海のない街『港町食堂』

菊池昭仁

海のない街『港町食堂』

第1話

      

        それは親子ほども歳の離れた恋だった

        それを人は愛と呼んだ




 海のない宇都宮の街に正月の記憶は消え、JR宇都宮駅の西口を蛇行して流れる田川には、少しフライング気味の春の陽光が、川面を軽やかに照らしていた。

 春になると、この川岸のサクラが一斉に咲き乱れ、田川はその落ちた桜の花びらでピンク色に染まる。


 私は昼食を終え、夜の営業の仕込みをするために店に向かって自転車を漕いでいた。

 快晴の早春の空を春風が吹き抜けてゆく。


 私の店はオリオン通りのアーケードから北の小路に入った場所にあった。


 その『港町食堂』はひっそりと、そして誰に媚びるでもなく堂々と存在していた。

 

 築50年の木造店舗を改装し、大きな看板はなく、ただ「港町食堂」と白文字で抜かれた藍染めの#暖簾__のれん__#が出ているだけの大衆食堂。

 歓楽街にあるため、営業は夜の9時から朝の5時まで。雨の日と日曜日を休みにしていた。


 「晴耕雨読」


 雨の日は好きなバーボンを飲みながら、読書をすることにしていた。


 「雨の日など出歩くものではない」


 私はこの歳になるまでそう思って生きて来た。

 8年前に妻と離婚し、子供はいない。

 別に不自由はなく、私は独りで穏やかに暮らしていた。


 店はカウンターが10席と4人掛けのテーブル席が4つ。ハーフ・ティンバーの古民家風の内装にしていた。

 黒い柱と白い漆喰の壁。

 メニューは支那そばとライスカレー、餃子とチャーハンのみ。大衆食堂とは呼び難い店だった。


 私は以前、住宅会社を経営していたが、会社は専務の大河内おおこうちに譲り、神田、神保町にある人気ラーメン店とカレーの有名店で掛け持ちのアルバイトをして、5年前にこの店を地元にオープンした。


 だが私はそれらの店の味を盗もうとしたわけではない。私が欲しかったのは味ではなく、飲食店経営のノウハウだった。

 どちらの店も味については#左程__さほど__#ではなく、あまり参考にはならなかった。

 それは味ではなく、行列を作るための店主の緻密な戦略があったのだ。


 ラーメン店の店主は開業当初、「限定感」を演出するために、折角作った10時間煮込んだスープを敢えて捨て、3カ月間は毎日50食でその日の営業を終えていた。

 その希少価値を求めてネットやテレビのグルメ番組などに紹介され、お客たちが勝手にその店の神秘性を語り始めた。


 あっという間にそのラーメン店は評判となり、店主は「優秀な経営者」として成功を収め、都内に次々と店舗を増やして、今やロールスロイスを3台所有するまでになっていた。

 効率的な店のオペレーションや食材の仕入れ、原価計算や人事管理はかなり勉強になった。


 以前からの人脈もあり、忙し過ぎず暇すぎず、私の店はそこそこ繁盛していた。

 1日の売り上げは5万円から7万円。バイトも雇わずの営業だったので、ひとりで食べて行くには十分な稼ぎになっていた。


 夜の9時からの営業のため、仕込みは昼の13時から始める。

 まずは支那そばのスープ作りからだ。

 スープの作り置きはしない。味が劣化するからだ。

 冷蔵や冷凍も試してみたが、どうしても雑味が気になった。


 スープは骨や肉、野菜、果物系のスープと、魚介系スープを別々に作るダブルスープ方式を採用し、お客に提供する直前に合わせて提供するスタイルにしていた。


 私はかなり多くの種類の食材を使う。

 基本は香味野菜と地鶏ベースだが、50リットルの寸胴に浄水したアルカリイオン水に酒と味醂を加え、セロリ、玉葱、青ネギを切らずに丸ごと寸胴に入れ、ニンニク、生姜、人参、リンゴとレモンは皮の付いたままふたつに割り、煮立って来たらそこへ会津地鶏を丸ごと1羽を入れ、豚足、モミジ(鳥足)、髄液が出るように肉屋に切断してもらった牛骨、そしてタコ糸で縛った鹿児島産の黒豚のバラ肉を入れて8時間じっくりと火に掛け、スープが沸騰しないように注意しながら#灰汁__あく__#を丁寧に取り、煮込んでゆく。

 煮込んで3時間過ぎたらチャーシュー用の肉だけを取り出し、生醤油で沸騰するまで煮込んだら粗熱を取って冷蔵庫で冷やして保存する。

 

 魚介系スープは利尻昆布、スルメ、干椎茸、乾燥させたホタテ貝柱、枕崎の鰹節の粗節と花かつお、ビンチョウマグロの鮪節と鯖節を入れる。

 煮干はアゴ(トビウオ)、アジ、鮎、カタクチイワシを使い、水に漬け込んでゆっくりと旨みを抽出してから火を入れる。そこから昆布だけを取り除く。


 30分ほど煮立たせたらムール貝を入れて更に30分。今度は弱火で煮込む。

 醤油ラーメンを作る上で最も重要なのが「かえし」だ。

 醤油ダレがいちばん難しい。

 私は銚子の醤油蔵をすべて回り、異なる性質の二種類の醤油を選び、それにいくつかの食材を加え、煮切りの酒と味醂で味を整える。

 

 メンマも自家製で太い物を使う。

 ネギで味がかなり変わるため、長ネギと九条ネギをバランスよく入れた。

 ホウレン草とナルトで庶民性を演出し、後は寿司海苔を二枚、ラーメン#丼__どんぶり__#の縁に添え、半熟の煮卵を切らずに丸ごと入れて完成となる。


 だが未だに悩むのが麺である。

 このスープに見合う麺はストレートの多かん水の細麺だが、コシや歯ざわりや喉越し、味、小麦の香りなどを考えると、まだまだ改善の余地はあった。


 支那そばの仕込みをしながらカレーを仕込むのだが、カレー作りは一週間の工程になるのでその日によって作業は異なる。

 作るのは牛テール・カレーのみ。


 カレーは作ってから途中で何回か火を入れて一週間寝かせるため、牛テールはその日に使う分だけを丹念に茹で、その茹汁はカレーの出汁として使う。

 肉はその日に提供する分しか入れない。寝かせると肉の臭みが出るからだ。

 カレーはスパイスを食べる物だ。シード系は極力自分で挽くようにし、リーフ系はその入れ時と引き上げるタイミングに気を付けた。


 そこに摺り下ろしたリンゴと蜂蜜、マンゴーネクターとココナッツミルクを加え、隠し味にチョコと醤油を入れる。


 メニューをカレーライスとはせず、「ライスカレー」にしたのは、自分が育った田舎ではカレーのことを「ライスカレー」と呼んでいたからだ。


 仕込みが終わっても火を使っているので、調理場を離れる訳には行かない。

 私はキャンプ用の折りたたみ椅子を寸胴の前に置き、火加減を調整して何度も灰汁を掬い、味を確認しながらラジオを聴いていた。

 


     好きなことをして生きる



 私の日常は充実していた。


 17才も歳の離れたナンバーワン・キャバ嬢、千秋と出会うまでは。




第2話

 初めて千秋と出会ったのは正月明けの月曜日、深夜、午前1時を過ぎた頃だった。

 彼女はここから歩いて5分ほどのところにあるキャバクラ、『王様と私』のナンバーワン・キャバ嬢で、ウチの店の常連、シオンに連れられてここへやって来た時だった。

 その時の千秋はかなり酔っていた。


 「大湊さん、おはようございます。今夜は友だちの千秋を連れて来ました」

 「シオンちゃん、お帰りなさい」


 私はお客に「いらっしゃいませ」とは言わない。ここは面倒臭い人間関係という海から航海を終えて帰港してくる船乗りたちの母港だからだ。


 「ちょっとー、何よこの『港町食堂』って? 栃木県に海はないっつーの! あはははは」


 そう言って千秋はコートも脱がず、珍しそうに店内を見回していた。


 「千秋、いいから早くここに座りなさいよ」


 シオンはカウンターのいつもの定位置に、千秋と一緒に並んで腰を降ろした。


 「とりあえず生!」

 「千秋、ここは瓶ビールだけなのよ」

 「どうして?」

 「さあ? 知らないけど生ビールはないの」

 「じゃあ瓶でいいよ」


 生ビールは置いていなかった。旨い生ビールを出すには毎日の徹底したビール・サーバーの洗浄や温度管理、グラスの冷蔵保管などに手間が掛かるのと、殆どが酔って店を訪れる客なので酒の注文は少なく、折角出しても残す客が多かったからだ。


 「大湊さん、ビールを1本下さい。それと餃子を2枚」

 「はい」

 「ねえ、メニューは?」

 「メニューはないの、壁に貼ってあるあの白木札にあるだけ。でもどれも絶品よ」

 「支那そば1,000円。ライスカレー1,000円。あとはチャーハンと餃子とビールがそれぞれ500円。これしかないの? だったら「ラーメンとカレーの店」にすればいいじゃん」 


 食材にこだわっているので当然原価は上がる。料金は少し高めだがお客は納得してくれていた。

 それに1,000円と500円なので、計算も簡単で釣銭を用意するのもラクだった。

 そして殆どの客は常連だった。


 「担々麺とかカツ丼や生姜焼き定食とかはないんだ?」

 「いいから食べてみなさいよ、大湊さんの作るお料理、絶対にハマるから」


 私はカウンターに座ったふたりに冷えた瓶ビールとグラスを置き、餃子の皮を作り始めた。


 「このお店の餃子って皮から作るの?」


 千秋は珍しそうに私の手元をじっと見ていた。


 「そうだよ、皮がモチモチっとしててとっても美味しいんだから」

 「餃子ってそうやって包むんだ? 凄い、中国の人みたい。初めて見た」


 シオンはグラスにビールを注ぎ、千秋にそれを渡すと自分のコップにもビールを注いで乾杯をした。


 「お疲れさまーっつ! 今日も私たち、よく頑張ったよね?」

 「あー疲れた~。今日は新年会からの流れが多かったから忙しかったもんねー」

 「特に千秋は人気があるから大変だったもんね?」

 「みんな私のカラダ目当てのスケベオヤジばっかりだよ。もううんざり。

 早く結婚してキャバ嬢なんて辞めたーい」


 千秋はそう言って、小さなコップのビールを一気に飲み干すと、すぐに自分のグラスにビールを注いだ。

 その時、千秋が酷く寂しそうな目をしていたのを私は見逃さなかった。


 「お待ちどう様」

 「わーっ、美味しそう! 羽根付き餃子だあ!」

 

 千秋が熱々の餃子を頬張ると、すぐにそれを冷えたビールで追い駆けた。


 「あちちちち はふはふ でもメチャンコ美味しいよ、この餃子! 今まで食べた餃子の中で一番おいしい!」

 「ねっ? 私が言った通りでしょ?」

 「うんうん、凄く美味しい!」


 私は千秋が少女のように喜んで、美味しそうに餃子を食べるのを見て、思わず口元が緩んでしまった。

 宇都宮は餃子の街として有名だが、殆どの店は野菜の割合が多い。

 だから安く提供出来るメリットもあるのだが、私が作る餃子は野菜4割に対して豚挽肉が6割。

 白菜を使う店もあるが、私は蒸したキャベツとニラ、エノキ茸を使い、そこにニンニクと生姜、胡麻油、山椒と塩コショウ、そこに出汁醤油を加えて十分に練りあげ、一晩冷蔵庫で寝かせて餡を作る。

 その餡に合う餃子の皮は中国人の点心師、周さんから教わったものだった。

 冷凍や作り置きはしない。皮がダレるからだ。


 「ラーメンも食べたい!」

 「私はライスカレーを下さい」


 シオンはライスカレーを、そして千秋は支那そばを注文してくれた。

 ウチのライスカレーはステンレス製の船形の容器にライスを盛り付け、カレールーはカレー専用容器に入れて出していた。

 付け合わせの福神漬けとラッキョウ、そしてピクルスはもちろん私の自家製で別皿で出し、好きなだけ掛けられるようにしてあり、『オタフクソース』も置いてあった。

 シオンはいつも通り、ソースを掛けてライスカレーを食べていた。


 「カレーにソースなんか掛けちゃうの?」

 「大湊さんのカレーにはこれが合うのよー」

 「ちょっと味見させて」

 「いいよ」


 シオンは千秋の前にカレー皿を置いた。

 

 「美味しい! 何、このカレー! ココイチよりも美味しいじゃん!」

 「ここはなんでも美味しいんだよ」


 私は千秋の前に支那そばを置いた。


 「なんだか日光のお婆ちゃんの近くの食堂のラーメンに似てる。

 ナルトがカワイイ」


 千秋は長い巻き髪をヘヤバンドで束ねると、一口、レンゲでスープを掬って慎重に口へと運んだ。

 彼女の顔が雲間から覗いた太陽のように輝いた。

 慌てて麺を手繰り寄せ、啜る千秋。


 「マスター! 明日からご飯は毎日ここで食べることにするからよろしくね!」


 私は久しぶりに声を出して笑った。




第3話

 キャバクラからの仕事帰り、翌日も千秋は店にやって来た。

 今日はシオンと一緒ではなく、ひとりだった。


 「あー、お腹空いたー。マスター、カレーちょうだい」


 千秋は私の事を「マスター」と呼んだ。

 彼女は23才、そして私は40才の中年だった。


 喫茶店やバーではないので、本来「マスター」は妥当ではない気もするが、千秋が私をどう呼ぼうが、それは私が口を差し挟むものではない。

 私はその日から彼女の「マスター」になった。


 「お帰りなさい。千秋さん」

 「ただいまマスター」


 私は大鍋からカレーを雪平鍋に移して火に掛けた。

 千秋はセルフサービスの水をピッチャーからグラスに注ぎ、ゴクゴクと美味そうに水を飲んだ。


 「ふーっ、飲んだ後のお水は美味しーっつ! ここは本当にお水が美味しいけど、どこのお水なの?」

 「シーガル・フォーという浄水器で濾過した水道水ですよ。宇都宮は水が美味しいですからね?」

 「本当に水道水なの? ウチのお店の水道水よりも美味しい気がするけど」

 「もしかすると千秋さんのお店の水道管が汚れているのかもしれませんね?」

 「そうかも。あのビル、だいぶ古いから。その浄水器、ウチにも付けて欲しいなあ」

 「お待ちどうさまでした」


 私は千秋にカレーを出した。


 「いい香りーっ! 美味しそう! いっただっきまーす!」


 彼女は胸の前で手を合わせ、ご飯にオタフクソースを掛け、そこにカレーを掛けてラッキョウと福神漬け、そしてピクルスを乗せて食べた。


 「クセになりそうー! メチャ美味しい!」

 「ありがとうございます」

 「私の家は母子家庭でさあ。夜は母親がスナックで働いていたから、いつも弟とカレーばっかり食べていたの。

 肉無しのバーモントカレー。

 あれって本当にリンゴとハチミツが入っているのかなあ? あの時もソースを掛けて食べれば良かった」

 「そうでしたか? 私も子供の頃はバーモントカレーでした。

 小学生の時、叔母がよく、「功作、今日はカレーだから食べにおいで」と呼ばれて行くと、そのカレーが凄く美味しくて、「恵子おばちゃん、このカレーってどうやって作るの?」と訊ねると、「バーモントカレーとゴールデンカレーを混ぜて作るんだよ。姉ちゃんに教えてやりな」と教えてくれました。

 叔母は母の妹だったんです。

 それ以来、家でのカレー作りは私の担当になりました」

 「マスターって「功作」って言うんだ? どんな字?」

 「功作の功は左にカタカナのエを書いて右に力です。作は作物の作」

 「じゃあこれからは「功作」って呼ぶね?」


 若い女の子に下の名前で呼ばれるのは少し嬉しかった。

 私は話題をカレーに戻した。


 「4つで398円の具無しレトルトカレーでも、ガラムマサラを振り掛けて、コロッケを乗せて食べればけっこう美味しくなりますよ」

 「ガラムマサラって何?」

 「ヒンディー語の「熱い」と言う言葉が語源になっているそうですが、作る過程で火を加えて作るからだとも言われています。

 ガラムマサラはミックス・スパイスのことですが、主成分はシナモン、クローブ、ナツメグの三種類が基本で、さらにカルダモン、胡椒、クミン、ベイリーフなどを加えて火で炙り、それを細かく挽いて作るのがガラムマサラです」

 「なんだか聞いたことない名前ばっかり。でもいいや、美味しいカレーが食べたくなったら『港町食堂』に来ればいいんだから」

 「千秋さんはいつもは自炊ですか?」

 「功作、私のことは「千秋」って呼んで。「さん」はいらない。

 呼び捨てでいいよ、これからはお互いに呼び捨てにしようよ。

 自炊はしないよ。コンビニか吉牛、後はファミレスが殆ど。

 私、料理すんの嫌いだから」

 「そうでしたか」

 「ねえ功作、彼女さんはいるの?」


 スプーンを動かしながら千秋が訊いてきた。


 私は苦笑いをした。いつも独身だと思われているからだ。

 結婚もせず、子供もいない#寡男__やもめおとこ__#として。


 「どうして「結婚しているのか?」って訊かないんですか?」

 「だって、功作は女にはモテそうだけど、結婚なんて面倒臭いことはしなさそうに見えるから」

 「それは褒められているんでしょうか?」

 「もちろんよ。だって生活感のない、ミステリアスなイケメンのオジサマって素敵だよ。あはははは」

 「一度、結婚していましたよ。子供はおりませんが」

 「ウソ! 意外! それで今、彼女はいるの?」

 「もう恋愛には興味がなくなりました。歳ですから」

 「それじゃ私が功作の彼女になってあげる」


 千秋は笑って私を上目遣いに見た。

 若い女性からそう言われることは、たとえ冗談でも悪い気はしない。



 「千秋と私とでは17才も歳が離れているんですよ? もはや父と娘、親子です」

 「加藤茶と奥さんなんて45才差だよ? しかも月2回、子作りエッチもしているんだって。

 だから歳の差なんて関係ないよ」

 「それは凄いですね?」


 千秋は再び福神漬けとラッキョウ、そしてピクルスをご飯に乗せ、それを齧りながらカレーを食べていた。


 「だから私と功作にも結婚の可能性はあるということだよ」

 「ありがとうございます」


 私と千秋はお互いの顔を見て笑った。

 私はレモンを絞り、それを炭酸水で割った物を千秋の前に置いた。


 「褒めてくれたお礼です」

 「ありがとう。ねえ功作、ここに少しジンを入れてくれない?」


 私は黙ってそこにジンをワン・フィンガー注ぎ、マドラーで軽くステアした。

 それを見て千秋が嬉しそうに笑った。


 「ありがとう、功作」


 眩しい笑顔だった。


 私はそんな千秋を見て、目を細めて笑った。




第4話

 定休日の日曜日になった。

 天気予報では月曜日は雨の予報だったので、久しぶりに連休にすることにした。

 映画でも観に行こうかと、上映作品を調べてみたが、面白そうな映画は見当たらなかった。


 最近では大河ドラマや映画も時代劇物が多いが、山岡荘八や柴田錬三郎、司馬遼太郎や池波正太郎などで慣れ親しんだ私には、織田信長、徳川家康、源頼朝などの、史実とはかなりかけ離れた脚本や演出には辟易へきえきしていた。


