第8章 新月

  「学校、行ってみない?」

  そんな酔狂な提案をしたのは、実は輝夜だった。二年前。ついこの間のことだ。

  こいつとつるんでから、どれほどの月日が経ったのか、もはや考えるのも面倒くさい。昔は二人で思いつく限りの面白そうなことに、率先して手を出していったものだった。けれど、輝夜は次第に長すぎる人生に憂いを感じるようになり、新しいことにあまり興味を示さなくなっていった。ここ数十年では、わたしの興味に輝夜を引っ張り込むのがあたりまえで、輝夜に引っ張り込まれたことがあったかどうか、思い出せない。

  そこにこの提案。わたしは驚いて、一瞬言葉を失ったほどだが、嬉しかった。あの腑抜け、というよりもはや皮だけになって風に吹かれてからから舞っているような輝夜が、またあの昔のような、老若男女を惹き付けて止まない水の滴るような小娘に変身するのではないかと、そんな期待をしたからだ。

  そんなわけで今、わたしたちは「中学生」なんぞというものに化けている。しかしながら……。


  「輝夜」

  うつろな瞳で窓際に立ち尽くしている輝夜に声をかける。教室には、わたしたちの他、誰もいない。

  「…夜絵…何?」

  いかにも何も聞いていなさそうな言葉が返ってくる。なんだか腹の底がむらむらする。

  「何ってことはないだろう。せっかく学校に入ったのに。新入生らしく、部活見学でも行かないか?他の子らは皆行ったぜ」

  むらむらが、勢いよく飛び出そうとするのを、どうにか抑えて、口から吐き出した。

  「夜絵は部活に入りたいの?」

  「学生じゃなきゃ、できないことだ。やらない手はないだろう。輝夜は?なにか目的があって学生になりたかったんじゃないのか?」

  「別に部活をやるためだなんて言っていないわ」

 輝夜はそこでふっと笑った。

  「それはそうだけど。でも、わたしには、あんたが学生生活を楽しんでいるようには見えないね」

  「それはそうでしょう、楽しんではいないもの」

 またさっきの笑顔だ。こいつが何を考えているのか、時々わからない。

  「だったら、何のために?」

 耳に届く自分の声が、さっきよりも低かった。

  「さあね。ただ、学校に行かなければならないような気がしただけ。もちろん、外見年齢上、現代社会の標準に合わせるためなんかじゃない…なんて、言うまでもないわね。そうね、神のお告げのようなものかしら。でも、それも違うわね。天を厭って地に身を投げた女に導きをする神なんて、あるわけない」

 輝夜の笑顔が、さっきよりも悲しげに見えた。後悔しているんだろうか、この女は。

  「……自然科学部」

  「え?」

  わたしの呟きに、輝夜がきょとんとした顔で反応する。

  「高宮がやってるとこだよ。行ってみない?どうせ部員なんていないんだろうけど」

  「……」

  「はっきり言って、私には望郷の思いなんてわからない。一度捨てたものに未練なんてない。でも、あんたが後悔してるんだったら、一度じっくり見て思い知ればいいさ。あんたのお仲間達が、どれほど愚かだったか、あんたの選択が、どれほどまっとうだったかをさ。そんな調査には適当だろう。自然科学部なんてさ」

  くすり、と輝夜の笑い声が聞こえた。

  「後悔なんかしてないよ。別にあそこに帰りたいとも思わない。でも、そうね。一度振り返ってみるのもいいわね。あの場所を」

  そう言って、輝夜は私の肩に手をかける。そして、わたしの耳元でささやいた。

  「ありがとう、夜絵。かわいい小猿さん」

  「輝夜!」

  輝夜はすばやく離れると、言った。

  「行こうよ、自然科学部。部活の時間なのに、顧問に暇させておく必要はないし」

  そして、わたしたちは、科学室に向かった。担任でもある理科教師がいるであろう教室に。



 あの頃、わたしたちにはまだ何もわかっていなかった。輝夜をこの学校に導いた運命も。わたしが自然科学部を主張した、自分では気づいていなかった本当の理由も。けれど、それはわたしたちに見えなかっただけで、この時すでに、すべては始まっていたのだ。生まれたばかりの月が、人の目には見えないのと同じように。

 わたしたちの運命は、まだ空の向こうに隠れていた。


 あれから二年。今、月は静かに、隠していたその姿を現そうとしている。

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