第10話 すりすりからの初めての実戦

 馬で山道を思いっきり駆けると、気持ちが良かった。王宮を見下ろせる崖まで駆けあがったところで、ディランは馬を止めた。


「なかなか筋がいい。俺に付いてこれるなんて」


「閣下、本気でしたよね? 置いて行かれるかと思いました」


 見晴らしのいい場所で馬をつなぐと、ディランは不満そうに振り向いた。


「その閣下っていうの、なんとかならないか?」


「え? 准将は将官ですから、敬称は閣下ですよね?」


「敬称を付ける必要があるか? 准将も階級名だし。俺はディランと呼んでほしい」


 まっすぐに大きな瞳でねだられて、少し緊張する。名前を呼ぶだけなのに。


「……ディラン」


「…………ッ」


 自分からねだったくせに、ディランは息を呑んで俯いた。沈黙が続く。しばらくしてから、パッと顔をあげた。


「し……下を見てみろ。ここから第一王子邸は丸見えだ。ここで敵は偵察をしているに違いない」


 庭師が薔薇の手入れをしている様子が見える。遠くから目が合った気がした。


「この位置を覚えておくといい。後であの恋仇の……ロセウム・エリンク大尉。彼にも共有しておこう」


 恋仇とはいえ同志。そこはディランもわきまえてくれているようだ。それにしても恋仇か……私はディランを可愛いワンコとしか思えないのだけど。


 そのうち醒めるだろうと、この時はそう思っていた。


「ところで、今日は貴女の剣と馬の稽古に付き合った。貴女も俺の稽古に付き合ってくれないか」


 ディランは懐から一本の棒を取りだした。先端にふわふわとした毛玉がついている。


「それでなんの稽古をするのですか?」


「笑顔の稽古だ」


 あ、なるほど。くすぐるのか。でも、遥かに階級が上の上官をくすぐるなんて許されるんだろうか。


「早くこしょこしょしてみてくれ。自分でやってもあまり効果がないし、部下にやらせるのもちょっとためらいがあって」


 部下にくすぐられるのはためらうのか。私は直属の部下ではないにしても、階級が下の人間なのに……。


「ほ、本当にやっていいのでしょうか?」


 やってみたい方に気持ちが傾いているものの、念のため再確認。


「もちろんだ。早く」


 期待を膨らませた大きな瞳に魅入られて、こしょこしょと首すじをさわってみたら、ぴょんとディランは飛び上がった。


「こ、こしょばゆい……ッ!」


 嗜虐心がそそられる反応。本気でこしょこしょしてみた。


「ひゃ……ッ!…………こしょばゆ……ハハハッ」


 身体を捩りながら逃げようとして、ついにディランが笑った……! 


「か……可愛い」


 整った顔をくしゃくしゃと崩した笑顔は、恐ろしい破壊力があった。抱きしめたくなるほど可愛すぎるのだ。


 ついエスカレートして、あらゆる場所をこしょこしょとしてしまう。


「アハハハハ……ッ……い……いたい……ッ」


 悶えていたディランが突然顔を押さえ出した。


「えっ! どうしたんですか!?」


 私はくすぐるのをいったんやめて、顔を覗き込んだ。潤んだ蒼い瞳が至近距離にあって突然ドキドキとしてきた。


「俺は表情筋を普段使わないから。ピキーンときたようだ」


「大丈夫ですか?」


 つい、柔らかい頬をすりすりとしてみた。ディランが甘えるように私を見上げた。


「もっとすりすりしてくれ」


「こう……ですか?」


「うん……」


 私達は何をしているんだろう。冷静な声でツッコミをしつつも、柔らかな頬から手が離せず、蒼い瞳から目も離せない。


「レジーヌ、貴女が好きだ。俺は表情がなくて不気味かもしれないが、少しずつ直していくから。だから俺と結婚してほしい」


 幼い、真摯な声。そのうち醒めるだろう、なんて思っちゃいけなかったんだ。でも、今の時点では可愛いワンコとしか思えない。とてもとても可愛いんだけど、でも……。


「俺は自分の背中を預けられるような女性に傍にいてほしいんだ。貴女は特務騎士団の中堅より上の素質がある。後は……実戦経験だ」


 ディランが急に目を細め、蒼い瞳の奥に殺気が宿る。ついに来たのか。背中からぞわぞわとする気配を感じる。


「初戦だ、誰しもが通る道。決してうまくやろうと思うな。心を落ち着かせろ。大丈夫だ、俺がいる」


 ディランは腰に手を伸ばした瞬間、跳躍した。そして草陰にいる刺客に襲いかかる。刺客の剣がディランに届く前に斬り伏せる。血に濡れた二本の剣を残りの敵に向ける。


「まだやるか!? 死にたいなら来い!」


 違う方面から私に向かって駆けてくる敵がいる。心の中で恐怖と葛藤が駆け巡る。護衛騎士をするなら避けては通れない道――。


「レジーヌ、後ろにハリエット様がいると思え! ハリエット様を守れるのは貴女しかいない!」


 ディランのその声に後押しされるように、私はためらわずに敵に剣を抜いた。そのままトップスピードのまま喉を突く。一瞬で勝負が決まり、私の剣によって敵が絶命した。


 足がガクガクと震える。


「見事だ。気持ち悪いか? 吐き気はないか?」


 残った敵はディランが葬ったようだ。敵の気配はなく、目の前には私が殺した敵が一人……。


「うぅ……ッ」


 朝食べたものを吐き出してしまった。ディランは優しく私の背を撫でた。


「初めて敵を殺した時、みんなこうなる。でも、これが騎士の宿命なんだ。これを乗り越えて、初めて一人前の騎士になれる」




◇◆◇



 どうやって宿舎まで戻ったのか覚えていない。部屋の外から、ディランを責めるロセウム様の声が聞こえてきた。


「どういうつもりなんだ! 確かにレジーヌはまだ実戦で斬り合いをしていない。だが、敵を一人も斬ることなく騎士人生を終えるものもいるんだ。あいつにはそうあってほしかった! なんでわざわざあいつを危険に晒したんだッ!」


「……ミラルス王国は平和で結構だな。だが、このマルテル帝国はそうじゃない。しかも第一王子妃、いずれは王太子妃となる方の専属騎士だ。一人も斬ることなく騎士人生を終える確率は限りなく低い。もしかすると貴殿も実戦は未経験か? なら……」


「う、うるさいッ! 俺は……ッ! あいつが騎士になるのだって反対だったんだ! くっだらない弱々しい男に婚約破棄されたくらいで……クソッ」


 壁をぶつ音が聞こえる。ディランは何も悪くない。ロセウム様を止めなければいけない。重い身体を持ちあげた。


「ディラン准将閣下は何も悪くありません!」


 ドアを開けてそう告げると、ロセウム様は泣いていた。そしてディランも俯いている。


 いつもの無表情ではない、沈痛な表情だった。私を見上げると、かすかに笑った気がした。


「レジーヌ、今日は本当に見事だった。次、会う時は俺から一本取れるかもしれない」


 そして私の方へ近づく。


「貴女に頼みがあるんだ。その髪を一房くれないか。お守りにしたいんだ」

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