第3話 デスマスク
ある日、一人の男の家に、不可解なものが送られてきた。
送られてきた家の家主は、
「佐久間笛蔵」
という芸術家だった。
彼の専門は、石膏政策であり、特に、マンションのマネキンなどの性格も手掛けていた。
といっても、
「マネキンと、石膏細工とでは違う」
ということであるが、佐久間の自分なりのこだわりとして、
「石膏細工と、マネキンは同じだ」
という考えを持っていた。
しかも、その発想として、
「石膏というものは、その中に埋め込むものが、素晴らしいものだ」
ということで、
「石膏細工には、命が埋まっている」
と思っていた。
だから、石膏細工を最初に始めたのだ。
そのうちに、
「石膏細工だけでは、食っていけない」
ということで模索し始めたのが、
「マネキン政策」
というものだ。
昔に比べて、減ってきたのかどうかまでは分からないが、少なくとも、
「洋服というものが店頭に並んでいる限り、なくなるものではない」
と考えていた。
マネキンは、誰もが知っている通り、百貨店や、ブティックなどの専門店で、売り物となる洋服を着せることで、綺麗に見せるというためのものだった。
だから、人形という意味で、石膏像と同じ感覚になるのだろうが、本質が違っていると思っている。
前述のように、
「石膏像というのは、その中に埋め込むものが、素晴らしく、命というものが詰まっているというものである」
と考えているのだった。
だが、マネキンに対しては。
「まわりを聞かさることで、その美しさがこみあげてくるということで、本来は、洋服を美しく見せるものとして考える」
ということであった。
つまり、マネキンは、
「内に籠める美しさ」
であり。
「石膏像というのは、内側から、こみあげてくる美しさである」
ということを考えていた。
同じ人形として、それぞれに美しさを纏うという発想であるが、
「内にこもる」
ということなのか?
「内から表に現れる」
というものなのか?
ということで、正反対ではあるが、その美しさには、
「絶対無二のものではないか?」
と考えていたのだった。
それが、佐久間という男の考え方であり、
「佐久間という人間の性格として、双極でモノを見る」
ということから、
「マイナスとマイナスをかけ合わせれば、プラスになる」
という意識を持っている人間であった。
一時期、マネキンをたくさん作っていた、佐久間であったが、最近では、元々作っていた石膏像の方が、多くなっていた。
石膏像は、なかなか注文があるというわけではないので、あまり、金にならない、製造物ということになる、
しかし、ある時期から急に注文を受けるようになった。
それはもちろん、ありがたいことなのだが、
「どうして今頃になって、そんなに石膏像の注文があるのか?」
ということに、作ることは作るが、疑問がないわけではなかった。
佐久間が石膏像が好きなのは、
「自分が石膏像が好きだからだ」
というのがその真相で、
「好きだから作るというのは、当たり前のことだ」
というだけのことだった。
それでも、もちろん、マネキンを作るようになってから、そちらの需要が多かったことで、ありがたく、余った時間で、石膏像を作ることができた。
たまに、どこかの美術館から、
「オブジェ」
としての依頼がある。
美術館とすれば、展示品として、高尚なものを展示していることもあって、そちらに巨額の金をつぎ込まなければいけないので、その分、オブジェに大金を叩くわけにもいかない。
それを思えば、
「オブジェくらいは、そのあたりの工芸作家で取り繕うくらいがちょうどいい」
ということなのだろう。
どうせ、そんなに有名でもなく、
「食っていければいい」
ということで、
「楽しくできればいいんだ」
という、プロ意識というものに、大いなる欠如を持っていた佐久間とすれば、本当に、適当な毎日を送っていたといってもいいだろう。
ただ、彼には結構偏屈なところがあり、
「この偏屈さが、ワンチャン、俺の中で、プロとしての可能性を残しているのかも知れないな」
と勝手に思っていた。
もっとも、そんなにプロ意識を持っているのであれば、
「自分から、もっと作品を売り込もうとするのではないだろうか?」
と考えていた。
プロというものが、どういうものなのかということを、考えた時、自分が子供の頃を思い出していた。
佐久間少年というのは、子供の頃は、好奇心が旺盛で、何をやってもそつなくできていた。
だから、まわりも、
「こんなに多方面に趣味を持っていれば、いずれは、どんな才能が芽生えるか楽しみだわ」
と言っていたのだ。
本人もすっかり、その言葉を真に受けて、実際にやってみると、確かに、何でもこなせて言ったのだ。
まわりからは、
