第6話
「――さっさと離れろ。仕事は終わりだ」
一方、ミリアが立ち去った直後のマスタード家では、ジェスターの抑揚ない冷たい声が響いた。
彼は同時に、自分にしなだれかかっていた女達を煩わしげに腕で払いのけた。
驚いた女達だったが、即座に表情を取り繕って媚を売る。
「釣れない事を仰らないで若様、ご注文通り鬱陶しい女は追い払ったのですし、折角ですもの最後まで楽しみま――ひっ!?」
「さっさと失せろと言っている。お前らが鬱陶しいなどと彼女を罵る必要はない」
いつの間に取り出したのか、不機嫌を隠しもしないジェスターの手には吸血鬼討伐用の銃が握られていて、その銃口を発言した女の額にピタリと合わせていた。
女は引ん剥いたその目に恐怖と狼狽を浮かべる。
「この銃は吸血鬼に
そう言うや銃口を外し、彼は沢山の金貨の入った小袋を三つ放り投げた。
女はこんな恐ろしい場所には一秒たりとも居たくはないと報酬袋を拾い上げるや、ドレスもろくろく直さないまま逃げ出して行った。他の女達も取り残されてはかなわないと慌てた様子で退散した。
「うっわ容赦ねえ~。あの姉さん達も単に依頼されて来ただけだろうに気の毒になあ」
「全くだよねえ」
二人の青年が同情の声を上げた。
無論、ミリアを襲おうとした件の二人だ。
「ところでジェスター、本当にあれで良かったのか? 乱暴だったんじゃ……?」
「ぼくも少々やり過ぎ感はあったと思うよ」
立派にミリアを脅かしておいて各々の意見を口にする友人達へと、シャツの前を留め終えたジェスターは肩越しにただ冷めた目を向ける。
「正直オレは、何もあそこまでしなくても良かったんじゃないのかって思うぞ。男性不審とかトラウマになったらどうする気だよ?」
「それも心配だよね。ぼく達は別に彼女からどう思われても構わないけれど、本当にジェスターは後悔しないの?」
「――しない」
シャツの袖ボタンまでを留め、椅子の背凭れにあった上着を手に取るジェスターはきっぱりと言い切った。
そう、この一切はミリアに望みはないと思い知らせるために打った芝居だ。
「今夜の事は恩に着る。万が一この先フォースター家とこの件で揉めるような事にでもなったなら、俺が責任を持って対処する。まあ彼女は告げ口をするような性格はしていないが」
徐に腰を上げたジェスターは、濃過ぎて不快な香水の匂いを散らすために窓を開けた。
「んな事は心配してねえが、もう二度とこんな胸糞悪い芝居は御免だぜ?」
「ぼくも御免だよ」
友の苦言にジェスターは疲れたように息を落とした。
「……俺もだよ」
友人達は顔を見合わせて肩を竦めた。そんな二人はジェスターの求めに応じ、悪くすれば糾弾されかねない悪役を引き受けてくれた奇特で信頼できる仲間だ。
「でもさ、危険な世界から遠ざけたいって気持ちはわかるけど、彼女には身辺に気を付けて過ごしてもらえばいいだけじゃん。ハンターの家族なんて大体皆そうでしょ」
「だよな。何なら撃退訓練をさせるのも可能だろ。実際オレの兄夫婦はそうだぜ」
「彼女は典型的なか弱い令嬢なんだ。心を病んでしまうかもしれない」
ジェスターの台詞は一理ある。
現にハンターやその家族の中には悲しみで精神が壊れた者は少なくない。
叔父夫婦の件もあるジェスターだからこそ、その点を警戒するのは当然だった。
ただし典型的、というジェスターの断言に、二人ははてそうだっただろうかとちょっと考え込んでしまった。実はこの二人は今日に至るまでミリアがジェスターに仕出かした常識外の数々を目撃していた。
「ジェスターにかかれば、典型的の解釈も独自の進化を遂げるんだろうな」
「激しく同感」
そう結論付けた。
「だけどさジェスター、将来彼女が他の男と結婚してもいいの?」
「……何故そんな事を訊く? 俺が娶らない以上必然的にそうなるだろうに」
決まり切った数式の解を述べるように揺るぎもしないジェスターの眼差しに、質問した友人、文学青年風の優男セロンはたじろいだ。それはもう一人のワイルドな友人ガイも同様だ。
「ホントお前ってそういうとこ割り切ってるのな。あーあ、人生損するぞ?」
「情に流されていては吸血鬼共に簡単に餌食にされる。割り切ってそれで一体でも多くの吸血鬼を仕留められるなら本望だ」
「ホント真面目だよねー。まあそこにぼくらは助かってるんだけど。……まあでもさジェスター、いつか本心を聞かせてよね」