 様々なバラエティ番組に映画の宣伝のためにやって来る俳優たち。そしてそれを持ち上げる司会者やゲストたちにもうんざりだった。

 映画関係者に忖度し、媚を売るかのように駄作映画を褒めちぎる映画評論家。

 今の映画は「良い映画」を作るのではなく、「儲かる映画」を作ることが最優先課題なのだ。

 興行収入ばかりを競いあっている。

 これもハリウッド映画の影響なのかもしれないが、日本の映画だけはもっとテーマを大切にして欲しい。

 

 侍が刀を#携__たづさ__#え、己の義と信念のために命の遣り取りをし、それを支える女たちがいた。

 女、子供が人質となり、苦難の中で生きていた時代を、娯楽として描くことに私は深いいきどうりを覚える。

 特に今話題の信長の映画は最悪だった。

 中身のない薄っぺらなイケメン元アイドルが演じる信長と、濃姫役の女優は明らかにミスマッチだった。

 信長の人間離れした狂気の思考とカリスマ性は、この役者では演じ切れるものではない。


 「マムシの道三」と恐れられた齋藤道三の娘、濃姫をこの清純派女優が演じるにはかなり無理があった。

 もし私が監督なら沢尻エリカを起用するだろう。


 彼らのファンであれば観る価値はあるかもしれないが、私にはカネを出してまで観る映画ではなかった。

 取り敢えず、私は馴染みの鮨屋で寿司を摘み、その後は本屋に出掛けることにした。



 

 鮨処『味歩』のランチタイムは日曜日ということもあり、店の前にはかなりの行列が出来ていた。

 昼は三千円前後で旨い寿司が喰えるとあって、カップルや公務員を退職したような老人たちが入店を待っていた。



 30分ほどしてようやく入店することが出来た。


 「あら大湊さん、カウンターの方がいいわよね?」


 この鮨屋が人気なのは大将の握る鮨と、この女将の接客にある。

 また訪れたくなるような、自然な笑顔と気配りは別格だった。


 「いつもここは繁盛していますね?」

 「おかげさまで」

 

 私は大将の前の白木のカウンターに腰を降ろした。

 この上質な継ぎ目のない、青森ヒバの一枚カウンターを私はすこぶる気に入っていた。

 針葉樹にはフィトンチッドという殺菌効果があり、長く使われたことでヒバの強い香りが程良く抜け、このカウンターに直接寿司を置いてくれてもいいとさえ思う。

 手を忙しく動かしながら大将が話し掛けてきた。


 「明日は雨の予報だから、店は連休かい?」

 「そのつもりです。生ビールと大将のおまかせで」

 「あいよ。功作に生を出してくれ」

 「はーい」


 女のカラダのような曲線をした、冷えたグラスに注がれた生ビールを、私は喉を鳴らしてグラスの半分まで一気に飲んだ。


 大きなジョッキで飲むビールも悪くはないが、私は飲み口の薄いグラスで飲むビールが好きだった。

 珈琲も飲み口の厚いマグカップは苦手だったので、飲み口の当たりがいいノリタケ製の磁器を愛用している。


 大将が握る繊細な芸術的寿司は、このグラスで飲むビールが一番よく合う。

 このクリーミーな泡のバランスも絶妙だった。

 ビールはこの最初の一杯、そして昼間に飲むビールほど、堪えられない贅沢はない。

 大将は手際よく、すぐに真鯛の握りが供された。


 この店は冷凍の魚は一切使わない。すべて生き締めされたチルド、もしくは氷冷だった。

 シャリは会津湯川村産のコシヒカリを赤酢で作る。

 大将は酢飯桶から一度取ったシャリを、殆どの寿司職人がしているような、酢飯をネタと合わせた時に余分な寿司飯をちぎって桶に戻すことはしない。

 寿司ネタに合った酢飯の量を、一瞬で正確に掴み取って握るからだ。


 握り具合も素晴らしく、口の中で程良く#解__ほぐ__#れ、ネタと溶け合う。

 他のお客の注文を捌きながら、私の食べるタイミングに合わせて寿司を握ってくれる。

 それはまるで千手観音のようだった。



 私は一杯目のビールを空けると、二杯目のビールを注文した。

 そろそろ登場する、「穴子の握り」に備えるために。


 「ほい。功作の好きな穴子、おまち!」


 タレをたっぷりと纏った穴子を一口で頬張ると、私はそれをビールで素早く追い駆けた。


 「うーん、大将の握る穴子は最高ですね? 追加で穴子とホタテをお願いします」

 「ありがとよ」


 


 『味歩』を出て、駅ビルにある八重洲ブックセンターにやって来ると、売れ残った今年のカレンダーが並んでいた。

 一月も終わろうというのに、取り残されたカレンダーを見ていると、まるで自分を見ているような気がした。

 私はその中から売れ残った柴犬のカレンダーを選び、文庫本を三冊買って隣に併設された、吹き抜けのホールにある、タリーズのゆったりとした椅子に座り、熱いココアを啜りながら買ったばかりの恋愛小説を読み始めた。

 


 ココアもなくなり、人も増えて来たので私は席を離れ、食品店が並ぶ1階のフロアに降りて行き、トンカツの店で串カツを二本を買い、店の並びにある焼鳥屋でレバーと鳥皮のタレ味と、ニンニク串の塩味の焼鳥を2本ずつ買って帰宅した。




 テレビを点けたが面白い番組はやってはいなかった。

 昔、人気のあった、旬をとっくに過ぎて高齢となり、少し呆けた元アナウンサーがゲストと一緒に路線バスに乗り、ただ居眠りしているだけの番組だったので、私はテレビを消し、ラジオを点けた。

 ラジオからはスタンダードJAZZが流れて来た。


 オーブンで串カツを温め、冷蔵庫からハイネケンのグリーン・ボトルを取り出し、キッチンで立ったままラッパ飲みをしていると携帯が鳴った。

 祥子からだった。


 祥子とは2週間前に電話で喧嘩して以来、私から祥子へ連絡することはなかった。

 私は女に自分から謝ることはしない。なぜなら喧嘩の原因は私ではなく、いつも女の方からの言動や態度が原因だったからだ。

 それによって別れることになったとしても、それだけの付き合いだったということだと割り切っていた。


 千秋に「付き合っている彼女がいる」と言わなかったのは、そんな祥子が彼女と言えるかどうか、迷ったからだ。

 


 「どうした?」

 「どうしているかなあと思って」

 「新しい男は出来たのか?」

 「どこにそんな出会いがあるのよ? 役所と家の往復なのに」

 「お前がその気になればいくらでも男はついて来るだろう?」


 祥子はすぐに本題に入った。


 「ねえ、宇都宮に会いに行ってもいい?」

 「いつ?」

 「来週の日曜日。何か美味しい物でもご馳走してよ」

 「何が食べたい?」

 「お肉かな?

 「それじゃあ焼肉を食べさせてやるよ。前に行ったあの駅前の焼肉屋でもいいか?」

 「あそこのお肉大好き!「お泊りセット」持って行くね? お礼にお部屋の掃除とお洗濯もしてあげる」

 「部屋はいつもきれいだし洗濯もしているから大丈夫だ。自分の事は自分でやる、女は家政婦じゃねえからな?」

 「そうだったわね? じゃあ来週の日曜日にそっちに行くからよろしくね?」

 「焼肉屋を予約しておくから17時に店で待ち合わせよう」

 「うん、わかった。この前はごめんなさい」

 「何の話だ?」

 「あなたを怒らせちゃったから」

 「いつものことだ」

 「そうだね? いつものことだもんね?」

 「気をつけて来いよ」

 「うん」


 祥子と付き合ってもう5年になる。

 彼女は2回結婚に失敗していた。

 悪い女ではない。私とは5才年下で、料理も上手で家事全般が得意、性格も素直でよく気が利く女だった。

 再婚相手には申し分のない女だった。


 祥子は私との結婚を望んでいたが、私はそれに同意しなかった。

 私は女房と別れた時、もう誰とも結婚はしないと決めたのと、祥子には何かが足りない気がしたからだ。

 それはおそらく、「縁がない」という気がしていたからだと思う。

 人はどんなに相性が良くて、お互いに好意を寄せていても結ばれるとは限らない。

 私は今回の離婚でそれを学んだ。

 祥子と私は縁がなかった。



 私は串カツを食べ終えると、今度は買って来た焼鳥を温め、炬燵に入って2本目のハイネケンに取り掛かった。

 

 そして晩酌を終えると、私はいつの間にか炬燵で眠ってしまった。


 こうして私の連休初日が過ぎて行った。




第5話

 月曜日は予報通りの雨だった。

 私は映画『ひまわり』のDVDを観ながら、いつものようにワイルドターキーをロックで飲んでいた。


 ヘンリー・マンシーニの胸が締め付けられるような音楽とソフィア・ローレンの絶望、マルチェロ・マストロヤンニの苦悩に心が軋んだ。



       切ない恋にこそある美しさ



 それが救いでもあると思う。

 悦びや嬉しさはひと時の癒しだが、悲しみや切なさは人生に深みを与えてくれるスパイスだ。

 だがそれを敢えて望む者はいない。

 

 私は今の生活に満足していた。

 定食屋として好きな料理をして暮らす毎日。そして常連さんたちとの他愛無い会話。


 映画を観終わった私は遮光カーテンを開け、雨の降るグレーの空を見上げた。

 もうすぐときめきの春がやって来る。



 あっという間に久しぶりの連休も終わり、私は店を開けた。

 いつものようにお客の満足そうな食べっぷりを眺め、私は幸福だった。

 そして午前零時を過ぎた頃、千秋が男を連れて店にやって来た。


 「功作、酷いじゃないの! 勝手にお休みなんかして!」

 「ごめんごめん、この店は雨の日は定休日なんだよ」

 「だったら言ってよね! しょうがないから昨日はコンビニ弁当で我慢したんだからあ。

 とりあえずビール2本と餃子4人前」

 「かしこまりました」


 私は今日のお通しの「牛スジ煮込み」とビールを出した。

 そこに七味をどっさりと掛ける千秋。


 「相変わらず千秋は辛いのが好きだな? それで味がわかんのか?」

 「私、辛いの大好き。ピザとかパスタにタバスコ1本使っちゃうのマサトも知ってるでしょ?」

 「俺は辛いのは苦手だけどな?」

 「じゃあ結婚出来ないね? 私たち。あはははは」


 その千秋の彼氏らしい男には見覚えがあった。

 たまにアーケードで見掛けるホストだった。

 髪を金髪に染め、大きく胸元の開いたシャツからは、派手な金のネックレスが光っていた。

 ふたりはそれぞれ手酌でビールを飲んでいた。


 「この牛スジ、すげえうめえじゃん!」

 「功作はね、料理の天才なんだよ。何でも美味しいんだから! ねっ? 功作?」


 私は餃子を皿に乗せながら口元が綻んだ。

 まるで自分の娘に褒められているようでうれしかった。


 「はい餃子、お待ちどう様」

 「キタキタ! 功作の餃子って凄く美味しいんだよ。この餃子の街、宇都宮でも一番なんだから。

 私と同じNo.1! あはははは」

 

 そのホストも餃子を食べた。


 「ホントだ。こんな旨い餃子、初めて食った」

 「あと私にラーメンを作って。マサトは何がいい?」

 「この店、メニューはねえのか?」

 「あそこに掛けてある札がそうだよ」

 「じゃあ俺はカレーで」

 「ここのライスカレーを食べたら、CoCo壱にはもう行けないよ」

 「ホントかよ? 俺、CoCo壱好きだけどなあ」


 千秋が旨そうにラーメンを啜っていた。

 そしてその男もカレーを食べ始めた。


 「何だこのカレー! スゲえ美味いよ!」


 すると千秋がそこに少しオタフクソースを掛けた。


 「何すんだよ千秋」

 「いいからいいから。食べてご覧よ、もっと美味しくなるんだから」


 恐る恐る男がソースの掛かったカレーを食べると、


 「いけるなこれ? ソース、合うよ」

 「ねっ? 美味しいでしょう?」


 その時男のスマホが鳴り、男は携帯を持って店の外に出て行った。

 千秋が寂しそうに言った。


 「多分、女か奥さんだよ。あのロクデナシ男」


 千秋は少し温くなったビールを口にした。


 「ねえ功作。どう思う? あの男?」

 「どうって俺は人を見る目がねえからなあ。

 千秋が良ければそれでいいんじゃねえか?」

 「私はね、ダメだと思うんだ。

 お金にはだらしないし、浮気なんてしょっちゅう。

 競馬にパチンコ、スロットにとギャンブル狂い。

 でも別れられないんだよねえ。

 私たち、似た者同士だから・・・。

 奥さんと別れるなんてウソなのもわかってる。

 バカでしょう? 私」

 「女はバカな方が可愛いもんだぜ」


 私はタバコに火を点け、ルイボスティーを飲んだ。

 男が帰って来た。


 「悪い千秋、ダチがバイクで事故ったらしい。悪いけど3万円ほど貸してくんねえ?」


 千秋は黙って財布から3万円を出して男に渡した。


 「サンキュー千秋。愛してるぜ」


 そう言って男は店を出て行った。

 千秋は泣きながらその男の残したカレーを食べた。


 「せめて功作の作ってくれたカレー、食べてから行けばいいのに。

 ねえ功作、私にもタバコ頂戴」

 

 私は千秋の前に灰皿を置き、タバコを差し出し火を点けてやった。


 悲嘆に暮れる千秋の心に火を灯すかのように。




第6話

 あの日以来、千秋は店に来なかった。

 私は少し、千秋のことが気になっていた。


 (あの男とケンカでもしたのだろうか?)




 祥子と待ち合わせをした駅前の焼肉屋で、私はセンマイ刺しを食べながらビールを飲んでいた。

 そこへ少し遅れて祥子がやって来た。


 「ごめんなさい、ちょっとお手洗いに寄って来たから遅れちゃった」

 「生でいいか?」

 「うん」


 私は店員を呼び、生ビールとタン塩、カルビと上ロースを注文した。

 


 「では久しぶりの再会を祝して、乾杯」


 私は祥子とジョッキを合わせた。


 「あー、美味しい~。元気そうで良かった」

 「お前は少し痩せたか?」

 「さあどうかしら? それについては後でチェックしてみてね?」


 私は肉を網に乗せ、程よく焼けた肉を彼女の皿に乗せてやった。


 「ありがとう。功作も食べてよ」

 「明日は休みにしたのか?」

 「有給が余っていたからね?

 この前はごめんなさい」


 祥子は私に軽く頭を下げた。

 彼女の髪からトリートメントの仄かに甘い香りがした。

 食事ということもあり、いつものお気に入りのDiorは控えたようだった。


 「何の話だ?」

 「あなたのそういうところ、好き」


 祥子は微笑んで、旨そうに肉を食べた。


 「お店の方は順調なの?」

 「そこそこだ」

 「一人で大変でしょう? お店、私も手伝ってあげようか?」

 「一人で十分間に合っている」

 「そう言うと思った」


 祥子は残ったビールを飲み干した。


 「すみませーん、お替わりー。

 功作も飲むでしょう? 生2つとそれからオイキムチを下さい」



 

 食事を終え、私が支払いをしようとすると祥子がそれを制した。


 「今日は私に奢らせて。この前のお詫びに」

 「俺は女にメシをご馳走してもらうほど、まだ落ちぶれちゃいねえよ」


 私はそのまま支払いを済ませた。


 「それじゃあ遠慮なく、ごちそうさまでした。

 その分後でサービスするね?」

 「少し飲んで行くか?」

 「うん。ジャズBARがいいかな? 今夜はカクテルが飲みたい気分」


 私は馴染みのBARに祥子を連れて行った。



 

 店に入るとカウンターに千秋が座っていた。

 グラスはひとつ。独りのようだった。

 千秋はすぐに私を見つけ、気怠そうに小さく右手を挙げた。

 かなり酔っている様子だった。

 千秋は泣いていた。


 「功作・・・。その人、彼女さん?」

 「ただの知り合いだ」

 「エッチするただの知り合い? じゃあセフレさんだ」


 祥子は露骨に不機嫌な顔をした。


 「何なのこの小娘?」

 「ウチの常連さんだ」

 「常連の#愛人__・__#さんだもんね~?」

 「今日はもうそれくらいにして帰った方がいい」

 「イヤだよ! ねえ、一緒に飲もうよお。

 私、今日は思いっきり飲みたい気分なの!」

 「功作、お店、変えましょう。気分が悪いわ」

 「はいはい、わかりましたよーだ。私が帰るからどうぞごゆっくり。

 この後はラブホ? それとも功作のお家でするの? あはははは。

 マスター、お勘定して頂戴。あとタクシー」


 千秋が支払いを済ませると、マスターは表に出て流しのタクシーを拾ったようだった。

 

 「千秋ちゃん、タクシー捕まえたから早く早く!」

 「じゃあね、功作と彼女さん。おやすみなさーい」


 千秋はマスターにタクシーに乗せられ、家へと帰って行った。


 

 「千秋ちゃん、彼氏と別れたんだってさ」

 

 (あのホストと別れたのか?)


 少し安心している自分がいた。


 「誰なのあの女? キャバ嬢?」


 祥子はかなり苛立っていた。

 私は祥子に言った。


 「キャバ嬢だと悪いのか?」

 「何? あの女の肩を持つ気?」

 「少なくとも俺は職業で人を差別することはしない。そして「差別する女」は好きじゃねえ」

 「あっそう! 悪かったわね? 差別する#しがない__・__#地方公務員の女で! 

