第7話
「我が家の私事です。マスタード様には一切関係ありません」
淡々と告げるミリアを見据えていたジェスターは、ややあってフンと鼻を鳴らした。
辛辣なミリアの態度を彼もある程度予想していたのだろう。
腕を組み直し憮然として執事がお茶と筆記具を手に戻るまで無言を貫くのかと思いきや、彼は徐に椅子から立ち上がって入口の方へと歩いていく。
何をするのかと疑問を向けていたミリアだったが、廊下待機のリチャードの存在を思い出し慌てた。
廊下ではなくどこか離れた場所に居てもらうべきだったと悔やんだ。
「お待ち下さい」
この部屋に止めておくのが最善だと駆け寄って扉の前に回り込めば、彼は無言でミリアの肩を押し退けて進路を開こうとする。
「マスタード様」
ミリアは敢えて平静な声で咎めたが、相手は取手へと手を伸ばした。
しかし思い直したのか触れる寸前で手を下ろし、一歩下がる。
直後、ミリアの予想に反してノックもなく外から扉が開かれた。
執事が戻ってくるにはまだ早い。開かれた向こう、廊下に佇んでいたのは小さな影。
「リチャード!?」
ミリアが軽い驚きを浮かべた刹那、パンッと乾いた銃声が響きリチャードの金の髪が数本、回転する弾丸の熱に焼き切られて散った。
ジェスターが問答無用で撃ったのだ。
ミリアには早業過ぎて銃を取り出したのが見えなかった。
リチャードの後ろの壁には見事に銀の弾丸がめり込んでいる。
何か余程の理由がない限り、ハンターが人間相手に発砲する事はない。厳格な規則や罰則があると聞いた事もある。ミリアの知る限りジェスターはそこを蔑ろにはしないタイプだ。
だから撃ったのなら、相手は人間ではない者に限られる。
つまり、一目でリチャードが吸血鬼だと見抜いたのだ。
いや、廊下に出ようとしたのは既に気配を感じ取っていたからかもしれない。
そこを吸血鬼の方から現れたので即座に撃った、そんな所か。
ジェスター・マスタードは吸血鬼に容赦を知らない男だ。
そうであるからこそミリアはこれまでの襲撃では護られ今日まで無事に生きてこられた。
そこは感謝している。
けれども……。
「リチャード!」
ミリアはハッと我に返って駆け寄ろうとしたが、その腕をジェスターから掴まれ引き止められてしまった。
「何です! 放して下さい!」
「行くな。そいつは吸血鬼だ」
「知っていますよっ!」
「……はっ?」
一瞬怪訝に、同時に呆けもしたジェスターは、次には目を吊り上げると信じられないとでも言いたげにミリアを見つめる。
「知っている?」
「そうです! 彼の正体なら私は承知しているのです。何しろ私自身が彼を助けてこの屋敷に招いたのですから!」
もう痛みはないが、まだ薄らと痕が残っている掌を意識する。こうしてみると自分は人より傷の治りがかなり早い方なのだとミリアはしみじみ再認識する。昔からそうだ。
「正気か!?」
「正気です。仮にそうではなかったとしても、あなたには関係のない事です。放して下さい」
静かな眼差しの奥に内包されたミリアの敵意に、ジェスターは歯噛みする。
「はは、確かに個人的には関係ないな。だがハンターとして見過ごせない」
「必要であれば別の方を頼ります。女性をエスコートするのにお忙しいあなたの手だけは今後も煩わせませんので、どうぞご安心を!」
明らかにあの夜に当て擦った台詞に、ジェスターは目元を痙攣させた。
吸血鬼狩りには先制攻撃が有効とも聞くが、見方によっては卑劣とも言えるその方法にミリアは憤りを感じた。これではどちらが凶悪な存在なのかわからない。
ジェスターが再び銃を構えようとしたので、ミリアは咄嗟に彼の手を振り解いてリチャードを背に庇った。
「何故庇う!」
「彼は他とは違うのです! 殺させませんっ!」
「吸血鬼を野放しにはできない。そこを退け」
「今日はもうお引き取り下さい。銃声を聞き付けた他の者が来る前に!」
「この屋敷の者はそれの正体を知らないのか」
「ええ。いつかは話すかもしれませんが」
「ならバレた方が好都合だな」
「マスタード様! リチャードには両親の手掛かりを探ってもらってもいるのです!」
