贄の乙女と世話係

春宮 絵里

五歳






遥か昔からその土地は、湖や川など水源は豊富であったが作物が実らず、生き物が生きることもできない呪われた土地だった。

飢饉で他の村から移住してきた人々は半数が死に絶え、残りの半数も飢餓によりいつ死ぬか分からぬ瀬戸際にあったその時、村の主導者宇佐美白蓮はくれんが立ち上がってしまう。

『湖に無垢の乙女を捧げれば作物は育ち、実り、飢えるものは無くなるだろう』

大勢の村人の中で演説した白蓮は言う。

『そして……誠に遺憾ではあるが、その生贄は宇佐美家が捧げよう』

生贄を捧げることに反対するものはいなかった。白蓮の末の娘が湖に沈むと、奇跡だろうか、作物が育ち、飢えるものはいなくなった。

そうして、宇佐美家は代々生贄を捧げることで地方貴族としての立場を確立し、村が発展したことでその祈りが形骸化した今も、宇佐美家の娘を生贄として捧げる因習は続いていた。






◾︎






宇佐美家別邸、一室


ある青年と五歳の少女が対峙していた。


世話係を託された自分の目の前には、にこにこと微笑む少女が座っている。

宇佐美木蓮もくれんの次女、宇佐美桔梗ききょうだ。

隙のない笑顔と子どもらしい視線を正面に受け、置き場のなさに少し汗ばむ拳を握りこめる。

さりげなく視線を逸らしてゆっくりと部屋を見渡す。

さすがは由緒正しき宇佐美家らしく、別邸ながら立派な家だが、どことなく息が詰まりそうな家であった。

目の前の子どもをどう扱っていいのかわからず、かれこれ五分は相対している。自分から、話しかけなければならないのか。この少女に。

笑顔の圧力に腹を括って、正面の少女を見据える。改めて見ると、その少女は背中まである黒髪に紫の大きな瞳、将来確実に美しくなるだろうと思われる、愛らしい顔立ちをしていた。


紫苑しおんと申します。本日より桔梗様の世話係を務めることになりました」


必死に覚えた言葉を吐き出した。棒読みなのは仕方がないだろう。


「うさみききょうです。今日からおせわになります」


花が咲くような笑顔を向けられる。


「紫苑さまね。ふふ、おもったよりも若いわ。おいくつなの?」

「今年十五です」

「十さい、わたくしより年上ね。わたくしのことは、ききょうと呼んでください」

「いえ。自分の方こそ、紫苑と呼び捨ててもらって結構です」


桔梗がくすくすと笑う。


「そう? じゃあ、紫苑。あなたって、はじめて見るかおだわ。むらのひとなの?」


自分に順応したように距離を詰めてくる。


「村人ではありません。十歳のときに木蓮様に拾われて以降、木蓮様の元で下働きしていました」

「へえ……お父様の。だから見かけたことなかったのね」


その後、あっという間に聞き上手な桔梗の質問に答えてしまい、歳が近いという理由で世話係に抜擢されたことや、自分が木蓮に拾われる以前の記憶が喪失中だということを話してしまった。


「くろうしたのね」


眉尻を下げて心配そうな表情を浮かべる桔梗。


「まぁ……そうですね」

「でも、もうだいじょうぶよ。いっしょになかよく暮らしましょう?」


手を握られ、あどけない顔で笑いかけられるものの、どうしていいのか分からず、体が固まってしまう。


「もう黄昏ね」


桔梗の声につられて窓の外を見遣ると、日が暮れて始めていた。ちょうど雲で隠れていたのか、夕陽に目を射られる。眩しい光に瞼を閉じたくなるも、目の前の少女から目が離せない。