 今夜はビジネスホテルに泊まる! さようなら!」

 「じゃあホテルまで送るよ」

 「来ないで! ひとりで行けるから!」


 祥子が店を飛び出して行った。

 祥子はヤキモチ焼きの可愛い女だ。

 私が千秋を庇ったのが余程面白くなかったらしい。


 「マスターごめん。また今度」

 「モテる男は辛いな?」




 私はすぐに祥子に追いついた。


 「駅前のホテルの方がいい、駅に近いから」


 祥子は時々私を試そうとすることがある。

 自分を本気で愛してくれているかどうかを。

 だからたまにこうした態度を取ることがある。

 そうすることで私に甘えたいからだ。

 私から「愛されている実感」を確認するために。


 生理が近づいている頃でもあった。

 情緒不安定になるのも無理はない。

 祥子は私の腕に抱きついて甘えた。


 「さっきはごめんなさい。私、もうすぐ#女の子__・__#だから、ついイライラしちゃって」

 「今日は風呂にゆっくり浸かって寝ろ」

 「イヤ・・・、今日は功作に激しく抱かれたい」

 

 私はタクシーを止めた。


 「じゃあ俺の家に帰るか?」

 「うん。途中でコンビニに寄ってもいい? ラムレーズンのアイスが食べたいから」

 「ラムレーズンはないかもしれないが、『白くまくん』でもいいなら家にあるぞ」

 「それでいい。『白くまくん』で我慢する」




 家に着くとすぐに祥子は私を求めて来た。


 「ずっと会いたかったの」

 「アイスは食べなくてもいいのか? 俺はシャワーを浴びて来る」

 「背中、流してあげる」



 私は熱いシャワーを浴びながら、千秋のことを考えていた。

 だがそれは男としてではなく、父親? あるいは年の離れた兄として。

 



第7話

 久しぶりの愛の交歓を終えた私たちはクールダウンをしていた。


 「今日は何時の新幹線で帰るんだ?」

 「このままここに居ちゃダメ?」

 「すぐに飽きるよ」

 「冷たいのね? お嫁さんにしてなんて言わないから、あなたと一緒にここで暮らしたい」

 「俺は我儘だから共同生活には向かねえよ」


 祥子は私に体を寄せた。


 「ねえ、また来月も来てもいい? 今度は土曜日の夜に」

 「土曜日は店だぞ?」

 「お店に行きたいの。たまには功作の作るラーメンが食べたいから」

 「好きにしろ」

 「じゃあ好きにするね?」


 祥子は分かりやすい女だ。

 どうやら千秋のことが気になるようだった。




 宇都宮駅の寿司屋でランチをし、祥子は帰って行った。

 新幹線の改札を抜け、後ろを何度も振り返りながら私に手を振る祥子。


 祥子は美しく、家事全般をこなし、知性も教養もある女だ。

 女房にするには申し分のない女だった。

 だが私は恋愛に臆病になっていた。

 祥子のこともまた、不幸にしてしまうのではないかという想いがどうしても拭えなかったからだ。

 私はエスカレーターを登って行く、祥子の寂しそうな後ろ姿を見送った。




 その日の深夜、千秋が一人で店にやって来た。


 「功作! ビールと餃子!」

 「千秋、今日はご機嫌だな?」

 「私はいつもご機嫌だよ! あはははは」


 私は千秋の前にビールとお通しのポテトサラダを置いた。


 「あの彼女さんと結婚しちゃうの?」

 「結婚はしないよ」

 「じゃあセフレなんだ?」

 「俺は女を幸せに出来ない男だから結婚は無理なんだ」

 「それじゃ私の元彼のポンコツと一緒じゃない? あはははは」

 

 千秋はそう言って哀しそうな目をした。


 「そうだな? 俺も同じだ。千秋のポンコツの彼氏と」

 「どうしてダメな男なのに好きになっちゃうんだろう。

 なんで別れたくないんだろうね? どうしようもないクズ男なのに」

 「それは似た者同士だからだろうな?」

 「そうか・・・、私もロクデナシのクズ・キャバ嬢だもんね?

 お似合いか?」


 千秋はポテサラを食べた。


 「んっ、何これ美味しい! 功作、お替わり!」

 「ウマイだろう? このポテトサラダ?」


 私は再び、千秋にポテサラの小鉢を出した。


 「ポテサラなんて作ったことないよ。どうやって作るの?」

 「ジャガイモが旨ければ塩を掛けただけでもウマい。だからジャガイモは少しいい物を選ぶ。

 本当は蒸した方がいいんだが、電子レンジでもいい。

 皮を剥いてフォークなどで潰し、胡瓜と玉ねぎのスライス、細かく刻んだゆで卵、缶詰のコーンを入れて砂糖、塩コショウ、隠し味に少し醤油を入れて混ぜるんだ。それとカリカリに焼いたベーコン。

 彩りと甘みに缶詰のミカンをいれる時もあるが、今日は入れなかった。

 そして味を見ながらでマヨネーズを加えていく。

 食べる時にソースをかけても美味いぞ」

 「なんだか面倒臭そうだから、ここで食べるからいいよ。今度、メニューに載せてね?」

 「しょうがない奴だな? 今度また作ってやるよ」

 「ありがとう功作。愛してる」


 私は横顔で笑った。

 私が望んでいたのはこんな千秋との肩の力を抜いた関係だった。

 お互いに相手を束縛せず、干渉しない。

 たまにこうしてどうでもいい事を話すだけの関係。

 人はなぜ、形式ばかり拘るのだろう? 

 私と千秋には恋愛を超えた人間愛があった。

 それは男と女としてではなく、本当のジェンダーフリーとして。



 「ねえ功作。彼女さん、功作と結婚したいって言わないの?」

 「言わないな」


 私は嘘を吐いた。

 言わないのではなく、言わせなかったからだ。


 「私はね? 本当はあのポンコツと結婚したかったんだあ。彼の子供も欲しかった。

 でもね? 奥さん、妊娠してたんだよ。私って本当にバカでしょ?」

 「男なんてみんなそんなもんだ」

 「功作もそう?」

 「同じだ。でもそう考えれば少しは気がラクになるんじゃねえのか?」

 「私、今度生まれて来る時は男がいいなあ。自由な男に生まれたい」

 「男も大変だぜ」

 「でも女よりはラクでしょう?」

 「あはははは そうかもしれねえな。女よりはラクだ」


 千秋はコップにビールを注いだ。


 「功作。チャーハン作ってよ」

 「はいよ」


 私は中華鍋を火に掛けた。

 チャーハンは時間との勝負だ。強火で油を回して熱くなった中華鍋に卵液を流し込み、素早くメシを投入してネギ、チャーシュー、刻んだ蒲鉾を入れて味を整え、鍋を振った。


 「はいチャーハン。お待ちどう様」

 「ありがとう功作」


 千秋は泣きながらチャーハンを食べていた。

 時々ティッシュで鼻をかみながら。


 「美味しい・・・」


 可愛いヤツだと思った。


 「辛いことなんかすぐに忘れてしまうもんだ。だから人は生きていける。

 そしてまた、懲りずに人を好きになる」


 千秋は何も言わず、ただ黙々とチャーハンを食べていた。

 

 


第8話

 その日、千秋は苛立っていた。


 飲み屋では源氏名を使うのが通例ではあったが、千秋はそのまま本名の「千秋」を名乗っていた。


 イライラの原因は、今日の客が千秋の苦手な市会議員の野平のひらだったからだ。


 「なあ千秋、たまには俺と付き合えよ」

 「もう付き合っているでしょ? こうして一緒にお酒飲んでるじゃない」


 千秋は野平のグラスに氷を入れ、グラスの結露を拭いた。

 

 すると野平が言った。


 「今夜は店の外で会おうぜ」

 「そんなにやりたいんだったらウチの「抜き屋」か、デリでも呼んだらいいじゃない。

 店長に言ってあげようか? 「先生にいい娘紹介してあげて」って」

 「俺は千秋がいいんだよお。なっ? 一回でいいからさあ」

 「本当に一回だけ~?」

 

 野平は急に色めき立った。


 「約束する! 絶対に一回だけだ! 頼むよお~、千秋~」


 (男はみんな同じだ。すぐにやりたがる。

 頭の中はそれしかないのか?)


 有権者の前では清廉潔白を装っている野平も、酒が入るといつもこうだった。


 千秋はそんな野平に辟易していた。

 だが今月は2月ということもあり、売上が落ちていたのでこのクソ議員から絞り取ることを千秋は考えていた。


 「先生? 千秋、ドンペリが飲みたいなあ」

 「ドンペリを入れたら俺と付き合ってくれるのか?」

 

 それについて千秋はわざとはぐらかした。


 「先生が悪いんだよ~、千秋を口説こうとするからもう喉がカラカラになっちゃったんだから」

 「だったら「モエシャン」でもいいだろう? 何も高いドンペリじゃなくてもよー」

 「千秋はドンペリが飲みたいの!」

 「しょうがねえなあ、それじゃあ入れてやるから俺の「ドンペリ」も千秋の中に入れさせろよ、なっ?」

 

 千秋はボーイを呼んだ。


 「ドンペリをお願いしまーす!」

 「かしこまりました」



 すぐにシャンパン・クーラーに入れられたドンペリと、冷えたシャンパングラスが運ばれて来た。



 「先生、開けてー」

 「ヨシヨシ、それじゃあまずはドンペリからな?

 その後は千秋、お前のアソコを開けてやるからな? ウヘヘヘへ」

 「もー、先生のエッチ!」


 野平がシャンパンのコルクを開けると、店のスタッフたちから歓声と拍手が湧き起こった。

 静かだった店内が一気に華やいだ。


 「先生、かんぱーい!」

 「おう千秋、乾杯、おっぱい!」


 その時野平が千秋の胸を強く揉んだ。

 千秋の右手が野平の左頬を打った。


 「テメー! ふざけやがって!

 俺を誰だと思ってやがる! 俺は市議会議長も勤めた野平タケルだぞ!

 このクソアマ!」


 野平はシャンパングラスに入ったドンペリを、勢いよく千秋の顔に浴びせ掛けた。


 千秋は野平の股間に蹴りを入れた。


 「ふざけんじゃないわよ! このエロ議員!」


 すぐに店長と黒服たちがふたりを引き離した。


 「店長! この店のケツ持ちは双竜会だったよなあ?

 この落とし前、どうつけるんだ!」

 「ウチの店のナンバー・ワンにふざけたマネしやがって! このクソ議員!

 落とし前をつけるのはお前の方だぜ!

 今日の一部始終をマスコミとネットに晒してやるから覚悟しろ!」


 野平は急に冷静になった。


 「二度と来るか! こんな店!」

 「お前は出禁だ! ウチのキャストに対するセクハラと暴行、お前こそタダで済むと思うなよ!

 この店のオーナーが誰だか知っているよなあ?」

 

 すると野平は財布からすべての札を引き抜き、店長へ投げ付けた。


 ヒラヒラと舞い落ちる紙幣。

 野平はそのまま店を出て行った。



 店長とスタッフが落ちた札を拾って歩いた。


 店長はそこから今日の野平の酒代を差し引くと、残りのカネを千秋に渡した。


 「大変だったなあ千秋。俺がついていながらすまなかった。嫌な思いをさせたな?」

 「店長ありがとう。私のために」

 「今日はもう上がっていいぞ。お疲れ」


 閉店までまだ1時間以上もあったが、千秋は店を上がった。




 千秋はまっすぐ大湊の店に向かった。



 「功作、ビールと餃子」


 私は千秋の異変にすぐに気づいた。

 明らかに今日の千秋は元気がなかったからだ。


 「どうした千秋? 客に胸でも触られたか?」

 「功作、見てたの?」

 「ただそう思っただけだ」


 私は千秋に千秋の好きなポテトサラダと、仕込んでおいたイカ人参をビールと一緒に千秋の前に置いた。


 餃子を包んでいると千秋がビールをコップに注ぎ、話し始めた。


 「どうして男はすぐにやりたがるのかしらね?」

 「男はみんなそんなもんだ」

 「功作もそう?」

 「俺も同じようなもんだ。今は昔ほどじゃないけどな?」

 

 千秋はポテトサラダを一口食べてビールを飲んだ。


 「私、所詮はキャバ嬢だもんね?」

 

 そんな千秋の寂しい顔に、私は愛おしさを感じた。

 

 (この子は好きで水商売をしているんじゃない。仕方なくしているだけなんだ)


 「私、お店を辞めようかなあー」

 「辞めてどうするんだ?」

 「功作のお嫁さんにしてよ」

 「こんなオッサンとか?」

 「オッサンじゃないよ、功作は素敵なダンディだよ」

 「ありがとう千秋。そのイカ人参は福島の郷土料理なんだ。お礼にサービスするから食ってみろよ」

 

 千秋がイカ人参に箸を付けた。


 「うん、美味しい。これ美味しいよ功作!」

 「そうか? それは良かった。

 もう少しで餃子が焼けるからな?」

 「ねえ功作。私をここで雇ってくれない?」

 「時給850円でか?」

 「せめて1,000円でしょ? 今どき」

 「それじゃあコンビニのバイトでもしろよ。その方が時給もいい。

 イケメンの兄ちゃんも来るだろうしな?」

 「じゃあ950円!」

 「900円」

 「わかったよ、900円でいいよ」

 「本気で言ってるのか?」

 「もちろん本気だよ」


 私は焼き上がったばかりの餃子をカウンターに置いた。


 「ダメかな? 私じゃ?」


 まるで捨てられた子猫のような目をした千秋の申し出を、私は拒むことが出来なかった。


 「明日、履歴書を持って店に来い」

 「うれしい! ありがとう功作!」

 「よろこぶのはまだ早い、まずは面接からだ」


 私はすでに、千秋を雇うことを決めていた。




第9話

 恋愛とは音楽に似ている。

 序曲に期待し、起承転結の流れで進んでゆくからだ。

 そして途中で演奏が中断することもある。

 コンサートが突然、何の前触れもなく終わるのだ。


 私は恋愛から意識的に遠ざかっていた。

 女を愛することから逃げていた。

 感動がなくなっていたのだ。人を愛することに。


 初恋は「恋に恋すること」だった。

 今思えば、それは「誰でも良かった」のかもしれない。

 


      人を愛する自分に酔っていた



 それが正直なところだったのかもしれない。

 その時の私は、恋愛の本質をよく理解していなかった。


 幾度かの出会いと別れを繰り返し、結婚を考え始める頃になると、「この女と一緒に人生を歩いていけるのだろうか?」と、冷静に思う自分がいた。


 恋から愛、そして現実へと変わって行った。



     「この女をしあわせに出来るのか?」



 そこには責任と信頼、自信が必要だ。

 単なる好き嫌いだけでは結婚は出来ない。


 セックスに対する考えもかなり変わった。

 若い頃の性に対する旺盛な好奇心は、ただの性処理としての行為になっていった。


 ただ女の「穴」にペニスを出し入れし、射精するだけの虚しい行為。

 ある人妻は私にこう言った。



    「夫婦のセックスなんて、お互いのカラダを使ったマスターベーションみたいなものよ」



 そこに愛は存在しないと言う。


 セックスが目的だけの結婚なら、結婚の意味はない。

 風俗にでも行った方が経済的だ。

 面倒な気遣いも不要だ。

 女房のご機嫌を伺うことも、取ることもない。


 でななぜ結婚をするのだろう?



   「寂しいから。家族が欲しいから」



 それではあまりに相手に対して思い遣りがなさすぎる。


 愛してもいない女に、年老いた自分の下の世話までさせるというのか?

 そんな馬鹿げた話はない。

 だったらカネを貯めて、いい老人ホームへでも行けばいい。


 その女に対して、愛情があるかないかは射精した後にあると思っている。

 それは射精後、すぐに女から体を離そうとするかどうかではないかと。


 つまり自分の欲望が満たされたら、相手の事はもう知らないという自分勝手な行為だからだ。

 その妻は愛されてはいない。


 もちろん女にも打算はある。



    「この人と一緒に暮らして、私はしあわせになれるのかしら?」



 結婚とは「しあわせの確約」を目指すものではない。

 結婚とは呉越同舟。同じ船に乗って人生航路を進む「戦友」なのだ。

 

 スキャンダルを起こして失脚する有名人のように、権力も財力も、かならずしも不変なものではない。

 一寸先は闇なのだ。


 ゆえに結婚は「豊かなる時」ではなく、「病める時」でも相手を支える勇気と決意が必要なのだ。

 

 フランスでは事実婚が多いという。

 西洋に憧れる日本人なら、夫婦別姓を唱える前に、「お試し期間」を永く設ける男女関係を構築することも、悪くはないのではないだろうか?



 私はそんなどうでもいいことを考えながら、千秋を前に千秋の履歴書を見ていた。



 「随分簡単な履歴書だな?」

 「しょうがないでしょー? 高校中退なんだから」

 

 私は少し意地悪な質問をした。


 「ウチの店で働きたいと思った動機は?」

 「大好きな功作と一緒に働きたいと思ったから」

 「そんな理由じゃダメだな?」

 「功作を助けてあげたいと思ったから。それじゃダメ?」

 「千秋、お前はまだ若い。人生に目標を持て。

 そんなくだらないことではなく」

 「功作と結婚してしあわせになりたい! それが目標だよ」

 「真面目に答えろ」

 「十分真面目だよ」

 「男で自分の人生が変わってもいいのか?

 それでは千秋の人生は男次第ということになってしまうじゃないか?

 ましてや俺では最悪の人生になってしまう」

 「それじゃダメなの?」

 「駄目じゃない。だがそれでは人生が安っぽいギャンブルになってしまう。

 千秋、「類は友を呼ぶ」って知ってるか?」

 「知らない」

 「わかりやすく言えば、自分の周りには自分と同じ「レベル」の仲間しか寄って来ないということだ。

 金持ちには金持ちの仲間が、ヤクザにはヤクザの仲間が。そして・・・」

 「そしてキャバ嬢にはキャバ嬢とスケベなお客とロクデナシのホストが集まって来るというわけでしょ?

 そんな話、聞きたくない」

 

 私と千秋はタバコに火を点けた。


 「千秋、人は相手を変えることは出来ないんだ。

 ではどうすればいいか? それは自分が変わることなんだよ。

 お前はあのホストと別れた。でもな千秋、お前が変わらなければまた同じ男を好きになってしまう。

 お前はまだ若い。これからなんだ、千秋の人生は。

 お前を採用するにはひとつ条件がある」

 「どんな条件? 功作の愛人になること? それなら喜んでなってあげる! 功作のセフレに」

 「学校に通うことだ。昼間の学校に通って高校の卒業資格を取れ。

 そして大学に行け」

 「そんなお金ないよ」

 「そのカネは俺が出してやるから心配するな。

 出世払いで返してくれればいい」

 「出世しなかったら?」

 「その時はその時だ。俺に人を見る目がなかったということだから諦めるよ」

 「私、勉強は嫌い」

 「苦手だと思っているから苦手なんだ。

 千秋はたまたま勉強が出来る環境になかっただけだ。

 そして勉強はいくつになっても出来る。

 どうする千秋? 学校に行ってみないか?」


 千秋は少し照れながら言った。


 「わかったよ、功作の言う通りにするよ」

 「それじゃあお前を採用してやる。仕事は楽じゃないぞ。

 いつから働ける? 店の方は大丈夫なのか?」

 「うん、今日、店長に話してみる」

 「そうか? うちはいつでもいいからな?

