第4話 断捨離

 ちょうどその頃、佐久間は、

「友達の断捨離」

 というものをしていた。

 そもそも、芸術家ということで、普段から、

「友達の多い方ではない」

 ということであったが、

「友達が少ないというのは、どうでもいい人がいないということで、今付き合っている人は親友といってもいい人だ」

 といっていた。

 それなのに、佐久間は、その中から、

「さらに断捨離をしよう」

 と考えていたのだ。

 ただ、佐久間という男は、友達というものを、

「親友」

 という言葉よりも、

「同志」

 と取られる方がいいと思っていたようだ。

 つまりは、

「仕事をしたり、目指すものが同じである人たちとの絡み」

 という意味の相手を、

「友達」

 と言ったり、

「親友だ」

 ということにしているのだった。

 だから、自分のまわりは、

「同じものを目指していたり、自分のためになるという人しか、近寄らせない」

 と思っているのだった。

 佐久間にとって、

「親友」

 という言葉は、

「同志」

 と、同意語だと思っていたのだ。

 だから、断捨離をするにあたって、それを聞いた、その人の頭の中には、

「佐久間は、自分の目指すものが変わったのではないだろうか?」

 と考えるようになったと思ったのだった。

 だから、

「断捨離」

 と聞いた時、その人には、

「違和感がなかった」

 というもは、

 佐久間にとって、親友を断捨離するということは、本当に部屋の掃除をしている時、

「いらないものを捨てる」

 という程度のものに思えたのだ。

 それは、佐久間にとって、

「同志」

 というものが、自分で言っているよりも、まわりから見ると、薄っぺらく見えたからだった。

「同志」

 というと、まるで、

「共産主義国」

 のようだと思われるが、それは、佐久間自身が、

「同志」

 という言葉を使っていたのを聞いて、軽い気持ちで、

「まるで、共産圏のようないい方だな」

 と言った人が、佐久間から、

「断捨離された」

 ということがあったからだ。

 その人は、

「軽い気持ちでいっただけなのに」

 ということであったが、佐久間にとって、その言葉は、タブーだったようで、

「断捨離」

 というものが、瞬殺で行われたということだったのだ。

 佐久間という男、実はあまり知られていないが、学生時代には、

「共産主義者」

 ということで、仲間内では阿有名だったという。

 だから、

「同志」

 という言葉を言われても、学生時代の身近にいる人の方が、しっくりきていたようで、

「佐久間さんなら、それでいいんだ」

 と思っていた。

 というのも、

「学生時代というのは、社会人になってからよりも、おかしなやつが多かった」

 ということである。

 それもそのはず、

「会社は、社員を厳選するのだから、変な人を社員にすることは極力しない」

 ということで、会社には、総務部かあり、人事がいるのではないか。

 特に、

「反政府主義」

 であったり、危険分子と思われる人は、入れないようにいしていることだろう、

 ただ、今の時代であれば、

「個人情報保護」

 という観点であったり、コンプライアンスというものを考えて、面接で受ける方が不快に感じるような質問はしてはいけないだろう。

 昔であれば、十分に、応募してくる社員候補のことは、事前に調べ、家族構成まで調べ上げるというのが当たり前だっただろう。

 特に、

「学生運動であったりする、反社会主義勢力を感じさせる人を入社させるなど、しなかったに違いない」

 やはり、

「民主主義」

 というものは、

「自由・平等」

 ということが叫ばれるが、あまりにもそれが強いと、選択が甘くなってしまい、

「入社させてはいけない相手を入社させてしまった」

 ということになりかねない。

 それを思うと、

「同志」

 などという言葉を使う男は、

「危険人物」

 と見なされるだろう、

 しかし、幸か不幸か、佐久間は、会社に入るということをせずに、芸術家の道を歩むことになったのだった。

 ただ、芸術家になると、相手は、注文を入れてくるだけのところであり、定期的な営業相手ということでもないので、

「彼がどんな人間であるか?」

 ということは、関係ないのであった。

 彼も、工芸作家であるということを考えれば、

「デスマスク」

 というのを誰かが送ってきたとしても、それは別に、

「気持ち悪い」

 という気持ちにはならないのであった。

 というのも、

「同じ、工芸仲間だ」

 と考えたからであったのか、それとも、

「送ってきた人に心当たりがある」

 と考えたからなのだろうか?

