第2話 助けてくれた人

 闇組織の実験場には、様々な動物が飼われていた。そのどれもがやせ細り、病的なほどだ。イーリスも檻に入れられ、放置される。

 イーリスの入れられた檻は実験場に最も近く、組織の者たちが何をしているか全て見えた。その内容は言葉で表すことが出来ないほど残忍なものが多く、少なくとも実験後に生きている個体は全くない。


(わたしも、いつかあんな風に死んでしまうんだ……)


 毎日目の前で繰り広げられる血の海。イーリスは目を逸らすことしか出来ず、更にいつ自分の番が回って来るかと怯えながら毎日を過ごしていた。


「……」


 実験場に閉じ込められてから、どれほどの月日が経っただろうか。ウサギの姿では人の言葉を喋ることが出来ず、助けを求めることは出来ない。一度大暴れを試みたが、謎の液体を注射されて何日間か意識を失った。

 イーリスは、ただいつ自分を死が迎えに来るかと待っていた。そしてある時、檻から出されて白いテーブルの上に置かれた。テーブルの上は綺麗に拭かれていたが、その側面や脚は血や正体不明の液体で濡れて、色がこびりついている。


「この個体は確か、侯爵様からだったな」

「ああ。こちらではもう役には立たないから、と破格の値段で売って頂いたぞ」

「それでも、ただのウサギの値段にしては高すぎ……おっと、そろそろ始めるか」

「最近、ここを魔法局に嗅ぎ付けられているという話も聞く。所長が、次の場所に引っ越すと言っているらしいからな」

「それは残念。俺たちも引っ越しをしなければな……」


 白衣に白マスクをした者たちが、ぼそぼそと喋りながら実験の準備に取り掛かる。幾つかの液体と、研究者の魔力。その二つを合わせた謎の液体が、パチパチと透明な容器の中で弾ける。


(……っ)


 何度も何度も経験した、恐怖心。何度嫌だと言っても強制的に実験体にされた過去。既に恐怖心は枯れかけ、諦めが強くなっていたが、それでもイーリスは怖くて体を縮こまらせた。

 きゅっと目を閉じ、痛みを待つ。しかし、待てど暮らせどイーリスに誰も触れない。


(……? 何?)


 恐る恐る目を開けると、白衣の者たちが焦った様子で走り回っている。その混乱にあてられたのか、実験動物たちも騒ぎ出す。普段ならば騒げば制裁が待っていたのだが、今はそんなことをしている余裕もないらしい。

 研究者たちが、何かを叫びながら部屋の外へ走って行く。運良く檻から出ていた動物たちは、これ幸いとおぼつかない足取りで外を目指して消えて行った。


(わたしも……っ)


 立ち上がったが、体がふらつく。しかも自分のいるテーブルの高さを知り、イーリスの足はすくんだ。人間の姿であれば、おそらくどうということはない。しかし今、イーリスの姿はウサギだ。こんな高い場所から飛び降りれば、死んでしまうかもしれない。


(――もう、生きながらえなくて良い)


 充分な食事も得られず、睡眠も不足している。体は悲鳴を上げていて、もう早く楽にしてくれと願っていた。イーリスは騒がしい研究所の中にあって、その場に丸まるしかない。お腹が空いたも体が痛いも、もう感じたくなかった。


「――い、こっちは?」

「動物たちを実験に使っていた部屋だな。無事なものは全て運び出せってよ」

「わかった。お前は向こうを頼む。俺はこっちを」


 数分後、多くの足音に混じってそんな会話が聞こえて来た。しかも「俺はこっちを」と言った誰かの足音が、イーリスのいる実験室へ近付いて来る。


(誰……? ううん、もう関係ないよね)


 わたしはもう、死ぬんだから。

 イーリスが再び目を閉じようとした矢先、彼女の緑色の瞳に人影が写った。騒がしい中にあって、その人影が目に入った瞬間、イーリスの耳から雑音が消えた。


(わっ……綺麗)


 漆黒の髪は短く切り揃えられて揺れ、深紅の瞳が真っすぐにイーリスを射抜く。その深い色合いに、イーリスは囚われて動けなくなった。

 しかしウサギに見つめられるその人からすれば、弱弱しいウサギが自分を見ているとしか思えない。案の定、彼はテーブルの上に放置されたウサギに驚き、周囲を見渡して更に声を上げた。


「ウサギ……? それに、他にもたくさん。……応援を呼んで来ないと」

(あ……待って)


 ほとんど無意識に、イーリスは一歩その人に向かって踏み出す。同時によろけてテーブルに突っ伏した。真面の歩くことすら出来ないのか、と惨めな思いが湧いて来る。


「……大丈夫か?」


 ウサギに声もないが、その人はイーリスを抱き上げてくれた。心配そうに揺れる瞳は本物で、イーリスは初めてほっとした。この人ならば、大丈夫何故か無条件にそう思うことが出来た。


「あぁ、おい!」

「セレ、どうした? ――って、これは!」


 同僚に声をかけられ、黒髪の青年、セレは腕に抱えていたイーリスを優しく抱き締める。心臓の音がして、温かい。硬直していた体が、ゆっくりと弛緩する。ほっとしたのだろう。


(この子は、生きている)


 酷く弱ってはいるが、助けられる。助けたい。セレはイーリスを腕に抱いたまま、同僚に願って応援を呼んでもらう。そして動物たちを研究所の外へ運び出し、研究所を陥落させた。

 研究所についての調査は、そちらのプロに任せてある。セレたち魔術師部隊は、一度城に戻ることになっていた。


「お前、その子どうするんだ? 他の子たちは身体検査を受けた後、しかるべき機関に飼育依頼をするらしいけど?」

「俺は……」


 同僚に問われ、セレはじっと腕の中で眠る薄汚れた白兎を見下ろした。あんなに怯えた目をしていたのに、今は呼吸が安定し、ぐっすりと眠っているように見える。その姿が愛おしくて、一つ覚悟を決めていた。


「俺が引き取る。そう決めた」


 青年は目を細め、そっと腕の中のイーリスの頭を撫でる。その言葉は、完全に眠りの世界へと入り込む直前のイーリスの耳に、確かに届いていた。

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