 円満退社して来いよ。面倒はことにはするなよ」


 

 だがそれは無理だろうと私は予想していた。

 稼ぎ頭の千秋を、そう簡単に店が離すとは思えなかったからだ。



 次の日、『王様と私』の店長が店にやって来た。


 「千秋のことで話ががある」


 私の予想は的中した。


 


第10話

 大野が黒服とミーティングをしていると、千秋が店にやって来た。


 「おはようございます」

 「どうした千秋? 今日は早いな?」

 「店長、ちょっといいですか?」


 大野は千秋の表情から、おおよその話をすぐに察しがついた。


 「そうか、じゃあ『グレコ』で聞くよ」


 ふたりはアーケードにあるフルールパーラー、『グレコ』で話をすることにした。




 「イチゴが旨い季節になったよな? イチゴパフェでいいか?」

 「はい」

 

 

 大きなイチゴパフェが運ばれて来た。

 大野が先にスプーンでイチゴとクリームを掬った。


 「店長。私、お店を辞めたいんですけど」

 「辞めてどうするんだ? 宛はあるのか?」

 「定食屋で働くことにしました」


 (他店からの引き抜きなのか?)


 大野は少し警戒をした。


 「宇都宮では名の知れた、『王様と私』のナンバー・ワンが生姜焼き定食を客に出すというのか?」

 「生姜焼き定食はありませんけどそうです」

 「どこの店だ?」

 「港町食堂です」

 「港町食堂か・・・。何が不満なんだ? カネか? それともこの前のクソ野平のことが原因なのか?

 野平の件ならもうケリはついている。もう店には来ないから安心しろ」

 「そうじゃないんです。疲れちゃっただけです、私。キャバ嬢という仕事に」

 「そうか? まあ溶けないうちに早く食え。このイチゴ、結構甘いぞ」

 「いただきます」


 千秋は美味そうにイチゴ・パフェを食べていた。




 店が終わり、千秋と大野は五島会長に呼ばれた。

 大野はいつものようにお気に入りのハバナをふかしながら、各店舗から上がってくる現金を数えていた。

 その光景はハリウッドのギャング映画のようでもあった。


 「会長、本日の売上です」

 「ご苦労さん。今日は少ねえなあ、これだけか?

 木島のデリは順調だぞ?」

 「すみません」

 「千秋ちゃん、店を辞めたいんだって?」

 「はい。今週一杯で辞めさせて下さい」

 「今のようなカネを稼ぐのは大変だぞ」

 「わかっています。でももう限界なんです」

 「今度、高級クラブを出す予定なんだが、そこの店のママに千秋ちゃんをと考えていたんだが、どうだ? やってみないか? 売上の10%をバックするぞ」

 「もう決めたので」

 「大野店長から聞いたよ。あのラーメンとカレーだけの店にか? あんな店で働いてどうする?

 月15万にもならねえぞ」

 「まかないもあるので大丈夫です」

 「あの食堂のオヤジとデキているのか?」

 「そんなんじゃありません」

 「そうか? まあ千秋ちゃんを信じるとしよう。

 だが残念だなあ、実に残念だ。

 わかった、そう結論は急がずに、少し考えてみてよ。

 新しい店は『マンハッタン・カフェ』という名前なんだ。どうだ? いい名前だろ?

 千秋ちゃんの好きにしていいからね? スタッフも内装もすべて千秋ちゃんに任せるから」

 「会長、ありがとうございます。

 でも気持ちは変わりません。今までお世話になりました」

 「悪い話ではないはずだ。よく考えてみてくれ。

 疲れているところ、すまなかったね?」

 「いえ、失礼します」



 千秋が会長室を出て行くとすぐ、五島は大野を怒鳴りつけた。


 「お前、何をやっておるんじゃ!

 マサトとは別れたのか? あの腐れホストとは!

 あの店の売上の半分は千秋が稼いでいるのはお前が一番よくわかっておるじゃろう!」

 「申し訳ありません」

 「だったら別のヒモ・ホストをくっつけろ!

 カネを貢ぐ相手がいなくなるからこうなるんだ!

 どんな手を使ってでも千秋を繋ぎ留めろ! いいな!」

 「わかりました。

 会長、新しい店に千秋をお考えですか?」

 「馬鹿野郎! ハッタリに決まってんだろう! 餌だよ餌! このボケが!

 お前は女の子の管理もロクに出来ねえのか!

 何でもハイハイ言ってんじゃねえぞ! タコ!

 何年やってんだ!」



 翌日、大野は大湊の店に行くことにした。

 千秋を取り戻すために。




 それは私が夜の仕込みをしている時だった。


 「ちょっといいか?」


 たまに店に顔を出すその男には見覚えがあった。

 私はピンと来た。

 千秋の店のヤツだと。


 (コイツが店長?)

 

 「今、仕込み中なんだ、手短に頼むよ」

 「千秋を採用しないで欲しい」

 

 私は野菜を切りながら大野を見ずに言った。



 「働きたいと言って履歴書を持って面接に来たので採用することにした。

 決めるのは千秋だ。俺じゃねえ」

 「アンタから千秋に採用しないと言ってくれ」

 「嫌だと言ったら?」

 「この街で商売しているならウチの五島会長を知らないわけじゃねえよな?」

 「俺を脅しているのか?」

 「面倒なことになるぜ」

 

 私はそれを無視した。

 

 「仕込みがあるんだ。帰ってくれ」

 「バカな奴だ。あんな小娘に入れ込むなんてな?

 後悔することになるぞ」


 それだけ言って店を出ると、大野はすぐに双竜会の小野寺に電話を掛けた。


 「若頭ですか? 『王様と私』の大野です。いつもお世話になっています。

 ちょっとご相談がありまして・・・」

 「何だ?」

 「実は・・・」




 その日から大湊への嫌がらせが始まった。

 ふたりのチンピラが店にやって来た。


 「ラーメン2つー」


 二人は入口近くのカウンターに並んで座った。

 大湊が支那そばをカウンターに置くと、兄貴分らしいその男がタバコに火を点けた。


 「みなさーん、ここのラーメンは最高ですねえ?

 宇都宮イチだ。いや世界一だな? ここのラーメンは」

 

 店に緊張が走った。


 「こんな旨いラーメン、食ったことねえだろう?

 なあ慎吾?」

 「アニキ最高ですぜ、このラーメン。

 まだ食ってねえですけど。あはははは」

 「バカ野郎、食ってから言え。

 じゃあ俺が味変してやるからよ」


 その男は支那そばの中に火の点いたタバコを入れた。

 ジュっという音がして、タバコが支那そばの中に入った。


 「これでもっと旨くなったぜ。慎吾、食ってみろ」

 「食えねえっすよ。これ、灰皿だったんっすか? エヘヘ」

 「何? 灰皿? そうか? これ灰皿だったんか? どうりでクソ不味いと思ったぜ」


 すると男はきっちりと代金をカウンターに置いてこう言った。


 「これから毎日、タバコを吸いにくるからよろしく」


 

 嫌がらせがが3日間続いた。

 私は直接五島会長を訪ねることにした。



 五島会長は大湊を一瞥して言った。


 「アンタが大湊さんか? 珈琲でいいか?」

 「お話があります。店への嫌がらせを止めて下さい」

 「それともビールの方がいいか?」


 五島は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出すと、一本を大湊に勧めた。

 会長は美味そうにビールを飲んだ。


 「俺は胃袋を3分の2を切っているから酔わねえんだよ」

 「嫌がらせを止めてもらえませんか?」

 「一体何の話だ?」

 「お願いします」


 私は頭を下げた。


 「千秋を返してくれ。いい歳した大人が、あんなションベン臭え女を相手にしてどうする?

 お前、ロリコンなのか?

 女ならいくらでも紹介するぜ」

 「それは出来ません。ウチで働くかどうかは千秋が決めることですから」

 「アンタ、この街で商売出来なくなってもいいのか?」

 「それならそれまでです。私は一度口に出したことを撤回したくないだけです。

 それは千秋に義理を欠くことになりますから」

 「馬鹿なヤツだ。ヤクザでもあるまいに。

 しかも相手は小娘だぞ?」

 「今の私に失う物はありません。独り身なので身内はおりません。

 あの店に執着はありません。だが脅しには屈するわけにはいきません。

 どうしても止めてもらえないというのであれば、あなたを殺して私もここで死にます」


 私は背広のズボンのベルトに隠しておいたトカレフを天井に向けて引き金を引いた。

 乾いた音が会長室に響いた。

 会長室は最上階の5階にあり、鉄筋コンクリートだったので、関係のない人間を巻き込む恐れはなかった。

 天井に小さな穴が一つ空いた。

 だが五島は動じなかった。


 「久しぶりに手応えのある男に会えたもんだ?

 お前、気質かたぎじゃねえな?

 定食屋のオヤジにしておくには勿体ねえ。

 どうだ? 俺のところで働かねえか?」

 「私は一人が性に合っています」

 「今度、店に寄らせてもらうよ」

 「お待ちしています」


 五島会長との話はついた。

 

 


第11話

 千秋はキャバクラを辞め、私の店で働き始めた。

 

 「千秋、お前の仕事は徹底した掃除だ。

 掃除がキチンと出来れば一人前の人間だといえる。

 それだけ掃除は難しいものだ。

 掃除は汚くなってからするものじゃない。

 「汚くならないように」掃除をするんだ」

 「えーっ、掃除ってキレイにするためにするんじゃないのお?」

 「昔のニューヨークの地下鉄は落書きだらけの不潔で汚い地下鉄だった。

 犯罪も日常茶飯事で、どんどん電車は汚れて行った。

 ところが電車をキレイに清掃するようになると、犯罪も減ったんだ。

 汚い公衆便所がどんどん汚くなっていくあれと同じ。

 特にトイレは舐められるくらいに磨き上げろ。

 自宅でも会社でも、トイレはそこにいる人間のモラルの表れだからだ。

 他人を不快な想いにしないというエチケットが掃除でもある。

 エチケットという言葉はベルサイユ宮殿にある花壇にあった物に由来するそうだ。

 つまり「美しい花壇を荒らすな!」ということらしい。

 だから店はいつもピカピカにしろ」

 「うん、わかった。まかせて、私お掃除大好きなんだ」

 「それから洗い物も同じだ。キチンと食洗機に入れて高温洗浄をする。

 整理整頓、清潔が大事だ。

 口紅の付いたコップや、汚れが残った皿は使いたくはないからな?

 ようするに相手の立場で考え、仕事をすることが大切だ。

 そして最後はしつけ。つまり接客だ。

 メシを食いに行って店員の態度が悪いとイヤだよな?

 ウチの店は気取ったフレンチの店じゃない、食堂だ。

 お客さんを家族だと思え。

 「お帰りなさい」「行ってらっしゃい」と明るく笑顔で挨拶しろ。

 まあ接客に関しては、俺より千秋の方がプロだろうけどな?」

 「まかせておいて。膝上スカートで接客しようか? ミニでもいいよ」

 「ジーパンでいい。これがお前のエプロンと三角巾だ。

 他に何か質問は?」

 「わかんない時はその時功作に訊くからいいよ」

 「それから仕事中は「功作」ではなく、「親方」と呼べ。いいな?」

 「わかった。仕事している時だけは「親方」って呼ぶね? 親方?」




 千秋はよく働く娘だった。

 陰気だった店も、千秋が来てくれたお陰で花が咲いたようになり、店は明るく華やいだ。


 

 千秋は洗い物も完璧だった。

 早くて手際よく洗い物をこなしてくれた。


 「物にはすべて魂が宿っている。それを作った人間の想いが込められているからだ。

 包丁に対してもそうだ。「お前は切れ味がいいなあ、いつもありがとう」という気持ちで使うとよく切れる。

 クルマを洗車すると走りがスムーズになったように感じることがあるだろう? あれと同じだ。

 だから物は感謝して使う、そしてあまり安物は買わないことだ。

 安物だとぞんざいに扱い易いからだ。

 いい物を大切に使う、これが一番のエコロジーだ。

 物にはいい霊も憑けば、悪い霊も憑く。

 ゴミ屋敷がそうだ。どんどんゴミが増えていく。

 ゴミがゴミを呼び、悪魔の巣窟となる」

 「ふーん、そうなんだ?」

 「だから100均なんかでガラクタを集めてはいけない。

 あの商品を100円で売るのは大変なことだ。

 賃金の易い東南アジアの貧しい女、子供たちや、下請けの町工場の製品が安く叩かれて仕方なく業者に納められている。その商品には苦労と悲しみが染み付いている」

 「100円だと思うとつい買いたくなるんだよねえ。お買い物ごっごをしているみたいでさ」

 「物はいい物を買って、感謝して大切に使うんだ。

 この食洗機にも毎日話しかけてやれ。

 「いつもキレイに洗ってくれてありがとう」ってな?」


 千秋は黙って頷いた。


 「ねえ功作。私にもお料理教えてよ」

 「そのうちな? まずは俺のやることを傍でよく見ていろ」

 「はーい」

 「それからちゃんと勉強しているか?

 春からは高校生なんだからな?」

 「わかっているよ。でも勉強ってどうやればいいかわかんないよ」

 「それが勉強だ。

 勉強は「わからないことを調べる」ことだ。

 そして調べるとまたわからないことが出てくる。そしてまたそれを調べる。

 「知る」ということは喜びだ。

 焦ることはない、高校生活を十分に楽しめばいい。

 いい友だちもたくさん作れ。

 取り敢えずいい本を沢山読んで、いい映画やドラマを見ろ。

 そうすることで自分の世界が広がる。

 それらは新たな人との出会いでもあるからだ」

 「どんな本がいい?」

 「最初は漫画でも何でもいい。そしてなるべく薄い本を選べ。

 まずは読み切ったという達成感を味わうことだ。すると段々読書が楽しくなる」

 「功作のお勧めは?」

 「俺は中学の頃まで殆ど本を読んだことがなかった。

 初めて読書感想文を書くために読んだ本がディケンズの『クリスマスキャロル』だった。

 薄くて読み易い本だった。今度、持って来てやるよ」

 「読んでみようかなあ」


 私は千秋の教師になったような気分だった。



 

 月曜日になり、祥子が店にやって来た。


 「あっ、親方の彼女さん! お帰りなさい」


 千秋は悪びれることもなく、祥子に親しみを込めて明るく挨拶をした。


 案の定、祥子はすぐに千秋に噛み付いた。


 「どうしてアンタがここで働いているのよ! 一体どういうこと!」

 「俺の店で働きたいと言うから雇ったんだ」

 「私が「手伝わせて」って言っても断ったくせに!」

 「お前には市役所が合っている。折角の公務員を辞めることはないだろう?」

 「公務員なんかどうでもいいわよ! 私はあなたと一緒に暮らしたいのに! 功作のバカっつ!」


 祥子は店を飛び出してしまった。


 「ちょっと待って! 親方の彼女さーん!」

 「そんな女、放っとけ」


 千秋は祥子を追いかけて行った。


 


第12話

 「功作の彼女さーん! ちょっと待って下さいよー!」


 千秋はすぐに祥子に追いついた。

 祥子は慌てて涙を拭った。祥子は泣いていた。


 「誤解ですよ、彼女さん。

 私と功作は彼女さんが疑うような関係じゃありませんから安心して下さい」

 「じゃあ一体何なの! 愛人?」

 「親子です」

 「親子?」


 祥子は唖然とした。


 「歳の離れた兄妹? 少なくとも恋愛関係ではありません、信じて下さい」

 「・・・。だから何? 一緒にいることに違いわないわ!」

 「少し話しません? ここじゃ寒いから。

 あそこでお茶しません?

 お財布をお店に置いて来たのでお金、貸してもらえますか?」

 「いいわよ珈琲くらい。奢ってあげる」

 「すみません」


 ふたりは笑った。




 千秋と祥子はチェーン店の珈琲ショップに入った。


 「私、キャバクラを辞めたくなって功作に相談したんです。

 なんだか自分が情けなくなっちゃって。

 妻子持ちの「ろくでなしホスト」には逃げられるし、お客はスケベオヤジばっかりだし。

 「いつまでこんな生活を続けるんだろう?」って泣けて来ちゃって。

 それで功作、いえ親方にお願いしたんです。

 「ここで働かせて下さい」って私からお願いしたんです」


 祥子は珈琲を飲みながら、黙って千秋の話を聞いていた。

 千秋の真剣な身の上話に、祥子の心は次第に穏やかになっていった。


 「そして親方がこう言ってくれたんです。

 「お前を採用するにはひとつ条件がある。学校へ行け」と。

 高校中退の私に高校生をやり直しなさいと言うんです。

 そして大学に行けと言ってくれました。

 私が「そんなお金なんかありません」と言うと親方は、「そのカネは俺が貸してやるから心配するな。お前が将来出世したら返してもらうから」と笑って。 

 私はそんな親方に恩返しがしたいんです。

 私みたいなどうしょうもないキャバ嬢にですよ?

 信じられます?

 そして親方にもしあわせになって欲しいんです。

 おねえさんと。

 本当です、それは私も親方は好きですよ。

 でも、私じゃおねえさんみたいな大人の女には敵わないから。

 私はお父さんを知らずに生きて来ました。

 だから親方はお父さんであり、話のわかる、歳の離れたお兄ちゃんなんです。

 そしておねえさんみたいな人が私の「お姉さん」だったらうれしい。 

 あなたは私のことが嫌いかもしれませんが、私は好きです、お姉さんのことが」


 すると祥子は笑って言った。


 「お姉さんじゃなくて「お母さん」でしょ? うふっ

 功作はそういう男よ。困っている人を見ると、男でも女でも誰でもすぐに助けようとする。

 昔からそう。

 私はそんな功作が好きなの。

 功作と結婚したいと思っているわ。今でもね?

 でも彼は結婚を望んではいないの。

 私たちはよくケンカもするわ。そんな功作に腹が立つから。

 もちろん功作が私のために言ってくれているのはわかるのよ?