「だよな、オレもしかと聞いてやるから」
ジェスターは二人からのまさかの言葉に大きく瞠目した。
「はは、は……得難い」
それきり何も言わないジェスターはいつになく落ちている。そんな様子に心配顔を見合わせた二人は、今夜は一人にした方が良さそうだと判断し静かに帰っていった。
自分以外誰も居なくなった室内、ジェスターは長椅子にだらりと力なく体を預けぼんやりと天井を見つめた。普段誰にも見せない腑抜けた姿だった。
入り込む夜風のおかげで香水はだいぶ薄れた。
その中にミリアがほんのりと付けていたのだろう香りを嗅ぎ取って、彼はゆるりと瞼を下ろす。
彼女がいつも使っている香りなので微かでもわかる程に嗅覚が覚えてしまっていた。
「他の男と、か。不測の事態に見舞われて、彼女が怪我をしたり命を落としたりするよりはマシだ。あと人質にされるよりは」
上体を起こし、今度は体を前に屈めて顔の上半分を両手で覆った。
先の光景が脳裏から離れず目の奥がチカチカする。
あの時、ぶわっと出たと表現していいくらいに彼女の目に涙が溢れた時は、正直どうしようかと思った。
眉間をこの上なく押し上げ、反対に眉尻を下げて唇をわななかせ、彼女は実に悲しげに泣いた。
人は心が握り潰された時、きっとあんな風に泣くのかもしれない。
ジェスターは、ミリアが泣く所を初めて見た。
転んで浮かんだりした生理的な涙はともかく、幾度と吸血鬼に襲われても泣かなかった強情な娘がここで泣くのかと、想定外の驚愕に見舞われた。
「これがベストだったんだ……っ」
最低だとは思う。だが自分から遠ざけ諦めさせるには他にどうしようもなかったのだ。
そう、どうしようもない。
どうしようもないと言えば、自分も救いようのないどうしようもない男だと彼は自嘲さえ浮かべる。
何故なら平気でこう思う自分がいる。
――好きだ、と。
「ミリア、君はどんな顔をしていても……可愛い」
泣き顔でさえ愛しさを深めた。
先の友人達が聞いたらそれはさすがに過剰だと額を押さえかねない。
最初はミリアを追い払っても付いてくる愚かな子犬のように思っていた。
少々しつこいなくらいに思って大して気にもしていなかったのに、彼女は段々と理解できない程に執拗にジェスターの領域に踏み込んできた。
時にはドン引いて戦慄や恐怖すら覚える程に、さっさと諦め距離を置く数多の他の令嬢とは全く次元が違っていた。
ジェスターの心は、いつしか袋小路に追い込まれて逃げられなくなっていた。
もう自分から逃げる気さえ失せていた。
だと言うのに現実では頑なに彼女の手を払いのけ、そのくせ彼女が懲りずに追いかけてくるとホッとしたものだった。救いようのない馬鹿者だ。
(こんなものは、意地を張って顔を背けながら、その手では彼女の服の袖を握って放さない我が儘なガキと一緒だな)
自分はまさにその我が儘なガキなのだろう。今更性分は変えられない。
故に、悟られてはならない。
どこで誰が見ているかもわからない外の世界では、ミリアに決して優しくなどしてはならない。
突き放して遠ざけなければ、小鳥のようにか弱く子犬のように愛すべき無垢な少女を護れない。
ただもう、彼女はきっとこの先自分に寄り付かないとそれは確信した。
安堵する反面、酷くわびしい。
「この世に蔓延る吸血鬼を一掃したら、いつかその時は君の望む通りにしてもいい」
現状ではそのいつかがいつ来ると予想も出来ないし、確証もない。
尤も、その時が来ても彼女が一人だとは限らない。
「……痛いな」
彼は胸を押さえて呻くように言って俯いた。
だが辛くても耐えてみせると自分で選んだ道だ。
叔父のように、自分の手で愛する者を殺す日が来るかもしれないと恐れながら生きるのは、到底無理だった。
今日はもう長椅子の上で寝てしまおうと、彼はどこか擦り切れたような気持ちそのままに目を閉じる。
偽るのが最も堪えた夜だった。
しかし後悔というものは、時に予期せぬ場所からもやってくるのだ。
翌日早朝、ジェスターは両親から叩き起こされるも同然に起こされた。
ただし実際に叩かれたのは部屋の扉だったが。
今いる部屋は彼の私室ではなく賓客用の部屋だ。
自室に居ない彼を捜して、おそらくは使用人辺りからこの部屋にいるようだと教えられて駆け付けたのだろう、忙しないノック音に何事かと億劫な気分で部屋の扉を開ければ、昨日の服装のまま着替えもしていない息子のだらしのなさに、侯爵夫妻はちょっと眼差しに窘めの色を浮かべた。
しかしその点を注意する暇も惜しんだように、父親が彼に詰め寄るようにして、告げた。
フォースター家の悲劇を。
ミリアに起きた最悪を。
足元が今にも抜けそうな薄い板にでもなった心地で、彼は耳を疑った。
「……それは、いつの話ですか?」
「一昨日だそうだ」
「一昨日……? ですが昨日彼女は平気そうな顔でここに……」
そして会場では終始笑顔でいた。
「敢えて隠していたようだ。フォースター夫妻が結局は間に合わなかったと言う話を鵜呑みにしてしまっていたが、本当はそういうあらましだったようだ。おめでたい日をぶち壊さないよう気を遣ったのだろう」
彼女らしいと溜息を落とす父親の言葉など、最早耳に入って来なかった。
ミリアはいつもと少し様子が違っていた。
しかしジェスターは気にしなかった。
それ所か、昨日は目の前の両親にも言えないような酷い仕打ちをした。
追い打ちを掛けるとはまさにこんな時に使われて然るべき言葉だろう。
普段表情を大きく変えないような息子の愕然とした面持ちを見て、侯爵夫妻は心配そうに顔を見合わせる。
「……身嗜みを整えてきます」
ジェスターは気持ちの籠らない言葉を置いて扉を閉め、二人との空間を隔てた。
そうでもしなければ八つ当たりしそうだった。
自己嫌悪の嵐が吹き荒れる。
彼女の悲痛な泣き顔を思い出すとズグズグと胸が潰れそうに痛んだ。
「俺は、最悪のタイミングで……」
すぐにでも彼女の所に赴いて赦しを乞いたい衝動に駆られたが何とか堪えた。
「ふ、ははっ、むしろこれで良かったのかもしれないな」
まだ彼は彼女が生涯の仇敵たる吸血鬼を一人傍に置いたのを知らない。
こうしてミリアとジェスター二人の関係が、これまでとは大きく異なる局面を迎えるのは、これもまた運命だったのかもしれない。
恋が死んだ夜から何日も過ぎた。
涙はあの夜きり。
昔からミリアには感情と共に流す涙など、とうに枯れてしまったような感覚が付き纏っていた。
だから悲しくても悔しくても嬉しくても泣けない。それでも痛みなどでの生理的な涙は出るのだから不思議だった。
されど、百歩譲って人間なのだからある日泣くとしても、よりにもよってジェスターにだけは見られたくなかったというのが彼女の本音だ。
その彼とはあの日以来顔を合わせていない。
用事もないのに足繁く通っていたマスタード家にピタリと行かなくなったのだから当然だ。
手紙の一つすら送っていなかった。
ただそれはお互い様のようで、やはりミリアの事などどうでも良かったのだろう、日も経つと言うのに未だジェスターからの音沙汰はない。
婚約は好きにしていいと言ったので白紙にはなるだろう。
まだ正式な破談の書類は交わしていないが、急かしたり現状を確かめるべくマスタード家に足を運ぶつもりはなかったので、先方から送られてくるのを待っている状態だ。ミリアの方から書類を作成して持参しないのは家格が上の向こうから破談の申し立てをした形にした方が波風が立たないと思ったからだ。ミリアとしても面倒は避けたい。事を荒立てたくなかった。
とにかくもう彼とは終わったのだ。
それが現在のミリアの見解であり、現実であり、そして望みだ。
「――リチャード、ミリアお嬢様と外出する時はくれぐれも片時も目を離さないように」
「はーい!」
「返事は短く」
「はいジョゼフさん! 兄リチャードには負けません!」
「ふむうむ、その意気です」
フォースター家の執事ジョゼフは、今日は自身の白髪を寸分の乱れなくきっちり後ろに撫でつけ、背筋もスッと伸びて頗る姿勢が良い。顔色も良い。老齢の彼は何と数日休んだだけで復帰してくれていた。
仕事に出ると言われた時はミリアも彼の体がとても心配だったが、正直助かったとも思った。
両親は依然として行方不明なのだ。
ハンター協会に捜索は依頼してある。
ミリアは自分でも手掛かりを捜すつもりではいるが、中々余裕がなかった。
彼女はフォースター家の一人娘として家長不在に際し屋敷の切り盛りをしなければならなかったからだ。
しかし家の事はほとんど右も左もわからなかった。故にこそ彼女にとって経験豊富な執事の復帰、つまりは彼からの手厚いサポートを受けられるのはとても有難かった。
そんな頼れる執事様の前には現在一人の少年が使用人の、とりわけ執事に近いお仕着せを纏って立っている。