ここでようやく彼は攻撃的な気配を薄れさせた。ミリアには話していなかったがハンター仲間からの内々の情報として、彼女の両親の捜索は難航していると知っているからだ。おそらく人の領域だけでは見つけられないと彼自身薄々感じ取っていた。
しかも日々襲撃予測を立てているハンターサイドでも、件の襲撃は全く予期せぬものだった。
しかもミリアではなくフォースター子爵夫妻を狙ってもメリットはないはずで、不可解でもあった。
「強引に手出しをするのでしたら、あなたは私の敵と思う事にします」
「……道理が通らない」
「道理? それはどこから見た道理なのです?」
「どういう意味だ?」
「了見の狭いあなたにはわからないと思います」
「何だと……?」
ミリアは唇に冷笑を、ジェスターは唇を真一文字に引いた。双方引かず睨み合う事しばし、先に折れたのはジェスターだった。
廊下の向こうから足音が聞こえたので、バレてはまずいと思ったのだろう。そもそも彼は人様のお宅で発砲したのだ。大事にされると彼自身も立場が悪くなる可能性があった。
「壁の修繕はこちらで手配しますので、どうぞお気になさらずに」
「……後で俺宛てに費用を請求してくれ」
それには明確な返答をせず、ミリアはリチャードの方を振り返る。
「大丈夫でしたか?」
「うん、大丈夫。ちょっと怖かったけどね」
そう上目遣いで言ってミリアに抱き付く少年に、傍で見ていたジェスターは半眼になった。
「こいつ……」
このか弱い振りをしている少年吸血鬼は、ハンターである彼を挑発するように自ら扉を開け、あまつさえ銃弾を余裕で避けておいて怖かったなどと宣うからだ。一体どの口が言うのだとつねってやりたかった。
リチャードがジェスターにだけ見えるように超優越的ににやりとしてみせる。その際これも故意にだろうが瞳を赤く戻した。
ジェスターはうっかりまた銃口を向けそうになったが、廊下の向こうに執事や他の使用人の姿が見えたので、上着の下のホルダーに銃を仕舞った。
とりあえずはこのリチャードという吸血鬼が、飢餓欲求に任せて人間を襲うような理性なき低級吸血鬼ではないのを彼は理解した。
それ以前に昼日中に動ける吸血鬼など只者ではない。
退治に難儀する高位の吸血鬼で決まりだ。
普段は巣窟の奥で配下に指示出しをして滅多に人前には出て来ない大物が、どうしてこんな人間だらけの場所に大人しく収まっているのかはわからない。
序列や階級のある吸血鬼の中でもどこまで能力を持った古い個体なのか、それもジェスターには気に掛かった。
リチャードが人を吸血鬼に転化させられる一握りの最上位の存在だとすれば更に厄介だ。ミリアの傍に置いておくのは危険でしかない。
叔父夫婦の未来を奪った憎き吸血鬼。人間だった叔母を吸血鬼へと変えたのは、この目の前の少年のように高位の個体だ。
仇と同じ個体ではないが同じ悪しき種族としてすぐにでも滅ぼしてしまいたかった。
しかし耐えた。ここで暴れるわけにはいかない。
きっと準備万端のハンター装備があったとしても、この相手を滅するのは厳しいだろうと冷静なハンターの目がそう判断したからだ。しかし感情はそう簡単ではなく、彼は殺意を抑えるのに酷く苦労した。
「今日の所は退く。だがそいつを見逃すつもりはないからな」
ジェスターは低く発して踵を返す。
しかし数歩歩いた所で何かを思い出したように足を止めた。
「ああ、合意書は任せる」
ジェスターは今度こそ廊下を突き進むようにして去っていく。
執事達が険しい面持ちのジェスターとすれ違って困惑した表情を浮かべていた。
リチャードは鼻の頭に皺を寄せて面白くなさそうにしていたが、ミリアを横目で見てきた。
「ねえ、もしかしなくても彼がミリアを手酷く傷付けた男?」
「……ただ振られただけです」
「ふうん、そういう事にしておこっか」
あの晩の事は誰にも詳しく話してはいないのに、リチャードはそんな事まで何故か知っているようだった。
彼の情報収集能力は侮れない。
ジェスターにも言ったように、リチャードにはミリアの両親を捜してもらっている。彼は吸血鬼として色々と有用な情報網を持っているからだ。その能力を以てしても未だに両親の行方がわからないのは攫った相手も侮れない相手だからだろう。
