第4話
「ジェスター様、これは羽目を外した冗談で、本当は嘘なのですよね?」
ベッドの上の婚約者を見上げ、ミリアは尚も震える声で確かめる。
菫色の瞳にはどうか否定してほしいとの心からの懇願が込められていた。極限の緊張に過呼吸になりそうだ。
お願いどうかと一際強く願った時、彼が口を開いた。
「ああ、その通りだ」
「やはり嘘で――」
「――などと白々しい言葉を言って欲しいのか?」
「え?」
「何故訊き返す。その様子だと君ももう理解しているんだろう?」
表情を固まらせる彼女を見下ろして、彼はいつものような素っ気なさで答えた。
ミリアの心の奥に小さな亀裂が入った瞬間だった。
「ど、どうしてそのようなご冗談を……」
「冗談? 君にはそう聞こえるのか?」
「…………」
彼女は一度唇をぎゅっと噛んでから解放した。
「何故、このような真似を?」
「俺には君と結婚する気はないからだ。何度言っても聞かないから強硬手段を取ったというわけだ。まあ、かと言って変な男に行かれても困る。そういうわけだから安心しろ。どちらを選んでも申し分のない家柄だ。その気があれば婚約でも結婚でもするといい」
絶句するミリアへと、ジェスターは
「今の俺のように君は君で俺じゃない男と好きに楽しめばいい。さあほら二人も心待ちにしているぞ。心配せずとも今夜の事は他言しない。俺は穏便に破談にしたいだけだ」
皮肉にも穏便の部分を強調し、彼は女の肩を抱き寄せて長い髪を指先で弄ぶ。女が擽ったそうに小さく笑って彼の首元にキスをした。
――やめて!
劣情を伴ってジェスターが女に触れている……触れられるのだと思えば許せなかった。自分には一度だってそのような意味合いで手を触れてこなかったのに、と。
煮えくり返るような殺意が湧く。彼が触れた部分の女の体を抉り取ってしまいたいとも。激しく燃え上がった嫉妬が暴虐的感情と共に爆発しそうになってすぐにでも制止を叫びたかったのに、しかし急激に萎んでいく。
何をどうしようと変わらないと悟ったからだ。
深く強烈な無力感と潔い諦念。
それは言い換えればある種の絶望とも言えた。
「……他の殿方を無理やりあてがう程に私はどうでもいい存在なのですね。その方々がお好きなのですか?」
「好きでもない女など傍に置くか?」
「そう、ですよね」
ミリアも一般的な意見は持ち合わせている。
だから、こんな状況は脈なしで振られているのだと理解できる。
しかし、他人事であれば容易に納得できるものも自分事ではそう考えるのは甚だ難しい。人間自身の望まない身の上は受け入れ難いものだ。
命を救われ本心から運命だと思っていた。
ずるずると恋慕の念を引き摺ってきたのはそのせいだ。
「これで理解しただろう、――俺は君が好きではない」
まるで氷が割れるように、彼への想いに幾筋もの大きな亀裂が走っていく。
(ああ、私はまた大事な人を……)
いや、彼の場合、最初からミリアの手の中になどなかったのだ。
この世の不条理が刃となって、とうとうふつりと何か大事なものの糸を切る。
その糸は、ヒビが入ろうと砕けようと、今の今までぐるぐると包帯のようにミリアの心を包み込んでいた。
だから彼への想いは揺らがなかった。
その糸が切れて緩み、解け、本当はもう砕けていた中身が空からの崩落のようにバラバラと心の水面に落ち無数の波紋を刻んだ。
直前まで感じていた嫉妬すらも消失していく。
ポタリと、ミリアの手の甲に何かが落ちてきた。
両目の奥が痛んで熱くなって、目の乾きが取れる。
久しく経験していなかったこの感覚は果たして何だったろうと自分でも疑問に思い、頬に手を持って行けば、指先が生温い水滴に濡れた。
(私……泣いて……?)
