牛首の女
増田朋美
牛首の女
暑い日であった。こんな日がいつまで続くのか不安になってしまうくらい暑い日であった。本当に暑い日には、洋服よりも着物のほうが、涼しいということはあまり知られていない。着物を着ると、背中にも風が入ってきて、涼しさを演出できる様になっているのだ。最近は日本人もこれを知らない人が多く、着物で暑くないかと声をかけられることも多くなっている。
その日。いつも通りに杉ちゃんたちは、製鉄所で着物を縫ったりしていたのであるが、浜島咲が、一人の女性を連れて訪ねてきた。ふたりともしょんぼりしているところから判断すると、また苑子さんに着物のことで叱られたのかということがすぐわかった。杉ちゃんがまた叱られたのかというと、咲は案の定そうなのと言った。
「そうなんだね。それで、今日は何の着物を着て叱られたの?」
杉ちゃんがいうと、女性の着物を見せながら咲は言った。
「この人の着物を見て、どこが悪いのか説明してあげて頂戴。」
杉ちゃんは、その女性の着ている着物をじっくり眺めた。確かに、着物なのである。柄もボタンと菊が入っていて、お琴教室に着用するのは問題なさそうな柄である。例えば、桜とか椿などの花であれば、縁起が悪い柄として、叱られる可能性があるが、それはない。柄と柄の隙間もほとんど開いておらず、ボタンと菊がびっしり入っている。それを考えると、お琴教室に着ていくには、問題ない着物のようだ。着物と言うものは、柄が小さくすきまなくびっしり入っているものほど、格が高くなり、フォーマルになるという傾向がある。帯も、蓮の花を入れた一般的な一重太鼓の名古屋帯であり、帯の釣り合いも問題なさそう。それでは特に問題はなさそうな着物であるが、お琴教室でどうしてだめだったのだろうか?
「こりゃだめだよ。牛首だもん。ほらあ所々に、太い糸が盛り上がっているところがあるよな?これが証拠だ。牛首はいくら可愛くても、お琴教室に着用するものでは無いよね。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうか。牛首紬というやつか。見分け方もわからなかったわ。」
と、咲は言った。
「よろしければ、見分け方を教えてもらえないかしら。今日は、苑子さんにこっぴどく叱られちゃったのよ。」
「まあ、見分け方は簡単だ。ここに、太い糸が食い込んでいる様に入っているだろう?これを節と言ってだな。これは玉糸と呼ばれる、通常の糸とは二倍の太さの糸で織ってあるの。」
杉ちゃんが説明すると、
「玉糸ってなんですか?」
と先ほどの女性が言った。
「あのね、紬というのは、もともと江戸時代に、徳川政権が、農民に絹の着物の着用を禁止したことで、お百姓さんが、俺達も絹を着たいという思いで、作り始めた着物なの。ほら、着物をよく見てみろ。光ってないだろう?遠目で見れば、木綿に見えるようにして、お役人さんに、バレないようにすれば、俺達も絹を着られるということになって、それで野良着として大流行したのが紬という着物だよ。それで、光沢のある生糸ではなくて、汚れた繭とか、穴が空いた繭とか、そういう使い物にならない繭を使って、平織りにしてあるから、光沢も出ないし、遠目からでは木綿に見えるんだ。その使い物にならない繭を屑繭と言ってね。そこから取った糸を、屑糸、あるいは紬糸と言う。その屑糸の定義は、地方によって違う。それで石川県で生産されている牛首紬というのは、隣通しの蚕が、互いの糸で動けなくなって、死亡した繭を使う。この二匹の蚕が作った繭のことを玉繭といい、そこから取った太い糸が玉糸だ。それを使った牛首紬は、釘を抜けるくらい丈夫な布であり、牛とか豚などの動物を飼ってる人に人気が出たから、釘抜紬とも言うんだよ、わかった?」