吸血鬼のリチャードだ。
今は人外とバレないように瞳の色は茶色に変えている。
この時間は昼間で、三人が居るのはフォースター子爵家の家長の書斎、つまりはミリアの父親の書斎だ。
日光が苦手で避けていたり酷いと日光が毒となって死んでしまうと言われる吸血鬼において、リチャードは何と直射日光下でも人間と変わらず動けていた。
屋敷に連れ帰った翌日に彼が明るい庭先で庭師に交ざって談笑していた時は、ミリアもさすがにポカンとしてしまったものだ。
彼は何とも規格外の吸血鬼だった。
(本当に、元気ですねえ)
父親の書斎机に陣取るミリアは、指導を授けそして受けている二人の姿をそっと盗み見る。
リチャードは護衛だけでは飽き足らず、どうせ仕えるなら執事や従者のように身の周りのあれこれもこなしたいと申し出て、ミリアは一先ずはジョゼフに相談してみた結果がこれだ。
リチャードは執事見習いという立場にある。
ミリア自らが連れ帰った少年に何を感じたのかは知らないが、ジョゼフはあっさり指導を承諾したのだ。
以来リチャードは着々と仕事のスキルを習得している。
本当に変な吸血鬼だ。
因みに、ジョゼフから指導を受けているのは屋敷に新たに加わった少年リチャードと、そしてもう一人、同じリチャードの名を持つ青年だ。
ミリアは二人を同名の兄弟だと屋敷の皆には説明していた。
リチャード兄弟は交代制でミリアを護り尚且つ執事見習いもこなしている。
しかし実際には二人は兄弟ではない。
同一人物だ。
幾ら人間の味方で人間臭いリチャードでも、吸血鬼はやはり人間とは違うのだとミリアが強く実感した事がある。
吸血鬼の変化能力だ。
リチャードは自在に姿を変えられるのだ。
彼が好んで取っている姿がミリアも見慣れた少年姿と、そしてもう一つが二十歳程の青年の姿だ。
屋敷に連れ帰って自己能力紹介とばかりにその姿になられた時は、ミリアも瞬きを忘れさすがに唖然としたものだった。
兄弟設定はまさか吸血鬼で同一人物ですとは周囲に教えられないために考え出した苦肉の策、屋敷に混乱を招かないための方便なのだ。
更に彼は使い魔ともされる
恐ろしくモフモフしていた。
蝙蝠がまさかモフモフするとは想像もしていなかったミリアは暫く撫でる手を止められなかった。
因みに彼が自身を押し売りしてきたあの夜、手狭なら相応の姿を取ると言ったあれは、蝙蝠で棲み付くという意味だったらしい。
執事ジョゼフを始め屋敷の使用人達は彼の秘密を当然知らない。リチャードが尻尾も出さずに上手い事立ち回っているおかげだ。
(老獪さを感じますが、リチャードは一体何歳なのでしょうか)
人生経験の豊富な執事だけは薄々何かを感じているようだったが、執事たる者と心得たように詮索してはこなかった。
(ですが、もしも優秀なハンターがリチャードを見れば、見抜かれてしまうでしょうね)
一般人とは異なり彼らにはハンター独特の嗅覚というか鋭い察知能力があるという。例え見抜くまではしなくとも違和感は抱くに違いなかった。
講義中の二人を眺め、ミリアは密かに憂欝になる。
これ以上誰かを失いたくなかった。
それが吸血鬼であっても。
(ジェスター様からきっぱり離れたのは正解でした)
そんな時、ノックと共に中年のメイドがにこにことしながら来客を告げにやってきた。
「どちらの方ですか?」
「ジェスター・マスタード様です、お嬢様」
「え……」
予期せずも、何日ぶりかで他者の口からその名を聞いてミリアは思わず頬を強張らせた。
まさか本人が直々にやって来るとは思わなかった。
彼の名を耳にしたリチャードが感情の読めない顔でミリアの方を見ている。
執事は表情を明るいものにした。
この屋敷の皆にはまだ決別を話してはいなかった。
何故か世間に公表されてもいない。
彼らが破局を知らずに嬉しそうにするのも無理はない。皆はジェスターがミリアの心の支えになっていると思っているのだろう。
彼に振られてからこっち、ミリアは彼を追いかけ回す事もなくなっていたので当然屋敷の皆はそれに気付いたが、大変失礼な事に婚約者になって正式な地位を得て精神的に安定したからだと思われていたようだ。両親の件もある。
真実はそのうち必ず知れるだろうとは思っているが、きっと悲しませると思えば何となくまだ言い出せないでいた。