 とにかく、送り主に関しては、明らかに、偽名であり、住所もでたらめであることは分かっていた。

 ただし、その名前も住所も、

「まったく存在していない」

 というわけではなかった。

 というのは、

 その男、(いや、女かも知れないが)。

 その送り主の名前は、実は、佐久間の本名であった。

 しかも、書いてある住所は、佐久間が昔住んでいたところであり、実在はしているが、今はそこに誰が住んでいるのかということは分からなかったのだ。

「別に隠しているわけでもないので、調べようと思えば調べられるのだろうが、何をわざわざ調べてまで、送りつけてきたというのか。これでは、嫌がらせではないか?」

 ということであった。

 確かに嫌がらせというには、効果はあるだろうが、嫌がらせを受ける覚えがないので、気持ち悪かった。

 それなりに、心当たりがあれば、手の打ちようもあるのだが、本人にとtって、

「まったく心当たりがない」

 ということであれば、そこにどんな曰くがあるのかということを考えると、気持ち悪いとしか思えない。

 相手が見えない嫌がらせほど、気持ち悪いものはない。

 少しでも見えていれば、誰かに相談や、警察に直接通報したり、それでもダメなら、

「それなりの民間の探偵にでも頼む」

 ということもできるのだ。

 佐久間には、それくらいの金はないわけではなかった。

 親が死んで、遺産がある程度転がり込んできたのであった。

 だから、工芸作家というような怪しげな商売を、何とか続けていけるということであったのだ。

 実際に、知り合いが見ていて、

「それほど売れているわけでもないのに、よくやっていけるな」

 ということを感じているのだった。

 佐久間が、自分の才能をどう考えているのか分からないが、本人は、

「楽しくできればいい」

 と言っていた。

 それは聴きようによっては、

「自分に実力はないんだ」

 ということを自覚はしているが、それでも、工芸は楽しいということで、

「楽しければそれでいい」

 といっているに違いない。

 それを考えると、

「実力がなければ、仕事をこなしているうちに、身に着ければいい」

 ということで、焦ることなく、自由に仕事を謳歌しているようにも見えたのだ。

 しかし、

「工芸の仕事だけで、一軒家に澄み、さらには、アトリエまで持って、よく生活ができるな」

 と思っている人もいたようだ。

 しかも、彼は、

「相当なものぐさで、一人暮らしなど、よくできるな」

 ということを思っているほどだったという。

 というのも、

 大学時代でも、皆でどこかに出かける時、

「あいつは何もできない」

 ということで、

「坊っちゃん」

 というあだ名をつけられていたのだ。

 しかも、佐久間は、

「坊っちゃん」

 と言われることに、嫌な顔一つしなかったのだ。

 普通であれば、

「坊っちゃん」

 と言われることは、

「侮辱だ」

 と考えるのが当たり前であろう、

 しかし、そう感じないということは、

「坊っちゃん」

 という言葉が、皮肉であるということを分かっていない証拠だ。

 ということは、

「やつは、本当の坊っちゃんなのだろう」

 ということであり、だからこそ、皮肉を皮肉と捉ええることをしない、やはり、

「マイナスにマイナスを掛けるとプラスになる」

 という考えの持ち主なのかも知れない。

 それを、

「楽天的」

 という言葉で片付けるのか、

 あるいは、

「ただのバカだ」

 と考えるのか、それこそ、その人の捉え方なのだろうが、まわりの意見としては、

「やはりバカなんだろうな」

 というのが、大方の意見のようだった。

 佐久間とすれば、皆がそんなことを言っていることを分かっていない。

 だから、隠すこともなく、一定の人には、

「親の遺産が入って」

 ということを言っていた。

 それも、計算の中に、

「彼らくらいであれば、少々はたかられたとしても、こちらも利用できていいのかも知れない」

 といえるであろう。

 佐久間はまわりが考えているよりも、結構したたかで、計算高いところがあった。だから、余計に、

