第5話 経済の発想
送られたデスマスクというものが、どういう意味を持っているのか。そのことを、佐久間は分かっていた。
そのデスマスクが表している人間が、
「一体誰なのか?」
ということよりも、
「その男が誰なのかが分かるかどうか?」
ということが重要だった。
そのマスクを送ってきた相手は、足柄だということは、佐久間には分かっていた。佐久間と足柄は、以前から知り合いであったが、それは、
「仲のいい友達」
というわけではなく、お互いに
「利害関係が一致する仲間」
と言った方がよかった。
といっても、その利害関係というのは、
「共通おできごとで、二人が同時に得をしたり、損をしたりという、そういう、損得を共有している」
というような、
「利害関係の一致」
というようなものではなかったのだ。
自分と、利害が一致というのは、本来は、
「共通の利害」
である必要はない。
つまり、
「お互いに相手のためになることをすることが、相手のためになるということになるのではないか?」
というのも、
「立派な利害関係の一致」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えた時、
「一人ではできないことを、二人で行えば、そこには、相乗効果が生まれ、不可能だと思われることも、可能になるのではないか?」
と、考えたとしても、それは無理もないことだ。
今回のこの、
「デスマスク」
というものは、ある事件の、
「プロローグにしかすぎない」
というものであったが、それは、お互いに、
「覚悟を決める」
という意味で、重要なことだった。
二人のうちのどちらが切羽詰まっているかというと、それは、佐久間の方であった。
佐久間の方とすれば、死んでもらいたい相手というのが、借金取りであり、最近特に、しつこく取り立ててくるので、ノイローゼを通り越して、気が狂いそうになっていたのだ。
もっとも、そんな人は、佐久間に限ったことではないのだろうが、
「この男が死んでくれたら、どんなに気が楽になるか」
と思っていた。
だが、佐久間はリアルに切羽詰まってくるとことで、
「目の前に起こっていることだけから逃れたい」
としか思っていないと、分かっていたのだろうか?
確かに、人間というのは、切羽詰まってくると、目の前の苦しみだけでも逃れられれば、それでいいと思うことだろう。
しかし、それは本当の根源から逃れられるものではない。それこそ、まるで、
「トカゲの尻尾切り」
ということをやっているだけではないか?
と思えることだろう。
というのは、
「自分が逃れたいのが、借金取りからだ」
ということを考えれば、この理屈は分かりそうなものなのだろうが、そうもいかないだけ、切羽詰まっているということであろう。
いわゆる、
「トカゲの尻尾切」
というのは、
「一つのことを解決するつもりでいたとしても、それは、目の前のことだけが解消されたことであり、根底にある事実が消えるわけではない。
というのが、
「お金は返しても、返しても、借金がなくならない」
ということであった。
もちろん、借りた金がいくらなのか?
ということが問題になるのだろうが、
「例えば、借りたお金が、300万円だったとしようか? そのお金の返済期間が一年だったとして、年利に、20%が掛かったとしよう」
もちろん、借金のことをまったく知らない人間の勝手な推測でしかないのだが、それを踏まえてのたとえ話だということを考えて、聞いていただきたい話であるが、そう考えると、
「借金を、全額返そうと思っても、300万円のうち、100万だけを返せたとして、利子に、60万がついていたわけで、残りは200万ではなく、利子を含めると、260万円だということになる」
つまりは、もっとお金を貯められなければ、
「利子だけを返し続けていって、元本は永遠になくならない」
ということになる。
それこそが、
「とかげの尻尾切り」
のようなものであり、
「悪徳金融機関」
は、そこに乗じることになるのだろう。
相手は、
「リアルにお金に困っている人だ」
といえるだろう。
いかに、お金を返すことに、リアルの分かっている人であるなら、
「いくらお金に困っているとはいえ、もっと他から借りることを考えるだろう」
つまり、こうなることが分かっているからである。
それに、金融機関によっては、
「悪徳というべきか、それとも、浅はかなところ」
というようなそんなところは、実に厄介だといえるのではないだろうか
彼らが考えるのは、一種のバブル経済における、
「銀行のやり方」
ではないだろうか?
バブル期における銀行のやり方は、普通に考えれば、
「タブーだということは、ちょっと考えれば分かることなのだろうが、当時は何をやっても、金が儲かるような仕掛けになっていただろうから、やった者勝ちと言ってもいい時代だったのだ」
というのは、
「銀行などの金融機関の貸し付けにおいての利益」
というのは、地目瞭然、
「利子」
というものである。
こちらは、手数料と同じで、
「利用する人が増えたら、その分、手数料収入が増える」
ということで、それだけの、
「一定数の人がいないと賄えない」
ということであろう。
それこそ、一種の、
「自転車操業」
のようなものであるのだが、バブル期においては、それが、すべてうまく回っていたということなのだろう。
というのは、そもそも、
「バブル経済というものが、そのすべてが、実態のない、
「泡のようなもの」
ということで、
「うまく回っていてもいなくても、見えているのは、うまく行っているところだった」
といってもいいだろう。
その実態が見えてくる時というのは、
「すでに首が回らなくなった時」
というのが皮肉なことであろう。
そして、本来であれば、一番このあたりの仕組みを理解しておかなければいけないはずの銀行が盲目になっていたことが、バブルをつくった、そして、その崩壊に対しての責任の大きさというものでいけば、かなりの部分を捉えているといってもいいだろう。
何といっても、
「銀行の罪」
というのは、
「過剰融資」
というものであろう、
過剰融資というのは、
「利益部分」
というものが、利子であるとすれば、
「利子をたくさん、貰おうとすれば、どうすればいいのか?」
ということであるが、
「そんなことは算数ができるのであれば、子供にだって分かることだ」
ということである。
子供の方が、純粋に考え、
「ひょっとしたら、そんなことをすれば危ないのではないか?」
ということを考えない。
だからこそ、
「子供の発想なのだろうが、大の大人が、どこの銀行の人間も、さらには、それを管理する、経済省のようなところのお偉いさんにも分からないというほど、バブル経済というものの方が、きちっと形になっていたのかも知れない」
といえるだろう。
「利子を増やすには、元本が高くなれば、それだけたくさんになる」
ということである。
言っておくが、当時の銀行は、
「騙そう」
などという意識はまったくなかっただろう。
そんなリスクしかない考えを持たなければいけないほどではない。
何といっても、事業を広げれば広げるほど、借主の方は儲かるのだ。
つまりは、
「貸す方の親切であり、アドバイスでもあったのだ」
しかし、それが、一歩間違えてしまうと、返せるのは、利息だけ」
ということになり、結果、元本だけがの折る、永遠に消えない借金ということになる。
もちろん、銀行では、そんな法外な利息などないだろうが、今の預金利息における、
「法定利息は、今とでは、桁が違う」
といっておいいくらいだ。
「今利息が、1万円の借金であるが、バブル前であれば、10万円の利息がついた」
といっても過言ではないだろう。
だから、昔は、たくさん銀行に預金していれば、
「利子だけで食っていける」
と言われていた時代があったのだ。
今であれば、
「そんな夢物語があるわけはない」
ということになる。
だからこそ、今の時代から言われ始めたことに、
「箪笥貯金」
という言葉があるのだ。
昔は、
「経営破綻などありえない」
と言われた銀行であれば、
「やばければ、下ろせばいい」
ということであったが、
今では、
「ヤバイ」
と思った瞬間、もう時すでに遅し。
ということになるのであった。
だが、今では、そんな過剰融資でも、
「犯罪行為に近い」
といってもいいかも知れない。
銀行では決してしないが、サラ金と呼ばれるものでは、行われていることなのかも知れない。
ただ、お金に困ってくると、
「どうしても、借金してしまうことになるのは、今の昔も同じだ」
といえるが、それも、今はリアルで借金するというほど、貧しい人が一定数いるのだろう。
「経済というものは、バブル崩壊後、まったく給料が上がっていない。それは賞与も同じだ」
ということであるが、ニュースなどを見ていると、
「経済は、成長傾向にある」
といって、例えば、
「夏のボーナスの平均金額」
ということで言っているのを見ると、自分が貰っている額の数倍ではないかと思う人が果たしてどれくらいいるというのだろうか?