何はともあれ、ミリアはホッと胸を撫で下ろす。
今はあわあわとして白い壁にめり込んだ弾丸と壁の具合を確かめている屋敷の使用人達を尻目に、リチャードの頭を一撫でした。
ジェスターはリチャードを諦めないだろう。
彼の吸血鬼への執念は本物だ。きっと折を見てまた来る。
「安心して下さいね。私が主人としてきっとあなたを護ります」
「僕があなたの護衛なのになあ。でも、うん、ありがとう」
リチャードは嬉しそうにはにかんで、ミリアの手を自分の頬と手で挟み込むと、大事に大事に温もりを味わうようにして目を閉じた。
実際、その後ジェスターは本当に三日と置かずにミリアの下を訪れるようになるのだが、ジェスターのハンターとしての使命感はミリアにとって最も望まない事態を齎したと言って良い。
今までは自分の方から出向いて行かなければ顔さえ見られなかったのに、顔も見たくない今は向こうからやってくる。
人生とは何と皮肉なものだろうと腹立たしくすら感じた。
そんな彼女の目下の目標は、言うまでもなく吸血鬼に攫われた両親の救出だ。
そして彼女はリチャードと過ごすうちに、彼同様に吸血鬼と人間の共存のための明確な秩序の構築を強く望むようになっていた。
「全く、お兄様はいつからおままごとが好きに?」
ミリアとリチャード達を眺める目があった。
吸血鬼の巣窟からやってきた吸血鬼の少女だ。
因みに、極反人派だ。
だからと言って王都のような人口密集地で不用意に騒ぎを起こすつもりはない。ハンターの数も比例して多いので見つかっていちいち戦うのは手間だった。
いつかは人間を破滅させるにしても、事を起こすのは今ではない。それに個人でどうこうできるわけもないのは長く生きているだけによくよく身に染みている。元々戦闘向きではないのだ。
彼女は使役している数多の蝙蝠達に偵察させ情報を集めさせる事で、ハンターの弱点を見つけるのが役割であり、楽しみでもあった。
現在の極反人派では厄介なハンターの排除を優先としていて、ジェスター・マスタードもその対象だ。
故に、彼の弱味を探っていてようやく見つけたのが彼を追い回していたミリアだった。
襲った馬車に彼女が乗っていなかったのは予想外だったが、念のため二人を攫って痕跡はしかと消した。
今度こそミリアをと意気込んだがしかし、彼女の傍らに予期せぬ相手がいたせいで実行できないでいた。
弱らせたはずの兄――リチャードが。
「しかもお兄様ったら全快してるじゃない。回復するにもあと一年は掛かると思ってたのに一体どうやって?」
時は夕刻。
王都に潜伏して密かにフォースター家を見張っている彼女は蝙蝠姿で可愛らしく翼をパタパタさせる。
「いくら親人派だからってとうとう人間と暮らし始めたのは、まあ……想定内だったけどっ。でもよりにもよってフォースター家だなんて、どうしてこういつも邪魔するのよ」
彼女は蝙蝠姿でなかったなら地団駄を踏んでいたに違いない。
ミリアに近付きたくても近付けないのがもどかしい。寄り過ぎると兄かジェスターに気取られる危険があるからだ。
だがミリアの傍に行きたい。偵察の際に遠くから一目見て、何故だか無性に気になったのだ。
「もういっそ突撃してみるのもありかしら。例えばあの娘をこっちの仲間にしてしまえば、あのハンターは泣き叫ぶかしらね。お兄様はどうするかは読めないけど」
怒るのか嘆くのか。ミリアを気に入っている様子からすると喜ぶかもしれない。親人派をやめて寝返ってくれる可能性もある。
「うふふ、そうと決まればいつ実行するかよね」
ミリアとの対面を想像して興奮する彼女はまたパタパタと激しく小さな翼を羽ばたかせた。
「リチャード、今日もこの後出掛けしましょう」
「畏まりましたお嬢様!」
少年リチャードが元気よく言って馬車の手配などの外出準備に取り掛かる。足取りも軽く書斎を出ていく際にはさらりとした金髪が彼の機嫌を代弁するように飛び跳ねた。
ミリアは早朝から家長代理業務をこなしていたが、ふと直感が働いたのか真剣な面持ちで先の提案をしたのだ。
