く。そこで限界が来た。

 河鹿は精根尽き果て崩折れるように、その場にへたり込む。勢い良く顔を洗ったせいで濡れた前髪から落ちた雫が頬に当たり、涙と混ざって床にぽたりと落ちる。いつしか掠れた声を床に落とし、しんと静まり返る洗面所に小さく木霊する。

「母さん……ごめん。……ごめんなさい。俺……ダメ、だ。……助けて、誰か……」


                ⑨


 潮騒が聞こえる。

 どの道をどう歩いたのかも、どれほどの時間そうしていたのかも曖昧のまま歩いた。

 気付けば海岸線を一望できる防波堤を降りて、迎撃用に整然と並ぶ火砲と港に停泊するイージス艦を遠目にしながら、熱く乾いた砂浜に辿り着いていた。

 暮れなずむ空は紫と深い藍色に染まり、宵闇が迫る中で残照の光が海面を乱舞して光の道として輝いている。水平線に沈みゆく夕日を眺めながら、河鹿は導かれるように砂浜を一歩また一歩と踏み出して波打ち際に近づいていく。

「一日って……こんなに長かったっけ…………」

 寄せては返す波にぶち当たり、靴がずぶ濡れになって気持ち悪い感覚が足に残る。でも構わず歩を進め、膝の辺りまで海中に浸かっても止まらない。

「何の為に生きてきたんだろうな…………」

 もはや生きる意味も、目的も、全てどうでも良くなった。

 過去の心的外傷トラウマすら乗り越えられず、情けなく誰かに助けに請う愚かで無力な幻獣でしかない自分に、もはや生きていても良い価値なんかない。

 自分の居場所は無くなった。もう此処にいても良い理由がない。

 戦わねばならぬ巨獣の三大始祖、その成獣と相見えたところで最早戦う術すら持たない。無敵の幻獣としての面影など見る影もない。

 家族はおらず、友達も出来ず、恋人もいない。生まれた頃から幻獣扱いで学歴はなく、職歴は抹消された。思えば母を亡くした五年前から天涯孤独の身だ。

 むしろこの期に及んでもまだ過去の栄光に縋り、のうのうと生きる方が河鹿家の恥になる。地位も名誉も富も力も全て無くした今の河鹿喜八に、親身になってくれた幼馴染さえ突き放した今の自分に、十年に渡り身を挺し命を賭けて尽くしてきた祖国に捨てられた男に心残りなどあろう筈がない。

 入水自殺。

 ついに胸元まで海水が迫り、着ている服も浸かった状態で動きづらい。夏場の海中は涼しい、ぞっとする程に。それでも死への歩みを止める気など毛頭ない。波の音が大きく聞こえる。

「もう……疲れた…………」

 覇気のない声を零す。

 遺書くらい残せば良かったか。それなら猿女君も後腐れなく良い相手と添い遂げる事ができたかもしれない。幼馴染の大きなお世話、ありがた迷惑、余計なお節介でしかないけれど。

 喉元まで海に浸かり、潮の臭いが鼻につく。押し寄せ波打つ海水が耳に当たる度に音がくぐもる。西日が眩しい。あと数歩も進めば頭の天辺まで全て海中に没する。いくら幻獣の自己復元能力でも溺死は免れないだろう。 

 誰に言うでもなく「さようなら」と、別れの言葉を口にする直前、

《きはち》

 ふと呼ばれた気がした。

 視線を巡らせて、ぴたりと砂浜に留まる。

 波間の奥、随分と遠く見える砂浜に何かがいるように見えた。

 見間違いかもしれない。

《たすけて》

 啼くような声だった。

 それは五年前のあの日、電話越しに母から聞きたくて、でも聞けなかった、言って欲しかった言葉。

 河鹿は無心で海岸に引き返す。海水を吸った服が邪魔になって一向に前へ進まないが、それでも泳ぎ続けた。波に揉まれる度に耳が浸かって音が遠くなり、視界が海中と海上を行ったり来たりして、明るいと暗いを繰り返す。