 でも素直になれない私がいる。

 今日もそう、あなたと功作が一緒に仲良く働いているのを見て、「もう終わったな?」って思っちゃった。

 功作のこと、お願いね? 彼、人に弱みを見せない人だから」

 「親方はあなたのことが好きだと思います。

 愛していると思います」

 「どうしてそんなことがわかるの?」

 「だって親方があなたを見た時、微笑んでいたから。

 「何が食いたい?」っていう顔で。

 もし私と男女の関係にあったらあんな顔はしないと思います。

 親方の顔にはまちがいなく「LOVE」と書いてありましたから」

 「あなたってヘンな子ね?

 でも嫌いじゃないわ。私は奥村祥子。あなたは?」

 「小沢千秋です」

 「それじゃあ千秋、これからは私が千秋のお姉ちゃんだからね?

 お姉ちゃんの彼氏に手を出したら許さないから! わかった?」

 「はい! 祥子お姉ちゃん」

 「祥子はいらない、「お姉ちゃん」でいいわ」

 「うれしい! 私、弟しかいないから、ずっとお姉ちゃんが欲しかったんです!

 どうかこれからも仲良くして下さいね?」

 「お店、途中で抜けて来たんでしょ? もうわかったからお店に戻りなさい。

 に叱られるわよ」

 「そうですね? 私、親方に何も言わないで出て来ちゃったから。

 お姉ちゃんも一緒に戻りましょうよ、親方に会いに」

 「私、今日は功作の作る『支那そば』を楽しみに来たのよ」

 「それじゃあ戻りましょうよ、親方のところへ」

 

 祥子はうれしそうに笑った。




 店に戻ると店は大忙しだった。


 「おい千秋! 今まで何してた! 早くお客さんからオーダーを訊いて来い!」

 「すみませんでした!」


 千秋はすぐにお客のところに注文を取りに行った。


 そして祥子はカバンの中からエプロンを取り出すと、厨房の中に入ってシンクの中に溜まった洗い物を洗い始めた。


 「フライパンとかの大きい物から先に洗ってくれ!」

 「うんわかった」

 「悪いな? 疲れているのに」

 「私こそごめんなさい」

 「いいから早く手を動かせ!」


 店にまたひとつ花が咲いた。

 大輪の薔薇の花が。

 



第13話

 「あ、あ、あん、うわっ」


 私の腰の律動に合わせて喘ぐ、祥子を私は冷静に見下ろしていた。

 あらためて美しく、いい女だと思った。


 眉間にシワを寄せたり開放したり、仰け反って顎を突き出したり、目を閉じたり、私の表情を確認しようと薄く目を開けたりする祥子。

 私の背中に両手を添えて。


 女は色んな表情を持っているが、セックスの時と仕事をしている時のギャップに、男はより魅力を感じるものだ。

 昼間は淑女のように、そして夜は娼婦のように大胆にふるまう女。

 祥子はそんな女だった。


 行為を続けながら、私は祥子にキスをした。

 それに激しく応える祥子。



 私たちはほぼ同時に絶頂を迎え、満足にセックスを終えた。



 「お風呂、一緒に入ろうよ」


 祥子は湯船に湯を張りに行った。



 祥子が風呂場から戻って来ると私に寄り添った。


 「千秋っておもしろい娘ね?

 私のことを「お姉ちゃん」って言わせることにしたの。

 私の妹として」

 「そうか。じゃあ良いお姉ちゃんになってやれ。

 妹想いのいいお姉ちゃんに」

 「あの娘、かわいいところあるのね?

 必死に功作とのこと、否定していたわ」

 「千秋はまだ子供だ。辛いまま大人になったんだ。

 だから千秋は俺の娘みたいなもんだ。

 だから祥子、お前も大きな娘だと思って、色んなことをアイツに教えてやってくれ」

 「うん、私も時々あなたと千秋に会いに来るわね?」

 「ああ、千秋も喜ぶだろう。アイツは本当の家族に憧れているんだ」

 「うん。私、千秋のこと誤解していたわ。

 お風呂いっぱいになったかな? 背中流してあげるね?」

 

 私たちは風呂場へ行き、いっしょに湯船に浸かった。

 


 私はいつから女を愛するようになったのだろう?

 幾度か恋はしたと思うが、本当に愛を知るようになったのは、女房と付き合うようになってからなのかもしれない。


 

     この女を守りたい



 それが愛だったのかもしれない。



 私は若い頃、新聞記者になりたかったがその夢は絶たれてしまった。

 学費を稼ぐためにバイトに明け暮れる毎日だったが、最後の学費がどうしても納められず、私はやむなく大学を中退した。


 そんな時、私に声を掛けてくれたのが高山先輩だった。

 高山先輩は同じ演劇研究会の先輩だった。


 

 「たまにメシでもどうだ? 大湊。 どうせろくなもん食ってねえんだろ?」




 私は高山先輩に赤坂の寿司屋に連れて行ってもらった。

 久しぶりの鮨だった。


 「今、何して食ってんだ?」

 「地下鉄工事と蕨の鉄工所でバイトしてます」

 「大変だろう? カラダ壊すなよ」

 「ありがとうございます」

 「大湊、お前、ウチの会社に来ないか?」

 「先輩の会社にですか?」

 「ウチは大卒しか採用しないが、俺が人事に話をつけてやる。

 給料は結構いいぞ」

 「企業融資の会社でしたよね?」

 「仕事は大変だがカネにはなるぞ」


 

 カネが欲しかった。

 私は先輩の会社で働くことにした。

 私は夢中で働いた。



 すぐにトップセールスマンになり、称賛された。


 「凄いな大湊。また今月もお前がダントツの一番だな? 

 お前を会社に紹介した俺も鼻が高いよ」

 「ありがとうございます」


 給料はいつも現金払いだった。

 私の給料は札束で、給料袋が机の上に立つほどにもなっていた。



 だがそれと引き換えに、私は次第に「良心」を失っていった。


 会社は商工ローンの会社で、銀行からも見放された倒産寸前の会社に法外な利息でカネを貸して暴利をあげている会社だった。

 いわゆる企業向けサラ金会社だった。



 「いいか大湊。ゾンビみたいな客に所詮完済は無理な話だ。

 だが心配は無用だ。

 客からは利息を、そして元本は連帯保証人から取ればいい。

 俺たちはカネを借りたい客だけを見つければいいんだ。

 回収は別部隊がやるからな?」


 その部隊というのが「反社」の連中だった。



 深夜、10時頃に子分を連れた組幹部が会社にやって来て、支店長と別室で話をしていた。

 おそらく自分たちの「手数料」を引いた残りの回収金を届け、回収の進捗状況の報告と、次の返済の滞っている客への打ち合わせだった。



 「支店長、これ野島から回収して来た15万。

 それから佐々木は飛んだようだ」


 支店長はカネを数えると言った。


 「確かに。森本さん、今日もご苦労様でした」

 「でもよー。この前の木村は酷かったよなあ?

 回収に行ったら子供のブランコで首吊ってやがるんだから。

 だったらもっと早くフィリピンに連れて行って、腎臓、取ってやったのになあ」

 「あの後が大変でしたよ。せっかく香典を持って行ったら家族から投げ付けられましたからね?

 借りたのは木村さんの方なのに。

 後は保険金が入った頃にウチの顧問弁護士にやらせますから」

 「おめえたちはいい商売してるよなあ?」

 「お互い様ですよ」



 私はその稼いだカネで豪遊するようになった。

 そのカネは悲しみと憎しみの籠もったカネだったからだ。

 毎晩のように飲み歩き、私は女を抱いた。


 クルマや高級時計にも興味はなかった。

 私はそのカネの呪縛から開放されたいという矛盾の中で必死に働いた。



 それから3年後、私は実績を買われ、新しく設立される郡山支店の支店長に抜擢された。


 業績は順調に伸びて行ったがトラブルも多かった。

 自殺に夜逃げ、自己破産など、毎日が地獄だった。


 そして回収に使っていたヤクザ、昇竜会とも昵懇になり、よく一緒に酒を飲むようになっていた。


 

 「大湊支店長、この店の女、好きなの誰でもお持ち帰りしていいからな?」

 「流石は若頭の店ですね? いい女ばかりじゃないですか?」

 「まあな? 飲み屋は女で決まるからな?」


 そう言って若頭はヘネシーを呷った。


 「俺たち極道には明日の保証はねえ。

 美味いもの食っていい女抱いておかねえと、死んだらおしめえだからな?

 ところで大湊さん、ちょっと頼みがあるんだ。

 今月、オヤジ組長の誕生日なんだよ、3本、前借りさせてくれねえかなあ?」

 「会社と相談してみます」

 「会社じゃなくて支店長個人に頼んでんだよ」


 若頭の大崎の目が蛇の目のように光った。


 「担保は?」

 「ウチのチイママ、小夜でどうだ?」

 

 私はそれを承諾した。



 「おい小夜、こっちに来て大湊支店長に酌して差し上げろ」

 「はーい、はじめまして支店長さん。小夜です」


 その女は髪をアップにした、紫の着物を着た若い女だった。

 


 

 「今日はごちそうさまでした。若頭、では私はこれで失礼します」

 「ちょっと待ってろ、おい小夜、支店長のお帰りだ。

 家まで送って差し上げねえか」



 10分ほどして小夜が髪を下ろして私服に着替えてやって来た。


 「それじゃ、送って差し上げますね? 天国まで。うふっ」



 私は大崎から小夜を300万円で買った。




第14話

 小夜と私は半同棲を始めた。


 小夜は今まで抱いた女の中で一番いい女だった。

 私は小夜に夢中になった。


 だがそんなある日、小夜からLINEが届いた。


 

     ごめんなさい

     今日は会えない


 

 私はその短い言葉に胸騒ぎを覚えた。

 小夜の店にも行ったが、今日は休んでいるということだったので、私は小夜のマンションへ行った。


 

 部屋の前まで行くと、小夜の悲鳴が聞こえた。



 「やめて! お願い! 許して!」

 「この野郎! 大湊のチンポも咥えたのか! この口で!

 いつまで大湊と付き合っているつもりだ!

 毎日毎日、やりまくりやがって!」

 「だってあなたが、大崎さんが大湊さんの女になれって言ったから!」

 「アイツのことが好きなのか? ほら言ってみろ! この売女ばいた


 ドスン グキッ グエッ


 鈍い音がした。

 私は玄関のチャイムを連打し、激しくドアを叩いた。


 「小夜! 小夜! ここを開けてくれ!」


 どうやら小夜は若頭の大崎に暴行されているようだった。


 (小夜を助けなければ!)


 だが相手はヤクザだ、警察を呼ぶわけには行かない。



 大崎はインターフォンのモニターで私を確認したようだった。


 「支店長か? 悪いが今日は帰ってくれ」

 「大崎さん、ここを開けて下さい。さもないとデコ助警察を呼びますよ!」


 玄関ドアが開いた。

 私は大崎を突き飛ばし、寝室にいる小夜に駆け寄った。


 小夜のカラダは痣だらけになっていた。

 そこには革ベルトも落ちていた。


 ベッドのコンソールには注射器が置かれていた。

 小夜は口から涎を垂らし、虚ろな目をしていた。


 「小夜!」


 すると背後から、ペニスを勃起させたままの大崎が声を掛けて来た。


 「コイツにシャブを打ってやったから何を言っても無駄だぜ。

 もう飽きただろう? こんなシャブ中女。

 支店長にはもっといい女を紹介してやるからよお。あはははは」

 「・・・」

 「わかったらもう帰ってくれ。

 まだお楽しみの途中なんでね?」

 「大崎さん、約束が違うじゃありませんか?」

 「約束? そんな約束、した覚えはねえよ。

 さあ帰った帰った。そうじゃねえとアンタ、後悔することになるぜ。

 俺も今シャブで頭がいかれてるからな?

 何をするか自分でもわからねえ」


 すると大崎はセカンドバッグから38口径のリボルバーを私に向けた。


 「さあ、早く帰った帰った。

 見せもんじゃねえんだからな!

 それともこの鉛の弾、ぶち込まれてえのか?」


 クスリでいかれた大崎は、安全装置を外してはいなかった。

 私は両手をあげた。


 小夜が悲鳴をあげた。


 「お願い! 大湊さんを撃たないで!」


 その声に反応した大崎の隙を突いて、私は拳銃のシリンダーを手で抑えた。

 私と大崎のチカラ比べが始まった。


 「殺すぞコラッツ! 手を離せ!」


 大崎の頭突きを受けたが私はひるまなかった。

 大腿部に蹴りを入れられた。

 大崎は極真空手の有段者だった。

 だがシャブでチカラは半減していた。


 チカラ比べは私の勝利に終わった。


 私は拳銃を握ったまま、銃口は大崎には向けず、だらりと腕を下ろした。

 

 「撃ってみろよ、ほら早く!

 やれよ、殺せよ俺を! そうすればお前は昇竜会から死ぬまで追われることになるぜ。うへへへへ」


 私は拳銃に実弾が入っていないことを確認していた。

 私は自分のコメカミに銃口を当てた。


 「どうしても小夜を渡さないというのなら、私はあなたの拳銃でここで死にます」

 

 小夜が叫んだ。


 「やめて大湊さん! 馬鹿なマネはよして!

 私は大崎のオモチャなの! だからもう帰って!」

 「いい度胸してるじゃねえか? そこら辺のチンピラ極道とは大違いだぜ」

 

 そして私は大崎に拳銃を返した。


 「やるなら殺って下さいよ。昇竜会の若頭に殺られるなら私も本望です」

 

 大崎は私に静かに銃口を向けた。

 興奮してアドレナリンが分泌され、それがシャブの効果をさらに助長させたのか、大崎は射精して笑っていた。


 「死ねや大湊!」


 大崎は引き金を弾いた。


 パチン


 やはり弾はなかった。


 「あはははは そうまでしてこの女を庇う必要がどこにある?

 女なんていくらでもいるじゃねえか?」

 「俺はあなたから小夜を300万円で買った。

 どうしようと俺の勝手だ。

 小夜を返してくれ。

 そうでなければ300万円はおたくの組長から返してもらうまでだ。

 本社は昇竜会の元締めと繋がっているのを忘れたわけではありませんよね?」


 大崎はニヤリと笑った。


 「さすがは最年少でSGTの支店長になっただけはあるな?

 負けたよ、この女はお前にくれてやる」


 大崎は服を着て身支度を整え始めた。

 

 「これは利息だ、やるから取っておけ」


 大崎はジャケットからトカレフを取り出し、私に寄越した。

 

 「こっちは実弾入りだ。護身用にやるよ」


 そう言って若頭は帰って行った。



 私は小夜をやさしく抱き締めた。


 「痛いだろ?」

 「ご、ごめん、なさい。私、のため、に・・・」

 「骨折はしていないようだが、内蔵や脳に損傷があるといけないから、知り合いの闇医者に診てもらおう」

 「大丈夫、私なら大丈夫だから」

 「安心しろ、その医者なら警察に通報したりしないから」


 

 私は小夜をクルマに乗せ、大迫医院へと向かった。



 「随分派手にやられたな? 相手はヤク中のヤクザってところか?

 脳と内臓は心配ないようじゃ。それにしても酷くやられたな?

 全治2週間と言ったところじゃな?」

 「先生、ありがとうございます」

 「だがかなりクスリを常習しているようじゃ。

 知り合いの精神科医がおるから、紹介状を書いてやろう。

 ソイツも口が硬いからなんとかしてくれるじゃろう。

 クスリが抜けて、禁断症状が出る前に行ってみるといい」

 「お世話になります」

 「・・・病院はイヤ」

 「このままだとアンタは廃人になってしまうぞ」

 「それでもいい」

 「馬鹿なことは言うな。ちゃんと治してもらえ」



 小夜は閉鎖病棟へ入院することになった。

 




第15話

 1ヶ月が経ち、小夜は開放病棟へ移った。


 私は会社を辞め、出来る限り小夜を病院へ見舞いに通った。

 

 そして3ヶ月後、小夜はようやく退院することが出来た。


 

 「退院出来て本当に良かったな? 何が食いたい?」

 「ご飯より抱いて欲しい・・・」

 

 私たちは自宅に帰るのももどかしく、すぐ近くのラブホテルに入った。



 「4ヶ月分、してね?」


 

 私は荒々しく小夜を抱いた。



 「はあ、はあ、うっ、あ、あ・・・」


 小夜も私も夢中だった。


 私たちは何度もお互いを貪り合い、クタクタになり夜になった。

 小夜は私に抱きつき、言った。


 「功作のおかげだよ。ありがとう」

 「俺たち、結婚しよう」

 「うれしい・・・」


 私は小夜をやさしく抱き締めた。


 「メシ、食いに行こうか?」

 「うん、お寿司が食べたい」

 


 私たちは鮨を食べ、ケーキを買って家に帰った。



 

 私は知り合いの紹介で住宅会社に就職し、小夜との普通の生活を送っていた。

 人並みにしあわせだった。



 「はい、お弁当」

 「ありがとう、今日も遅いから先に寝てろよ」

 「うん。気を付けてね? 行ってらっしゃい」

 

 小夜はそう言って私にキスをした。


 「行ってくるよ」



 

 大湊が出勤して、小夜が家の掃除をしていると玄関のチャイムが鳴った。


 恐る恐るドアスコープを覗くと、小夜は恐怖に凍り付いた。

 ドアの向こうに立っていたのは、薄笑いを浮かべた大崎だったからだ。


 「俺だ開けろ。開けねえとこのドアをぶち壊すぞ」

 「帰って! お願い!」

 「また楽しもうぜ。ほら、退院祝いに持って来てやったぜ。

 欲しいんだろう? シャブ?」

 「帰って! 警察を呼ぶわよ!」

 「呼べるもんなら呼んでみろよ」


 すると大崎はバールでドアをこじ開けた。

 そしてすぐに小夜を押し倒し、玄関でレイプした。


 「止めて! お願い止めて!」


 大崎は小夜に覚醒剤を注射した。

 小夜は抵抗することが出来なくなり、忘れていた快感が全身を貫いた。



 「俺はおめえじゃねえと駄目なんだよ。

 やり直そうぜ、また仲良くしようや。

 お前がどこに行こうと、俺はお前を離しやしねえからな?」


 小夜は自分との意志とは裏腹に、再び快楽の中へと落ちて行った。




 仕事を終え、家に帰ると小夜がいなくなっていた。

 リビングに注射器が落ちていた。


 私はすぐに昇竜会の組事務所へ向かった。



 「若頭はいますか?」

 「大湊さん、お久しぶりです。若頭なら出掛けてますけど」

 「どこに行ったかわかりますか?」

 「たぶん『Juliet』だと思いますよ」


 


 驚いたことに『Juliet』に行くと、小夜が大崎と一緒にいた。


 「よう大湊、こっちに来て一緒に飲もうぜ」

 