認識すれば納得した。
何故なら視界が潤んで像が定まらない。
(泣くなんて、嫌ですね。恥ずかしい)
これ以上の醜態を晒したくなかった。
ギュッと両目を瞑って一時的に涙を押し出して、ミリアは身を起こすとふらりと立ち上がった。幽鬼のように覚束ない足取りで出口と思われる扉へと向かった。男達が追ってこなかったのは幸いだった。
扉の前まで来た所でジェスターが硬い声を投げてくる。
「馬車は待機させてある」
「……」
ミリアは何も答えず静かに部屋を出た。当然彼は追いかけてきてはくれない。
こんな裏切り、心が砕けるには十分だ。
ポタポタポタと顎の先から涙が滴るも、涙を拭う気力すらない。感情が一杯一杯でそこまで気が回らない。
初恋は最悪な形で幕引きを迎えた。
誰もいない廊下には見覚えがありマスタード家だとわかった。最早勝手知ったる屋敷内を重い体を引き摺って裏口から外に出る。
廊下で誰にも会わなかったのは、とっくに婚約式とそれに連なる一切は終わっていて招待客が帰路に就いていたからだろう。
マスタード侯爵夫妻もきっと就寝している。挨拶はできないがかえって良かった。
(こんな顔、今は誰にも見られたくありません)
待機しているという御者には申し訳ないが馬車には乗らなかった。
裏庭の夜気は少し肌寒く、裏門から出た後は街路の道行く人々に不審がられないよう一応身だしなみを整えて、努めて平気な顔を装って歩いた。
薬で力の抜けそうになる足を叱咤してなるべく急いで歩いてはみたが、我慢していた気持ちは家の近くに来た気の緩みから言う事を利かなくて、人目に付かないように細い路地に入って壁に背を預けた。
目の奥からまた溢れ出るものがあって、それは強く閉じている瞼の隙間から容易に滲み出してくる。
俯くまつげを伝って離れた滴は、暗い石畳に幾つもの染みを作った。
「……ふ、うぅ……っ、どう、して……っ」
詰る語気を向けた相手はジェスターだけではない。
今はこの世界の全部が恨めしい。
色々な感情がゴチャゴチャと混ざり合って心を揺さぶった。
「お父様、お母様、本当にどこにいるのですか……?」
まるで迷子になったようだった。
優しい両親に甘えたかった。縋りたかった。
しかし、二人はいない。
前日、執事から齎された知らせは、両親の馬車が隣町付近で吸血鬼に襲われ二人の行方がわからないというものだった。
執事は夫妻が行けと言うので一人助けを呼びに行った。本当なら二人の方こそを行かせるべきだったが主人命令だったのだ。怪我をしたのは阻止しようとした吸血鬼から攻撃されたせいだ。
懸命に走り人を連れて現場に戻ったが、しかし既に二人の姿はどこにもなかったという。
その後執事は怪我をろくに手当てもせず一路屋敷へと戻ってきた、そんな次第だった。今は屋敷で安静にさせている。
昨日はミリアも襲撃現場に向かったが、壊れた馬車以外の痕跡は綺麗さっぱりなかった。
本当はずっと捜し続けたかったが、翌日は婚約披露パーティーだったので後ろ髪を引かれる思いで戻ったのだ。
両親の件は隣町のハンター達に任せ、まだ他言しないようにも頼んで伏せてミリアは式に臨んだ。終わり次第ジェスターにも侯爵夫妻にも知らせるつもりでいたのだ。
その結果がこれだ……。
笑えないのに、心底笑えた。
自分も一緒に出掛けていればまた違った結末だったかもしれない。
今夜を迎える必要さえなかったのかもしれない。
婚約式の主役が無理をしなくていいからと両親が気遣ってくれたからこそ、一緒には出掛けなかったのだ。
「こんな事なら、行けば良かった……」
路上にうずくまり夢中で泣いた。その間、昔から知っている見えない誰かから慰めるように頭を撫でられているような、そんな不思議な感覚に陥ったのを覚えている。そんな相手はいないのに。
しばらく泣いて幾らか気持ちが落ち着いて、ミリアは鼻を啜りながらもようやく顔を上げた。
「こんな顔で帰ったら、屋敷の皆にも心配をかけてしまいますよね」
目元や顔の赤みが引くまでもう少し、夜の街中に滞在するしかなさそうだった。