「そんなに何でもできるのに、こつや秘訣があるの?」
という、子供だから許されるという、
「愚問」
をよく受けていた。
「俺にも、そんなに分からないよ、俺だって、自分が、そんなに皆がいうような素質があるなんて分かっているわけじゃない」
と答える。
これは、素直な気持ちなのだが、まわりは、そうは思わない。
それはそうだろう。
まわりが、
「佐久間少年には、素質がある」
といい、自分も、何をやっても、佐久間少年にはかなわない。
それはあくまでもm大人の人たちが勝手に思っている評価なので、どちらにしても、
「大人の目」
がそういっているのだ。
つまりは、
「大人がそう思っているのだから、子供の自分たちに適うわけがない」
ということから、
「佐久間にはかなわない」
と思っても無理もないことだ、
しかし、子供が思っている、
「佐久間の叶わないところ」
というのは、素質なのか、それとも、努力によって掴んだものなのかということが分からないのだ。
特に佐久間本人が、
「そんなに努力をしているわけではない」
といっていることや、見ていて、
「どこでいつ、努力をしているのか?」
ということが分からない。
ということで、
「努力によるものではない」
と見えるのだった、
そうなると、
「天才肌なのではないか?」
と言われるのは当たり前のことで、それが、佐久間にとって、
「本当は嫌な見られ方だ」
ということであったのだ。
佐久間は。
「自分が天才肌ではない」
と思っている。
天才ではなく、
「努力による、秀才肌」
というのが、自分には似合っていると思っているのだが、それは、元々、自分のことを、
「プレッシャーに弱い」
と感じていることから言えることではないだろうか?
というのも、
「佐久間というのは、時々、自分でも想像していないような、
「うっかりミス」
をやってしまうことがある。
ほとんどの時はしっかりと気を付けているのだが、急にうっかりするのだ。
それも、そのタイミングが、
「定期的に起こることだ」
というものであった。
というのも、
「普段は気を付けているだけに、おれが定期的というのは、自分の中に、どこか、ぽっかり穴が開くというがあるのではないか?」
と考えた。
それを、
「自分が天才肌」
ということであれば、納得がいくと考えたのだ。
「実に都合のいい考え方だ」
ということであるが、
「果たしてそうであろうか?」
と考えるのだ。
都合のいいというよりも、まるで、
「逃げ道を探っているようだ」
と感じるのだ。
「最初から、逃げ道を持っていれば、気楽にできるというものだ」
それを考えると、
「天才肌」
というのは、最初に逃げ道を持っておいて、その中でできた心の余裕が、いつもまわりに想像もできないような、
「成功をもたらすのではないだろうか?」
ということを、子供のくせに考えるようになっていた。
そう、
「子供のくせに、こんなことを考えるのだから、それこそ、他の人にはない天才肌というものではないだろうか?」
と考えたが、
「天才肌」
というのは、
「皆と同じではないことで、その能力を発揮するところから見えるものではないだろうか?」
だとすると、
「その人が天才かどうかということを、どのように考えるかということで、人と同じでなければ、それだけで天才なんだ」
と考えるようになってきた。
その時、
「ああ、じゃあ、人と違いさえすれば天才なんだ」
と思うと、
「人と同じことをしなければいいんだ」
と思うようになった。
それは、親や先生が教えることと、まったく正反対だった。
「人は一人では生きていけない」
ということから始まって、
「だから、皆と強調しないといけない」
という考えにいたる。
これも、まあ、当然の考えであろう。
「人と違うことをすれば、嫌われて、人と協力できずに、孤立してしまう」
というような考えを、大人は持っているようだ。
「本当は違うかも知れない」
とも思ったが、大人の言っていることを総合して聴いてみると、
「どうしても、皆と同じでなければいけない」
ということに共通しているようにしか思えないのだった。
もっといえば、
「人と違うことをしていると、孤立して、一人では生きていけないので、死ななければいけない」
という極論にいたってしまうように思えてならないのだ。
それを思うと、最初こそ、
「生きていくためには、仕方が合い」
と子供心に思った。
しかし、伝記などを読んだりしていると、
「世界的な偉人」
というのは、皆、どこか突出しておかしなところがあった。
というのは、あくまでも、自分たちの考え方ということからなので。
「おかしいこと」
というのが、
「大人が自分たちに教えた、いわゆる、一般常識」
というものであって、
