番外編 いざよひ (やや大人向け恋愛系)

 「来るとは思わなかった」

 月明かりの内に女の顔をみとめると、私は言った。

 「帝のお召しですから」

 女は、しれっと答える。十数年前と変わらぬ、瑞々しい少女の姿で。

 「窓を、閉めないか」

 私は、眩しさとは程遠い、月の光に目を細めた。

 女は無言で立ち上がると、すばやく油皿に火を入れ、月の光を遮った。

 この女は本来、月のある夜に屋外で寝るとも、その豊かな光を遮り、貧弱な人の手による灯りを求めるなど、病的でおぞましいと言って顔をしかめるような女だ。それを何も言わずに応じたのは、やはり、私と同じ後ろめたさからだろう。

 「お前は昔のままだな、八重」

 ため息のように吐き出された言葉が、月光を遮られた陰気な部屋の空気を、ますます重く湿らせる。八重は、表情を変えぬまま、大きすぎる二つの瞳を私のそれに重ねた。

 「変わらぬものなどありません。昔の私ならば、こんなことをする貴方を、生涯許さないと、心に誓ったことでしょう」

 ふっと、思ほえず笑いが漏れる。苦い味だ。

 「なるほど、そうであろうな……ならば今は、許すのか」

 「そうですね。貴方も十数年の間にずいぶんと寂しい思いをなさったのでしょう。こんな山猿娘さえ召すほどに。男の人は心が弱いと言いますから」

 私は再び苦い笑いを噛みしめた。

 「そうだ、私は心が弱い……お前には遙かに及ばない。私は恐ろしいのだ。この身が……。助けてくれ、八重。私はどうすればよい?」

 私はかすれる声で訴えた。もう笑いは出てはこない。一国の主とさえ呼ばれる中年の男が、痩せた眼ばかりの山猿のような十代の小娘に訴えている姿は、どれほど滑稽に見えることであろう。

 終始無表情に応じていた八重は、不審げに眉を寄せ、その大きな瞳で私の顔を覗き込んできた。

 「あんた、いったいどうしたの?」

 八重……この不敵な小娘に初めて会ったのは、いつのことであったろう。細い体と輝く大きな瞳、ほとんど手を入れていない獣の毛のような茶色い髪に風を浴び、野山を自由に飛びまわっていたあの小猿のような娘は、まだ十にもたらない子供だったはずだ。このお世辞にも美しいとはいえない小娘が、何年もの間、それこそこの世ならぬ美しさを放っていた、あの女のそばにいながら、少しも見憎さを感じさせなかったのは、この全身から発している、不敵なほどの魂の輝き故であろう。そして、私は今、この魂の輝きにすがりたいと思っている。文字通り、永遠の輝きを得た、この魂に。

 「私は年々年老いてゆく」

 「当然でしょう。人は皆年老いてゆく。普通の人間は」

 八重は深刻な表情のまま、諭すように言う。

 「だが、お前は年をとらない」

 「それは、知っているはずでしょう。私はかぐやの残した不老不死の秘薬を呷った。でも貴方はのまなかった」

 八重は、危ぶみながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。言うまでもない言葉を、確認するかのように敢えて舌の先で転がすのは、既に感づいているからに違いない。聡い女だ。

 「……いや……それは違う……」

 震える小さな声が、私の耳に届く。先に進めるだろうか。

 「……貴方は薬を月に一番近い山の頂上で焼いたと聞いた」

 私の間を引き継いで、八重が静かに言った。導いているのか、私を。


 「……山で焼いたのは、半分だけだ……。私は、かの薬をためらいながら口に運んだが……恐ろしくなって途中で止めたのだ……。

 不老不死への願望は確かにあった。生き続けていれば、いつか再びかぐやに会えるかもしれないとも考えた。しかし、同時に恐ろしくもあったのだ。人が変わり、世が変わり、私のまったく知らない世界を、一人、生きていくことが……。二度と会えないかもしれない女のことを思いながら、永遠に終わらない生を営んでゆくことが……。