 死ぬ気でいた。

 でも。

 心残りを置き去りにして、死ぬのは御免だった。


                ⑨


「こいつは……巨獣? なんだよな。こんな小せえ奴は初めて見た、新種か?」

 ずぶ濡れで潮の臭いを撒き散らす河鹿の目前には、砂浜に蹲る巨獣――体長三メートル程で、透き通るような体表が夕日を透過して体躯がオレンジに染め上げられているかのようだ。そいつは波打ち際で寄せては返す白波を、深淵より黒い一対のつぶらな眼球で不思議そうに眺めていた。軟体生物じみた見た目で何本も生えている触手をゆったりと持ち上げ、波が来る度に砂地を叩きぴちゃぴちゃと水音を立てて遊んでいる。提灯のような触角は寒天みたいにプルプルしている。

「お前なのか、俺を呼んだのは。……助けてって言うのは、陸だと呼吸ができないからか。でも、その割には……」

 巨獣が聞こえる――祖父も父も啼き声をそう例えていた。でも理解できる言語として捉えていた訳ではない。事実、河鹿も言葉として聞き取れたのは生まれて初めてだった。

 引く前の波で水遊びをしていた巨獣の仕草がぴたっと止まり、宙を泳ぐ触手が河鹿へ向かってひたと据えられた。漆黒よりも黒い眼に凝視されている錯覚が訪れる。

 漣が一体と一匹の間に流れる沈黙を際立たせる。

「……前にどこかで会ったか?」

 どうして自分の名前を呼ぶ事が出来たのか、まるで分からない。

 気配。

 胸がざわつく。鎌首をもたげる感覚は嘘じゃない。この直感で幾度となく窮地を切り抜けてきたのだ。

 そして、予感は的中する。

 足音。

 防波堤の階段を駆け下り、砂浜を蹴散らし、消波ブロックの陰から飛び出す。尾行されていた。いつから控えていたのか、四方八方から距離を詰めてきた特殊部隊の面々が河鹿を放射状に取り囲み小銃を構えた。数は十人。

 全体的にダークカラーで、軽量ヘルメットとゴーグルに防弾ベスト、それと小型ショルダーバッグ。レーザーサイトやらグレネードランチャー等のモジュール化された特殊作戦装備を持ち、今まさに標的へ照準をつけている。

 ――横田に来たという特殊部隊、カグラ基地はこいつらをスルーしたのか。

 アメリカ特殊作戦軍SOCOMのメイン特殊作戦コマンド隷下、陸軍・海軍・空軍・海兵隊からなる四軍の特殊部隊。あとはサブの地域特殊作戦コマンド、統合特殊作戦コマンドがある。

 グリーンベレーかデルタ・フォースか陸海空特殊部隊SEALか、はたまた新手か。もしかしたらイギリスの特殊空挺部隊SASか。

 何にせよ、そこにどんな政治的な判断があったかは分からない。今はとにかく状況を打破しなければ拉致られて、本国で実験動物モルモットにされてしまう。

 この場にいるのが自分だけならそれでも良いと思っていた。だが、今は――

 自分の目前で横たわる巨獣に目を遣った。

 それは特殊部隊員からしてみれば、ため息が出る程の隙だったに違いない。

 発砲。

 存外に軽い音がした。

 気付いた時には既に片足の腱を一発撃たれていた。燃えるような激痛で堪らず膝を折り、その瞬間で距離を詰めた一人が難なく河鹿を押し倒し、無理やり頭を押さえつけられ砂を舐めさせられた。

 ビキリと後ろ手に組まされた腕の筋が張って激痛が走り、反射的に眇めた視界の真ん中で波に打たれる巨獣の目が、何かを訴えかけているように思えた。波打ち際に押し寄せる波に数秒だけ呑まれ、河鹿の顔がずぶ濡れになる。

 最強無敵の呼び声高い幻獣が、今や特殊部隊員とはいえ一人の人間に容易く組み伏せられていた。

 もう一人の隊員が波打ち際に立ち、巨獣に銃口を向けた。意図を察して目を剥き、奥歯を砕かんばかりに歯を食い縛り、唸り声を上げながら滅茶苦茶に暴れるが拘束はぴくりとも緩まない。

