11 襲撃(2)

「まさか――」


 その発言の意味するところを悟って顔色を変えたリゼルに、メイユは満足そうに頷いてみせた。


「そうよ? 魔獣退治の事故を装って、私があの男からお姉様の記憶を奪ったの。あなた達が仲睦まじい夫婦だという噂は聞かなかったし、記憶をなくせばお姉様も離縁されると思ってね。驚いたかしら?」


 ぐらりと視界が回る。今晩彼女がここを訪れた時から、そうではないかと疑っていた。けれど実際に突きつけられるとなかなか堪える。小瓶に渦巻く靄のきらめきから目を離せなかった。


 マギナの魔法系統では、記憶を操るのは難しいとされていたのに。メイユはそれを成し遂げたというのか。


 これは家族に裏切られたショックなんかでは全然ない。自分より先んじた妹への劣等感でもない。


 これは、ただの。


(そう……マギナの魔法はそこまで進んだのね、なんて素晴らしいことなのかしら!)


 こんな状況なのに胸がときめいて苦しい。心臓が痛いほど脈打って、頬に血が集まる。


 たぶんこういうところが、家族には不気味に映っていたのだろう。現に今も、メイユが薄気味悪そうに眉をひそめている。


「お姉様はどうしてそんな顔ができるのかしら。状況がおわかり? 本当に愚鈍で間抜けなんだから」


「す、すみません。わかっております」


 唾を飲みこんで頷き返す。そうだ、呆けている場合ではない。メイユの手にはグレンの記憶があるのだ。


 メイユが小瓶をひらひら揺らせば、靄の白さが夜闇に際立った。


「私は優しいから、お姉様にもう一度機会をあげるわ。さあ、離縁すると言いなさい。そうすれば皆幸せになれるのよ!」


 ごう、と熱風が吹きつける。次の瞬間、リゼルは鞘を抜き払い、手のひらを一文字に斬りつけていた。真っ赤な血が地面にパタタッと散る。痛みも感じなかった。それよりも、四方から押し寄せる火球を避けるのに必死だった。いくつもの魔法障壁を繰り出し、それら全てを捌き切る。


「あら、お姉様のくせになかなかやるわね」


 メイユが艶やかに笑う。その中指にも血が滲んでいた。彼女が魔法で火球を生み出し、リゼルにぶつけてきたのだ。


 手のひらを汚す血のぬるさが気持ち悪い。


 古代王国の王族の裔と言われるマギナ家。その高貴らしい血を流すことでしか、家族と関わり合えないなんて。


「それならこれはどうかしら」


 鈴を転がすようなメイユの声が聞こえたと思った刹那、視界が暗転する。反射的に障壁を重ねて警戒したが、追撃は来なかった。


 ただ、風の匂いだけが変わる。


 次に視界が晴れたとき、リゼルの前から魔法庭園は消えていた。


「……これ、は……」


 代わりに眼前に広がる光景に、乾いた唇から震え声がこぼれる。いつの間にかリゼルの横に立ったメイユが、自信満々に小鼻を膨らませた。


「お姉様にとっては懐かしいかしら。自分の生家を忘れたとは言わせないわよ」


 目の前に建つのはマギナ家の本邸。コーネスト伯爵邸からは馬車と徒歩とを合わせて三日はかかる山奥にそびえる、小ぶりな王城めいた屋敷。


 びゅっと空気を割くような風が吹いて、屋敷を囲む森をざわめかせる。王都よりも夜空の藍色が濃い。星々の輪郭がくっきりとしている。在りし日に、離れの羽目板の隙間に目を押し付けて覗いた、見慣れた夜空だった。