「本当に、一般常識を知らないと生きていけないんだろうか?」
と思ってしまうのだった。
確かに一般常識というのは、知らなければいけないことではあるが、そればかりを実践していると、
「結局、皆同じレベルにまでしか達しないので、それ以上というのはありえない」
と、少し子供から大人になってくると感じるのだ。
それでも、大人が、
「平均的な大人になる」
ということを教育だと思っていることに、疑問を感じてくるようになる。
学校の試験でもそうではないか。
ほとんどの試験で、赤点であったとしても、数学だけは、毎回満点だということになれば、佐久間などが思うのは、
「数学に関しては、天才だ」
と思うだろう。
しかし、大人が言っている、
「平均的な大人になればいい」
というのは、平均点が、例えば、
「70点」
ということであれば、なってほしい大人というのは、
「すべてのテストで、70点以上を取れる子供だ」
ということになる。
もちろん、子供が成長する中で、どれか一つだけが特化していたとしても、その一つのことで伸び悩めば、後が全部落第なのだから、
「完全な劣等生だ」
ということになることだろう。
しかし、すべてが、少しだけであっても、
「平均点以上であれば、いくらでも潰しがきく」
ということになるだろう。
その方が、親としてはいいと思っているのだ。
正直、
「気が楽だ」
ということになるのだろう。
そう思うと、
「何も突出することはなく、人並みでいいんだ」
といっているのは、
「子供にとっても安心感につながると思っているのかも知れないが、この上のないプレッシャーにも繋がっている」
ということを、親は失念しているということになるのだろう。
と考えられる。
だから、佐久間少年は、そのあたりのことを、思春期の頃に感じるようになった。
思春期というのは、考え方が、紆余曲折し、結論がなかなか出ないものであるが、この時期に考えるということは、
「逃げることができない時期」
ということで、敢えて、迎え撃つ必要があるのだろう。
その中で、自分が決めた進路であったり、その道を切り開くということは、その時期に、自分で曲がりなりにも決めた生き方が、その後の自分の運命を変えるのだということが分かっているのかどうなのか、実に難しいところである。
「思春期というのは、成長期ということでもあり、心神ともに、一緒に成長すればいいのだろうが、普通は、どちらかが、先に進み、後から耗一つが追いかけてくる」
ということになる。
だから、それを、自分で分かっていないと、心神のバランスが崩れてしまい、その安定しない状態のまま大人になってしまうと、
「精神疾患」
というものを患うことが多くなってしまうのではないか?
とも考えられる。
ただ、最近の精神疾患というものは、昔の根性論で何とかなるものではなく、
「結果として、うまくいかないのは、外的な要因に、社会問題などの、深刻な部分が潜んでいるからだ」
といえるのではないかという考えと、
人間の構造が、身体だけではなく、頭や神経に及ぼす影響が、大いなるものとして映るだけに、その全体像をつかむことができず。
「正体不明」
ということで、どうすることもできないということを思わせることになるのではないだろうか?
それが、一番影響を与えるとすれば、
「子供が大人に変わっていく」
というところである、
「思春期」
という部分ではないかと考えられる。
そこで、昔の大人が考える、
「平均的な大人になる」
ということが、今の時代では、難しいことになり、むしろ、
「一つに特化した大人になる」
ということの方が、どれほど難しくないという世界になってきているのだとすれば、
「今までの常識は、非常識だ」
というようなことになったとしても、不思議ではないだろう。
大人というものが、子供に与える影響がどこにあるかということを、子供は分かっている。
だから、大人が教えることに、一度は、
「おかしい」
と感じるのだ。
しかし、結局は、
「ああ、大人のいうことは間違っていない」
と感じるきっかけになるものが、今までの死守期の中ではきっとあったのだ。
それが、最近では、大人がいうような、
「平均的な人間が、間違いない」
という発想を持ったエピソードが自分の中にできてこない。
というのは、一言でいえば、
「時代が変わった」
ということなのかも知れない。
これは、世の中にある社会というものを構成しているのが、大人の世界で、
「学校」
ともいえる会社の中で、これまで
「常識だ」
と言われていたことが、ことごとく、壊れていくのが、見えるようになったからではないだろうか?」
その壊れるきっかけとなったのが、
「バブルの崩壊」
ではないだろうか?
