第2話
人生で最も大切な日は、生まれた日と、生まれた意味が分かった日だ。
マーク・トウェイン
7月10日。
その日は、どこかで虫の鳴く静かな夜になる筈だった。
でも。
その日は、夏なのに雪が降った。
河津亜美は走る。
一歩踏み出す度に、首から下げたドッグタグと豊満な胸が暴れるように揺れる。
そこには【JAPAN DPA KSSP】の文字。
緊急避難警報が鳴り響く夜、沿岸部の歩道をひた走る亜美の視界には真っ黒な海が広がっている。数時間前からの時化で漁師達が港から離れていたのは僥倖と言うしかない。夜闇に慣れた目は荒ぶる白波を捉え、それは大きな物体に激突する度に弾けて水飛沫が雨滴のように降り注ぐ。
降り注ぐ海水で濡れそぼり額に髪を張り付かせる亜美の視界が、突如として明るくなった。思わず目を眇めた亜美は、それでも海面を割って進む標的を認めた。
中空で弾けた照明弾の閃光が、周辺の惨状を露わにする。歩道の落下防止柵の向こう側には、無惨に崩壊した家屋や電柱が大量に押し合いへし合いながら海面を漂っている。先の津波で呑まれた物だらけ。その残骸の更に奥で今まさに照明弾に照らされているのが、巨獣だ。
しんしんと降る季節外れの雪、その只中で巨獣の眼が炯々と光る。
途端、連続した爆発が巻き起こった。
直後に夜空を二対の航空灯が亜音速で横切っていく。要撃機二機が誘導弾による攻撃を行ったのだ。
だが、爆煙を立ち上らせながら巨獣は尚も進行を続ける。全弾命中するも目視による損傷は確認できず、残弾がない戦闘機編隊は帰投を与儀なくされる。
そして、傷一つない巨獣が形態変化に移行する。ヒレ状だった前肢と後肢が変化し、直立形態へ。
大荒れの海原の只中で巨獣が立った。全高は五十メートル程か。見上げる亜美はぞくり、と慄きながらも止まらず走り続ける。
巨獣の直立歩行形態での移動速度は大して速くない。ならば間に合う筈。
やがて倒壊した家屋が並ぶ海沿いの路地に辿り着いた。通りの向こうで防波堤にぶつかった白波が飛沫を撒き散らす。息も絶え絶えに呟く。
「よかった。……まだ波は来てない」
時間がない。急いで実家に向かおうと足を踏み出した。
「亜美!?」
聞き慣れた声に振り向くと、女性が崩れた家屋の下敷きになって身動きが取れずにいた。
母だった。
「お母さん!!」
駆け寄って、倒れた梁をどかそうと物を探す。鉄パイプとか道路標識がないだろうか。逸る気持ちを抑えて視線を巡らせる。
「なんで来たの!!」
「なんでって……お母さんを放っておけるわけないでしょ!」
「馬鹿! もし二人とも死んだらどうすんの! あたしなんか良いから、早く逃げなさい!」
「……や」
ぐっと唇を噛んで、捲し立てるように叫ぶ。
「いやだ! お母さんが居なくなったら、私は一人になっちゃうじゃない! そんなの絶対に許さない、絶対……私が助けるから!」
近くに落ちている梁を拾い上げ、テコの原理で母の上から梁をどかそうと力を込める。
頼む、持ち上がって。
「もう……良いから、諦めて」
「よくない! 全然よくない!」
梁のささくれが指に刺さって血が滲むが構わない。諦めてしまったら絶対に後悔する。命に代えても母を助ける。
ずしん、と地鳴りじみた強音が轟く。
背筋が凍りつくような戦慄を味わう。意を決して振り返る。
巨獣が、そこにいる。
仰ぎ見た巨獣は先程よりも大きく思えた。怪しく光る双眸が見下ろしているような錯覚さえする。涙で滲んだ視界において尚、巨獣の輪郭はまざまざと克明に認識させられた。
死ぬ、そう思った。
閃光。
夜空の暗闇を一条の光の筋が振り払う。照明弾よりも遥かに眩く輝く閃光を食らった巨獣の体躯が震え、地面が地響きを立てて鳴動する。亜美がたたらを踏むのも束の間、巨獣は糸の切れた人形のように崩折れて転倒した。
途端に甚大なる津波が巻き起こり、一切合切を容赦なく呑み込んでいく。二人は為す術なく洪水に押し流され、瓦礫や木片にもみくちゃにされて平衡感覚を喪失する。
意識が朦朧とする最中、亜美は漆黒の海中で朽ちた巨獣の眼球を視た。
虚無の目玉が亜美を見つめ、そして――。
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