 リゼルは障壁を張ることも忘れ、メイユに訊ねた。


「時空転移までできるように……!?」


「そうよ。私はお姉様と違って優秀な魔女だもの。これくらい簡単なの。もうすぐお父様やお母様も来るわ」


 新たな魔法の進歩に歓喜する間も無く、背筋に冷たいものが走る。わななく右手から短剣がすり抜けてしまいそうだった。


 ――連れ戻されてしまった。


 せっかく祖父が連れ出してくれたのに。いとも容易く振り出しに戻ってしまった。


 ここは王都から遠く離れた場所。誰の救いも望めない。


 玄関から二つの人影が現れる。見間違えるはずもない。父と母だった。二人はリゼル達を見つけると、足早に駆け寄ってきた。


「お帰りなさい、メイユ」


「よく戻ったな。お前ならできると思っていたぞ」


 口々にメイユを褒め、代わる代わる抱きしめる。見ているだけで心の温まるような、愛に満ちた風景だった。


 それから両親は疎ましげにリゼルに目を向けるや否や、父親の方が大きく片腕を振り上げた。


「よくも魔女の役目を放棄したな! この役立たずが!」


 リゼルの頬の上で鈍い音が鳴る。リゼルは打たれた頬を押さえてよろめいた。メイユの楽しげな嘲笑が響く。


 ついで母が口を手で覆い、甲走った声をあげた。


「私の腹から〈鳥の目〉持ちが生まれるなんて恥だわ! メイユはこんなにいい子なのに、どうしてリゼルはそんなに馬鹿なの! 離れに閉じこめたのに、ちっとも考えは矯正されなかった。マギナの血を残すくらい大切な務めはないのに、どうしてそれがわからないの!」


 父も母も、口を極めて罵る。ぐいと腕を引かれた。「来い! 躾直してやる!」と父が息巻いて、リゼルを朽ちかけた離れの方に連れていこうとする。左右をメイユと母に挟まれ、逃走は許されなかった。


 とうとう右手に力が入らなくなって、短剣が地に落ちる。芝生が刃を柔らかく受け止め、何の音もしなかった。


 手のひらを切りつけた痛みが、遅れて届いた。心がどんどん冷えていく。


(――違う。これは、思っていたのとは全然違うわ)


 リゼルは引きずられるように歩きながら、ぼそりと低く囁いた。


「メイユ、この景色は全て、偽物ですね。これはただの幻覚魔法です。時空転移なんて嘘」


 右手を行くメイユの唇がぴくりと引き攣る。両親が不審そうに「何を言っているんだ?」「とうとう気が狂ったのかしら」などと言うが、もはやどうでもよかった。


(なんだ、時空転移はまだ難しいのね)


 呆れと失望が胸底に澱んだ。脳機能に作用して、対象者に幻覚を見せるこの幻覚魔法は、リゼルが生家の離れにいた頃開発したものだった。


 人間の臓器の中で最も複雑な脳に働きかける魔法で、当時はなかなか難易度が高かったが、今となってはさして目新しいものではない。リゼルは足を止め、メイユをじろりと睨みあげた。


「……少し、がっかりです。この魔法はもう、見たことがある」


「は……」


 メイユの顔に、この夜初めて恐れが浮かんだ。一歩後じさり、目尻に漣のような皺を寄せて嗤う。唇の端を妙な角度に吊り上げた、醜い笑顔だった。


「ちょっと、わけわからないこと言わないでよ。これは現実よ? お姉様はマギナ邸にいて、今から離れで調教されるの。もう二度と、マギナ家から離れようなんて考えもしないように」


「何とでも仰ってください。私はもう看破しています。自分の作った魔法くらい、いつでも解除できる」


 夜空を照らす、金貨を割ったような月。それを映したように、リゼルの金の瞳が爛々と輝く。メイユのこめかみに脂汗が滲んで頬に伝った。


「な、何でそれを……」


 うわごとのようなメイユの独言に、リゼルはこの上なく美しく微笑んだ。


「頬を打たれた時にわかりました。この魔法では、痛覚だけは再現できないようにしたから。だって、夢の中に辛いことなんて必要ないでしょう」


 これは最後の手段として開発したのだった。いつか遠くない終わり。この世の全てに絶望してしまった時に、リゼルは己に幻覚魔法をかけて、幸せな幻を見て命の終わりを待とうと決めていたのだ。


 ――けれど今となっては無用だから。


「はあ!? 何よそれっ! 知らなかったわよ!」


 メイユが喚く。それももう耳に入っていなかった。リゼルはすでに興味を失い、短剣を拾い上げて土を払っていた。


 もはや血など必要ない。わずかに髪の先を切り取って、ふっと息を吹きかけた。


 それでおしまいだった。


 屋敷が、両親が、夜空が、端から砂のように崩れては消え去っていく。両親の怒声がこだましたが、すぐに引きちぎれるように捻れて失せた。

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