 小夜が無表情のまま、バカラのグラスに酒を注いでくれた。


 「小夜を連れて帰ります」

 「小夜、どうする? お前の飼主がそう言っているけど?」

 「ごめんなさい。私、功作のところへはもう戻りません。

 いままでお世話になりました」

 「そういうことだから大湊。諦めろ」


 それが小夜の本心ではないことはわかっている。

 この男がいる限り、小夜はしあわせにはなれない。

 私はこの時、大崎を殺すことを決めた。


 「明日、また出直します」


 


 私は家に戻り、大崎から貰ったトカレフの作動を慎重に確認した。

 その拳銃の重さに人生の重さを感じながら。





 「ほらもっと声を出せ! 大湊と俺、どっちがいい?」

 「大湊さんよ! 私は功作を愛しているの!」

 「なんじゃとコラッ!」


 大崎は怒り狂い、小夜の顔を踏みつけた。


 「ぐっつ」


 小夜は必死に堪えた。


 大崎はその後も小夜を犯し続けた。



 

 ようやく欲望を満たした大崎は、いびきをかいて眠ってしまった。


 小夜は台所から包丁を持ち出し、寝ている大崎の肋骨と平行にそれを心臓めがけて振り下ろした。

 包丁はまるで豆腐を刺すかのようにスッと深く入っていった。

 何度も何度も小夜は大崎を刺し続けた。


 ベッドには血溜まりが出来、小夜は大量の返り血を浴びた。

 髪の毛にまで血糊がべったりと張り付いていた。



 小夜は包丁を大崎に刺したまま、ベランダに出ると大湊にLINEをした。


 

      ありがとう功作

      しあわせでした

      さようなら



 LINEを送信すると、小夜は15階のマンションの手摺を飛び越えた。




 「小夜!」


 私は飛び起きた。嫌な胸騒ぎがした。


 その時、小夜からLINEが届いた。

 スマホが私の手から滑り落ち、私は号泣した。


 「小夜ーーーーーーーーーっ!」



 私は小夜を妻にすることが出来なかった。

 




第16話

 千秋はよく働いてくれた。

 その物覚えの良さ、気配りに私は驚かされた。

 言えば必ず一度で理解した。


 「千秋、今日はお前が「まかない」を作ってみろ」

 「何を作ればいいですか?」

 「お前が食べたい物を作ればいい。

 ただし店にある物でだけどな?」

 「うーん、親子丼なんかどうですか? 親子丼なら簡単だし、家でも作ったことがありますから」

 「親子丼が簡単? じゃあ作ってみろ」


 千秋は親子丼の材料を準備し、テキパキと親子丼を作り始めた。


 出汁を張った平鍋に鶏肉を入れ、玉ねぎを入れて沸騰し始めたら溶き卵を入れ、蓋をして蒸らすと、それを白飯の丼の上に乗せた。


 「親方、出来ました」

 「5点」

 「まだ食べてもいないのに酷い」

 「親子丼は簡単ではない。俺が作る親子丼をよく見てろ」


 私は娘に料理を教える父親のように、手順を説明しながら親子丼を作り始めた。


 「まず鳥はモモ肉を使う。出来ればブランド鳥がいい。

 鶏皮が旨いからだ。胸肉ではパサパサしているからな?

 ウチの店はラーメンのスープに会津地鶏を使っているからこれを使う。

 よくいきなり鍋に鶏肉を入れるヤツもいるが、安い鶏肉だと臭みがある。

 まずは鶏肉を火で炙り、臭みを取り香ばしさを出す。

 炭火ならなおいい。遠赤外線効果で中まで火が通りやすく香りもいいからだ。

 千秋は出汁醤油を使ったが、それだけでは甘みが足りない。 

 タレは重要だ。

 タレには出汁、醤油、煮切りの酒、味醂、水飴、蜂蜜を入れて作る。

 舐めてみろ」


 千秋はタレの味見をした。


 「美味しい! 深みのある味! これだけご飯に掛けても美味しいです!」

 「それから鶏肉は少し薄めにスライスして使うとタレを良く吸い、食感もいい。

 そして中火で煮込むんだ。

 野菜は玉ねぎとささがきゴボウを使う。ゴボウは肉との相性がいい。

 そして重要なのが卵だ。

 千秋はそのまま溶き卵を掛けて蓋をした。

 俺は一人前の親子丼には卵を3つ使う。

 まずは2個の卵を軽く黄身が崩れるくらいに混ぜ、煮立っている鶏肉にきちんと火が入ったら回し掛けて蓋をする。

 そして半熟のウチに蓋を取り、三つ葉を入れて火を止めるんだ。

 それをメシに乗せ、その上に卵黄を乗せれば完成だ。

 好みで七味を掛けてもいい」

 「うわー、美味しそう!」

 「食べてみろ」

 「いただきまーす!」


 千秋はなんでも美味そうに食べる。

 夢中で親子丼を食べる千秋。

 私はそんな千秋に目を細めた。


 「旨いか?」

 「これ、お店で出したらどうですか? 凄く美味しいよ、親方!

 こんな美味しい親子丼、食べたことないもん!」

 「このタレはカツ丼にも応用が効く。

 店のメニューにカツ丼と親子丼も加えてみるか?

 千秋、お前が作って客に出せ。

 お前をどんぶり担当に任命する」

 「親方、私が作ってもいいの?」

 「やってみろ、お前ならやれる。自信を持って出せるように練習しろ。

 しばらくまかないは親子丼とカツ丼だ」

 「はい!」


 千秋は軽くジャンプするほど喜んでいた。

 日増しに成長していく千秋。




 

 千秋の作るカツ丼と親子丼の評判は上々だった。


 

 「この親子丼、千秋ちゃんが作ったのか?」

 「そうですよ中山さん。美味しいでしょうー?」

 「とっても旨いよ! 今度はカツ丼を食ってみようかな?」

 「ぜひ食べに来て下さいね? 凄く美味しいカツ丼を作りますから」

 「大将、いい後継者が出来たじゃねえか?」

 「いつ俺が引退しても大丈夫ですね? あはははは」

 「親方に比べたら、まだひよっ子ですけどね?」

 


 私はうれしかった。

 千秋が店に来てから千秋のファンも増え、売上は以前の2倍になっていた。



 「支那そばの仕込み、やってみるか?」

 「いいんですか? 親方」

 「俺が言うとおりにやってみろ」

 「はい!」

 

 千秋はとてもうれしそうだった。

 私と千秋はまるで本当の親子のようだった。




第17話

 「ずいぶんと繁盛しておるな? 千秋ちゃん」

 「あー、五島会長! お久しぶりですう! いらっしゃいませー!」

 

 五島が店にやって来た。

 五島はちょうど一席だけ空いていたカウンターの中央の席に陣取った。


 「ラーメンをくれ」

 「はい、大将、支那そば一丁お願いしまーす!」

 「あいよ」

 

 私はチラリと五島を見た。


 「千秋ちゃんが店を辞めて売上がガタ落ちだよ」

 「シオンがいるじゃないですかー、会長」

 「シオンちゃんも頑張ってくれてはいるが、やはり千秋ちゃんには敵わんよ」

 「ありがとうございます」

 「でも元気そうで良かった。ここの大将は中々の男だから安心して働きなさい」

 「会長、親方と知り合いなんですか?」

 「ちょっとな。なあ大湊さん?」


 私は支那そばを会長の前に置いた。


 「いい香りだ。出汁がいい」


 五島はレンゲでスープを啜り、何度か小さく頷いた。


 「今までワシが食べたラーメンの中で一番旨い。

 どうだ大将? ウチの駅前のテナントビルに入らねえか?

 今の3倍の箱だ。

 家賃は3ヶ月はいらねえ。その後は売上の10%でどうだ?」

 「ありがとうございます。でも今は私と千秋だけですのでこれ以上は無理です。

 お気遣い、恐縮です」

 「スタッフはこっちで用意してやる。大将が社長で店を増やせばいいだろう?」

 「私は社長の器ではありません」

 「まあ考えておいてくれ。いつでも応援してやる。

 ついでにウチの飲食部門もみてくれるとありがてえんだが?

 どうだ? ワシと組まねえか?

 ワシはお前が好きだからな。わはははは」

 「親方、モテモテですね?」

 


 五島は支那そばを汚らしく食べ、残して席を立った。


 「すまんな、残してしまって。

 ワシは若い頃に胃癌で胃袋を取ってしまってな?

 食が細くて酒も酔わねえんだ。

 また来るよ。さっきの話、良い返事を待っているからな?」


 五島会長はカウンターに1万円を置いて帰ろうとした。


 「千秋、会長にお釣りを」

 「釣りはいらねえ。それからこれは千秋ちゃんに就職祝だ。取っておきなさい」


 会長は千秋に熨斗袋を渡した。


 「それじゃまたな。千秋ちゃん」

 「会長、ありがとうございます」


 千秋は五島に頭を下げた。





 祥子は毎週店を手伝ってくれるようになった。

 祥子と千秋はまるで姉妹のように仲良く働いていた。

 常連の中山が祥子に尋ねた。


 「お姉さんは大将の奥さんなのかい?」

 「さあどうでしょう?」

 「祥子さんは親方のフィアンセ、婚約者なんです。ねえ、お姉ちゃん?」

 「婚約者だけどね?」

 「お姉ちゃん? 千秋ちゃんのお姉ちゃんなのかい?

 ふたりとも美人だけど、全然似てねえけどなあ。

 ビールもう1本」

 「はーい。私たち、異母姉妹なんです」

 「あはははは」

 

 祥子と千秋は大きく口を開けて笑った。



 

 今週も無事に終わった。


 「親方、お姉ちゃん、お先に失礼しまーす」

 「気をつけて帰るのよ」

 「はーい。おやすみなさーい」

 「おやすみ千秋」


 千秋はそう言って帰って行った。


 「俺たちも帰るか?」

 「うん」


 祥子はうれしそうに頷いた。

 朝日を浴びて私は自転車を押して祥子と家路に就いた。

 まるで夫婦のように。



 ふたりで風呂に入り、一緒に寝た。


 「千秋、よく働くわね?」

 「ああ、お前もな? 毎週手伝ってくれてありがとう。

 疲れただろう?

 お前たちのお陰で今日も大忙しだった」

 「なんだか家族みたいね? 私たち。

 私たちが夫婦であの娘が私の妹」

 

 祥子が私にキスをした。

 私たちは愛し合い、抱き合って眠った。

 



第18話

 「天気もいいし、出掛けるか?」

 「どこに連れて行ってくれるの?」

 「どこに行きたい?」

 「功作にまかせる」

 「うなぎでも食いにいくか?」

 「うれしい! うなぎ大好き!」


 祥子は私に肌を寄せた。

 祥子の小さめの乳房が私の腕に触れた。




 「どうだ? ここのうなぎ、旨いか?」

 「うん、凄く美味しい。

 それにこうして昼間からお酒が飲めるなんて最高」

 「今日は何時の新幹線で帰るんだ?」

 「明日もお店を手伝っちゃ駄目?」

 「明日は雨だから店は休みだ」

 「そうか、明日は雨の予報だったもんね?」

 「役所の方はいいのか?」

 「うん、親戚の法事だって嘘吐いて休暇届を出して来ちゃったの」

 「それなら今日は大宮に焼鳥でも食いに行くか?」

 「大宮に美味しいお店があるんだ?」

 「いい店だ。お前も気に入るはずだ」

 「楽しみだなあ」



 

 私たちは東北線の『上野・東京ライン』のグリーン車に乗って大宮駅に向かった。

 車窓から見える景色はすでに日は沈み、街の明かりが流れて行った。




 大宮のアーケードにあるその焼鳥屋は年中無休の店だった。


 「美味しそうな店構えね?」

 「ここは日曜日もやっているんだ。年中無休の焼鳥屋だ」


 私たちは縄暖簾をくぐって店に入った。


 カウンターが8席ほどの小さな店。

 店主は70歳をゆうに越えているはずだ。


 「いらっしゃい」

 「生2つ。それからおまかせで」

 「かしこまりいました」


 私たちが来たことで、店は満員になった。


 

 「乾杯」


 祥子は美味そうにビールを飲んだ。


 「ぷはー 美味しい」


 最初は「ニンニク間」が供された。


 「ニンニクのいい香り。ごめんなさいね? お口がニンニク臭くなっちゃって」

 「俺も同じだ」

 「じゃあいいか?」

 「今更だろう?」

 「それもそうだね?」


 祥子はニンニク間を食べた。


 「凄く美味しい! 初めて食べた! ニンニクがガツンと来るね?」

 「ここの大将は一日も休まずに焼鳥を焼き続けている。

 毎日だぞ? 俺には出来ない」

 「毎日かあ。でも功作となら年中無休でもいいよ」

 「・・・」


 私もニンニク串を食べ、ビールを飲んだ。


 「ねえ、私もお店を手伝いたい。千秋と一緒に」

 「役所を辞めてか?」

 「うん。駄目?」

 「酔っぱらい相手の食堂だぞ?」

 「そんなの平気だよ。もう慣れたから」

 「時給900円だぞ」

 「それでいいよ。でも功作の家に住込みで働かせて欲しい」

 「馬鹿な女だ」

 「馬鹿だもん、私。功作バカ。うふっ」

 「勝手にしろ」

 「そしてね? 千秋と3人で暮らしたい」

 「3人で?」

 「うん。私たち家族だから」


 (家族・・・)


 「好きにしろ」

 「好きにする」




 月曜日は朝から雨だった。


 「雨だね?」

 「ああ、今日は休みだな?」

 「お休みならもう一回、して」


 雨音あまおとに、祥子の吐息が溶けていった。




第19話

 千秋が店に出勤して来た。


 「おはようございまーす! あれ? お姉ちゃん今日もお手伝いですか?」

 「お手伝いじゃなくて、今度は時給900円で働くことになったの」

 「えっ、それじゃ私はクビっていうことですか?」


 千秋はガックリと肩を落とした。


 「違うわよ、一緒に働くのよ、千秋と『港町食堂』で」

 「市役所は辞めちゃうんですか?」

 「そうよ。後任に引き継ぎをしたら今月で役所は辞めるつもり」

 「私と同じ、時給900円でですか?

 そっか! 親方との結婚が決まったんですね!

 おめでとうございます!」

 「あはははは 結婚はしないわ。でもね、功作の家に住むの。

 住み込みだから」

 「つまりそれって同棲ですか?」

 「千秋、アンタも一緒に暮らそうよ。私たちと」

 「そんな冗談、キツイですよ」

 「冗談じゃないわよ。千秋も春からフリースクールでしょ?

 家賃もタダになるんだし、お弁当だってお姉ちゃんが作ってあげるから。

 どう千秋? 一緒に暮らさない?」

 「でも、お邪魔でしょ? ラブラブのお二人の家に居候だなんて」


 千秋はうれしさを隠しきれない。


 「大丈夫よ、お掃除にお洗濯、ご飯の支度もふたりで交代でやりましょう。

 それにアンタだってそのうち家から嫁いで行くんでしょう?」

 「いいんですか? 親方。お言葉に甘えても?」

 「俺はどっちでもいいぞ。祥子が決めたことだからな?」


 本当は私も千秋と住みたかった。

 その方が千秋にとっても経済的にも精神的にもいいと思っていたからだ。

 だが私とふたりとなると何かと誤解を受けやすいのも事実だった。

 それを祥子から言い出してくれた時は正直、ホッとした。


 「私たちは家族でしょ? 一緒に住むのが当然よ」

 「うれしい・・・」


 千秋は涙ぐんでいた。


 「不動産屋には俺から話してやるから、千秋は引っ越しの準備をしろ」

 「ありがとうございます」

 「よろしくね? 千秋」

 「よろしくお願いします。祥子さん。お姉ちゃん」



 

 1ヶ月後、私たち三人の共同生活が始まった。


 「お姉ちゃん、今日のお昼は何にする?」

 「豚汁と銀鱈の西京焼きでどうかしら?」

 「それいい。最近お肉が続いたから」

 「それじゃあ私はお洗濯当番だから千秋、お昼ご飯の支度はお願いね?」

 「まかせといて。美味しいランチを作るから」

 

 千秋は昼食の準備を始めた。




 昼食はコタツで食べた。


 「功作、おかわりは?」

 「じゃあ半分くれ」

 「はい」


 祥子は私の茶碗に半膳メシをよそってくれた。


 「千秋、この豚汁美味しいわね?」

 「そうですか? 功作お父さんに教えてもらったんです。

 隠し味に生姜汁とごま油を少々」

 「おかわりしちゃおうかな?」

 

 千秋は祥子の汁椀を取り、豚汁を入れた。


 「糠漬け、少し早かったかな?」

 「ううん、丁度いいんじゃないの? 美味しいわよ」

 「よかった。ネットのレシピで作ってみたの」

 「柿の皮も入れてみろ。旨くなるぞ」

 「柿の皮かあ。やってみるね?」



 私はしあわせだった。

 ひとりで暮らすことに慣れていた私にとって、祥子、そして千秋と一緒に生活をすることで、疑似家族の生活に満足していた。

 それは本当の家族以上の関係だった。




 千秋のフリースクールの初日には店を臨時休業にして、祥子とふたりで付き添って行った。


 「なんだかドキドキして来た」

 「大丈夫よ、千秋ならすぐに人気者になれるから」



 フリースクールは文部科学省に高校としての認可を受けていないため、高卒の資格を取ることは出来ない。

 定時制高校や通信制高校も考えたが、定時制は夜なので店の手伝いが出来なくなり、千秋はそれを申し訳ないと感じるだろうということと、成人した友人関係にも不安があった。

 通信制であれば、比較的自由に自分のペースで勉強することは出来たとしても、ある程度の拘束がないと、勉強が疎かになることも懸念された。

 千秋の目標はあくまで大学で学ぶことなので、フリースクールに通って高卒認定試験を受けることを選択させた。

 以前の大検は大学の受験資格を得るためのものだったが、高卒認定試験に合格すれば、高卒の認定も受けられる。

 それにフリースクールなら引き籠もりや登校拒否などの心に病を抱えた子たちも多いので、カリュキュラムもゆったりとしていたからだ。


 授業は朝の10時から夕方4時まで。

 月曜日は休日明けということもあり、午前中だけの授業だった。




 私たちは宇都宮の老舗料亭で、千秋の入学祝いの膳を囲んだ。


 「これからだね? 千秋の高校生活?」

 「ありがとうお姉ちゃん、お世話になります」

 「楽しみなさいね、有意義な高校生活を」


 私たちはビールで乾杯をした。


 「学ぶことは喜びだ。千秋、色んなことを吸収しろ」

 「ありがとう、お父さん」


 私たちの娘。千秋の高校生活が始まった。




第20話

 高卒認定の試験科目は6教科11科目になる。

 国語、地理、歴史、公共、数学、科学と人間生活、物理基礎、化学基礎、生物基礎、地学基礎と英語。

 ふるいに掛けて落とそうとする試験ではなく、大学受験を目的とする試験なので、合格率は50%近くある。

 それは偏差値の低い、名ばかりの高校も多いせいもあるからだろう。

 それに不登校になってしまった子供たちへの救済措置としての意味も強くある。

 高認に合格すれば高卒とみなされ、大学受験の資格が与えられるが、どの大学に入れるかは更に努力が必要になる。


 千秋の場合、小中学校の基礎学力もなかったので、そこから始めなければならなかった。

 千秋は九九も怪しかった。


 「千秋、七、六?」

 「48」 

 「42」

 「じゃあ七、四」

 「24」

 「28だ。まずはそこからだな?