昔から言われていた常識。
つまりは、
「神話と言われていたものが、どれほど覆されたことであろうか?」
というのは、まずは、
「銀行不敗神話」
というものであった
「銀行のような金融機関は潰れない」
と言荒れていた。
その根拠として言われていたのは、
「銀行が破綻しそうになれば、政府が潰れないように対策を取るからだ」
ということであった。
しかし、実際にバブルが崩壊し、銀行が危なくなると、あっという間に破綻した。
それは、
「想像以上に、倒産までのスピードが速かったからだ:
といえるだろう。
そもそも、政府は、すぐには動けない。いくつもの手続きを経て動かないといけないからだ。
それは、警察と同じで、
「もたもたしているうちに、殺されるかも知れないと分かっていたくせに、手続きや何かでもたもたしているうちに殺されてしまった」
などという、
「いかにも、税金泥棒」
と批判されても仕方がない状態になっているにも関わらず、それでも、公務員として動けない、雁字搦めの状態は、政府も同じなのだ。
だから、目の前で崩れていくのに、
「自分だけが助かればいい」
という発想で、
「危なくなれば、逃げるだけだ」
というような状態だから、
「音を立てて崩れて言っているにも関わらず、それだけに、政府全員が保身に走るから、どうすることもできなくなる」
ということである。
だから、バブルが崩壊した時点で、世の中というのは、誰も止めることができないまま、まったく違う世の中を作ってしまった。
「バブルの崩壊」
というのは、まるで、
「ワームホール」
というものを作る結果をもたらしたのかも知れないということになるのだった。
そんな中、佐久間のところに届けられた届け物というのは、何と、
「デスマスク」
だったのだ。
そのマスクの人物には見覚えがあった。 さすがに、今生きている人、しかも、高齢ですでに、
「まもなくお迎えが来る」
というような人のデスマスクなど作るわけはなく、
「見たことがある」
と思うのは、歴史上の人物だったからだ。
歴史上の人物であれば、デスマスクではなく、
「肖像画をマスクにしただけ」
と考えればいいものを、見た瞬間に、
「デスマスク」
だと思った自分が、いかにひねくれた性格をしているのか?
と感じるのだった。
ただ、佐久間という男が、歴史というものを、何か他の人とは違った目線で見ているとすれば、それは、いかに考えればいいのか
と思えてくるのだった。
「デスマスク」
というのは、古代ギリシャの時代から、記録が起こっている。
記録が残っているということなので、実際には、
「もっと昔からあったのかも知れない」
しかし、考えてみれば、
「デスマスク」
というから、不気味に感じるのだろうが、考えてみれば、同じような時代には、エジプトで、
「ミイラ」
というものが存在し、
「死体の保存を図った」
ということがあったではないか。
つまりは、ミイラというものも、デスマスクというものも、
「死んだ人に敬意を表しながら、その生存の証として残しているものだ」
と考えれば、
「ミイラ」
というものの存在を認めるのであれば、
「デスマスク」
の存在を気持ち悪いと思うのは、おかしいといえるのではないだろうか?
「ミイラというのは、有名で、代々のファラオが、ピラミッドやスフィンクスとともに、未来に残そうとしているのだ」
ということが研究されてきているのに対し、デスマスクには、そのような風習があるわけではなく、実際に現存もしていない。
記録として残っているだけで、その目的も分からない。
ただ、
「王様であれば、富と権力にものを言わせて、未来に残るピラミッドやスフィンクス」
というものを、その力を使って残すということはできるんだろう。
しかし、それができるのは、
「ファラオ」
のような権力を持った王だけで、一般の市民にはできないので、せめて、
「マスク」
のようなものを作って、
「永遠に残す」
というようなことはできないだろうが、せめて、子供の世代か、孫の世代くらいまでは、「肖像画というイメージで残してもいいいのではないか?」
ということであった。
確かに肖像画であれば、普通のことなのだが、それはあくまでも、
「現代だから」
ということで言えることなのだろう。
しかし考えてみれば、
「肖像画であっても、マスクであっても、その人尾意見を示すということであれば、どちらでも構わないのではないか?」
と考えた。
「絵の方が、保存力がある」
ということであったり、
「マスクはすぐにダメになる」
と考えたとすれば、どうして肖像画だけが残っているのかということは分かるというものであった。
そんなマスクが、
「気持ち悪いものだ」
ということがいわれるようになったとすれば、それは、探偵小説であったり、ホラー小説に出てきたからではないだろうか?
実際に、そんな小説をたくさん読んでいるわけではないが、確かに、以前読んだ小説の中に、
「デスマスク」
つまりは、
「死仮面」
というものが送られてくるというような話を読んだことがあったというものだ。
そんなデスマスクというものが、佐久間に送られてきたということは、しばらく誰もしらなかった。
本人が、
「デスマスクが送られてきた」
などということを離すこともなかった。
話をしたとしても、それは、誰にでもいえる話ではなく、親友のような相手でなければ言えないだろう、
ちょうどその頃、佐久間は、
「そんなに親しい友達がいたわけではない」
ということだったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます