八歳






初対面はつたいめんしたあの日から三年。桜を一度も見たことがないという桔梗を連れて、桜の木の麓に来ていた。


「わぁ! これが桜なのね」

「走ると危ないぞ」


分かってる、と答えて先駆ける桔梗の後ろ姿を見つめる。この三年間で桔梗とは打ち解け、砕けた口調を使うようにまでなっていた。世話係なのに、桔梗に振り回されている日々が楽しいと感じてしまっている自分を、少し後ろめたく思う。


「しおんー!」


近づいてきた自分に気づくと微笑み、手を振る。


「綺麗」


桔梗は目を輝かせながら顎を上げて桜を見上げた。


「紫苑も見て、薄桃色でふわふわしてるわ」

「…………」

「もぅ、紫苑はつまらないわ。こんなに綺麗なものが目の前にあるのに」


淡い桃色の頬を膨らませてむすくれる桔梗に、はらりと桃色の花弁が散り落ちる。あまりにも美しい光景に、気づかれないように息を呑んだ。


「あら? ふふ──」


ああ、これはたしかに、


「綺麗ですね」

「ふふ、でしょう? 桜の花びらが雪のように舞っているもの!」


桔梗の無邪気さに頬が緩む。


二人で桜の周りをぐるりと見て回っていた時。


強い風が吹き、桜の花びらが降り注いだ。桔梗が好むであろう、宙を舞う花びらを掴もうとすると、水を掬うような手の形を作った桔梗が慈愛に満ちた瞳で花びらを集めていた。


時が止まったような衝撃を感じていると、


──ポツッ。


「きゃあ」

桔梗が手のひらを上にして空を見上げている。


「雨が降ってきたみたい」


すぐに羽織を脱いで桔梗に被せる。桜を集める桔梗に気を取られて天候を注目していなかった。世話係としてあるまじき失態だ。


「帰るぞ」

「ええ」


桔梗を濡らさないように、急いで家に帰り、服についた雨の雫を振り払う。


「急な雨だったわね」


手拭いで濡れた髪を拭き取っている桔梗が口を開いた。


「でも桜が見えて嬉しかったわ。ありがとう」


そう言った瞬間、顔に浮かんでいた柔らかな笑顔が花が散るように掻き消えた。


「いたっ」

「どうしたんだ」


背中を押えてうずくまる桔梗にすぐさま駆け寄る。顔をのぞき込むと、その薄紫色の瞳にうっすらと涙の膜が張っていた。


「背中が痛いのか」


小さく頷く桔梗に、許可を取ってから背中を見る。


「これは」


桔梗の背中には目を覆いたくなるような、幾本もの引っ掻き傷が残されていた。まるで、鞭で打たれたような……。


「雨の日はじんじんと痛みはじめてしまうのよね」


うつむいて桔梗がつぶやく。


「ふふ、わたくしの体、醜いでしょう? 鞭でいっぱい叩かれたの」

「なぜだ。きみは宇佐美家の令嬢だろう」


少しの沈黙の後、桔梗は小さくつぶやいた。


「わたくしが妾の子だからですって」

「妾の子? そんな話、聞いたことがない」

「当然だわ。お義母さまが隠しているはずだもの」


無言で背中の傷を見る。三年も一緒に暮らしていて、何も知らなかった自分を悔やむ。雨が降るたび痛みに耐えてきたであろう桔梗の小さな背中に憐憫の情を覚える。


「わたくし何か悪いことした? 生まれたことが罪なのかしら」


睫毛の縁いっぱいに溜まった透き通る涙が、ほろりと頬に滑り落ちた。


眉を顰めて桔梗を見つめる。この小さな背中で一体どれほどの闇を見てきたのだろうか。自分の顔を覗き見た桔梗が儚く微笑む。


「あら、心配してくれるの?」

「当然だろう」


少し語気を強めて言うと、桔梗は目をぱちくりとさせて笑った。


「ありがとう、ききょうの旦那さま」


少し前まで弱音を吐いて泣いていたのに、心配させまいと気丈に振る舞う桔梗に胸が痛んだ。






◾︎






背中の傷を吐露してくれた桔梗を寝かしつけたあと、眠れずに桔梗の寝顔を見つめる。


幼い頃から虐待され、今も親の愛情を受けることなく世話係と二人で暮らし、成長しても神と結婚して一人で生きていく。

桔梗の人生は辛く寂しい。せめて、自分といる間は幸せだと感じてほしい。


──カツッ。


家に石を投げたような、明らかな人為的な音に身を潜めながら素早く玄関を開く。


「誰だ!」


玄関の周りに人影はなく、家の周りをぐるりと徘徊するも誰もいない。気のせいかと振り向くと、足元に手紙が置かれていた。

中身を取り出して見ると、


『明日、桔梗に何も告げずに一人で来い』


と書かれていた。文の終わりに蓮の花の絵が描かれている。