「おい! 狙いは俺なんだろ! そいつは助けてくれ! 頼む! そいつは何も関係ない!」

 ここに至りプライドをかなぐり捨てて、屈辱に塗れながら敵に対して情けなく叫ぶ。

 相手は巨獣だ。幻獣ひいては人類の天敵だ。それでも助けを請われた。だから助けたい。たとえそれが母に対する贖罪の肩代わりだったとしても。

 小銃の引き金に指を掛ける特殊部隊員。

 指に力が込められる瞬間をゆっくりと視認して、

 照準をつけられた巨獣の触角が提灯の如く仄かに発光した。

 銃口炎が瞬くよりも早く、河鹿の胸が焼かれたみたいに熱くなる。海水で濡れた砂地に塗れるTシャツが焼け落ち、嵌め込まれたみたく胸部に存在する獣力結晶――獣力は星の力とも呼称される――が眩い白光を放つ。

 獣力の体内保有量が膨大であるが故に結晶化して表出してしまう、そんな個体は世界中の歴史を振り返っても河鹿喜八ただ一人。

 突如として懐かしい感覚が全身に甦り、肺腑を焼かんばかりの絶叫を迸らせて激昂する。

「だから……止めろっつってんだろうがッ!!」

 瞬間、巨獣に狙いをつけていた隊員が冗談みたいに吹き飛んで宙に放物線を描く。呆気なく着水した拍子に飛沫が上がり、ほんの一瞬だけ部隊全員の目線がそちらに向いた。

 そしてこの距離における一瞬とは、覚醒した河鹿喜八にとっては欠伸が出る程の隙である。

 獣力制御。

 本来は巨獣が自重を支えて上陸する為に備えた特殊能力、主人としての巨獣使いは使役する巨獣が保有する獣力をお零れとして与る。主従関係にしては主人が下手に出る形になっているが、巨獣とのパワーバランスを考慮すれば当然の構造ではある。獣力制御によって巨獣使いはヒグマを凌ぐ脅威度の個人へと変貌し、拳銃などでは致命傷を与える事さえ叶わない存在に進化する。

 翻って幻獣は自身が巨獣に類似した特徴を持つ個体だ。無論そこに主従はない訳だから獣力を与るなんてまどろっこしい工程は存在せず、自ら獣力を保有し獣力許容量という謂わば通信制限のようなものの干渉を受けずに、体内保有量が枯渇するまで獣力制御を行える。

 そして河鹿喜八の獣力保有量は、無尽蔵に等しい。

 詰まるところ、河鹿を囲む特殊部隊員九人が一斉に跪く。

 銃口を上げようにも不可視の獣力に押さえ込まれ、指一本も動かせない隊員達を尻目に河鹿は自分を拘束していた一人を押し退け、服に塗れた砂を手で払い落としながら立ち上がる。

 あり得ない。だが。

「力が、戻ってる……!?」

 Tシャツに開いた穴から覗く胸の獣力結晶は怪しい光を湛える。

 それは獣力制御限定とはいえ、戦闘能力復活を示す証拠に他ならない。

 河鹿は再び巨獣を見下ろし、懐疑的に呟く。

「お前が、そうさせたのか……?」

 真相は不明だが今はこの窮地を脱しなければ。

 気持ちを切り替え、戦闘を継続する。

「俺の専門は巨獣駆除だ、人殺しじゃない。獣力制御だって、あくまで自重を支えるための能力に過ぎない。本来は人間相手に使う代物じゃないんだ、分かるよな? 難しいんだよ、潰さねぇようにわざわざ手加減してやんのは」

 威力を調節しようと差し向けた手掌が、憤懣やる方ない思いで震える。

 駄目だ、微調整できない。ブランクが長すぎる。このまま出力を上げて昏倒させるくらいの圧力を掛けたいが匙加減を少しでもミスると、問答無用で圧殺して隊員達がミンチより酷え有様と化してしまう。