 焦ることはない。少しずつ覚えればいい」

 「私、バカだから」


 千秋はそう自嘲した。

 私は千秋を叱った。


 「自分をバカだと言う奴がどこにいる!

 知らないことを学ぶ、それが勉強だ。

 お前は勉強が出来なかったんじゃない、勉強の仕方がわからなかっただけだ。

 最初から出来る奴なんかいねえ」

 

 千秋は分数計算も英語も殆ど出来なかった。

 私と祥子は熱心にそれらを千秋に教えた。



 「千秋、数学と英語は毎日やれ。

 数学と英語が出来れば八割は合格したも同じだ。

 そして受験勉強は暗記だ。

 国語は文章問題と漢字の読み書き。

 だから本を沢山読んで、漢字検定の勉強もしてみろ。ゲームだと思え。

 歴史は漫画で覚えろ。

 それから英語は最初、教科書は見るな」

 「どうして?」

 「英語は道具だからだ。道具は使うことでより使い易くなる。

 英語はコミュニケーション・ツールだ。学問ではない。使いこなせ。

 まずは聴くことから始めろ。

 映画やラジオ、洋楽をよく聴け。

 そしてそのフレーズを口に出すんだ。馬鹿みたいに。

 子供が母親から言葉を覚えるように、まず名詞から覚えていけ。

 ママ、パパ、まんま、お水というようにだ。

 それから動詞。走る、食べる、聞く、話すとかの動作を覚えろ。

 そして自分がわかる単語を探しながら聴け。

 日本人は書くことと読むことは得意だが、会話が出来ない。教科書英語ばかりをやっているから話すことが出来ない。

 間違ってもいいからどんどん恥をかけ。

 そうすることで英語は確実に身に付く」

 「英語は道具・・・」

 「英語は教養じゃない。英語なんてアフリカの子供でも使えるからな?

 日本の教育は暗記に重きを置いている。だから生きた英語が使えない。

 千秋、英語で考え、想像するチカラを養え。

 いちいち訳す癖をつけるな。

 日本語で話す時は日本語で考え、英語を話す時は英語で考えるんだ。

 白人の文化と日本の文化は違う。言葉は文化なんだ。

 日本語をそのまま直訳しても通じない。

 日本語の「私はお金を持っていません」は、I don't have a money とは言わない。

 I have a no money つまり「私はお金がないことを持っている」と言う。

 だから英語圏の文化や習慣を学ぶことが大切だ。

 そして英語は道具だが、使えるだけではダメだ。

 色んな知識、知恵を駆使して自分の意見や考えを相手に伝えたり、相手の質問に的確に応えることが一番大事なんだ。

 よく幼児から中途半端な英語を習わせる親がいるが、あまり意味はない。

 半年も外国にいれば、相手の言っていることくらいはわかるようになるものだ。

 それに俺もそうだが、語学は使っていないと忘れてしまうからな?

 でも勉強すればまた思い出すものだ」




 千秋はフリースクールにも慣れ、生き生きとしていた。



 「お姉ちゃん、この因数分解ってどうやんの?」

 「因数分解っていうのはね、このXの二乗を・・・」


 家の中は英語漬けになっていた。

 テレビでは洋画が流れ、千秋はR&Bを聴きながら踊っていた。


 「なんだか私たちも学生時代に戻ったみたいね?」


 祥子はそんな千秋を見てうれしそうだった。



 


 千秋の学習スピードは次第に加速して行った。


 「どうだ千秋、学校は?」

 「うん、凄く楽しいよ」

 「そうか、それは良かった。

 勉強はわからないからつまらないし、嫌いになる。

 だが逆にわかるようになるとどんどん勉強が楽しくなる。

 勉強が楽しくなるともっと勉強したくなる。

 千秋はその壁を越えたんだ」

 「よかったわね? 千秋」

 「ありがとう功作お父さん、お姉ちゃん」

 



 フリースクールでは千秋が最年長だった。

 千秋の下には20歳の花蓮かれんと、後は高校中退、中学からの登校拒否だった子たちが殆どだった。


 千秋はそんなクラスメイトたちからは、親しみを込めて「姐御」と呼ばれていた。


 クラス1のイケメン、17歳の修斗が言った。



 「姐御は凄えよ。よくその歳でまた勉強なんてする気になったよなあ。

 金持ちと結婚すればいいのによお。美人だし」

 「私はヤンチャして高校中退なんだ。それに中学も半分しか行ってないから小学校からやり直しだよ。

 修斗は七の段って言える?」

 「七の段って九九のこと?」

 「私は出鱈目言ってお父さんとお姉ちゃんに笑われたの。

 「まずはそこからだ」って。

 お父さん、お姉ちゃんと言ってもね、本当の家族じゃないんだけと、本当の家族よりも温かい人たちなんだ。

 その人たちに勧められてここに来たの。

 「大学に行きなさい」って学費まで出してくれて。

 赤の他人の私によ? 凄くない?」

 「俺は中学2年の時にいじめられて、部屋から出られなくなったんだ。

 親は「そんな学校には行くことはない」って言ってくれた。

 「担任も学校も、教育委員会もあてにならない。自分の保身ばかりだ。

 いじめは犯罪だからそれを放置している組織が狂っている」って。

 それで僕が自殺なんかされたら大変だと思ったんだろうね?

 毎日パソコンや携帯ばっかりいじってた。

 デジタルの仮想現実が僕の居場所になっていたんだ」

 「どうしてここに来たの?」

 「自分を変えたくて・・・。

 それに部屋にいると居間で両親が僕のことでケンカしているのが聞こえて来て、それが辛かった。

 それで高認を取って大学に行って、もっとITを勉強してみたいと思ったんだ。

 親はすごく安心している」

 「ちゃんと親孝行してるじゃん? 花蓮はなんでここに来たの?」

 「私も姐御と同じ、高校中退なんです。

 どうしても馴染めなくて。

 でももう一度、勉強して大学に行きたいと思ったんです」

 「どこの大学に?」

 「医学部です。医者になりたいんです、小児科医に。

 私、子供の時から体が弱くて入退院の繰り返しでした。

 仲の良かった女の子が突然死んじゃったりして。

 それ以来、人と仲良くなるのが怖くなりなした。

 でも今は、そんな子供を一人でも多く救える医者になりたいんです」

 「きっとなれるよ、花蓮なら」

 「ありがとう姐御。「医者になりたい」って言うとみんな笑うんです。

 「お前には絶対に無理だ」って」

 「そんなことないよ。ウチのお父さんもいつも言ってるよ。

 

     

      「人は思った通りの自分になる」



 だから願って努力すれば必ず出来るって。

 花蓮のその夢、きっと叶うよ!」

 「ハイ。がんばります!」


 ここは一度は挫折し、夢を抱いて自ら選んで人生を再スタートさせに来た集まりだった。



 千秋は思った。

 自分が将来何になりたいかはまだわからない。

 でも功作に言われてここに来て本当に良かったと。



     朱に交われば赤くなる



 キャバクラで働いている時には夢も希望もない人たちばかりだった。

 ただその日暮らしの毎日。

 私もそうだった。でも今は違う。

 

 千秋の人生は大きく変わろうとしていた。

 

 


第21話

 今日の店の営業も終わり、厨房の後片付けをしていると、千秋が店の掃除をしながら私に尋ねた。


 「親方の夢って何ですか?」


 (夢? 俺の夢?)


 「千秋、お前の夢は何だ?」


 私は寸胴鍋を洗いながら千秋の質問に質問で返した。

 適切な回答を導き出す時間を稼ぐために。



 「今、私はその夢を探しているところです」

 「そうか? 夢は見るためにあるんじゃない、叶えるためにあるんだ。

 急ぐ必要はない、ゆっくり探せばいい」


 千秋は賢い娘だ。どうやら私には夢がない事を悟ったようで、俺への夢の追求は諦め、今度は祥子に同じ質問をした。


 「祥子お姉ちゃんの夢は何?」

 「もう夢は叶ったから当分ないわね」

 「夢が叶った?」

 「こうして三人で家族みたいに暮らす夢がね?」

 「それって夢なんですか?」

 「そうよ、立派な夢よ。

 大好きな人たちと一緒に生活をする。これ以上の贅沢はないわ」

 「それもそうですね? 好きな人と一緒に暮らす。最高のしあわせですね?

 私も今、凄くしあわせです!」


 

 私はとっくに夢をなくしていた。

 だが夢がないからと言って不幸ではない。

 中年の私には夢はないが、生き甲斐はある。

 祥子と千秋という生き甲斐がいる。 

 この二人をしあわせにすることが私の生き甲斐だった。


 穏やかな毎日の暮らし。私は絶対にこの二人を守らなければならない。

 

 千秋の日々の成長がうれしかった。

 そして祥子も私に一生懸命尽くしてくれている。

 折角の安定した公務員を辞めてまで、人生を俺に捧げてくれた祥子。

 私はけじめをつける時期に来ていた。




 千秋がフリースクールに行っている日中が、私と祥子の「恋人時間」だった。



 「愛しているわ功作、愛しているの。あ、あ、いい、もっとして・・・」


 千秋がいる時には私に甘えることが出来ない祥子は、私をせがんだ。

 私は行為を続けながら祥子に尋ねた。


 「このまま、今日は中に出してもいいか?」

 「うれしい、このまま中に、ちょうだい。うっ」


 祥子は短くうめき声をあげ、オルガスムスが近づいているようだった。


 「出すぞ」

 「出して!」


 私は動きを加速させ、祥子の中に覚悟を持って射精をした。

 祥子の中がヒクヒクと痙攣し、私の精子を子宮に迎え入れてくれた。


 いつもは祥子がコンドームを嫌うので、主に避妊は膣外射精をしていた。

 それは自分には子供を持つ勇気がなかったからだ。

 祥子をしあわせにする自信がなかったからだった。



 正常モードに戻って、祥子が俺に抱きついて来た。


 「知らないわよ、今日は赤ちゃんが出来る日なのに中にしちゃって。

 赤ちゃんが出来たら産むわよ、私」

 「産めばいい」

 「いいの? 産んでも? 功作の赤ちゃん」

 

 私は祥子にきっぱりと言った。


 「産んで欲しい。俺とお前の子供を。

 として」


 祥子は号泣した。

 

 「私を、私をあなたのお嫁さんにしてくれるの?

 うれしい・・・。凄く嬉しい。

 また私の夢が、叶っちゃった」


 私は隠しておいた婚約指輪を持って来て、祥子にプロボーズをした。



 「祥子、随分待たせたな? いつも俺を支えてくれてありがとう。

 お前の人生、俺に半分分けてくれ」

 

 祥子はベッドから跳ね起きて正座した。

 

 「はい! よろこんで・・・」


 私は祥子の左薬指に指輪をはめた。

 祥子の指が少し震えていた。


 そして私たちは強く抱き合い、熱いキスをした。


 すると千秋が私の耳元で囁いた。


 「あっ、今、中からあなたのが出て来たみたい・・・」

 「出来たかな? 俺たちの子供」

 「ねえ、念のためもう一回して。

 私、一人目は男の子が欲しいから」


 私は祥子のもう一つの夢を叶えてやりたいと思った。


 


第22話

 家で祥子と昼食を摂った後、私は料理の仕込みをするために先に家を出た。

 祥子には千秋がフリースクールから帰って来て、開店1時間前に千秋と一緒に店に出ればいいと言ってある。

 千秋と祥子が店で働いてくれるようになるまでは、翌朝の5時閉店から店の後片付けに2時間が掛かっていたので、店を出るのはいつも7時を過ぎていたが、今は6時には彼女たちと一緒に店を上がることが出来たので、かなり体はラクになった。

 私は支那そばのスープの火加減を見ながら、1日17時間を店で過ごしていたが、彼女たちは夜の8時から翌朝の6時までの10時間を店のために働いてくれていた。



 千秋がフリースクールから帰って来た。


 「お姉ちゃんただいまー。お腹空いた~」

 「お帰り千秋。今日は四川風麻婆豆腐よ。

 早く手を洗って来なさい」

 「はーい。良かった! 今日は辛い物が食べたかったんだ」

 「そう? 以心伝心ね? 私たち姉妹だから。あはははは」



 炬燵に入り、麻婆豆腐の入った鉄鍋を食べている時、千秋は祥子の左手の薬指に光るダイヤの指輪があることに気付いた。


 「お姉ちゃん、その指輪、もしかして・・・」


 祥子はうれしそうに指輪を千秋に見せた。


 「功作からもらっちゃった。キレイでしょ?」

 

 千秋は思わず泣いてしまった。


 「よかったね? よかったね、お姉ちゃん・・・」

 「ありがとう千秋。またひとつ、私の夢が叶っちゃった。

 本当はね? 功作との結婚は諦めていたの。何度か私から結婚を迫ったこともあったんんだけど、「俺は誰とも結婚する気はない。お前をしあわせには出来ないから」って言われてね。

 でも結婚は望まないくても、功作とは一緒にいたかった。

 功作と一緒に人生を生きたかった。

 そうしたら今日、指輪を出してプロポーズしてくれたの。

 私、うれしくて泣いちゃった」

 「お姉ちゃん、諦めなくて良かったね?」

 「ありがとう千秋。千秋のおかげよ」

 「そんなことないよ、お姉ちゃんなら凄くいい奥さんになれるよ」

 「いい千秋のお姉ちゃんにならないとね?

 さあ、ご飯を食べたら少し横になりなさい。

 今日は金曜日だから忙しくなるわよ」

 「うん。美味しいね? この麻婆豆腐、辛くて」

 「良かった。たくさん食べなさい」


 祥子と千秋は本当の仲の良い姉妹のようだった。





 仕事を終え、ひと風呂浴びて炬燵で缶ビールを飲んでいると、千秋が私に言った。

 今日は土曜日で千秋のフリースクールは休みだった。


 「お父さん聞いたよ、お姉ちゃんと結婚するんだって?」

 

 私は朝食のベーコン・エッグをつまみにビールを飲んで言った。


 「ああ」

 「結婚式は?」


 祥子が助け舟を出してくれた。


 「結婚式はしないの。籍を入れるだけ。

 どうせ私の両親は来ないし・・・」

 「えっ、お姉ちゃんのお父さんとお母さん、結婚式に出てくれないの?」

 「色々あるのよ、私たち親子にもね?」


 祥子は父親とは断絶していた。

 親に何の相談もなく、折角入った市役所も勝手に辞めてしまい、結婚もせずに私のような食堂のオヤジと暮らすために地元を出てしまったからだ。


 「でもお姉ちゃんのウエディングドレス、綺麗だろうなあ」

 「もうそんな歳じゃないわよ。私はこれで十分しあわせ」

 「そう? 私、ちょっと図書館に行って来る。

 お昼までは帰って来ないから新婚さん、どうぞごゆっくり」


 千秋は私たちに気を利かせて外出して行った。



 「日曜日、祥子のご両親に挨拶に行くから連れて行ってくれないか?」

 「えっ?」

 「大切なひとり娘を嫁にもらうんだ。筋は通さなければならない」

 「どうせ行っても反対されるだけよ」

 「だからこそ行かなければならない。

 殴られても蹴られても平気だ。覚悟は出来ている」

 「殺されちゃうかもよ?」

 「祥子の親に殺されるなら本望だ」

 「ごめんなさいね? 私のために」

 「お前のためじゃない。ここまで祥子を育ててくれた親に礼を尽くすのは当たり前だ。

 受け入れられる、られないは別だ」

 「ありがとう功作。

 実は悩んでいたの。快諾とまでは行かなくても、せめて親には理解して欲しかったから」

 「明日の10時にご挨拶に行くと伝えておいてくれ」

 「うんわかった。お母さんに言っておく」

 

 祥子は母親とは連絡を取り合っていた。

 義母は「祥子がよければ私は賛成よ」と言ってくれていたが、問題は義父だった。

 父は農林水産省の官僚OBで、祥子のことは目に入れても痛くないほどかわいがっていた。


 祥子が義母にそれを電話で伝えると、会ってくれることになった。


 

 日曜日、私は義父の好物だという鯖寿司と「久保田」の『碧寿』を買い、義母にはエルメスのスカーフを手土産に、祥子と祥子の実家へと向かった。




第23話

 「功作のスーツ姿、素敵」


 祥子ははしゃいでいた。

 私が自分の両親に会ってくれることが、余程うれしいようだ。


 「スーツなんて着たの、何年ぶりかな? ネクタイ、これで良かったか?」

 「うん、いいレジメンタルだと思うわ」

 「じゃあ行くか」



 祥子の実家は福島県の福島市にあった。

 宇都宮駅から新幹線でおよそ40分。

 義父は農林水産省を退官してからは福島の郷里に戻り、農機具メーカーの役員に天下りをしていた。



 「お母さんただいまー」

 

 祥子が門柱のインターホンを押した。


 「開いてるわよー」



 門扉を開け、玄関に入ると義母が私たちを笑顔で出迎えてくれた。


 「ただいまお母さん。彼が大湊さん。

 私の母です」

 「はじめまして。大湊功作です」

 「祥子の母です。よくいらっしゃいました。さあどうぞ、お上がり下さい」

 「お母さん、これ大湊さんからエルメスのスカーフ」

 「あら、そんな高価な物を。ありがとうございます」

 「選んだのは私だけどね? うふっ」

 「後で開けるわね。さあどうぞ、主人も待っておりますから」


 義母は良妻賢母の鑑のような人だった。

 女は男を見る目がある。義父も悪い人ではなさそうだ。

 もっとも祥子の父親だ、ヘンな人間ではあるまい。

 


 義父はリビングのソファにキチンとネクタイを締めて黒のカーディガンを着て憮然としていた。


 立ち上がるでもなく、義父は私を軽く一瞥した。


 「初めまして、お嬢さんとお付き合いさせていただいております、大湊功作と申します。

 ご挨拶が遅れましたこと、お詫び申し上げます。

 これは鯖寿司と「久保田」の『碧寿』です。祥子さんから好物だとお聞きしましたので」

 

 義父は黙っていた。


 「あなた」

 「お父さん、勝手なことばかりしてごめんなさい。

 私、大湊さんと結婚したいの」

 「食堂の女房にするためにお前を育てた覚えはない」

 「あなた、大湊さんに失礼ですよ。

 祥子が決めた人なんだから、祝福してあげましょうよ。

 ごめんなさいね、大湊さん」


 予想通りの展開だった。

 確かに私は食堂のオヤジだ。

 私は義父の次の言葉をじっと待った。



 「それに今頃のこのこと挨拶にやって来るなど、いい歳をした大人として非常識だ。

 私は結婚など認めないぞ。

 市役所の方には私が市長に話をつけてやるから福島に戻って来なさい。

 無理してまで結婚に拘ることはない」

 「市役所には戻らないわ。私は功作と一緒になって宇都宮で暮らすの。

 たとえ親子の縁を切られても!」

 「確かに私はあなたの仰る通り、小さな食堂の店主です。

 私も祥子さんの将来を考えて、お付き合いを辞めるべきだとも思ったこともあります。

 同じ公務員と結婚して、ご両親の近くでしあわせに暮らすのが一番だと考えました。

 それが祥子さんのしあわせだと。

 私もあなたと同じ立場なら絶対に賛成はしないでしょう。

 今日はそれを覚悟の上で参りました。

 でもその反面、役所を辞めて、ふるさとを捨ててまで私を選んでくれた祥子さんの人生に、責任を持たなければならないとも考え、私から祥子さんに結婚を申し込みました。

 今すぐに許して欲しいとは申しません。

 これからはご両親様も祥子さんに会いに宇都宮においで下さい。

 どうかよろしくお願いします」


 義父はお茶をひと啜りすると言った。


 「娘をしあわせにするというその根拠は何かね?」

 「根拠は娘さんを愛しているということです」

 「愛している? よくも父親である私の前でそんな歯の浮くようなセリフを言えたものだ。無礼ではないのかね?