「頭が悪い」

 と思わせたり、

「何を考えているか分からない」

 と思わせるように仕向けていたに違いないのだ。

「坊っちゃん」

 と言われることが嫌であったら、もっとまわりの人に文句を言っているかも知れない。

 ただ、佐久間という男は、なぜか友達に、松山の人が多く、皆から、坊っちゃんと言われていることで、松山出身の人が自然と集まってくるということだった。

 松山には、行ったことがないのだが、友達の様子を見ていると、

「松山というところがどういうところなのかが分かってくる」

 というものだった。

「とにかく温泉が気持ちいいのさ」

 と言われたが、

「温泉なんかどこだってあるじゃないか?」

 というと、

「そう思うだろう? だけど一度来てみろよ。あんなに落ち着けるところはないぞ」

 というのだったが、

「どうせ、効能を聴いても、どういうものなのかということがよく分からないので、それ以上は聞かないでおこう」

 と考えるのだった。

 そういえば、彫刻を作るようになってから、どこかド億に行くこともなくなった。学生時代の修学旅行がいいだったといってもいいだろう。

 修学旅行は東北地方だったので、寒かった思い出が一番だった。

 東北地方でいった場所を思い出していると、あれはどこだったか、誰かの武将のデスマスクがあったような気がした。

 デスマスクを触ることはできなかったので、ショーケースに入っているものを見るだけにとどまってしまったが、そのデスマスクを見た時、ちょうど、クラスメイトの一人が、面白いことを言いだしたのだった。

「俺は、以前、デスマスクを送られたという人が、死んだという話を聞いたことがあったんだけどね」

 というではないか。

「どういうことなんだい?」

 と聞くと、

「デスマスクというのは、読んで字のごとしで、死んだ人間の顔形で作るものなんだよ。だから生きている人のデスマスクを作ったりすると、出来上がってから、死ぬまでの間、一番死にやすいということになるのさ」

 ということであった。

 それはあくまでも、デスマスクというものが、いかなるものなのかというとこを知らない時に聴いた話だったので、自分たちがデスマスクというものの話を知った時、

「あの修学旅行の時、もっとしっかり聞いておけばよかった」

 と思うのだった。

 修学旅行に行く時、旅行委員が、それなりのパンフレットを作るものだが、なぜか、デスマスクのことに触れることはなかった。

 触れてしまうと、

「デスマスクというものの正体が何であったのかを知らずに見ていたことの無知を、自分の中で後悔するのだった」

 だから、旅行から帰ってきてから、意地でも、デスマスクについてネットで調べてみるのだ、

 修学旅行中であれば、まわりから、

「何をいまさら」

 と思われるのであって、何が嫌かというと思われる内容よりも、

「何かを気にしている」

 と思われる方が嫌だということであった。

 修学旅行から帰ってきてから、友達の中には、

「デスマスク」

 というものについて、皆それぞれに調べるようだが、それぞれに調べたことを聞いてみると、微妙に理解していることが違っている。

「人の数だけ違う」

 ということなので、人が多ければ多いほど、その解釈の羽場は広いというものであった。

 そんなことを考えていると、

「デスマスク」

 に限らず、

「恐怖というものは、恐ろしさという大きさの度合いに、怖いという感覚が重なることで、平面が立体に変わっていく」

  ということになるのだった。

「デスマスクを送りつけてきたのは、一体誰なのか?」

 ということが、本当は問題なのだろうが、それは、送られた佐久間には分かっていた。

 しかし、それを公表するわけにはいなかい。それどころか、少しの間だけでも、

「そんなものが送られてきた」

 ということを公表してはいけない。

 ということでもあった。

 そもそもデスマスクというものが、昔から言われているような迷信に引っ掛けて送ってきたものなのか、それとも、他に思惑があるのか、送ってきた相手について、心当たりがある佐久間には分かっていることだろう。

