10 自覚する恋(2)

「何が……?」


 リゼルが呆然と呟いたときには、騎士の二人は駆けだしている。見れば大通りの先、市庁舎や教会の建物に囲まれた広場の方に、大きな影が舞い降りていた。


 ――魔獣だ。


 リゼルも見るのは初めてだった。シルエットは巨大な鳥に似ている。鋭い嘴がぎらりときらめき、前脚には大きな鉤爪がついている。しかしその後ろ脚は獅子のそれで、一蹴りされればひとたまりもないように見えた。


 その魔獣が広場に降り立ち、人々に襲いかかっていた。鷲のような羽根をはばたかせれば、旋風に巻き込まれて幾人かが吹き飛ばされる。奇怪な咆哮が激しく空気を震わせた。人々は悲鳴をあげて逃げ惑い、瞬く間に辺りは混乱に陥る。


「リゼルは安全な場所に避難しておけ!」


 先を行くグレンが振り向きざまに叫んだ。その横を走るロズはすでに長剣を抜いている。リゼルはハッとした。


「お、お待ちください、私も……!」


 広場から逃げようとする人の流れに逆らって何とか広場まで辿りついたときには、グレンとロズはすでに魔獣と対峙していた。


 広場は四方を建物に囲まれ、リゼルがちょうど駆け込んできた、南側の一角だけが大通りに繋がるように開いている。


 人々はそこから逃げだし、あるいは建物の中へ駆け入り、広場の中央で唸り声をあげる魔獣の周りにはぽっかりと空間が生まれていた。


(お、大きい……! こんな怪物と戦うの?)


 白色の羽毛に包まれた魔獣の頭は、二階建の庁舎の屋根に届くほどだ。広場で屋台が出ていたのか、破れた天幕が風に舞い上がり、壊れた木材がいくつも小山を作っていた。背後からは人々の悲鳴と怒号が絶え間なく聞こえてくる。


 グレンが険しく魔獣を睨みつけ、ロズに指示を出していた。


「ロズ、お前は市民の避難誘導にあたれ。誰かが転倒すれば大事故になる。すぐに騎士団も来るだろう、あいつらと合流してからこっちを援護してくれ」


「団長一人では危険です、僕も戦います!」


 顔を真っ赤にしたロズが怒鳴り返すが、グレンは落ち着いた物腰で部下の構える長剣を指差す。


「ダメだ。剣が一本しかない。ロズと俺なら俺の方が強い。第一、部下を一人で最前線に放り出すつもりはない」


「だからって――」


「旦那様!」


 リゼルは言い合う二人に駆け寄った。荒くなった息を整える暇もなく髪を一本引き抜き、魔法で長剣に変える。戦いも何もできないが、こういうことはリゼルの得意分野だった。


「これをお使いください。ロズ様の物を複製しました」


 当然のように避難指示を無視して追いかけてきたリゼルに、グレンは一瞬眉を寄せる。しかし差し出された長剣を受け取り、軽く振って具合を確かめると、獰猛な笑みを見せた。


「素晴らしい精度だ。感謝する」


「はい……!」


 リゼルは祈るように手を組み合わせる。と、ばさりと魔獣が羽振いて、辺りにつむじ風を作り出した。「きゃっ」と突風に押されてよろめいたリゼルを、グレンがしっかりと抱き止める。


「リゼルはここまでで良い。建物の中に避難していろ」


「わ、わかりました。どうかご武運を……!」


 これ以上は邪魔になるだけだろう。リゼルは素直に頷き、近くの商館らしき建物に滑りこんだ。室内は人で溢れかえっていたが、何とか窓に近づき、グレン達の様子を窺う。 


(す、すごい……!)


 リゼルはその鮮やかな剣技に目を奪われて立ち尽くした。手のひらを窓に押しつけ、まつ毛がガラスに触れそうな距離で食い入るように見つめる。


 グレンは振り下ろされる魔獣の鉤爪をすらりと避けると、長剣を振り上げ、爪の一本を難なく斬り落とした。不思議なことに魔獣の傷口から血は出ず、斬られた爪は地面に落ちる前に黒い靄のようなものに変わって消え去った。


(あれは一体どういう生態なのかしら。マギナ領では見ない魔法系統だわ……じゃなくて!)


 リゼルの作った長剣も無事に役目を果たしているようだ。これならきっと大丈夫だと胸を撫で下ろしかけたとき。


「ロズ!」


 グレンが鋭く叫ぶ。見ると、身悶えた魔獣の後ろ脚がロズを蹴りつけるところだった。彼の体は宙を飛び、リゼルの避難する商館の壁に叩きつけられる。堅固な石造りの建物が、ぐらりと揺れたような気さえした。


「ロズ様!」


 人々のどよめきを背に、リゼルは居ても立っても居られなくなって商館から外へ飛び出した。入り口のすぐ近く、荷の木箱が積まれた脇に、ロズが痛そうに顔をしかめてもたれていた。右肩を押さえている。長剣はどこかに転がってしまったのか見当たらない。


「リゼル嬢、来てはだめです」


 ロズが掠れた声で言う。しかしリゼルは聞いていなかった。かたわらに跪き、ロズの右肩に手を添える。


「だ、大丈夫ですか。今、回復魔法をかけますから……!」


 こういう時に役に立たないのだったら、リゼルの魔法なんて何の意味もないように思えた。


 視界の端に、グレンが戦っているのが映る。長剣の切先が魔獣の脚を斬りつけ、黒い靄が散る。魔獣の歪んだ叫声が耳をつんざいた。確実にダメージを与えているようだが、倒れない。グレンの顔には焦りが見える。ロズも悔しげに唇を噛んで戦場を見つめている。


(早く、早くしないと……)


 焦燥に震えながら髪に手をやり、何本か引き抜こうとした瞬間、頭上を大きな影が覆った。


(雲がかかった……?)


 反射的に見上げた先、信じられないものが目に飛び込んできてリゼルは息を呑んだ。


 羽根を広げて空を飛んだ魔獣が、こちらに向かって突っ込んでくる。凄まじい速度だった。鋭い嘴が陽光にぎらついて瞳を射る。リゼルの指先は凍りつき、魔法の一つもかけられなかった。


 ロズがリゼルに覆い被さるようにして庇おうとしてくれる。自分なんかのために、と胸が痛む。けれど研ぎ抜かれた白刃のような嘴に、人間一人がどれほど効果的だろう。


 リゼルは瞼を閉じ、痛みを覚悟して歯を食いしばる。眼裏にはロズもろとも串刺しになる光景が焼きついた。

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