 その恐れ故に、私は、薬をのみ干すことができず、途中で焼き捨ててしまった。中途半端に私の中に下された薬がどのように作用するのかはわからなかった。人より年をとるのが遅くなるのか、或いは病に強い身になるのか……。しかし、私は他の者と同じように年をとり、体は年々衰えてゆく。薬をのんでいない身ならば、何もおかしなことはないのだ。しかし、私は確かにあれをのんだ。それなのに、普通の人間と何も変わらぬのだ。

 私はこれからどうなるのだ?普通の人間として、一生を終えることができるのか?それとも、永遠に老い続け、生き続けなければならないのか?足も立たず、目も見えなくなり、じわじわとわが身が腐り落ちてゆくのを感じながら、永遠に生き続けなければならないのか?

私はもう何年もそのことを考え、怯えながら生きてきた。誰かにこの苦しみをわかってもらえたら……。けれど、誰にも打ち明けられるはずがない。八重、お前以外には。お前だけなのだ、八重。私がこの悩みを打ち明けられるのは。八重、私はどうすればよい?私を助けてくれ、八重」


 十数年間、私の胸中に生き物のように蠢き、日に日に増殖してきた不安が、打ち明けられる唯一の相手を前に、勢いを増し、私を喰い破って薄暗い部屋の中を埋め尽くす。私の最後の希望であった女をも、喰い破られたぼろきれのような私と共に、闇の内に葬り去ろうとするかのように。

 希望……私はいったい、八重に何を期待していたというのだろう。八重とて、かの国の者ではない。かぐやから、あの愛しい女から薬をもらっただけの、ただの人に過ぎなかったのだ。ただ、躊躇うことなくそれをのみほす勇気があったというだけで。

八重はどんな顔をして、私を見ているのだろうか。

 あきれているだろうか。軽蔑しているだろうか。あの圧倒的な魂の力を持った女は、この弱く醜い私のことを。

 八重は何も言わなかった。私の内より湧いて出た薄汚い不安の蟲は、私を完全に喰い尽くそうと、私を内から外から侵蝕する。

 私は、頭を抱えたまま、頽れる。もう、私に救いなどないのだと。

 「――」

 八重が何かを言うのが聞こえた。肩が痛い。八重の細い手が、私の肩に食い込んでいる。細く、力強い手。闇の底へと落ちてゆく私を引き戻そうとするその手は、力を込めて私をつかんだまま、小刻みに震えていた。

 「……八重、お前も恐ろしいのか?」

 返事はなかったが、八重の面は語っていた。

 大きすぎる二つの瞳には、少しの翳りもないが、無理に引き締めたような表情には、わずかに歪みが見て取れた。

 そうだ、八重も恐ろしいのだ。この、貴族も天子も異界の使者も、永劫の人生さえ恐れない不敵なこの女が、恐れている。恐れながら、心に決めたのだ。私のために、闇に手を伸ばすことを。

 「八重……」

 私は思わず八重を抱きしめた。小さい八重の体に漲る熱が、北風の中に忘れ去られた蜂の巣のような私の胸を、熱く熱く潤した。



 なんと弱く醜く身勝手な男であろうか、私は。

 八重の恐れを知りながら、八重の勇気に甘え、自らの恐れを忘れるために、自分より強いこの女を利用した。

 自らの所業の報いのために、恋人を裏切り、この世界で唯一の信頼できる友を踏みにじった。ただ、自らの脆弱なる心の安定を図らんがために。ただ、自分のためだけに。


 八重は、一瞬の躊躇いの後、無言で私を受け入れた。震える腕で、限りない魂の輝きと、永遠の生命力を宿したその小さな体に、強く私を引き入れた。

 閉ざされた部屋の外で輝く十六夜の月に、私たちの姿は映らないだろう。それでいい。私たちは裏切り者だ。

 恋人を裏切った男と、親友を裏切った女。

 月より隠れて刻まれた、永久に消えない傷。

 澱んだ小さな部屋の内で、男は熱く満たされた女の体に、叶わぬ永遠を夢見ながら、女を道連れに、闇の底へと落ちてゆく。




 ※輝夜が月に帰って十数年、彼女の留守中に、夜絵と高宮の間にあったであろうと思われる事件。(2005/11 作)

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