 しかし、だからといって、それを公表しようというのは、おこがましいことであり、そもそも相手も、

「佐久間だったら、公表するようなことはしないだろう」

 と考えることから始まっていたのだ。

 佐久間は、彼女もおらず、気ままな生活だと思っている。

 もちろん、女が嫌いだというわけではない。どちらかというと、女性は好きだったといってもいい。

 ただ、その

「好きだ」

 という感覚が他の人とは違う。

 あくまでも、

「美の対象として見ている」

 と言った方がいいだろう。

 耽美主義というのは、

「何をおいても、美というものが優先される」

 ということであるから、女性というものに対して、自分の中の概念としても美さえ備わっていれば、

「好きの対象」

 になるというわけであるが、逆に、

「美の対象にならなければ」

 女性であっても、却って、気持ち悪いものに思えるのだ。

 佐久間は、昔から、

「徐栄の好みに対してはストライクゾーンが広い」

 と言われてきた。

 だが、それは、

「少々の相手でも許容する」

 というわけではない。

 どちらかというと、野球でいえば、

「悪球打ち」

 と言えばいいのか分からないが、一般男性が、

「キレイだ」

 と思う女性よりも、少し変わった個性を持った女性に惹かれていた。

 だから、人によっては、

「佐久間は、趣味が悪い」

 と見ている人もいれば、額面上のように、

「ストライクゾーンが広い」

 と思っている人もいるだろう。

 佐久間としては、

「そんな噂のために、人を好きになるわけじゃない」

 ということで、特に、誰もが可愛いという女性を気にすることはなかったのだ。

 それは、子供の頃に、女性に対してのコンプレックスがあったからだ。

 というのは、

「お坊ちゃまだった」

 ということもあって、当時家にいた家政婦から、あからさまに、

「子供扱いされたことが、嫌だったのだ」

 というのも、自分が金持ちの坊っちゃんであるということが、プレッシャーであり、コンプレックスだったのだ。

 実力もないくせに、金の力でへいこらするまわりの人間。さらに、それを受け容れてしまっている自分にも嫌気がさしていた。

 それがプレッシャーとなり、コンプレックスとなっていたのだった。

 そんな佐久間だったが、好きだった女性もいたのだ。

 それは、中学時代の学校の先生だった。

 その人は、美術部で、石膏細工を教えている人だった。

 その先生は、よく、ミロのビーナスを気にしていた。そして話しているのは、

「石膏像の中には、美というものが埋まっている」

 ということを話していたことだった。

 石膏像の中で、

「その美しさというものがどういうことか?」

 ということをその先生と話をしたことがあった。

 もっとも、その時は、

「先生の美しさに触れたい」

 という意識だけがあったので、石膏像の話というのは、

「あくまでも言い訳」

 というわけであり、

「自分にとっての、欲求を達成したいという手段にしかすぎなかった」

 ということであった。

 しかし、先生は、その時、興奮状態になっていて、

「自分の意見に賛同してくれそうが人が見つかった」

 と思ったのではないだろうか?

「自分の意見を信じて疑わない」

 という気持ち間違いなく強かったのだろう。

 しかし、それが、自分の中で、どこまで信じていいものなのか、自分でも分からない。

 それを実質証明するとすれば、

「自分の意見や考え方に賛同してくれる人を見つけて、初めて、スタートラインにつくことができるのだ」

 というのが、その考え方だったに違いない。

 それを考えると、

「先生は、相手が正とであっても、何であっても、自分の賛同者がいれば、それでよかったのかも知れない」

 と感じた。

 佐久間は、その時初めて、

「耽美主義」

 という言葉を聞いたのだ。

 中学生で、

「耽美主義:

