薄幸のウサギは最強魔術師に溺愛される

長月そら葉

第1章 死にぞこないのウサギ

第1話 実験体

 走る。走る。走る。

 逃げなくては。ただそれだけを思い、まさに脱兎のごとく。

 走らなければ、逃げなければ、待っているのは『死』だけだから――


 ***


 ある晴れた午後、その日の光が一切入らない暗い部屋の中。髪を振り乱して咳込み、呑み込んだものを吐き出す娘の姿があった。


「――ゲホッカハッ」

「まーた失敗か。科学と魔法の融合って、なかなかうまくいかないわね」


 やれやれと肩を竦めた美女は、床に這いつくばる者へ冷えた視線を向ける。顔を歪め、汚いものを見たかのように嫌な顔をした。


「あんた、それ掃除しときなさい。また明日、別の実験をするんだから」

「――はい、ウィンダ様」


 声がかすれているのは、喉に火傷をしているからかもしれない。億劫そうに動く娘を一瞥することもせず、ウィンダを呼ばれた美女は颯爽と部屋を出て行った。


「――っ。こほっ。いつまで、いつまで続くんだろ?」


 その問いに答える声はない。娘はかつて美しかったであろう銀色の髪を洗うことも出来ず、外からしか開けられないこの部屋に閉じ込められている。体はやせ細り、死なない程度にしか食事を与えられない。

 娘の名は、イーリス・ヘリステア。ウィンダの血の繋がった実妹だが、ヘリステア家の誰一人として、そう思っていない。何故ならば、イーリスは王国有数の魔術師の一族であるヘリステア家において、ほとんど魔力を持たない落ちこぼれだから。

 それでも最初は、召使として家に仕えさせられていた。その扱いが今の状況まで転落したのは、とある事故がきっかけだ。


「さあ、じっとしていろ」

「……」


 半年前のこと。イーリスの父、ヘリステア家当主のジオーグ・ヘリステアは、探究心の強い男だ。人間により強い生き物の力を融合させれば、もっと強い魔術を生み出すことが出来るかもしれない。そんな仮説をもとに、ジオーグは第一段階としてウサギとイーリスを使って実験をすることにした。

 この頃には、イーリスは既に家族としての扱いを受けることはなくなっていた。無感情にされるがままのイーリスは、父の魔術を正面から全身に浴びた。そしてこの時、不幸な結果が訪れる。


「……ふん、失敗か」


 ジオーグは鼻を鳴らし、近くにあった椅子を蹴った。

 イーリスが佇んだまま、傍に置いていたはずのウサギは死んでいたのだ。ウサギを死なせる気はなかったジオーグは、思った通りの結果にならずに苛立つ。腹立ちまぎれに未完成の魔術を、イーリス目掛けて撃った。黒い光がイーリスの胸を貫き、彼女はその場に倒れ伏す。


「後片付けが面倒……何だ?」

「うっ……あ……」


 召使の誰かに掃除させよう。そうジオーグが思ったのも束の間、イーリスの状態がおかしい。何が起こっているのかと好奇心を持って見つめていたジオーグの目の前で、イーリスが白いウサギに変身した。


「おおっ」

「……っ……!」


 ウサギになったイーリスは、人の言葉を話すことが出来なくなっていた。ただすんすん鳴くばかりで、どうすることも出来ない。

 混乱しているイーリスを他所に、ジオーグは面白いことを思い付いたとばかりに手をパチンと叩く。踵を返すと、実験室に鍵をかけて出て行ってしまった。

 イーリスは茫然と立ち尽くしていたが、自分の状態が受け入れられずにキャパオーバーした。ジオーグが妻や子どもたちを連れて戻って来た時、ウサギの姿のままでその場で気絶して倒れていたという。


(それからだっけ。眠って人間に戻ったら、母上や姉上たちが「私もウサギにしてみたい」と言って連日実験をするようになって。……もう何回ウサギと人間を繰り返したかわからないや)


 部屋の隅においてあったバケツに水道の水を入れ、雑巾で床を拭く。

 何度も何度もここから出ようとしたが、ドアは外側にしか鍵穴がない。窓も外から嵌め殺しされているため、開けることは不可能だ。いつしかイーリスは脱出を諦め、ただ死を待つだけの実験体になっていた。

 辛いも悲しいも忘れ、ただ毎日を送る。痛みにも鈍感になった頃、イーリスは突然何をやってもウサギから人間に戻ることが出来なくなった。

 緑色の目を濁らせ、ぼんやりと座る薄汚い白ウサギ。ジオーグたちは面白くなくなったそのウサギを、とある機関に売り渡すことにした。ジオーグが無理な実験を繰り返す理由でもあるその機関は、世界で禁忌とされる魔術の実験を繰り返すために王国から目を付けられながらも生きながらえていた闇組織だった。

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