第6話 フラッシュバック

 不安を落ち着かせようと、イーリスはセレのベッドの上に丸くなっていた。本人はいないが、何となく彼の温かさを感じる気がして落ち着く。人間の姿であれば絶対に出来ないであろうことをしている自覚を持ちながら、イーリスは「今だけだから」と高をくくって眠っていた。


「ただいま、ウサギ……ん?」


 夕刻になり、疲れた顔をしたセレが自宅へ戻って来た。ここ数日はウサギと一緒にいるために出仕を控えていたため、思いの外仕事が溜まっていたのだ。疲労を感じつつも床に置いているウサギがいるはずのバスケットの中を覗くが、そこにウサギの白い姿はない。一体何処へ行ったのかと見回せば、小さなもふもふがセレのベッドの上で寝息をたてていた。


「こっちにいたのか。よく眠っている」


 起こさないようそっと触れると、ふわふわの毛並みに温度があることがわかる。その柔らかく温かいものに触れながら、セレは朝聞いたガオーラの言葉を思い出していた。


「お前、ヘリステア家から売られたのか?」


 ウサギが答えるわけもない。セレは肩を竦めてから、ウサギの横に寝転がった。白いウサギの背中を撫でながら、ウサギの目元が震えるのを凝視する。


「起きたか、ただいま」

(……うぅん? ……せ、セレ様!?)


 イーリスのぼんやりとした意識が、目の前の端正な顔立ちによって一気に覚醒する。緑の目を目一杯開けて、耳をピンッと立たせる。更に慌てて起き上がろうとすれば、布団との間に出来た隙間にセレが手を差し入れて抱き上げてしまう。


(わっわっ!? ちょっ!? だっだっ……抱きしめられてる!)

「驚かせてすまない。けど、今少しだけ、こうさせてくれないか?」


 内心大混乱のイーリスは、小さな体を精一杯使ってジタバタする。しかしそんなことで人間の男性の力に抗えるはずもなく、セレに申し訳無さそうな顔をされてしまった。

 イーリスはセレの声のトーンに、今朝までとは違う何かを感じる。


(セレ様の……)


 セレの心臓の音が速い。ドクドクドクという心拍が、イーリスのそれに伝染して速くなる。体も熱くなってきた気がして、イーリスは内心慌てた。


(このままじゃ、また人間に戻れるのが遠退くかもしれない)


 セレは、極度の緊張や心的ストレスを感じるとウサギ化する。それは実家にいた頃の実験による副産物だが、何度も人間とウサギを繰り返した結果、人間に戻ることが出来なくなった。未だにわからない人への戻り方を模索することも諦め気味だが、やはり少なくとも遠退くことは避けたい。


(ど、どうしよう!?)


 内心で冷汗をかくイーリスのもふもふした体を抱き締めたまま、セレは蚊の鳴くような声で呟く。怖かっただろう、と。


「今日、ヘリステア家からお前があの研究施設に売られた可能性を聞いた。……怖かっただろう。あんなふうに、生き物が死ぬ前提で劣悪な環境に……。もう、大丈夫だからな」

(セレ様、知ってしまったんですか?)


 熱くなっていた体が急速に冷えていく。イーリスの頭に何処からか流れ込んで来たのは、蓋をして鍵をかけたはずの痛みの記憶。暑い、寒い、辛い、痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。体が、心が悲鳴を上げる。

 ウサギの体がブルブルと激しく震え始め、セレは目を丸くした。慌てて抱き締め直し、背中をさすってやる。


「やっぱり、お前は俺の言葉が理解出来るんだな。……怖がらせてごめん。嫌なことを思い出させてしまったんだろうな」

(セレ様は、悪くない)


 震えを懸命に抑えながら、イーリスは心の中で呟く。イーリスはもう、彼のことを信頼しているし、怖がらせられることはないとわかっている。セレが魔術を使うところを見たわけではないが、彼に抱き締められることで得られる安心感は魔法のようだ。


「飯持って来る。一緒に食おう」


 イーリスはセレによって籠の中に戻され、ポンポンと撫でられた。そのままセレの背中を見送り、イーリスはほっと胸を撫で下ろす。まだ心臓がどくどくと大きく音をたてているが、それは決して嫌なものではない。


(どうしたら戻れる? 今のままじゃ、お礼を伝えることも大丈夫だって言うことも出来ない。でも……)


 でも、今のままでも良いもしれない。セレにウサギとして可愛がられ、そのまま生きていく。おそらくもう実験体にはされないだろうから、と気持ちが傾きかける。

 しかしイーリスはぷるぷると首を横に振り、それから深呼吸を繰り返した。


(駄目。諦めたら、もう、諦めない)


 生きることを諦めようとした。しかし、今形は違うが生きている。諦め続けたから、もう諦めるものはないように思われた。

 イーリスが思考を巡らせていると、セレがパンとスープ、そしてサラダを持って帰ってきた。彼はイーリスの入っている籠の前にサラダの入ったボウルを置くと、自分も椅子に座って食事を始める。


「なあ、お前に名前付けてなかったな。今日、リスタに言われて気付いた。……何が良いかな」

(わたし、イーリスって名前が一応あるんですよ。……唯一わたしをわたしと認めてくれた、祖母が付けてくれた名前)


 イーリスの祖母は、もうこの世にいない。彼女が存命のうちは、イーリスがいじめられることはほとんどなかった。祖母は力の強い魔術師で、若い頃は国内外で仕事をしていたらしい。そんな祖母が、イーリスは憧れで目標だった。

 しばらく考えていたセレだが、ふと思考を中断する。ウサギらしく振る舞うことに慣れたイーリスの皿が空になっていることに気付き、頬を緩ませた。


「明日は休みだ。だから、お前とゆっくり過ごそうか」

(本当ですか? 嬉しい)


 イーリスは目を細め、小さなしっぽをふるふると振った。それを正しく読み取ったセレが、また頭を撫でる。

 その夜、まさか異変が起こるなどとは思いもしなかった。

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