執務机の傍でミリアの手助けをしていた執事ジョゼフが微笑ましい様子で弟子のリチャードを見つめていたが、彼がいなくなるとふっとその皺のある面に憂いを浮かべる。
「お嬢様、また外出先で面倒に遭われるのでは?」
「いいのです。この家で遭うトラブルよりは何倍もマシですから」
「それは……」
きっぱり言ってのけたミリアへとジョゼフは意見を言い淀む。彼が言及するべき事ではないと心得ているからだろう。
彼女がジェスターと破局して早二月。
外出先での面倒とは彼女が男からモーションを掛けられるというものだ。
フォースター家は大した力にもならない家だが、男達は破局記事が出て以降何かと接触してくる。ミリア本人としては甚だ意外だった。
ジョゼフとリチャードからは実に真剣な面持ちでそんな悪い虫には気を許さないようにと言い含められた。無論彼女としても気を許すも何もない。一片として気を向けるつもりはないのだ。
「ジョゼフ、留守の間にもしも何かあれば対応をお願いします」
「はい、お任せ下さい。それでは行ってらっしゃいませお嬢様。リチャード、くれぐれも頼みましたよ」
「はい、ジョゼフさん」
ミリアは執事が恭しく頭を下げるのを動き出す馬車窓から見下ろした。彼女はリチャードだけを連れて買い物に行く。
石畳の通りに小気味の良い蹄の音を立てながら屋敷の前を遠ざかっていく馬車の背中を見送る執事は、見送りに並んだ他の使用人達を先に下がらせて一人最後まで佇んだ。
「本当に今日も頼みますよ、リチャード」
ジョゼフはリチャードが何か普通の子供ではないのだと受け入れていた。それは兄リチャードにも言える事で、安心して執事の席を託せる後継が育てば自分の引退も視野に入れてみようと考え始めてもいるのだった。
「さてと、こちらはこちらで気合を入れなければ」
何しろ来客があるかもしれないのだ。
――ジェスター・マスタードという男の。
因みに、足繁く屋敷にやってくる迷惑な彼のせいでミリアはよく外出するようになった。明らかに彼を避けていた。
当然だとは思うが、相手が誰だろうとも彼女の幸せを願うジョゼフだ。
ミリアは買い物を済ませて喫茶店にいた。
すると知らない青年が彼女のテーブルに寄ってきて、この後ディナーでもしないかと誘いを掛けてきた。
ああ外での面倒がまた起きた、と内心冷めた目をしたものだ。
彼女はティーカップを静かに置くと男の方を見もしないで唇を開く。
「ごめんなさい、無理、ですので」
表情も変えずそう言って再び紅茶を口に運ぶ。最早相手を全く気にする素振りもない。
瞬殺された青年の落ち込んだ背中が遠ざかる。幸い今回の相手はあっさり引き下がってくれたが過去には強引な相手もいた。
先日などは道端で会った青年がしつこく公園デートに誘ってきたが、一向に応じないミリアに業を煮やし無理矢理腕を掴んで彼の馬車に引っ張って行こうとした。ミリアは抵抗したが男女の腕力差には敵わない。
しかし、心配は要らない。
そんな不埒者撃退には彼女の護衛が大活躍してくれる。
ミリアは気付けば地面で伸びている軟派青年を前にしていた。その傍には言わずもがなのリチャードが立っていて、子供姿の彼はミリアにもう安心だからとにっこりとした。
一方、舞踏会のような場では大人リチャードの方が活躍する。
青年リチャードは、そこらの貴族など比ではない気品を時に纏わせる。
さらりとした金の髪、優しげな眉、スッと真っ直ぐに延びた鼻梁、左右対称の綺麗な赤い唇、滑らかな頬の線の延長のシャープな顎。その整い過ぎた相貌と相まって、見る者を魅了すらする色香があった。
彼のような見目麗しい青年護衛の存在は男除けには持ってこいだ。
彼がミリアの傍に立って牽制すれば、並の男は怯んでしまって寄って来なかった。
使用人としてのお仕着せでもそこらの貴公子が霞む優雅かつ優美なリチャードは、淑女達にとっても目の毒のようで、彼を連れて歩く場所場所で必ず卒倒者が出るのは些か困った問題だった。
リチャードはそんな光景をさも珍しくもなさそうに眺め、そのためか倒れ込む女性を特に気遣う様子もなかったが、それはそれで驚いたミリアだ。