 君、貯金はあるのかね?」


 私は内ポケットから通帳を出してテーブルの上に置いた。

 両親と祥子は私の行動に驚いていた。


 ある程度の蓄えはあった。

 話の流れとして事前に用意していた物だった。

 もちろん義父は通帳残高を確認するような無粋な人間ではなかった。


 「君、最終学歴は?」

 「大学中退です」

 「どこの大学だね?」

 「明治大学です」

 「私は一橋だ」

 「一流大学ですね?」


 義父が少し笑った。


 「結婚には経済力も学歴も大切だ。

 いや、経済力が大切だ。しあわせになるにはカネがいる。

 君がただの食堂の店主でないことはよくわかった。

 今度の金曜日、君の宇都宮の店を見せて欲しい。

 話はそれからでもいいかね?」

 「営業中においで下さい。お待ちしております」

 

 その時、丁度寿司屋の出前が届いたようだった。


 「お寿司を頼んでおいたのよ。さあお昼にしましょう。せっかく祥子が久しぶりに家に帰って来たんだから」


 


 私たちは鮨を摘みながら、義母の手料理を食べた。

 義父は私の持参した鯖寿司を食べ、『碧寿』を飲んだ。

 そして義父は自分の飲み干した盃を私に渡すと、酒を注いでくれた。


 私はその盃を受け、酒を一気に飲み干し返杯をした。


 私たちは無言だったが、心は通じあえた気がした。

 男同士の契が結ばれた。


 

 


第24話

 帰りは義母の運転するクルマで福島駅まで送ってもらった。

 クルマを運転しながら義母がうれしそうに言った。


 「大湊さん、スカーフ、ありがとうございました。

 どうですか? 似合いますか?」


 義母は早速プレゼントをしたスカーフを首に巻いてご満悦だった。


 「祥子さんが選んだ物ですからね? とても良くお似合いです」

 「お母さんはブルーが入っている物が好きだから、選び易いのよ」

 「あら、赤も好きよ」

 「じゃあ今度は赤いスカーフをプレゼントします」

 「ありがとう。楽しみにしているわね? 婿殿。あはははは」




 福島駅に着いた時、義母が祥子に耳打ちをした。


 「いい人で良かったわね? しあわせになるのよ、祥子」

 「ありがとうお母さん。今度の金曜日の夜、お店で待ってるからね?

 お店があるから駅まで迎えに行けなくてごめんなさい。

 迷ったらいつでも電話ちょうだいね?」

 「楽しみにしているわ。気を付けて帰るのよ」

 「じゃあまたね?」

 「大湊さん、祥子のこと、よろしくお願いします」

 「はい。今日はごちそうさまでした。お義母さんの手料理、とても美味しかったです」

 「プロの方に褒められると恐縮しちゃうわ。主人はあんな感じのぶっきらぼうな人ですけど、悪気はありません。

 失礼なことばかり申し上げてごめんなさいね。

 でも大湊さんのことは気に入っていたようですから私も安心しました」

 「私、本当に気に入られたんでしょうか?」

 「もちろんですよ。ウチは男の子がいないから、凄くうれしそうでした。

 あんなに楽しそうな主人を見たのは久しぶりです。

 ぜひまた遊びに来て下さいね?」

 「では遠慮なく、またお邪魔いたします」

 「よろこんで」


 義母と祥子は握手をした。


 「お母さんも気を付けて帰ってね?」

 「ありがとう祥子、またね?」



 私たちは最終の新幹線に乗った。


 「今日は本当にありがとう。ごめんなさいね、父が酷いこと言って」

 「娘を心配しない父親はいない。俺はお前の旦那として認められたのかな?」

 「もちろんよ。じゃなければ一緒にお酒なんて飲まないわよ」


 私は車窓に映る自分を見て笑った。

 長い一日だった。



 

 義母は帰宅すると義父に言った。


 「送って来たわ。大湊さんっていい人で良かったわね?」

 「まだわからんよ。男は仕事ぶりを見てみんとな?」

 「もうとっくに許しているくせに」

 「風呂に入って来る」

 「酔っているんだから気を付けてね?」

 「年寄り扱いするな」

 「娘が結婚する歳になったのよ。私たちももうお爺ちゃんお婆ちゃんよ」

 「ふん」



 

 そして約束の金曜日の夜、祥子の両親は新幹線で宇都宮駅に降り立った。


 「あっという間に着いちゃったわね? 宇都宮駅の西口は郡山駅の西口に似ているわね? どれくらいの人が住んでいるの?」

 「約50万人だ。福島市は30万人だから約2倍だな?

 宇都宮に来たのは何年ぶりだろう。

 西口駅前はそうでもないが、県庁の方に行くにつれて繁華街になって行くんだ。

 県庁の近くには東武鉄道の終着駅もあって、東武デパートに隣接している。

 アイツの店はその近くにあるようだ。

 郊外型大型ショッピングセンターも多く出来たようだから、中心地はかなり寂れてしまったな?

 昔はかなり多くの人でごった返していたが」

 「宇都宮といえば餃子でしょ? 楽しみだわ」

 「旅行に来ているわけじゃないんだぞ。

 餃子なんてどこで食べても同じだ」

 「大湊さんのお店ってどんなところかしらね?

 あの子が食堂で働くなんてね? どんな風に働いているのかしら」

 「食堂の亭主の女房にするために大学まで出したわけじゃない。

 駅から歩くとかなりあるからタクシーで行くぞ」



 その頃、店では千秋と祥子が話していた。


 「今日でしょう? お姉ちゃんのパパとママがここに来るの?」

 「そうよ、功作の「支那そば」とライスカレーを食べさせてびっくりさせるんだから」

 「親方のお料理は日本一だもんね?」

 「くっちゃべってんじゃねえ。支那そば2つ、上がったぞ」

 「はーい」




 祥子の両親はオリオン通りでタクシーを降りて、大湊の店に歩いて向かった。

 携帯のナビに従って歩いて行くと、すぐに大湊の店に辿り着いた。


 「ここだな? 『港町食堂』と暖簾に書いてある」

 「とてもいい匂いがするわね? 楽しみだわ。

 祥子が好きになった人の作るお料理はどんな味かしら?

 お料理にはそれを作った人の人柄が出るものだから」


 義父が入口の木戸を開けた。

 エプロンに三角巾を着けた祥子と千秋が笑顔で両親を出迎えた。


 「いらっしゃいませー!」

 「いらっしゃい。お父さん、お母さん、新幹線、混んでなかった?」

 「あっ、祥子お姉さんのご両親様ですか?

 初めまして、いつも祥子さんにはお世話になっています。私、千秋といいます」

 「初めまして千秋ちゃん、祥子の親です。いつも娘がお世話になっています」

 「カウンターしか空いてないんだけどいい?」

 「満席なのね? あらちゃんと予約席になってる。

 ありがとう、祥子」


 私は調理をしながら軽く会釈をした。

 義父と義母は店の中をめずらしそうに見渡していた。


 「何にする?」

 「メニューはあるの?」

 「メニューはないのよ。お料理はあの壁に掛かっている木札だけなの」

 「食堂なのにあれだけか? ふん、随分自信があるんだな?」

 「親方の作る料理は何を食べても美味しいですよ?」

 「おすすめは何?」

 「「支那そば」とライスカレーがいいんじゃないかしら?

 殆どの人はみんなそれを頼むから。

 あと、せっかく宇都宮に来たんだから餃子もサービスするね?

 取り敢えずビールでいい?」

 「お父さん、どうします?」

 「「支那そば」とライスカレーか? 懐かしいなあ。

 それじゃあ支那そばとライスカレーをくれ。

 お母さんと分けて食べるから」

 「親方、支那そば1とライスカレー1です!」

 「あいよ」



 私はすぐに餃子の準備に取り掛かった。


 「あら? 皮から作るの?」

 「その方がモチモチして旨いですからね? それに冷凍では味が落ちますから」

 

 祥子が義父と義母にビールを注いだ。

 千秋がお通しの「イカ人参」と「ポテサラ」をふたりに出した。


 「イカ人参なんて福島市の名物じゃないの? わざわざ私たちのために?」

 「ううん、親方も福島の出身なのよ。ポテサラも絶品よ、食べてみて」


 義母がポテサラを一口食べた。

 

 「私が作るよりも美味しいわ」

 「ねっ? 美味しいでしょう?」

 

 すると義父はポテサラにソースを掛けた。


 「あら、お父さんもソースを掛けるの?」

 「ポテトサラダにはソースだ」

 「うふっ。功作と同じこと言ってる」


 

 両親は熱々の餃子を食べながら、冷たいビールを飲んでいた。


 「餃子もモチモチして凄くジューシーで美味しいわ」

 「おまちどうさまでした。「支那そば」とライスカレーです」


 私は義父には「支那そば」を、そして義母にはライスカレーを出した。

 義父はレンゲでスープを掬って飲んだ。

 すると今度は夢中で麺を啜り始めた。


 「あなた、私の分も残して置いてね?」

 「支那そば追加だ」

 「かしこまりました」

 

 そして今度は母のライスカレーを母のスプーンで一口食べると、


 「ライスカレーも追加」

 「ありがとうございます」

 「私も仕事柄全国を回ったが、これだけ旨い「支那そば」とライスカレーは食べたことがない」

 「ありがとうございます。お義父さんに喜んでもらえて光栄です」

 「私もよ。こんなに美味しいラーメンとカレーなんて食べたことがないわ」

 「ありがとうございます」

 「また食べに来てもいいかね?」

 「もちろんです。お嬢さんにも会いに来てあげて下さい」

 「よかったな? 祥子。こんな旨い料理を作る男に悪い奴はおらん」

 「ありがとうお父さん」


 祥子は泣いていた。そして千秋も泣いた。


 「良かったね? お姉ちゃん」

 「ありがとう千秋」




 帰り際、千秋に店を任せて私と祥子は店の外に出て、両親を見送った。


 「今夜は遠いところ、わざわざおいでいただきましてありがとうございました」

 「ごちそうさま。また寄らせてもらうよ。

 大湊さん、娘をよろしく頼むな?」


 その時初めて義父から「大湊」と名前で呼ばれた。


 「わかりました。大切にします」

 「たまには福島にも遊びに来てね? 近いんだから」

 「はい、またお邪魔します」

 「それじゃあ気を付けてね?」

 「がんばるのよ、祥子」

 「うん、お母さん」



 義母と義父はそのままオリオン通りのアーケードを歩いて行った。

 いつまでも手を触り合う祥子と義母。



 「今夜は鬼怒川温泉にでも泊まっていくか?」

 「あらめずらしい」

 「せっかく栃木まで来たからな?」

 「空いているといいわね? 空いていなければ駅前のビジネス・ホテルでもいいわよ」

 「大丈夫だ。もう予約してある」

 「あなたはいつもそう。何でも勝手に決めちゃうんだから」

 「嫌なのか?」

 「ううん、うれしい。

 良かったわね? 大湊さんがちゃんとした人で」

 「俺たちの娘だ。人を見る目はある」

 「あはははは。結婚式が楽しみだわ。それに孫の顔も早く見たいわね?」

 「まだ先の話だ。今日は月が綺麗だな?」

 「夏目漱石のつもり?」


 そうしてふたりは手を繋いで歩いた。

 月の綺麗な夜だった。




第25話

 千秋は比較的自分と年齢の近い英語講師、里見に好意を寄せていた。

 決してイケメンではないが、豊富な知識と教養があり、みんなに平等にやさしい男だった。

 小学校から高校まではアメリカのシアトルにいたらしい。完璧な発音だった。

 千秋の高校までの教師は依怙贔屓をする、典型的な公務員教師たち。

 無駄な残業はしない、定時で帰る教師ばかりだった。

 中学の担任は変態エロ教師だった。


 「千秋、そのブラジャーきつくないか? 

 Bじゃキツいだろう?」


 と平然と胸を触られたりした。

 セクハラにパワハラ。見て見ぬふりのいじめ。そんな教師ばかりだった。



 里見のおかげでかなり英語が好きになり、成績も上がった。


 

 下校のバスで里見と一緒になった時、千秋は里見に尋ねた。


 「里見先生、人間は何のために生きているの?」

 

 唐突な質問だった。

 だが里見は戸惑うことなくさらりと言ってのけた。


 「愛のためだよ」


 少しがっかりした。

 もっと凄い答えを千秋は期待していたからだ。


 「愛ですか?」

 「そう。愛だよ人生は。

 だけどその愛とは男女の恋愛のことだけじゃない。広い意味の「人間愛」だ。

 言い換えれば「じょ」だ。 弟子の曾参が孔子に訊いたんだ。

 「先生、人生で一番大切なことは何ですか?」と。

 そして孔子は答えた。「それは忠恕ちゅうじょである」と。

 渋沢栄一も『論語と算盤』でも多用し、よく周囲にも言っていたそうだ。

 簡単に言うと相手の立場を尊重すること、つまり「思いやり」ということだ。

 それが「愛」だと僕は解釈している」

 「ふーん、そうなんだあ。先生、ありがとう。

 私、次のバス停で降りるね? さようなら、里見先生」

 「気を付けてね」



 千秋はバスを降りて家路を辿りながら「愛」について考えてみた。

 

 (私は功作パパとお姉ちゃんに愛されているな)


 千秋はうれしくなった。




 

 千秋が店で働いていると、会いたくない客がやって来た。

 あの市議会議員の野平だった。


 「千秋、ここで働いているって聞いたんだ。

 『王様と私』のナンバーワン・キャバ嬢が定食屋の店員か?

 お前も落ちたもんだ。ガッカリだぜ」

 「嫌味を言いに来たのなら帰って。アンタには何も話すことはないから」

 「おいおい、それが「お客様」に対する態度かよ?」

 「アンタはお客じゃないわ」


 そこに祥子がやって来た。


 「どうしたの? 千秋」

 「この人が前に話した市会議員の野平なの」

 「ああ、あのエロ議員ね?

 ごめんなさい、今日は閉店なの、どうぞお引き取りを。

 千秋、お塩持って来なさい」

 「いい女じゃねえか? 定食屋なんか辞めて、お前らなら銀座でもやれるぜ」

 「ここは銀座のクラブ以上のお店です。

 はい閉店です。さようなら」

 「まだ夜の8時だぞ。とりあえずビール」

 「だから閉店だって言いましたよね?」

 「どこの定食屋に8時に閉店する店がある。

 なあオヤジ?」

 

 功作は料理を作りながら笑っていた。


 「ハイハイ、帰って帰って。他のお客さんのご迷惑になりますから」

 「ここは政治家の偉い先生の来るところじゃないわ」


 すると常連客の中村が横槍を入れた。


 「相変わらずごちゃごちゃとうるええ奴だなあ。野平、別の店に行け。

 ここはお前のようなチンケな政治屋が来るところじゃねえ」


 野平の顔色が変わった。

 中村は県議会議長だったからだ。


 「中村先生! なんでこんな食堂に!」

 「こんな食堂? お前は何も知らねえ奴だなあ。

 だからお前は万年市議会議員なんだよ。わはははは。

 いいからこっちに来い。

 女将、千秋ちゃん、すまねえがコイツにライスカレーとビールを出してやってくれ。

 コイツにここの大将の凄さを見せてやりてえからよお」

 「中村さんがそう言うなら・・・」


 千秋はの野平の前にビールとライスカレーを置いた。

 そして野平がライスカレーを食べ始めた。

 ビールも飲まずに夢中になってカレーを食べていた。

 そして一気にそれを食べ終えると、ビールを飲み干して言った。


 「中村先生、すみませんでした」

 「バカヤロー、謝るのは俺じゃねえだろう。大将と女将、そして千秋ちゃんに謝れ」

 「どうもすみませんでした。

 また、食べに来てもいいですか?」

 「千秋に手を出したら殺すからね?」

 「はい・・・。中村先生、お先に失礼します」


 

 野平はレジで祥子に一万円札を出した。


 「先生の分も一緒に」

 「はい。4,000円になります」

 「お釣りはいいです」

 「そうはいきません、ハイ、6,000円のおつりになります」

 「ごちそうさまでした」

 「今度は「支那そば」を食べに来て下さいね」


 千秋は里見の言葉を思い出していた。

 対立し、争うことは恨みの連鎖を生む。

 だが相手を「許す」ことでそれが「恨みの連鎖を断ち切る」のだと。

 たとえ許すことが出来なくても忘れることだ。


 イヤなことも「愛」に変える。


 千秋はまた少し成長出来たような気がした。




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海のない街『港町食堂』 菊池昭仁 @landfall0810

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