11 襲撃(1)

 誰の魔法かはわからない。術者は巧妙に隠されている。


 しかし今の状況から考えれば答えは一つ。記憶を奪う何某かの魔法だろう。


 その夜、リゼルはベッドで一人何度も寝返りを打っていた。窓から差す白銀の月光が冴え冴えとリゼルの顔を照らす。


(それにしても、どうして旦那様の記憶を……? しかも私の記憶だけ……?)


 全ての記憶をなくしているならわかる。騎士団長という立場から、覚えられていては困る機密を知っている可能性も高い。しかしリゼルの記憶だけ奪ったところで何の意味があるのか。狙いが不明だ。


 深々と息を吐き出して、再びぱたりと寝返りを打つ。そのとき窓の外、深い藍色の夜空に浮かぶ満月に、刹那の影がよぎった。


「――来たわ」


 不吉な気配を察したリゼルはむくりとベッドから起き上がる。寝衣から着替える暇はなさそうだった。長着を羽織り、短剣を握りしめて寝室を出る。


 夜の屋敷は眠ったように静かだった。


 足音を殺して廊下を歩き、裏口から外へ滑り出る。庭を渡る冷たい風が草木をさざめかせた。震える体を抱きしめるように、長着の前をかき合わせる。


 リゼルの足が向かう先は魔法庭園。


 閉ざされた温室のガラス戸。その前に、一人の少女が立っていた。


「お久しぶりね、リゼルお姉様」


 腰まで届く長い黒髪に、豊かな睫毛に縁取られた紅い瞳。華奢な体にまとうのは、闇に溶け込むような漆黒のドレス。


「メイユ……」


 リゼルの一つ下の妹、メイユ・マギナだった。実家では両親に溺愛され、マギナ家の将来を嘱望されていた娘だ。


 結婚以来、久しぶりに相対する妹の姿に本能的に目を隠そうとしてしまう。けれどそれをぐっと堪え、代わりに長着の内側に隠した短剣に触れた。


 メイユは唇を歪め、背後の温室に視線だけを投げる。


「これがお姉様の魔法庭園? ずいぶん小さいのね。私のものとは全然違うわ」


 嘲笑うような声は闇夜の底によく響いた。実家ではよく聞いていた声音。しょっちゅうぶつけられていた侮蔑と悪意。


 片手を握りしめ、早まる鼓動に落ち着けと言い聞かせる。彼女の狙いを見定めなくては。


「……あなたは何をしに来たの」


「お父様の命令よ。お姉様を、マギナ家に連れ戻すようにって」


 メイユは肩をすくめて言い捨てた。右手の中指に嵌められた指輪が月影にきらめく。その内側には針が仕込まれていて、血を代償に即座に魔法を発動できることをリゼルは知っていた。


「お姉様みたいな出来損ないでも、マギナ家の血は貴重だから。どうしてわからないの? マギナの魔女の役目は、この血を次代に引き継ぐこと。それを放棄するなんて酷い裏切りだわ」


 メイユの口吻には一雫の疑念もない。地面に踏ん張る足が萎えそうになる。いつもそうだった。物心ついてからずっとずっとずっと投げつけられてきた嘲りは、リゼルを容易く過去に引きずり戻す。呼吸が浅くなって、頭が真っ白になった。


「こんな家とは離縁して戻ってくるのが正しいのよ。どうせ、コーネスト伯爵からは愛されていないんでしょ? お姉様がこんな所にいたって意味ないわ。分不相応よ」


 一つ一つの言葉が鏃となって、リゼルの小さな心臓を穿った。


 魔獣に襲われたときのことを思い出す。リゼルは武器を提供したくらいで、他にはまるで役に立たなかった。ロズを治療しようと出しゃばって、守られてばかりで。広場で皆に囲まれるグレンは遠くて、リゼルの手など届かないほど眩しかった。