何故なら、リチャードはとても優しい。
ミリアへも屋敷の皆へも。
『共存を願う者として人間を蔑ろにしているつもりはないけど、僕にだって優先順位はあるからね』
以前そこを訊ねたら、にこりとしてそうハッキリ言われた。
社交の場に馴れている彼は自分に仕える前は王様みたいな暮らしをしていたのではないのだろうかとミリアは思っていたりもするが、訊ねたためしはない。
彼自身も元々はどうしていたとかの過去話をほとんど口にしない。訊ねれば素直に答えてくれるのかもしれないが、向こうから何かを言って来ない限りは詮索しないと決めていた。
以前がどうであれ、人間と共存を望む優しい吸血鬼の彼がミリアにとってのリチャードなのだ。
とにもかくにも、段々と厄介事の頻度は減っている。このまま行けばそのうち面倒とはおさらばできるとどこかで安心していたが、例外はいる。
特別面倒な男が一人。
以前の夜会で彼は青年リチャードを見るなりすぐに少年リチャードの別姿だと看破した。吸血鬼の能力如何をよく知っている彼からすれば造作もなかったに違いない。
とにかく、ジェスターは激怒した。
その場て銃を抜きそうな刺々しささえ孕ませた彼から人間の集まりに吸血鬼を連れ歩くなど言語道断だと責められたのは記憶に新しい。
ミリアとしては、破局以来ジェスターは扱いに困る男になった。
「……顔を合わせる度に小言なのですもの、疲れます」
喫茶店のテーブルに頬杖を突きながら、ミリアはティーカップの縁を指先でなぞりボソリと呟いた。傍で控えていたリチャードが怪訝にする。
「ところでリチャード、今日くらいはやっぱり駄目ですか? どうせなら一緒に席に着いてほしいのですけれど。一人ではこの焼き菓子だって食べ切れませんし」
リチャードは苦笑して緩く首を振る。
「駄~目です。僕は今はお仕事中なんです」
「あなたには情報収集だってしてもらっていますし、正直な所何もそこまで律儀に執事しなくてもいいと思いますが。呼び方だってミリアでいいのですよ?」
「ジョゼフさんに胸を張れる僕でありたいんです」
自由気ままそうな彼にも律儀な部分があるのかと、ミリアはやや意外に思った。
「まあでも、招かれざる男の前ではその限りじゃあないけどね」
「招かれざる……?」
「外から目立たない席にすれば良かった」
リチャードは顔付きを不機嫌なものにする。そしてミリアの背後を見やる。一体どうしたのかとミリアも後ろを振り向けば、そこには本当に招かれざる者がいた。
「マスタード様……」
彼はたった今喫茶店に入って来たようだが、しかしそのくせ既にミリアの位置を把握していて視線も爪先もばっちり彼女を向いている。
彼はつかつかと店内を進んで来ると、テーブルの空いている席に腰を下ろした。無論一切ミリアに相席の断りもなく。
「他にも席がございますよ」
移れと暗に含めれば、彼はじろりとミリアを睨むようにする。
こんな状況は初めてではなかった。彼女が無関心でいるとジェスターは指先をトンとテーブルに打ち付ける。
ああまた説教が始まるのかとミリアは身構えた。
「ミリア、何度も同じ事を言うようだが――」
「マスタード様、リチャードは誰にも危害を加えません。その点では誰よりも信用しています。話がまたその件でしたらもう十分です」
ジェスターがギリリと犬歯を鳴らす。
「誰より、だと? よりにもよってこいつを?」
「ええそうです」
「君はホント何なんだ。危険から遠ざかるどころか一番近くに行くとか、俺がどんな気持ちで……」
「マスタード様?」
彼は会う度にしつこく同じ話題を振ってくる。結局はいつも平行線になるのに懲りずにだ。
それでもミリアの意思に反して強引に滅ぼさないのは、リチャードが正式なフォースター家の使用人として雇用されているからかもしれない。
ミリアは決してリチャードを放り出さない。
彼は善い吸血鬼だ。吸血鬼だから殺すと言うのは非道だ。
ジェスターからはたとえ顎くいされても壁ドンされても絆されて同調はしない。
胸は高鳴らない。
もう心は凍ったのだ。