(ですが、今日が皆に周知させるちょうどいい機会なのかもしれません)
ミリアはそう腹を括ると重い腰を上げた。
彼の来訪理由は、双方の合意なしにはできない正式な婚約解消の件だろう。一方的な婚約破棄とは違いそれほど波風は立たない方法だ。
両親失踪の話ではないと願いたい。何しろ他のハンターに動いてもらっている。担当外の彼に関わられても逆にミリアが願い下げだ。
応接室に案内するように伝えると、ミリアは裾も袖も長く襟元も首筋まで覆う質素かつ地味目な青灰色のドレスに着替えた。
黄色やグリーンやピンクなどの明るい色のドレスはクローゼットの奥に追いやった。もう彼のために華やかに可愛らしく着飾る必要はないし着る気分にもならなかった。
必要最低限に失礼にならない服であれば良かった。
無用な騒ぎになっては面倒だったので、リチャードには念のため廊下で待機してもらい、執事ジョゼフと二人で応接室に足を踏み入れる。
窓辺に立って庭を眺めていたジェスターが振り返った。
ミリアは微かに嫌な緊張に息を詰めてしまったが、傍目にはきっとわからないだろう。
そして、自分でも思った以上に直接会っても大きくは動揺しなかったのにホッとした。
正直自分でも自分の心が本当に冷静でいられるのか自信が持てなかったのだ。
むしろ深海に沈んでいくように感情が動かなくなっていくのが喜ばしい。
視線を受けたミリアは部屋の入口で愛想笑いの一つも浮かべずにスカートをちょっと抓んで挨拶をした。
「お待たせ致しましたマスタード様。本日はどのようなご用でしょう? お互い多忙な身、手短に済ませましょうか」
一瞬空気が凍り、執事のジョゼフが目を白黒とさせる。
ジェスターは何故だかまだ何も答えないので、ミリアの方から話を投げてやった。
「婚約解消の件でいらしたのですよね?」
「ここっ婚約解消ですと!? お嬢様一体それはどういう事ですか!?」
寝耳に水で仰天した執事は珍しく無作法にも口を挟んで取り乱した。
「まだ話していませんでしたが、言葉通りです。私はマスタード様と破談になりました。正確にはまだ双方の意識上でのものですが」
「そんな……」
それきり執事は青い顔で黙り込んだ。また養生が必要にならなければいいとミリアは案じた。
ジェスターは窓辺から引き返し、応接机に置いていたらしい何かの封筒を手に取るとミリアの前までやってくる。
「そうだ。今日来たのはその件でだ。正式な合意書がここにある。君のサインで完成だ」
そう言って彼は封筒をミリアへと差し出した。
「やはりそうでしたか。わざわざ直接お越しにならなくても送って頂いても宜しかったですのに」
「……」
「では早速目を通してサインさせて頂きます。少々お待ち頂けますか?」
「構わない」
ミリアを突き放したあの夜に関して罪悪感などないのだろう彼は、謝罪の一つもなく平然としてミリアの目の前に立っている。
代理も立てずわざわざ本人が足を運んできた無神経さに、ミリアは妙に白けたものを感じてもいた。
自分には男を見る目がなかったのだろうと、今更ながらに自嘲が湧く。
ミリアは受け取って無感動に封筒へと目を落とし、応接椅子へと腰かけた。書類を広げいざと思ってからふと気付く。
「ジョゼフ、万年筆をお願いします。それからお茶の用意も」
「お、お嬢様……本当にサインなさるのですか?」
「ええ。ですからお願いします」
「……畏まりました。すぐにお持ち致します」
老齢の執事は何とも言えない顔付きでお辞儀をすると踵を返して部屋を出て行った。
ミリアの向かいの椅子に座ったジェスターは、執事が出て行った扉をしばしじっと見つめてから、その目を書面を読んでいるミリアへと向ける。
「ところで、君のご両親の話だが」
「ああ、お聞きになったのですね。今捜してもらっている最中ですので、どうかお気になさらず」
一度温度のない目を上げ、ミリアは向かいの席を見やった。
吸血鬼による事件だからかハンターの彼は苦々しいような表情を隠さない。
「そうもいかないだろう。それについてはマスタード家の方でも捜索隊を――」
「――いいえ結構です」
「何……?」
ジェスターは不可解な言葉でも聞いたように目を眇める。
「マスタード家からの助けは必要ありません」
ミリアはもう一度きっぱりと拒絶した。
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