 愛される資格なんてないとわかっている。今のグレンには魔法がかけられていて、だから大切にされているのも理解している。


 リゼルの好奇心なんて殺してしまって、大人しく帰った方が皆のためになるのかもしれない。実家の離れで、マギナの血を残すという素晴らしいお役目に従事するのが、本来のリゼルの使命だった。


 魔法だって永遠ではない。いつか魔法が解けたら、グレンも正気に戻ってリゼルとの離縁を喜ぶ可能性もある。


 ――だとしても。


 耳の底に蘇るのは、たった一人の夫の声。


 リゼルは深く息を吸いこんだ。清涼な夜気が肺の底まで満ち満ちていく。思考を霞ませる靄が晴れて、胸底に生まれた、小さな決意が顔を覗かせた。


「い……嫌、です」


 声は空気をかすかに震わせるほどのか細さだった。けれどリゼルの精一杯だった。


 メイユは過たず聞き取ったようで、眉間に深い皺を刻む。 


「嫌? 今、お姉様は嫌と言ったの? 信じられないわ、家族の決定に逆らうなんて! そんな酷いことを言うなんて、私たちへの愛が足りないんじゃなくて? そんなことだからお姉様は皆から嫌われるのよ。今がそれを挽回するチャンスじゃない」


 糾弾は耳を素通りした。父も母も、リゼルを愛しはしなかった。本当は愛されたかったのか、それさえもうリゼルは覚えていない。遠い昔、まだ幼かった頃には、寂しさに泣いた夜もあったような気がする。


 けれど、もういい。リゼルの望みは他にある。


 グレンの腕の温かさを思い出す。離すまいとするようにひしと抱きしめられた、力強さを。


 リゼルはまっすぐ背筋を伸ばし、メイユをひたと見据えた。


「何と謗られようと、私の返事は変わりません」


 二人の間を冷ややかな風が吹き抜け、リゼルのまとう絹の長着の裾を揺らしてゆく。縫い取られた錦糸の花刺繍が、波打つように月光を映じた。


 メイユの顔が激しく歪む。紅い瞳が険悪に眇められ、探るような視線がリゼルの全身を這い回った。


「そう。伯爵夫人なんて傅かれる日々は楽しかった? ずいぶん綺麗な格好をしているものね」


 吐き捨てるように言って、口元に嫌な笑みを浮かべる。それから一転、両目を見開いて甲高く叫んだ。


「でもどれだけ着飾ったって意味ないわ。お姉様が〈鳥の目〉持ちの忌み子だって事実は変わらない! そんな娘が、誰かに愛されるわけないわ!」


 そうかもしれない、とリゼルは淡く思う。この性質は変えられない。役目に殉じることはできない。いつだってリゼルの目は未知と未踏に惹かれるし、狭い場所は一生好きになれそうにない。恋をしたって、それは変わらなかった。


 でも、だからこそ、得られた出会いもあるのだろう。


「私は……旦那様のおそばにいたい。それだけです」


 与えられる温もりが、たとえ幻だったとしても。


 この想いはもう変えられない。


 とんでもないわがままを言っている、と足がわななく。自分の居場所を自分で決めるなんて生まれて初めてのことだった。今までずっと、リゼルは誰かの意思と約束によって運ばれてきたのだ。


 記憶が戻ればグレンはリゼルをまた嫌悪するかもしれない。けれど今、リゼルが受けた慈しみは本当だ。せめてその分だけでも報いたい。そばにいろと言ってくれた人に、精一杯の真心で応えたい。


 長着の上から短剣の柄を押さえ、キッと眦を決したリゼルに、メイユがうっすら笑いかけた。


「強情ね、お姉様。勘違いも甚だしいわ。まさかこんなことになるなんて思いもしなかった」


「……一体何を」


 訝しく問い返すと、メイユは細い指をドレスの隠しに入れ、小瓶を取り出した。中には乳白色の靄のようなものが入っている。


 靄から漂う魔法の気配に、リゼルはハッと息を呑んだ。メイユの笑みが嗜虐に歪む。


「せっかくグレン・コーネストを襲って記憶を奪ってあげたのに」




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