 忸怩たる思いに駆られるが仕方ない。直接攻撃で制圧する。

 ぱっと獣力制御を解く。流石は特殊部隊員、獣圧が消えた瞬間に銃口を跳ね上げ、素早く照準を定め、

 だが遅すぎる。

 獣力制御、増速。

 特殊部隊員に囲まれる中で、河鹿の体躯が旋風のように動く。

 一手、速度のままに足を横一文字に薙ぎ払い二人の隊員を蹴り飛ばす。間髪を入れず背後の一人が持つ小銃を肘打ちで狙い、顎を巻き添えにするよう銃身ごと肘鉄を食らわせ、正面で引き金を引く寸前の一人に対し一息に距離を詰め胸ぐらを掴んで軽々と持ち上げる。

 二手、側面で銃火が閃くより早くもう一人の懐に飛び込み空いた片手で頭を掴み上げ、両手で隊員を持ったまま、同士撃ちを避けて一瞬躊躇う二人に向かって凄まじい勢いをつけて投げつける。

 三手、残った二人が足早に位置を変え十字砲火を開始する直前に獣力を足元にぶち込む。地面を揺るがす局地的にして驚異的な震動が発生し、地面から浮き立つ砂が放射状に散らばる。震源たる河鹿の足元は何ら変化を見せなかったが、半球状に広がる「波」は一溜まりもなく二人を打ちつけ、衝撃をまともに食らった体がよろめき、照準がぶれて、刹那の間が生まれた。

 致命的な隙だった。

 四手、一人の側面に回り込んで獣力制御のままに掌底を打ち込み、獣力による衝撃の波は体を貫通し後方の直線上でふらつく最後の一人を捉え、受け身も取れない速度域で容赦なく吹き飛ばした。掌底を食らった一人が遅れてダウンする。

 つむじ風のような接近戦が収束し、多勢に無勢ながら九人を無力化するのは造作もなかった。波音に隊員達の呻き声が紛れる。

 唐突に足元の砂浜が弾けた。

 それが狙撃銃による威嚇射撃だとすぐに分かった。相手は特殊部隊、そりゃ狙撃手を二~三人は配置しているだろう。防波堤の向こう側に広がる住宅地、その奥に聳える建物群、そこが狙撃ポイント。 

「仲間がやられたのに威嚇射撃とは、良心的だな。その甘さが命取りになるのに、相手が俺で良かったな。……狙撃の可能性を教えてくれてありがとう」

 気付く前に飛来していた二射目の弾丸が獣力によって弾道を逸らされ、海面を蹴立てて着弾した。当然だけどサプレッサーを装備している。

「銃声を軽減できても、発射ガスの臭いは誤魔化せない。その距離なら気付かれないと思ったのか? それとも速攻ならば戦闘態勢に移行できないとでも? なんでお前ら人間相手にいちいち巨大化して、光波熱線を撃たないといけねぇんだ? 非巨大化形態じゃ猿女君よりも雑魚だから、数にものを言わせれば制圧できる……みてぇなこと考えてたんだろうけどさぁ。――河鹿家の幻獣を舐めるなよ」

 冷ややかな声で言葉を募るが、苛立ちを隠せない。

 あの河鹿家の幻獣と知りながら所詮この程度の編成で作戦行動に移るとは、戦闘能力喪失という朗報を受けていたとはいえ舐め腐った脅威査定だ。

 自分が侮られるのは我慢できるが、河鹿家まで侮辱されるのは勘弁ならん。

 潮風のせいで判別しづらいが問題ない。着弾箇所から方角を絞れば後は臭いでおおよその位置は特定できる。幻獣の五感は人間のそれを軽く凌駕する。

 視えた。

 距離はおよそ四百メートル、幾つもテナントが入った三階建て雑居ビルの三階の窓。頑丈そうな台の上で構えているそれは、標的行動不能能力ストッピング・パワーが高く一発で敵を動けなくする事に長けた7.62×51ミリ弾を発射するSR-25狙撃銃。これは5.56×45ミリNATO制式弾よりも大型だ。