正直、放っておいてほしかった。
(何故なら、不安になるのです)
砕けた心を一つ一つ鎖で雁字搦めに縛って深い氷海の底に沈めた。
それなのに、時折りふと何かの拍子に氷が解けてしまいそうな気がするのだ。
瞳の奥に無自覚に憂慮を浮かべるミリアの様子から察するものがあったのか、リチャードはミリアの目の前を遮るように腕を突き出した。視界の中のジェスターが隠れて見えなくなる。
「お嬢様に失礼を働くな。レディのテーブルに断りもなく相席するなど紳士とは到底言えないな、ジェスター・マスタード」
「お前……」
リチャードのおかげでミリアからジェスターの顔は見えないが、彼がどんな表情をしたのかは低められた声から想像できた。
リチャードはこうやっていつも護ろうとしてくれる。
しかしこれ以上水と火の様な二人をやり合わせてはそれこそジェスターがぶちギレかねない。
(リチャードはジョゼフに胸を張りたいのですよね。ここは私がしっかりしなくては)
「マスタード様、どうぞ好きにここを使って下さい。私はこの後予定がありますので失礼致します。行きましょうリチャード」
ミリアは颯爽と席を立って背を向けた。はい、と返事をしたリチャードも一緒だ。従業員に多めに渡して外に出る。
一先ずはホッとできた。本当は予定などないので公園にでも寄ろうかと考える。
ジェスターも何時間と説得に粘れる程暇な男ではないはずだ。
「ミリア!」
しかし今回の予想は外れた。
彼女は喫茶店前の街路の只中でゆっくりと振り返る。リチャードは一足先に行き馬車の扉を押さえて立っていたが仏頂面になった。
「……今日はしつこいのですね」
「何とでも言え。いつまで危ない橋を渡るつもりだ? 他のハンターに知られれば、敵を匿ったとしてそいつ共々酷い拷問を受けかねない」
「リチャードを売るくらいなら一緒に酷い目に遭った方がマシです。どうぞ告げ口でも何でもなさって下さい。……というか何故今まで誰にも言わなかったのですか?」
「……無用な混乱を招く必要はないだろう」
ハンターの戦闘方針としては、理性のない個体は即時消滅が基本だが、理性のある個体は捕らえて拷問もするという。
考えたくないが、リチャードが捕まればそうなるだろう。
(ですが、それはある意味……)
言い換えれば吸血鬼と話をするという事だ。
「マスタード様、ハンターは捕まえた個体と話をするのですよね。相手の身の上を聞いたりもするのですか?」
「そうだな。しかしそれが?」
彼は会話ができると知っている。これまで有無を言わさず滅する場面しか見てこなかったミリアはそこに初めて思い至った。
(吸血鬼との共存を望むなら、味方は一人でも多い方が望ましいですよね)
それがハンターの筆頭たる家の一つ、マスタード家の跡取りであれば心強いのではないだろうか。
ミリアはジェスターを理性的に思考し判断する男だと思っている。……まあ時々よくわからないとしてもだ。
適切に言葉を尽くせば、頭ごなしに否定せず、いつかは吸血鬼を理解してくれるのではないだろうか。
(この人を説得したい、リチャードのためにも)
「マスタード様、話し合いたい事があります。近いうちにお時間を取って頂けますか? 私はあなたにも親人派吸血鬼の理解者になって頂きたいのです」
「ミリア!?」
リチャードがギョッとして目を丸くする。
ジェスターもだ。
だがしかしミリアは本気だ。
何のための言葉だ。理性だ。思考だ。
「私、あなたを説得してみせま――!?」
猫のように影の中の赤眼が細められる。
「――ミリア・フォースター、あなたの血はどんな味かしら?」
油断していた。
三人共に周囲への警戒が疎かになっていた。
影が伸びるようにしてミリアの背後に金髪の異形の女が現れる。彼女はするりと白い腕を滑らせてミリアの首筋を露わにするや、間を置かずに赤い唇を埋めた。
吸血鬼の牙を突き立てたのだ。
「あっ――」
痛みと言う程の痛みはなかったが、ミリアは急激にくらりと眩暈がして倒れそうになる。体を支えたのはミリアの血を吸った見知らぬ少女だ。