そういうわけで、この場でただ無為に時間を潰すか、今いる場所から移動するかで悩んでいると、路地の奥から争うような声が聞こえてきた。
「……何でしょう?」
この近辺は治安が比較的良いとは言え、深夜ともなれば酔漢同士の喧嘩も皆無とは言えない。いつの世も、そしてどの階級だろうと酔っ払いは場所を選ばないものだ。
褒められた行いではないが、ミリアは興味本位から見に行ってみる事にした。
角の先をそっと窺えば、薄暗い街灯の下、二人組の男が一人の少年を暴行していた。
どこにでもいるような庶民の服を着た少年は、見た感じ十やそこらに見えた。金の髪が仄かに目立つ。
「――……」
少年を見た瞬間、心臓がドクンと大きく鼓動した。胸が痛むのとはまた違う、何か奇妙な感覚がした。
その感覚を内面に追いかけようとした矢先、少年の「うあっ」という呻き声ではっと我に返る。
そうだ、今は考え事をしている場合ではなかったと気持ちを改めた。
理不尽なのか応報なのかはここに居てはわからない。されどとにかく少年は殴る蹴るを受けていて抵抗一つしない。きっとできないのだ。
ミリアは見過ごせず駆け出していた。時間が経ったからか不思議と薬の効果はもう感じられない。憤りに気持ちが高ぶっているせいかもしれなかった。
「子供相手に何をしているのです!?」
ミリアの非難に男達は不機嫌な様子を隠しもせず彼女を睨んだ。
「何だあんた? 一緒に殴られてえのか?」
「おい止めとけよ、見た所上流の娘だ。下手に手を出すと後が怖いって」
「ちっ……! 関係ねえ奴はすっこんでろ!」
二人はミリアの方に唾を吐くと再び少年を蹴り出した。
「なっ……!」
瞠目する彼女は卑劣な性根にカチンと来ていた。
小さく呻く少年の痛々しさが余計に怒りのボルテージを上げる。
「もしもこの子が悪さをしたなら謝らせて反省させるべきです。それとも落ち度もないのに暴行を?」
いつもなら誰か人を呼んでいたかもしれないが、今は彼女自身だけで立ち向かった。自棄になっていたのは否めない。
「ははは威勢がいいな。どうするってんだ?」
「おいやめとけ」
仲間が止めたが、短気な男はミリアの胸倉を掴んだ。首回りまで覆うデザインなので必然的に締め付けられる。ドレスからブチブチと生地の傷む音がした。爪先が浮きそうになってもがいたものの男の腕はビクともしない。酒臭い男は拳を振り上げた。ミリアは挑むように睨み据えた。
(吸血鬼よりは怖くないですよーっだ!)
「おいって!」
「んだよっどうせこんな時間に出歩いてるんだ。ろくなお行儀のお嬢様じゃねえ……って、ううん? 良く見りゃ別嬪さんじゃねえか~」
と、男はようやくミリアの容貌に気付いたらしく、口笛を吹いて両眉をくいっと上げた。街灯の光は細く暗がりが多い路地裏だったので、近くでよくよく見なければわからなかったのだ。
下卑た笑みを浮かべる男はミリアの胸倉から手を離して腰を抱こうとしてきた。彼女は相手の胸を押す力を利用して咄嗟に後ろに逃れるも、焦りのせいで足が縺れて強かに尻もちをつく。
そこに男が覆い被さってきた。
「なっ……!?」
「とんだ拾いもんだぜ。遅くに独り歩きなんてしていたのが悪いんだぜ」
鼻先に掛けられた酒臭い息に生理的な嫌悪が湧くが、両腕を押さえ付けられて身動きが取れない。
「おいマジで止めとけって。悲鳴でも上げられちゃやべえだろ」
「うるせえ! そんなもん上げさせなきゃいいだろ」
そう言った男はミリアの両手首を片手で一纏めに押さえ付け、空いた方の手で口を押さえ込んできた。
(力強っ……苦しい……ッ)
酔った勢いで加減できないのか、鼻と口を一緒に圧迫されて呼吸が儘ならない。
貞操というよりも生命の危機に直面してじたばたと暴れた。
細い女の体では基本的な体格差もあって太刀打ちできない。とうとう意識が薄れ力が抜けていく。
(いや……です……)
今日二度目の危機に、ミリアは悔しさと苦々しさと共に男性への不信感が募る。
(男なんて皆最低のケダモノです!)