 スコープ越しに河鹿と目が合った狙撃手にとっては、それが最後に見た光景となる。

 獣力制御で狙撃手をまず一人やっつけ、矢継ぎ早に二方向から音速で飛翔した銃弾が獣力で標的からズレて砂浜に着弾。片方の弾着は衝撃が大きく、派手に砂を跳ね上げた。

「あと二人か」 

 それぞれ獣力制御で黙らせる。

 二人目の得物は汎用性のある高性能の7.62×67ミリの300ウィンマグ弾を使うM24SWS狙撃銃。この弾薬はヒグマ等を狩猟する時に最適なやつ。オフィスビルの一室、距離はおよそ五百メートル。

 最後の一人は銃声が聞こえたやつで予想通りの50口径のライフル、12.7×99ミリの弾丸を発射するバレットM82。射程が恐ろしく長く、対人で命中すれば腕や足が吹っ飛ぶだろう威力を誇る。工事中のアパートの屋上、距離はおよそ八百メートル。

 これで部隊は全滅した、会敵から僅か二十秒間で起きた出来事である。

 全員ぶっ飛ばした。してやった。

「さて、どうするか」

 そこら辺に伸びている隊員達を見下ろしながら思案していると、不意に轟音が耳朶を叩く。それがヘリのローター音だと気付くのに暫く時間が掛かった、まさかの事態だったから驚愕する。

 基地の方角から飛来した攻撃ヘリは海上で滞空し、鼻っ面をこちらに向け、三砲身ガトリング砲が鎌首をもたげる。照準をつけた動き。

 すぐさま波打ち際に沿って飛ぶように疾駆し、幻獣としての膂力は最初のたった一歩で河鹿の矮躯を最高速に導き、流れ弾の直撃を避ける為にほんの数秒で隊員達や巨獣から数百メートルほど距離を取り、

 それと同時に20ミリ機関砲が高速回転して火を噴く。滝のように海面へ降り注ぐ大量の空薬莢、ヘリの風圧に叩きつけられ上ではなく横へ流れていく硝煙、クマバチの羽撃きじみた重低音の砲声を響かせる砲口。

 もはや拉致は諦めたのか、若しくはこの程度の攻撃では傷一つ付けられないという確信故か。

「随分と信用されてるな、嬉しいよ」

 特殊部隊のそれが威力偵察だったと悟り、戦闘ヘリによる交戦こそが本命であり、今の状況下を見越した脅威判定だと思い知り、憮然とした面持ちは豹変し熱を湛える。

 見くびってはいなかった訳だ。

 やるじゃないか、流石だな。

 柔弱そうな眦を決し、線の細い顔に剣呑とした笑みを浮かべる。

 国家防衛の最高戦力・河鹿家の幻獣が、帰ってきた。

 六秒間隔での滞空射撃はおよそ人型目標に対し過剰すぎる攻勢だが、幻獣は例外である。惜しげもなく撒き散らされる無慮数百の弾丸は全て標的を外れて、瀑布のような鋼の弾雨として砂浜を舐め尽くし、もはや爆ぜるように一帯の砂粒が舞い上がる。岸辺には忽ち砂煙が立ち込め、河鹿の姿が掻き消されてしまう。

 追撃を掛けるようにTOW対戦車誘導弾が無反動で射出された。回避不能。合計8発のミサイル弾幕をぶち込み、耳を劈く爆音と共に炸裂した。爆ぜた炎と黒い煙が咲き、重い雨雲のように砂浜を包む。

 人型目標など木っ端微塵に爆殺されて、無数の肉片と化してしまうような攻撃である。やがて潮風に撹拌される爆煙を戦闘ヘリの操縦士は見下ろし、

「一年ぶりだからミスるかも」

 いいだろう。幻獣の闘争を見せてくれる。

 一瞬で戦意喪失させてやる。

 戦闘ヘリの射手からしてみれば飛び出してから一瞬「消えた」と見紛う程の加速だった。黒煙の幕に風穴を開け、もはや発射と形容すべき軌道で宙へ飛び、体勢は変えず獣力制御で方向転換。波打ち際からくの字を描くように吹っ飛び、ヘリの横っ腹に掴まり力尽くでハッチを引っ剥がして無造作に海へ投げ捨てる。機内の隊員が咄嗟に拳銃を構えるより早く掌で制しながら、拙い英語で告げる。