「あら! 紫苑のひとみ、わたくしとおなじ色だわ」


ずいっと覗き込まれる。


「…………そうでしょうか」

「うーん、少しわたくしよりも濃い色ね。それに金色の髪も、夕陽できらきら光って綺麗ね!」


目を輝かせてつぶやく桔梗に、肩の力を抜かれるようだった。


「紫苑、ゆうげにしましょう? この着物、からだをしめつけてちっとも食べられなかったから、おなかぺこぺこなの」


桔梗は上質そうな桃色の着物を撫でて、にこりと笑った。






◾︎






寝室


桔梗と一緒に布団を敷いていた。


「紫苑、これはなあに?」

「枕ですよ」


物珍しそうに枕を眺める桔梗を横目に掛け布団を出す。

枕を知らないなんて、変わったお嬢様だ。


行灯の火を消して横になる。

橙色の光が消えて、白い月光がガラス戸を通じて入り込み、寝る前の静寂な空気が漂う。


「ねえ、紫苑。わたくしのこと、なんてきいてる?」


唐突に桔梗が話しかけてきた。体を自分のいる方へ向けるものの、瞼は閉じていた。


「神に嫁ぐ乙女だと」

「…………そう」


ひんやりとした空気が満ちる。少し悲しそうな声の響きが気になって口を開く。


「いずれ神社で暮らすのだとしても、今から気に病む必要は無いかと」

「えっ?」


桔梗が閉じていた瞼を開き、驚いたように目を丸くして、自分を見る。


「一生を神様に捧げるのは大変だと思いますが、巫女は食いっぱぐれることはないので」


きょとんとした目をして固まると、軽快に笑い始めた。


「ふふ、あははっ。そうよね」


桔梗は二人の布団の間に空いた、一人分の距離を詰めて紫苑の方を向く。


「紫苑はずっとわたくしのそばにいてくれるの?」

「ええまぁ、世話係ですから」

「じゃあ、紫苑はわたくしの旦那さまだわ!」

「え……?」

「しょうがいをともにするのでしょう? それは旦那さまだけだもの!」

「うれしい! わたくしにも家族ができたわ」

「きみは神様に嫁ぐのだけれど……」

「やくそくよ!」

「…………」



紡ぐ言葉は子どもらしいのに、振る舞いが大人びている。とても、五歳の少女には見えなかった。






◾︎






宇佐美家本邸の離れ


その日は、いつもと違った。


まず継母が鞭で叩き起こしに来ない。使用人も眠っているような早朝にわぞわざ起こしに来ていたのに。


──今日はいい日ね。


桔梗が物心ついた時から初めてのことに体を起こして瞬く。


「桔梗お嬢様、お目覚めでしょうか」


驚きで肩が跳ねる。声のした方へ視線を向けると、一人の侍女が部屋の隅に座っていた。髪はひとつに纏められ、気弱そうな面立ちだ。

侍女たちはいつもバツが悪そうに存在を無視してくるのに、話しかけてくる上、お嬢様だなんて。


「どうかしたの?」

「申し訳ございません。当主様のご命令で、準備致します」


何かがある。

顔を上げ、偽りの仮面をつけて微笑んだ。


「ええ、わかったわ。じゅんび、よろしくね」


笑顔を向けられたことが予想外だったのか、その侍女は戸惑ったような顔になり、数秒視線が彷徨う。


「さて、いきましょう」


声をかけると、立ち上がって襖を開ける。


「ではこちらに、ついてきてください」


何も無い質素な自室を離れ、長い廊下を歩いた末、本邸の化粧室へ入る。


「こちらへ」


鏡台の前へ案内され、侍女が櫛を取り出した。

わたくしの波打つ長い黒髪をすき始める。


「あなた、おなまえは?」

「菊と申します。桔梗お嬢様」

「そう、菊。きょうはなにかあるのかしら?」


上半分の髪をとって結い始めた。


「今日は当主様にお目見えします」


思いもよらない言葉に目を見張る。


当主で父の木蓮とは、赤ん坊の頃、桔梗と名付けられたあと一度も会ったことがない。赤ん坊の頃の話も使用人の雑談を盗み聞きで知ったのだ。そんな父が今頃会いたいなどと、胡散臭いことこの上ない。


警戒心を引き上げる。


「では、こちらをお召しください」


いつの間にか髪は綺麗に結われていた。鏡越しに見える髪留めは紫水晶であしらわれた美しいものだった。上半分が綺麗に結われ、下半分が下ろされている。髪を整えただけなのに、上品なお嬢様のようだ。