だが一番最低なのは恋などそんなものに踊らされていた自分自身だ。だからここで最終的に何をどうされようと貞操などもうどうでもいいとも薄ら思った。
それでも意識のあるうちに急所に一矢くらい報いてやると最後の根気を奮い立たせれば、
「――その子を放せ」
すぐ近くで女性か子供のような声がそう言った。
「んだと? ――ひっ!?」
男が急に飛び上がってミリアの上から離れ、慄いたように仲間の男と後退る。
「ななな何だお前、お前あれか? 化け物だったのか!?」
「おっおい早く逃げろ! 血を啜られて死ぬって!」
負荷が消え咳き込みながら上体を起こしたミリアも、恐怖に震える大の男二人に倣って彼らと同じものを見る。
「え……?」
そこには、暴行されて倒れていた少年がいつの間にか起き上がって佇んでいて、彼の俯きがちな面の奥には赤い二つの光点が湛えられている。
赤い光とは、赤く底光りする一対の瞳だった。
見慣れるとまではいかないそれにミリアも驚きを禁じ得ない。
「吸血鬼……?」
(先程までは彼の目の色は茶色か黒かで、赤くはなかったはず。今までの吸血鬼達は最初から目が赤かったのに、どういう事?)
吸血鬼という単語に一層恐怖を増幅させたのか、男達は「ひいいいっ」と裏声のような悲鳴を上げて、競争するようにして逃げて行った。
ミリアはごくりと咽を鳴らした。
(逃げるのは無理でしょうね。吸血鬼の身体能力には敵いませんもの)
今は撃退アイテム一つだって持ってはいないのだ。危機感を募らせる反面、どこの馬の骨とも知れない男に襲われるよりは吸血鬼に食われた方がマシなのかもしれないと、今夜の弱り切った心は答えを導き出した。
少年吸血鬼が一歩ミリアへと踏み出した。
「血が欲しいのでしたら、お好きにどうぞ」
虚勢と言えば虚勢。投げやりと言えば投げやり。ミリアがそんなどちらとも付かない態度で迎えようとしていると、予想外の展開が起こった。
何と吸血鬼はけほりと咳をすると、次にはふらりと体を傾がせどさりと地面に倒れた。
(へ?)
彼は見ている先でまた辛そうに咳き込んだ。
「え、ええと? だっ大丈夫ですか?」
病弱な吸血鬼など初めて見たミリアが思わず近寄って様子を見れば、吸血鬼特有の赤い瞳が見上げてくる。
生存本能的に鼓動が跳ね上がったが、少年は「たぶん大丈夫じゃないかも」と腫れた頬を緩めようとして「いててて」と痛みに顔をしかめた。
その様が今まで遭遇したどの吸血鬼とも違っていて、妙に人間染みていて、ミリアは意外感を胸にする。
「おねーさん、助けに入ってくれてどうもありがとう」
挙句はお礼まで言ってきた。
「い、いいえ。私こそあなたに助けられたのですし、お礼は要りません」
「あはっ、何かお堅いね」
普通に会話しているのにも驚きだ。
(そう言えば吸血鬼の中には知性を持つ個体もいるのですよね)
初めて遭遇した吸血鬼がそうだったのを思い出す。
ただその吸血鬼は知性はあったが、品性はなかった。
人間を単に羊や山羊のように扱う野蛮な輩だった。
元来吸血鬼とはそんなものだと思っていたのに、目の前の少年は明らかに異なるように見える。
考えてみれば、少年は吸血鬼だと明かせば先のように男達を撃退できたのにそうしなかった。
怪我をして倒れているとはいえ人間を肉体的に凌駕しているのに反撃一つしなかった。
不可解に過ぎる。
しかしその推測はミリアに警戒心を薄れさせた。
「どうして反撃しなかったのですか?」
率直に問い掛ければ、彼は軽く首を横に振る。
「人間を傷付けたくなかったから」
「吸血鬼なのに……?」
「ふふっ、そ。吸血鬼なのに」
ちょっと驚いていると、少年は憂うように半目を伏せる。
「人間のおねーさん、吸血鬼だって色々だよ。僕は吸血鬼の中でも人間と共存して行こうと考える親人派なんだ。だから基本的に人を襲ったりしない」
「親人派? そんなものがあるのですか?」
「人間にだって様々なグループがあるだろう? それと一緒さ」
彼らへのそこまでの知識はなかったとはいえ、ミリアは確かにそうかもしれないと思った。
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