「今からこの機体が爆発しようが墜落しようが俺は大丈夫だけど、あんたらは無事じゃ済まない。さあ、好きにしろ」


                ⑨


 特殊部隊の面々が撤収していくのを見届けてから、ようやく一息つく。

「そんなに欲しがるもんかね、俺の生体情報」

 靴の爪先で砂をほじくり返し、撃たれた片足の復元が完了しているか確認する。弾は抜けている。ズボンが流血で汚れたのが忌々しい。

「一年間のブランクはきついな……。あの程度の戦力を完封するのに、たぶん一分は掛かってる。昔の俺なら三十秒も掛からなかったくせに……」

 誘導弾の爆撃で生まれた砂浜のクレーターを遠目にしながら、衰えを実感し独りごちる。ただ一人で身の振り方を考えあぐねて、横目で落陽を眺め――  

 背後で、閃光。

 今度は何だ?

 呆然としながら振り返る。

 先程まで海岸に打ち上げられていた軟体生物のような巨獣は跡形もなく消え去り、存在の痕跡として残る砂浜の窪みに女が佇んでいる。

 全裸で。

「…………っ!?」

 この女は、何だ? 何処から出て来た?

 唖然と開いた口が塞がらない河鹿の存在をまるで気にも留めぬ様子で右手を口許に持ち上げ、小さな欠伸をした。

 正直に白状すると、ひたすらに見惚れていた。 

 細雪のようにきめ細かくぞっとする程に白い肌は残照を浴びて橙色に染まり、清廉な純白さが更に際立っている。光沢のある濡羽色の長髪には蒼いメッシュが入り、鮮やかなツートンカラーで彩り、橙の陽光が髪を滑り河鹿の目を射る。最上の絹糸を束ねたような髪が胸元に掛かり、瑞々しい果実のような胸の頂点を隠している。雄の本能を刺激するようなほっそりとくびれた腰つきは流麗な曲線を描き、脚に至っては競走馬を彷彿とさせる靭やかな筋肉に包まれている。

 黒と蒼のストレートな髪を両側に垂らした美貌は小さな卵型で、少し吊り上がった意志の強そうな瞳は水底のように深く静かな碧。

 凄絶な美の化身じみた姿に目を奪われていると、紅一点で華やかな彩りを添える桜色の唇が滑らかに言葉を紡ぐ。

「やっと会えた」

 風鈴のような、清涼感のある凛とした声は心地よい響きを伴って耳に馴染む。

 ふと一陣の潮風が吹き、女の髪が一房だけ宙を泳ぐ。つまり量感のある二つの膨らみが露出し、思いがけぬチラリズムを前にして咄嗟に目を背けた。

 だから反応が遅れた。

 弾むような足取りでジャリジャリと軽やかに砂を踏み込み、一気に駆け寄った女が勢いよく抱きついてきた。だがここで問題が一つ。

 女は180センチ程の長身で、対する河鹿は150センチ丁度。身長差30センチで抱き合った結果どうなるか、それは背の低い方の頭が豊満な胸に当たる。

 視界が体温の暖かい暗闇に覆われた。たわわに実る双丘が柔らかく潰れ、形を変えていく。

「初めまして、ご主人様」

 むぎゅうと抱き締められ、脂肪と乳腺で形作られたそれに顔面が圧迫されて窒息しそうになる。タップして何とか抱擁を解いてもらったけれど頭がくらくらする。目を白黒させる河鹿に合わせて女は屈み、三十センチの高低差を縮めて至近距離から面を突き合わせる。

 隈取じみた紅いアイシャドウに縁取られた大きな紺碧の瞳が、嬉しそうに爛々とした輝きを放っている。間近にして気付いたが、髪に紛れた触角が生えており、先端が太陽コロナに似た形をしていて潮風を受け揺れている。

 訳が分からず疑問が口を突いて出る。

「……あんた、一体なんなんだ?」

「妾は河津亜美。ご主人様に出会う為に産まれてきた」

 一体と一匹は、こうして出会った。

 巨人は意思おもい使命いのちを既に喪失し途方に暮れ、却って巨獣は、従うべき主を見つけた。

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