夕方寄りとは言え、まだ太陽光の射す白昼堂々往来での吸血鬼の出現に周囲の通行人達から悲鳴が上がった。いきなり現れて人を襲ったのだ。パニックになるのも当然だろう。
人々の悲鳴でリチャードもジェスターもようやく我に返った。二人は到底想像していなかった事態に直面し、見事に役立たずとなっていたのだ。
「ミ、リア……ミリア!」
リチャードが彼女の元へと駆け出して、ジェスターは銀の銃を素早く抜いた。
「彼女を放せ吸血鬼。俺は狙いを外さない」
怒りで震えないように照準を合わせるジェスターは女吸血鬼を鋭く見据え、しかし怪訝に眉を寄せた。
「どう、して……?」
何故なら、さぞ喜悦に浸った顔をしているだろうと思われた吸血鬼が、そちらの方こそが血を啜られた娘のようにショックを受けていたからだ。
他方、機を逃さずリチャードはミリアを奪還するや問答無用で飛び蹴りを食らわせた。子供から繰り出されたとは思えない強烈なそれは女吸血鬼を反対側の街路まで飛ばした。
「お前っ、余計な真似を!」
距離を開けてしまえば逃げられるかもしれないのだ。それでなくとも通行人が邪魔でもう銃は撃てない。
リチャードはミリアを支えながら冷淡な目でジェスターを一瞥する。
「大事な時に惑って油断した人から言われたくないね。本当ならすぐにでも撃つべきだった」
「っ……その通りだ」
「あとはそっちに任せる」
落ち度を潔く認めるのに別に感心はしないリチャードは、辛そうなミリアを馬車へと促した。彼女は席に落ち着くと「ありがとう」と弱々しく言って背凭れに体重を預けてぐったりとしている。
血はそれ程吸われていないはずだ。
それなのにとても具合が悪そうにしている。
どうして、と疑問を抱いたリチャードはハッと目を見開いて急いでミリアの首筋の噛み跡を確認した。
白い肌には痛々しい牙の跡がくっきりとある。そこが血の赤ではなくどす黒く染まっているではないか。
「何て事を……っ」
彼は我知らず拳を握りしめた。
吸血鬼が人間を吸血鬼に変える時、噛み跡がそうなるのをリチャードもよく知っている。
ミリアが不調を来しているのはその本能的な拒絶反応として一部の人間に表れる症状だろう。
「手加減してやるんじゃなかった」
リチャードは女吸血鬼が誰かを知っている。現れた時点で悟っていた。
妹なのだから当然だ。
故に、ミリアを傷付けたにしても加減して飛び蹴りしてやったのだ。反対側の舗道まで飛ばしたのもジェスターから滅ぼされないためだ。
こんな暴挙に出るとわかっていれば、妹と言えど情けをかけてやるのではなかったと悔やんだ。
ジェスターが府抜けていたのは本当に幸運だった。
妹がどうして放心したのかは知らないが、それも生きていれば訳を聞けるはずだ。
「それよりも今は、ハンターの持つ聖水に望みを掛けるしかないか」
吸血鬼化を防げるとすればそれしかない。早ければ早い程に浄化の効果で止められる。
ミリアは既に意識が混濁している。
「おいっミリアの様子は!?」
苦い顔付きのジェスターが乗り込んでくる。銃声もなかったので妹は逃げ仰せたのだろう。しかしそれは今はどうでもいい。
「ねえ、聖水の当てはある? 必要なんだけど」
「聖水? まさかあの吸血鬼は……!」
「うん、古い個体。人を転化させられる、ね」
「それじゃあミリアはっ」
「まだ確定じゃない。だから聖水が必要なんだよ!」
取り乱しかけたジェスターはぐっと堪えた。吸血鬼から諭されるなど心底情けなさに自己嫌悪かつ業腹だ。
「念のため、傷口を確認してほしい。ミリアの場合の進行速度も推測しておきたいし」
「わかった」
リチャードは「ちょっとごめんねミリア。緊急だからさ」と断ってジェスターにも噛み跡が見えるように襟元を広げた。
「え!?」
「これは、どういう事だ?」
目にしたものに、二人は暫し言葉を見つけられなかった。
二人の目の前でみるみる傷口が薄くなっていったのだ。
結果を言えば、吸血鬼化はなく、彼女は驚くべき特殊体質なのだと、その日二人は大きな秘密を共有した。
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