第3話 新たな家

 実験場で気を失い、イーリスは意識が浮上していくのを感じた。瞼の裏から感じるのは、柔らかな日の光。もうしばらく浴びていなかった、優しい日の光だ。


(ここ、何処……?)


 ゆっくりと瞼を上げ、目を瞬かせる。体を起こそうにも、弱ってしまった体は言うことを聞かない。それでも首だけ動かして、イーリスは混乱に陥った。


(え、何処!?)


 イーリスが驚くのも無理はない。彼女が横たえられていた場所は、今までの彼女の経験の中にない場所だったから。柔らかなゆりかごのようなウサギサイズのベッド、整理整頓されたシンプルな部屋、そして大きく日の光をたくさん取り入れている窓。部屋には誰もいないようだが、圧倒的な環境の変化にイーリスは戸惑うことしか出来ない。

 そんなイーリスの戸惑いを知るはずもなく、その人は部屋の戸を開けた。部屋の中を進み、イーリスが(正しくはウサギが)目を覚ましたことに気付いてほっと肩の力を抜いた。


「よかった、目を覚ましたのか」

(だ、誰? ……あ、あの時の)


 イーリスの言葉は、人である目の前の彼には届かない。それでもイーリスは彼に見覚えがあって目を丸くした。


「あの違法研究所で見付けた時よりは、体調も良さそうだな」


 彼の言う通り、イーリスを抱き上げてくれた青年だ。彼はじっと自分のことを見つめるウサギの頭を優しく撫でると、近くから椅子を持って来る。それに腰掛け、ウサギを抱きかかえた。


(わわっ)


 ふわりと柑橘系のさわやかな香りが鼻をくすぐり、イーリスは鼻をひくつかせる。それは決して強いものではなく、かすかに香る程度の上品なもの。安らぎすら覚えるその香りに包まれたイーリスの耳に、青年の声が忍び込んで来る。


「俺の名は、セレ・ルメイル。王国直属の魔術師で、魔法局に勤めている。……って、ウサギに言ってもわからないよな」

(わかります、大丈夫です! って言いたい! お礼も言えない、この姿じゃ)


 いつくしむように撫でてくれるセレの手に身をゆだねながら、イーリスはどうしたら人間の姿に戻ることが出来るかと考える。少し前までは気持ちが落ち着くと自動的に戻っていた。しかし今、実家や研究所で経験する恐怖がないにもかかわらず、人間の姿に戻ることは出来ていない。

 イーリスの苦悩など知るはずもないセレは、膝にイーリスを乗せて撫でながら自分のことを話してくれる。柔らかな毛布の上に乗せられ、イーリスは眠気と戦いながら聞いていた。


「魔法局は、魔術師の勤め先の一つだ。基本的には魔力を使った犯罪への対応や、正しい魔力の使い方を世間に広めるといった役割がある。……でもお前を見付けたのは、それとはまた別の任務だ」

(別?)


 耳をぴくりと動かし、イーリスは顔を上げた。きちんと話を聞いているという意味を込め、じっとセレの顔を見つめてみる。しかし、セレの容貌が整っておりすぐに恥ずかしくなった。

 肩にかからない程度に切り揃えられた黒髪、魔力が強いことを示す深紅の目は切れ長で、鼻筋も通っている。これは、さぞかしモテることだろう。

 イーリスの背中を一撫でし、セレは眉間にしわを寄せた。


「実は、以前から潜入調査されていた魔法研究所で、違法な動物実験が繰り返されているということが判明した。裏も取れたから、あの日魔法局総出で取り締まりに入ったんだ」


 一見すると、健全な魔法研究所。しかし取り締まりに入ると、王国に報告されていた正式報告が嘘であったと発覚した。研究員を複数捕え尋問したところ、動物実験を繰り返すことで最強の魔獣の作成を目指して活動していたことがわかった。尋問を待たずとも、多くの動植物の違法捕獲や採取、そして虐待の罪は明白だ。


「所長は現在所在不明で、研究員の中でも役職のある者たちも何人か取り逃がしている。早く捕まえて、きみたちを苦しめた罪を償わせたいんだが……」

(所長が所在不明……。もしかしたら、父上たちは知っているかも?)


 元々、あの団体に出資していたのはイーリスの父だ。その縁もあり、今回ウサギ化したイーリスを買い取らせたわけだが。

 悔しそうにしているセレに、自分の父親ならば知っているかもしれないと伝えたい。しかしイーリスは、自分がウサギであることを思い出して落胆した。このままでは、何一つ伝えることが出来ないのだと。

 ぺしょんと耳を垂らしたウサギの姿に、セレは何を感じ取ったのだろうか。目を伏せて一層優しくウサギを撫でる。


「もう少し時間がかかりそうだ。あ、他の動物たちだが、身体検査を済ませてきちんとした施設で面倒を見てもらっている。……お前のこともそうすべきなんだが」

(――?)


 どうしたのか、とイーリスは顔を上げた。確かに他の動物たちがその施設に預けられたのならば、自分もそちらにいるべきだろう。今の姿は、明らかにウサギなのだから。

 イーリスが大きな緑色の目でセレを見つめていると、彼はふっと柔らかい表情で微笑んだ。その表情に、イーリスの胸の奥がキュッとする。


「あの時、俺のことを頼ってくれた気がした。思い込みかもしれないが、このウサギは俺が世話をしたいと思ったんだ。だから、引き取らせてもらった」

(え? それって……)


 イーリスが目を瞬かせると、セレは囁くように「これから宜しくな」とウサギの頭を撫でた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る