 という言葉を初めて聞いたというのは、

「早いのか、遅いのか?」

 ということは分からない。

 というのは、

「確かに、言葉を聞いたことがない」

 ということになると、

「そんな言葉も知らないのか?」

 という無知というものが、

「いかに自分を恥辱に導くというのか?」

 という考えにいたることになり、今まで中学になるまで勉強してきたと思うことが、すべて、無二なっている」

 かのように感じられるのだ。

 それを思うと、後から思えば、

「耽美主義」

 というものを知るには、

「中学生というのは、早かったのではないか?」

 と思うのだが、その時は、

「ただ、知らなかった」

 ということが、

「知らないということがまるで罪であるかのように感じられる」

 ということで、

「思春期をいかに自分の中で捉えればいいのかということが分からなかったのが一番の原因だ」

 と考えてしまう自分が、

「考える力がなかったからだ」

 と感じてしまうことを、後悔したくないということだったのだろう。

 そんな先生が、作っていた石膏像をよく見てみると、最初は分からなかったのだが、その顔が、クラスメイトの女の子や、イケメンと言えるような男の子の顔に似ているように思えてならなかった。

 そしてそのうちに、美術部の顧問である先生だったので、佐久間が二年生の時、美術部の卒業製作の中において、先生も作品を発表するのだったが、その作品が、先生本人は、

「今までの作品の集大成」

 と言いながらも作成した作品というのは、何とも気持ちの悪いものだった。

 というのは、今までの石膏像作品とは、どこか一線を画していた、

 正直、石膏像作品というものを、それまで、

「気持ち悪い」

 と思わなかったのに、その先生の作品を見た時、

「時代をさかのぼる形」

 ということで、

「今までの先生の作品が気持ち悪くなってきた」

 と言ってもよかった。

 しかし、それは、

「先生の作品に限って」

 というだけで、美術関係の本に乗っているような、著名の作家の作品に、気持ち悪さは感じなかったのだ。

 それを確かめるつもりで、市内の大きな公園にある、県立美術館に行ってみて、実際に石膏像の作品を見ても、嫌な気分にはならなかった」

 といってもいいだろう。

 しかし、だからといって、

「どこがいいのか?」

 ということも分からない。

「有名作家の作品で、美術館に飾られているからだ」

 というリアルな感情以外には分かるわけではなかった。

 それは自分が、

「最初から芸術なんか分かるわけはないんだ」

 ということを感じるからだったのだろうが、そのことを感じたということが、

「俺は、美術というものを、ひねくれた形でしか見ることができないんだ」

 と思わせるきっかけになった。

 それなのに、なぜ、

「工芸作家になったのか?」

 というと、正直、ものを作るのが好きだったという気持ちからだろうと思っていたが、実際にはそうではなく、

「どうして先生の作品を気持ち悪いと思ったのか?」

 ということを感じたいと思ったからではないだろうか?

 その思いは、実際に、

「半分は当たっていて、半分は間違っている」

 ということであった。

 何もそれを知りたいだけで、工芸作家を志すのか? 自分で納得がいかないからだ。

 今では、好きでもない人を気にして、自分が工芸を目明日のようになったという事実を打ち消したいという思いがあったからだろう。

 だが結果として、先生の作品の気持ち悪さが、その時に分かったわけではない。

 むしろ、

「気づいていたはずなのに、気付いていないということを自分に言い聞かせ、その理屈を認めたくない」

 という思いから、

「分からないと勝手に思い込んでいたのだろう」

 というのは、先生の作品は、あたかも、その石膏像の中に、誰か生身の人間が埋め込まれているかのような美しさだったからだ。

「そんなことあるはずないじゃないか?」

 と言い聞かせても、その美は、自分の言い聞かせというものを、超越しているのであった。

 という思いから、

「耽美主義」

 というものに、自分の感情が立ち向かえないと感じた時、先生が石膏像の中に埋め込んだクラスメイトは、少なくとも、

「自分の中の断捨離の洗濯のうちになったのだ」

 ということであった。


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