初めて麻以外の着物に袖を通す。肌触りの良い薄桃色の着物は、繊細な刺繍が施され、一目見ただけで高価なものとわかる。


「とてもきれいなきものね」

「はい。本当に美しいです」


菊は視線を鏡に滑らせて、桔梗を見つめた。






◾︎






「しつれいします」


中に入ると、上座に父がどっしりと構えていた。少し視線を下げて父の前へと座る。


「およびでしょうか」

「我が娘よ、息災であったか」

「はい、お父さま」


一見娘を心配する父親に見えるが、瞳の冷たさがその本性を表していた。


「桔梗、今日から別邸に行きなさい」

「べってい……ですか」


宇佐美家で別邸に行けという意味など、ひとつしかない。


「ああ。お前も宇佐美家の者ならその意味が理解できるだろう」

「はい」

「身の回りの世話は心配するな。世話係を用意した」


一度も娘のような扱いを受けたことは無いというのに、勝手なものね。


「これから直ぐに荷物をまとめて今日中には別邸に赴くように」

「はい、しょうちいたしました。とうしゅさま」

「いいだろう。行け」


全て理解した。綺麗な格好も、仮にも父親の無関心さも、あの継母の腹黒さも。

別邸に行け、つまり、今代の生贄に選ばれたのだ。


「あら、桔梗。当主様の部屋から出て、一体どうかしたのかしら?」


背後から陰湿な声が投げかけられた。ため息をつきたいのをぐっと堪え、笑顔を貼り付けて振り返ると、冷たい笑みを浮かべている継母と視線が合った。


「お義母さま、ごきげんうるわしゅう」

「相変わらずあの女に似て、癪に障る顔だねぇ」

「もうしわけございません」


あの女とは、実の母である椿のことだ。椿は桔梗を産んだあと、産後の肥立ちが悪くて死亡している。


「まあいいわ。もうあなたの顔もこれで見納めになるのだから」


豪奢な着物を引きずりながら、香水の強烈な香りを放ち、近づいてくる。


「よいこと、桔梗。神様に嫁ぐことになるのだから、これは大層に名誉なことよ。卑しい生まれのおまえに出来る最後だろうね。誇りなさい」


血の滲んだような生々しい唇の端を歪めて嘲笑う。

唇を噛んでうつむくと、継母がわたくしの耳のそばに口を寄せていやらしく囁いた。


「おまえがおっぬまでの十年が待ち遠しいわ」


怒りに波立つ感情を抑えてにこりと微笑む。


「そうですか。では、ごきげんよう」


足早に継母の元を離れて、涙で潤んだ目元を拭う。






そういうことだったのだ。全て。期待したのに、馬鹿みたいだ。


これからわたくしは、別邸で軟禁されるのだろう。生贄として、十八歳になるまで宇佐美に飼われるのだ。


この家から出られることは不幸中の幸いね。

世話係だろうが、なんでも懐柔してみせる。


口角を上げて、笑っているように見せる。

笑顔はわたくしにとって、生き残るための最後の術なのだから。






◾︎






継母との邂逅のあと、足早に自室へ戻ると中には菊が控えていた。


「あら、菊。ちょうどよかったわ。荷物をまとめるの、てつだってくれるかしら」

「もちろんでございます、桔梗お嬢様。その前にこれを」


菊が差し出したのは椿の花が意匠の、銀細工の髪留めだった。


「これは?」

「お嬢様の母君、椿様の遺品にございます」

「お…母さまの……?」


椿の花が繊細に彫られた、美しい逸品だ。


「なぜ菊がお母さまのものを持っているの?」


疑いの目を向けると、菊は慌てて弁明し始めた。


「菊は椿様の侍女にございました。椿様が逝去された際、遺品は全て捨てるよう言われていました。しかしながら、椿様がこの髪留めをお嬢様に渡して欲しいと最期におっしゃったのです」

「お母さまがわたくしに…………」

「申し訳ございませんでした。今まで渡せる機会が無く、お嬢様の現状にも耳に挟んでおりながら、何も、何も出来ずにっ…………」


泣きながら桔梗に訴える菊を見ると、心が急速に冷えていった。

菊はわたくしに赦して貰いたいのだ。罪悪感を抱えながら生きていくことに耐えられなくなったのだろう。彼女の自己満足の茶番に巻き込まれたのか。ほんとうにくだらない。しかし、この侍女は使えるだろう。


菊に駆け寄って抱きしめる。


「いいのよ。菊。きかせてくれてありがとう」


花のように微笑みかけると、潤みを含んだ瞳がさらに歪む。


「申し訳ございません、お嬢様」

「もう、いいのよ。ありがとうね」

「せめて……罪滅ぼしさせてください。髪留めを渡せたとはいえ、心苦しいです」


自分ばっかりな菊。扱いやすいなら、文句は無い。


「ありがとう菊。じゃあ、にもつをまとめながら、お母さまのこといっぱいきかせてくれる?」

「はいっ、菊が知る限り全てをお話します」






「そうだったの、たいへんだったのでしょう」

「はい。それで椿様はお嬢様を産み、お亡くなりになったのです」

「そうなのね。お母さま…………」


大した情報も無いわね。お母さまは妾だったけれど、今のわたくしより全然ましな生活を送っていたようだ。

少々の持ち物と、新しく用意された服をまとめた。


「桔梗お嬢様、いってらっしゃいませ」

「ええ、いってきます」


もう二度と戻ることは無いでしょうけど。


駕籠かごに乗り込んで外を見渡す。

荷物は後ろの大八車だいはちぐるまに積まれていた。動き出した駕籠の中で、手のひらの上に輝く椿の髪留めを眺める。


──お母さま。


わたくしを産んだ女、それ以上の感情は持てなかった。

それよりも、菊。きっとあの子は使えるわ。少し前の情景を思い起こす。






『あのね、菊。おねがいがあるの』


準備が終わってもう出発するという時、おもむろに切り出した。


『なんでもおっしゃってください』

『ありがとう。たのもしいわ』


贖罪がしたいと前のめりな菊に、笑いかける。


『わたくしはこれからべっていに行くことになりました。ここへ戻ることはないでしょう。そこで菊に頼みたいのは、一月に一度、食料品がはいたつされる最後の週に、ほんていのげんじょうを伝える手紙を出してほしいのです』


菊が言いにくそうに眉根を寄せる。


『ですが、お嬢様。それは…………』

『わかっています。手紙はかいふうされ、中身はにぎりつぶされるでしょう』

『では、どうすればよろしいのでしょうか』

『これからてじゅんをせつめいします。忘れないてくださいね』


菊には、手紙の暗号化も教えた。あの手紙は貴重な情報源として役に立つ。それに、きっと見つかることは無いだろう。


桔梗は一人で静かに微笑むと、駕籠の中に置かれた本の頁をめくる。教育も受けていない五歳の少女が文字を読めることに疑問を持つものはいなかった。




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