そう、テレビなどで言っているのは、あくまでも、
「平均」
ということである。
どの単位で統計を取ったのか分からないが、
「会社の規模」
であったり、
「貰う人間の、役職、年齢によっても、まったく異なってくる」
だからと言って、今度は、
「年齢」
というもので輪入りにしたとすれば、その金額差は、その人から見て、さらに差が激しということになるかも知れない。
つまり、それだけ、
「貧富の差が激しくなっている」
ということである。
「バブル経済」
というものが、後世にもたらした影響の一つとして言えることは、
「貧富の差が、どんどん大きくなってくる」
ということである。
そもそも、自由敬愛ともいわれる、
「民主主義社会」
での一番の問題点は、
「貧富の差の激しさ」
というものであった。
それを解消するには、
「資本主義ではもうダメで、究極の考え方として生まれたのが、すべてを国家で管理する」
という、
「共産主義」
というものだっただろう。
ただ、それも、大いなる反動という意味で、粛清であったり、
「皆が同じ収入レベル」
ということで、
「一生懸命に、仕事をしてもしなくても、同じ給料であれば、楽をした方がいい」
ということになり、
「成長などありえない社会」
となるのだ。
だとすれば、
「国家がそれを進めるしかない」
ということで、
「恐怖政治」
というものと化すといえるだろう。
今、
「過剰融資」
というものを持ちかけられると、その結果は、
「永遠に消えることのない元本が残る借金」
というような考え方であれば、それは、
「罠である」
ということを普通では感がられるのだろうが、
「騙す方にだって、それくらいの知恵」
というものがあり、
「相手の感覚をマヒさせるくらいに切羽詰まっている相手を探してくれば、それで勝ちなんだ」
と考えるくらいのことをできるかどうかであった。
特に今の時代は、
「ネットというものがあり、検索を掛けることで、いろいろな情報を得ることができる」
しかし、だからと言って、情報で溢れかえると、中には、
「悪徳の罠に掛けよう」
としている連中に知られる可能性もあるので、
「個人情報を晒してはいけない」
ということになり、
「勝手に人の情報を捜索したり、不当なことに利用しようなどということができないような法の整備を行う」
ということが、
「今の時代」
となってきているのであろう。
「悪徳金融機関がリアルで迫ってきている」
ということになれば、
「相手から逃れる一心で、何とかお金を返しても、元本が残っている」
そしてこの時、
「借金を返そう」
ということで、
「目先の恐怖だけを見ている」
とすると、見えているのは、目の前のことだけになってしまう。
それが何かというと、
「借金を返すために、さらに借金をする」
ということだ。
それこそ、本末転倒であり、しかもバブル期の経験がある金融機関は、会社の垣根を越えて、業界が生き残りをかけて、
「情報共有をしていることだろう」
これが、本来の意思とは違うのかも知れないが、ブラックリストに乗るということで、
「借金ができない仕掛け」
となり、結局、
「それ以上の被害を広げなくてもいい」
ということになる。
ただ、その時点で、ほぼ人生が終わりだと言ってもいいだろう。
それを考えると、
「バブルの崩壊」
というものが、どれだけ大きな社会問題だったのか?
ということが分かるというものである。
「バブル経済の元々」
というのには、いろいろな理由があっただろうが、一番大きかったのは、
「実態がないということを分かっていなかった」
ということであり、もう一つは、
「過剰融資」
というもので、
「神話がある銀行がいうのだから」
ということで、信じて疑わないということが、その結論を大きなものとしていたことにあるのだろう。
そんな過剰融資こそ、
「トカゲの尻尾切」
なのだ。
だから、本来であれば、
「借金取り」
を殺しても、どうなるものでもない。
借金をなくするのであれば、
「借用証書」
というものを、この世から、抹殺しないといけないのだ。
それを持っている人を殺害しても、借用証書がある以上、その効力は失われないだろう。
そんな状態だったが、流れてきたニュースとして、
「佐久間が借り入れた会社の社長が誘拐された」
ということであった。
「実は佐久間は、以前ネットで、知り合った男性と、
「完全犯罪」
について語りあったことがあった。
その時出てきたものはいくつかあったが、一つは、、
「殺したい相手を殺して、その人に一番恨みを持っている人間、もちろん、自分以外にであるが、その人のアリバイをことごとく打ち消しておいて、その事件現場に、その人が犯人であるという証拠を残しておく」
ということであった。
一番オーソドックスな犯罪方法で、言ってみれば、
「誰もが思いつく犯罪だ」
と言ってもいいだろう。
ただ、その場合の問題としては、
「犯行現場に、あまりにも証拠を残しすぎると、却って疑われる」
ということであった。
「これは探偵小説で言えることだが、一番怪しいと思われる人間が、たいがいの場合、シロである」
ということではないだろうか。
だから、あまりにも、あからさまなことをすると、捜査本部も、さすがに怪しむということである。
ただ、捜査本部は、証拠やマニュアルにおいてしか捜査をしないので、
「怪しい
と思っていても、なかなかそっちに捜査が入ることはない。
だからと言って、策に溺れると、せっかく広げた犯行の証拠となるべきものが、
「相手が見て、こちらを示している」
ということになりかねないと思えるのだった。
ただ、それは警察の捜査というものだからであろう。
いわゆる、
「探偵小説に出てくる、名探偵」
と呼ばれるものは、独自の発想と、警察がしない方法で、犯人に辿り着こうとする。
それを考えると、
「探偵小説」
というものが、流行った理由も分かるというものだ。
というのも、
「警察の通り一遍の捜査ではなく、探偵の胸のすくような発想から、犯人を追い詰める」
というような探偵小説も結構ある。
それこそ、探偵小説の中での、
「本格探偵小説」
と言われるものではないだろうか?
