第2章 ウサギとイーリス

第7話 夜の夢

 明日は非番だというセレのベッドの端、イーリスは丸くなっていた。セレの家に来てからというもの、セレはウサギの姿のイーリスを自分のベッドに寝かせている。最初、寝返りを打った拍子に潰されるのではないかと思ったイーリスだったが、セレの寝相が良過ぎて杞憂に終わった。


「おいで」

(……はい)


 優しい声で呼ばれ、抱き上げられる。セレが眠るまでは彼の腕の中にいるのだが、寝てしまったらいつも離れた。


(ね、寝顔が心臓に悪い……!)


 端正な顔立ちのセレは、眠っていてもその美麗さを損なわない。ふと目覚めた際にそれに気付いたイーリスは、自分の心臓が早鐘を打つことに気付いてそっと距離を取った。

 今夜もまた、セレの腕の中から抜け出す。そっとそっと、気付かれないように。ようやく抜け出し、ほっと一息ついた時のこと。


「うさ、ぎ……?」

(嘘、目を覚ました!?)


 大慌てでイーリスがその場を動こうとすると、セレの手が伸びて来る。忍び足のイーリスがセレの手から逃れられるはずもなく、すぐに捕まって抱き込まれてしまう。


(きゃーっ)

「ここに、いろ……」

(え、嘘、寝てる!? 寝ぼけてたの……?) 


 頭にセレの寝息がかかり、逃げ出そうにもがっちりと抱きしめられていて動けない。イーリスはばっくんばっくんと拍動する自分の心臓に慌てながら、体が火照るのを自覚した。


(どうしよう!? このままじゃ、本当のウサギになって戻れなくなる!?)


 焦れば焦るほど、当然思考はとっ散らかる。イーリスは眠気がなくなったまま、あれこれと最悪の事態を想定した。

 その時、突然イーリスの体がわななく。

 ドクン、とただ心臓が拍動するのではない音が、イーリスを襲った。


(何!?)


 かつてない程の胸の痛みに、イーリスは恐怖する。今度こそ心臓が止まって死んでしまうのではと焦り、今の今まで離れようとしていたセレの胸に体をくっつけた。少しでも安心したくて、温かさが欲しくて、それを眠っているセレに求める。


「ん……うさ、ぎ……?」

(セレ様、セレ様、助けて!)


 もう、駄目。精神が限界に達し、イーリスは目の前が真っ暗になるのを眺めていた。そのわずかな視界の中、目を覚ましたセレが自分を見つめ手を伸ばしてくれたのが見えた。


「お前、その姿……!」

(姿って、何?)


 セレの手が背中に触れた。しかしそれは、いつもと感触が違うように思える。その違和感の正体を知らないまま、イーリスは気を失った。


 ❁❁❁


 気を失い、そのまま眠ってしまったらしい。イーリスは今、自分が夢を見ているという自覚があった。


(だって、目の前にちっちゃい頃の自分とおばあ様がいるんだもん)


 ふわふわとした浮遊感の中、イーリスは幼い自分が祖母の膝に座って絵本を読んでもらっている様子を見ている。幼いイーリスは、祖母の優しい声に耳を傾けながら、嬉しそうに笑っていた。


「――イーリス、おうちは楽しい?」

「んーん。みんな、いーりすのことおちこぼれ、やくたたずっていうの。だから、たのしくない」

「……そう。イーリスの魅力は、そんなところにはないのにね。皆、ヘリステアの家の権威を重視し過ぎているようね」

「けんい?」


 それってなあに? 幼いイーリスが尋ねると、祖母は悲しそうに微笑んだ。


「イーリスは、まだ知らなくて良いことよ。出来れば一生、そんなことに囚われずに笑顔でいて欲しいけれど」

(おばあ、さま)


 十年以上前にこの世を去った、大好きだった祖母。国内外を飛び回る有能な魔術師だった彼女は、親戚家族から見放されたイーリスを唯一可愛がってくれた身内だ。

 在りし日の祖母の姿を見て、イーリスの目からは自然と涙が溢れた。


「……イーリス、覚えておいて」

「なあに、おばあさま?」


 舌足らずな孫娘の頭を優しく撫で、祖母は何故か見えるはずのない現在のイーリスを真っ直ぐに見つめた。あり得ない視線を正面から感じ、イーリスは動揺する。


「……おばあ、さま?」

「イーリス。貴女は、とてもたくさんの辛いことを経験してきた。悲しい思いもして、何度も望みを捨てたかもしれない」

「……」

「でもね、イーリス。貴女に一つ、伝えておきたいことがあるの」


 そう前置きし、祖母は微笑んだ。


「これからは、貴女次第で良くも悪くもどちらへも転ぶ。だから、大事にしたいものを大事になさい。悲しいが多かった分だけ、これから先を信じて。……貴女には、運命が待っているから」

「おばあさま、わたし……」


 ウサギになってしまった。辛く悲しく苦しい思いをたくさんして、結果人間ではなくなってしまったのだ。

 イーリスが言葉に詰まる中、祖母は笑みを浮かべるだけだ。イーリスが覚えている祖母の最後の表情が笑顔だった、それが理由かもしれない。

 祖母の膝に乗っていた幼いイーリスは眠ってしまい、祖母が魔法で幼いイーリスを宙に浮かせる。そのままベッドに移動させ、布団をかけた。

 その場面まで見たところで、視界が揺れる。夢世界が白み始め、イーリスは慌てて消えかかっている祖母に向かって声をかけた。生前最後に彼女へ伝えられなかった言葉を。


「おばあさま、大好きでした……っ」


 一瞬驚いた顔を見せた祖母は、ふっと柔らかく微笑んだように見えた。そのままイーリスは夢から追い出され、現実で目を覚ますことになる。

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