当主様からの呼び出しだ。桔梗の世話係になる以前はよくこうして呼び出されたものだ。

手紙を素早く燃やし布団に潜る。明日は忙しくなるだろう、胃のあたりを抑えて必死に瞼を閉じた。






◾︎






「いってらっしゃい、旦那さま」

「ああ、いってくる」


翌朝、用事があると桔梗に言い、家を出た。

本邸へ赴くのは久しぶりだった。裏口から素早く入り、当主様の部屋の前まで移動する。


「失礼します。紫苑でございます」

「入れ」


許可を得たあと、引き戸の音を立てないように部屋へと入る。


「失礼します」

「久しいな、紫苑よ。元気にやっているか」

「はい。おかげさまで桔梗お嬢様共々、元気にやっております」

「それはよかった」


朗らかな笑い声を上げる当主様を見る。桔梗の背中のことは知っているのだろうか、と。


「ところで、紫苑。桔梗を飼い慣らすのは上手くいっているか」


間をとって、口を開く当主様の話の内容が頭に入ってこない。


「あの子に逃げられると困るからなぁ。その様子だと上手くいっているようだな」


飼い慣らすように言われたことを記憶の隅から引っ張り出す。世話係に任命されたとき、そんなことも言われていたような。桔梗との日常が忙しくてすっかり忘れていた。


とはいえ、飼い慣らすなど親が使う言葉なのか。当主様の目を見る。氷のような視線が自分を射抜いた。

重厚感のある雰囲気で、


「間違っても逃がそうなどと考えるなよ」


心臓が縮み上がりどっと冷や汗をかく。恐怖心を覚えるような瞳だった。


「これから毎年、この時期に報告しなさい」

「承知致しました」


桔梗との何気ない日常を報告したあと、帰路につく。桔梗の父親のはずの当主様は、娘を愛していないようだ。そればかりか、別邸に閉じ込めようとしている。どうでもよさそうに報告を聞く当主様を思いおこす。なぜ、興味が無い娘の話を聞こうとするのか、一介の世話係では分からないことが多い。

うつむきながら唸っていると、視界に紫がうつった。なんだろう、と紫に視線を向ける。


──桔梗の花だ。


桔梗の顔が思い浮かんできた。一つ手折り、懐に仕舞う。

自分の名前の花をあげたら桔梗はどんな顔をするのだろうか。無自覚に頬が緩んでいることにも気づかずに足早に家路を辿った。






◾︎






ようやく家へ帰ると夕方になっていた。


桔梗は探すまでもなく、縁側で本を読んでいた。


「ただいま、桔梗」


桔梗は自分に気がつくと、本から視線を離し、笑みを浮かべた。


「あら、おかえりなさい。旦那さま」

「これ…………やる」


懐から桔梗の花を取り出して、桔梗の方に差し出す。


「これは?」

「桔梗の花だ」

「ききょう……? わたくしと同じ名前ね」


花を見つめる桔梗の髪が重力に従って顔の方へ垂れる。無意識に桔梗の流れた黒髪に触れ、耳に掛けるように髪を梳き、手に持っている花をそっと桔梗の耳に添えた。


「似合ってる」


驚いたように自分を見つめる桔梗に、ふっと顔をほころばせる。


「まぁ! ふふ、ありがとう、旦那さま」


脆くて、すぐ壊れそうにも見える笑みを向けられる。

自分を信頼する瞳が、ふわふわと胸を燻るような違和感がしこりのように残った。






◾︎






その晩、いつものように行灯の火を消して布団に入った。

今日は月明かりが無い、新月の夜だ。


隣で目を閉じる紫苑をちらりと見つめる。夕方の紫苑は、何だかいつもより優しくて、愛しいものを見るような瞳でわたくしを見つめていた。ぽっと頬が紅潮する。桔梗の花、わざわざわたくしの花を見つけて、持ってきてくれた。


寝返りを打って紫苑に話しかける。


「ねえ、紫苑はわたくしのこと好き?」


熱を帯びた頬を両手で包み込む。今日が真っ暗な日でほんとうによかった。

衣擦れの音がしたあと、紫苑が答える。


「世話係ですので、好きも嫌いも」

「じゃあこれからわたくしのこと、いっぱい好きになってね」


桔梗の花を髪に飾ってくれたことも、花を扱うように優しく接してくれたのも、全部桔梗にとって初めての好意だった。宇佐美家の冷たい視線とは違う温かな眼差しは、桔梗の心を開かせるのに十分なものだった。


わたくしの愛しい旦那さま、何も知らない旦那さま。わたくしはあと十年しかありませんのよ。


昏くなる瞳を閉じて、桔梗は眠りについた。




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