そもそも、本格探偵小説というのは、元々あった発想のようだが、実際にそれを口にしたのは、日本の小説家だという。
まずは、本格探偵小説の定義として、
「トリックや、謎解きなどの爽快なシーンをラストに持たせるために、途中においての、探偵の捜査であったり、地道な活動が最終的な、名探偵と呼ばれる人が出てきての、解決編というものが存在するのが、本格探偵小説と呼ばれるものだ」
ということだ。
だったら、
「変格探偵小説」
というものがどういうものなのか?
というと、それは、
「探偵小説という括りの中で、本格探偵小説に含まれないもの」
というものを、
「変格探偵小説」
というのだという定義であった。
それだけ、本格探偵小説と呼ばれるものが、王道のようなものであり、探偵小説もジャンルを広げるとすれば、新しいジャンルが出てきても、大きなジャンルとすれば、それは、
「変格探偵小説」
でしかない。
ということになるのだ。
探偵小説の中で、
「本格探偵小説というのは、そもそも、警察の捜査が通り一遍であるということから、爽快なストーリーということで、そういう謎解きが、探偵によるものということで、探偵小説というジャンルができたのだろう」
ただ、時代が流れてくるにつれ、昔のような、
「私立探偵」
と呼ばれる職業は、次第に衰退していったのだろうか。
いや、自分たちはそんな時代に生きていないので、
「私立探偵」
と呼ばれるようなものが、そんなにたくさんあったのか?」
ということが分からないということだった。
そういう意味で、探偵というものをどのように考えるのかというと、警察は、結構、探偵小説のような話を、
「探偵小説じゃあるまいし」
ということで、
「小説は小説、事件は事件」
ということで、まったく違うものだと考えている。
つまり、よく言われる、
「トリック」
というものや、謎解きというものへの基本は、
「足で稼いだ証拠集め」
に基づくものだと考えていることだろう。
もちろん、探偵も同じなのであろうが、これが、敏腕単tっていであったり、警察の中でも敏腕であれば、
「その目の付け所が違う」
ということであろう。
ただ、探偵小説などで言われていることとすれば、
「トリックというのは、そのパターンというのは、ほとんど出尽くしていて、後は、バリエーションや、その事件の背景、さらには、動機の奇抜さなどがなければ、本格派探偵小説というのは成り立たない」
といえるだろう。
そのうちに、探偵小説も、次第に、変革していくのだ。
というのも、
「戦前から、戦後に掛けての、混沌とした、おどろおどろしい時代背景から、次第に、社会派というものに変わっていく」
というのも、それまでは、焼け野原の、
「戦後復興」
という時代は、
「何が起こってもおかしくない」
と言われる時代であり、その時代というと、
「世の中が、いかに間斧が出ても不思議がない」
ということで、
「猟奇殺人であったり、耽美主義的な犯罪というのも、探偵小説だけではなく、実際の殺人であっても、起こって不思議のない時代だった」
といえるのではないだろうか?
しかし、時代は、
「朝鮮戦争による特需」
であったり、
「奇跡と呼ばれた復興の速さ」
から、
「もはや、戦後ではない」
ということで、建築業や、インフラ関係の整備から、
「ゼネコン」
などと言われる会社による、汚職事件であったり、地元の人との、いざこざなどが、安定小説のテーマとなる時代と変わってきたのだ。
それは、いわゆる、
「社会派探偵低小説」
と呼ばれるものが出てきたのだった。
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