10 自覚する恋(3)
しかし衝撃はいつまで経ってもやって来ない。不審に思って目を開けたとき、眼前にぼとりと何かが落ちてきた。
「ひっ……」
思わず小さく悲鳴をあげる。それは斬り落とされた魔獣の首だった。先ほどまでリゼル達を穿たんとしていた嘴がぽっかりと開き、隙間から赤黒い舌が力なく垂れている。
苦悶にカッと見開かれた眼球とまともに目が合う前に、頭部は靄となって消えた。
「え……」
眼前に影が差す。つられるように顔を上げると、長剣を手にしたグレンが立っていた。切先が震えている。翡翠色の瞳は、今しも崩れゆく魔獣の胴体を険しく睨めつけていた。彼が魔獣の首を斬って倒してくれたのだろう。
旦那様、と呼ぼうとして声を呑みこんだ。まとう空気が、重い。
「――魔獣風情が、よくも我が妻を」
吐き捨てる声色があまりにも冷え切っていて、リゼルの背筋が粟立つ。こんな恐ろしい声を出す人に出会ったことはない。けれどわかる。彼は、ものすごく、怒っている。
どうしたらいいかわからず固まっていると、ロズが呻いて起き上がり、ぱあっと顔を明るくした。
「あ、団長~! 助けてくださってありがとうございます!」
からりと空に抜ける朗らかな響き。グレンは小さく息を吐いて、張りつめた空気を消し去り、くるりと振り向いた。
「二人とも無事か?」
もういつものグレンだった。リゼルの体からどっと力が抜け、ロズに支えられるようにしてよろよろと身を起こす。こちらを見下ろすグレンの額には汗が浮かんで、金色の前髪が張りついていた。それでリゼルも合点がいく。――この方も、焦っていたのだ。
「旦那様……ありがとうございます……」
リゼルは地面にしゃがみこんだまま、頭をもたげて礼を言う。今更冷たい震えが這い上ってきて、立ち上がることさえできなかった。顔から血の気が引いているのが自分でもわかる。
「怪我はないか?」
グレンがしなやかに膝をつく。そうして腕を伸べたかと思うと、ぎゅっとリゼルを抱きしめてきた。
「心配した。リゼルに何かあったら、俺は自分を許せない。頼むからいなくなるな。――ずっと俺のそばにいてくれ」
「……っ!?」
こんなに間近で触れ合うのは初めてで、リゼルはヒュッと息を止めた。自分の体を包む力強い腕が、厚い胸板が、その温もりが、信じられないほどはっきりと感じられる。途方もない安心感に、体中を覆っていた震えが潮のように引いていった。
「わ、私は、大丈夫です……」
「本当か? 無理をしていないだろうな」
耳元には熱のこもった吐息が触れる。ぞくぞくと首筋がくすぐったくなって身を捩れば、苦しいほどに抱きこまれた。
「逃げるな」
「あ、あのっ、でも、ロズ様の方がお怪我を……」
頑張って目を向けると、右肩を庇ったロズが明るい笑みを見せる。
「大した傷ではありませんから心配しないでください。ですが、無様をお見せしてしまいましたね」
笑顔でも眉尻は下がり、心底情けなさそうな口調だった。リゼルは顔を赤くしつつも、ぶんぶんと首を横に振る。何もできなかったリゼルに比べれば、ロズは立派に役目を果たしていた。
「いえ、庇ってくださってありがとうございました」
「そうだ。市民を守るのが王立騎士団の責務だが、咄嗟に身を呈することはなかなかできない。俺からも礼を言わせてくれ」
リゼルを離し、グレンもロズに向き直る。騎士団長からのまっすぐな称賛に、ロズの目が潤んだ。
「団長……リゼル嬢……」
震え声で応じてぐっと唇を引き結んだかと思うと、ぐすっと洟をすすってそっぽを向いてしまった。
(……誰も命を落とさなくて良かった。これも旦那様のおかげだわ)
涙ぐむロズの横顔と、長剣を鞘に収めるグレンの冷静な顔を眺めていると、何とはなしに胸の底が温かくなる。そういえば他の人々はどうしているだろうとぐるりと四囲を見回したとき、広場がわあっと歓声に包まれた。
「さすが氷壁の騎士団長だ!」
「コーネスト団長ってすごく強いのね! 見た? あの剣さばき!」
「あの副官だっていい動きをしてたぜ、やっぱり騎士団は頼りになるなあ!」
建物の窓から、通りから、人々は口々に二人を褒め称える。とうとう付近の建物から民が雪崩を打って出て来るや否や、彼らはあっという間にグレンを取り囲んだ。人垣に阻まれて、彼の長身は見えなくなってしまう。
「やっぱり団長は慕われているんですよ」
ロズが英雄を見るように目を輝かせ、熱をこめた口ぶりで語る。リゼルも眩しいものを見るように瞳を細めた。
「旦那様は、こうやって国民の皆様をずっと守ってきたのですね」
「民だけじゃありません。団員だって守られていますよ。いつだって危険な場所に一番に赴くのは団長なんです。だからみんなついていくんですよ。戦場じゃちょっと恐ろしいくらいですけどね」
「ふふっ、旦那様らしいですね」
知らず笑みがこぼれた。
グレンの記憶喪失の状況を思い返す。魔獣退治の最中、彼は怪我を負って記憶をなくしたという。その信念が、少なくとも一度彼を危険に晒した。――いずれはもっと、大切なものを失わせるのかもしれない。
広場に風が吹き渡り、リゼルの髪を揺らしていく。ぎゅ、と指を握りこんだ。さっき抱きしめられた温もりを、少しでも手の中に留めておくように。
(……ああ、そうなのね)
心臓がことんと鳴る。それは花の芽吹くようなささやかな音だった。けれど、リゼルの耳にははっきりと聞こえた。
誇りを持って他者を守り、危地に真っ先に駆けつけてしまうような人に、何も失わせたくない。リゼルの手は小さくて、何もかも守れるなんて言えやしない。それでも、一つでも多くのものをグレンの手に残したかった。何を代償にするとしても。
なぜなら。
人垣が動いて、隙間からグレンの整った横顔が覗く。彼の守る民に囲まれた、頼もしい面差し。当然のようにリゼルを助け、慈しんでくれる人。
その顔を垣間見るだけでふわりと心が浮き立つ。もっと見ていたいと視線は自然と引き寄せられるのに、目が合ったらどうしようと俯きたい心地になってしまう。どうしようもない矛盾がリゼルの胸を激しく引き裂く。
――つまりは、グレンに、恋をしている。
たった今、そう自覚してしまった。
(……それに)
もう一つ、リゼルには気づいたことがあった。つい先刻、グレンに抱きしめられたとき。初めてあの距離まで近づいて、リゼルはやっと感じとったのだ。
人々のざわめきが遠い。ロズが何か話しかけてくれるのも聞こえない。ずいぶん温度を失った両手を、リゼルは握り合わせた。一瞬だけグレンがこちらを見たような気がしたけれど、定かではなかった。
リゼルが悟ったこと。それは。
――グレン・コーネストには魔法がかけられている。
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