杉ちゃんが説明すると、咲は、杉ちゃんよくそういうことが言えるわねと大きなため息をついた。
「じゃあ何で牛首の着物では、お琴教室に使ってはいけないんですか?教えてください。」
ちょっと鼻の抜けた声で、女性は、そう聞いた。
「だからねえ、お琴というのは、もともとお百姓さんの楽器ではないでしょ。贅沢な公家とか武家とか、そういう人たちの楽器でしょう。それに、そういう人たちは、紬の着物なんか着ないでしょう。だから苑子さんは、紬をお琴教室に使ってはいけないって怒ったんだよ。それはわかるかい?着物を買うんだったら、可愛さとかそういうことばかり求めるんじゃなくてね。ちゃんと、どこで着たいかとか、何に着たいかとか、そういうことを、ちゃんと考えて選ぼうね。」
杉ちゃんがいうと、
「そうですか、そんなふうに、しっかり考えなければだめなんですね。着物って、難しいなあ。でも、苑子先生は、お琴を習いたいんだったら、着物で来なければだめだって、大変怒ってました。だから、大急ぎでネット販売で揃えて、咲さんが、桜とか椿は縁起が悪いと言うヒントも与えてくれたのでそれを参考に選ばせて頂いたのですが、まさか牛首紬と言う生地が行けなかったというのは知りませんでした。」
と、女性は申し訳無さそうに言った。
「まあ、牛首紬というのはね、ワークマンの作業着みたいなそういうものに該当するんだよ。考えてみろ。ワークマンの作業着でお琴教室行くやつがあると思う?そういうふうに着物の格を考えようね。」
杉ちゃんがそう言うと、
「でもワークマンの作業着はカジュアルウェアとして、流行っているじゃないの。」
と、咲が言った。
「いやいや、お琴教室というのは、カジャルウェアで行くものじゃないな。だって、講師の先生がいて、はまじさんという助手がいるんだろ。だったら、ちゃんと、カジュアル着物ではなくて、フォーマルな着物で行くべきでしょうが。お稽古は、普段着とは違うんだよ。それは、覚えておこうね。」
杉ちゃんがそう言うと、女性はわかりましたとしっかりと言った。
「わかりました。じゃあお稽古に着ていけるような着物を必ず選びます。咲さんが、着物は柄が隙間なくびっしり入っていることが大事だって教えてくれたんですけど、素材を選ばなければだめなんですね。それでは、ちゃんと、お稽古に使える素材を選びます。例えばどういう素材を選べば良いのか教えてもらえませんか?」
「ああそういうことならね、紋意匠とか、一越ちりめんとか、そっちの方を選びな。紋意匠は地紋のみが光る柔らかものの一つだ。そして、一越は、全く光らない柔らかものだ。もっと敬意を示したいなら、紋綸子とか、そういうものを選べ。それならテカテカに光って、見つけやすいんじゃないのかな?」
杉ちゃんに言われて、女性は早速、光る生地を探しますと、インターネットで着物を探し始めた。
「今はいいわねえ。そうやって、インターネットで、着物をすぐに買えるんだから。それにしても杉ちゃん。彼女が着ている着物は牛首なのに、何で、細かい花柄の小紋があるのかしら?」
咲が聞くと杉ちゃんはすぐ答えた。
「それは、いつの時代も、偉い人の真似をしたいという、庶民の遊び心だよ。」
「そうなんですか。」
女性は拍子抜けしたような感じで答えた。
「それは理解できませんね。何で、偉い人の真似をするんだろう。偉い人なんて、ろくな人じゃないって、うちの家族は言ってましたのに。偉い人の真似をしたいなんて、ちょっとそこは。」
「まあそうなんだけどねえ。昔は身分制度は厳しかったし、偉い人の感情で庶民が暮らしていけないということもたくさんあったから、偉い人の着物を真似したいという気持ちは、誰でもあるんじゃないの?」
と咲が、にこやかに言った。
「それで、お前さんの名前何ていうの?」
杉ちゃんがその女性に聞いた。
「はい。土谷と申します。土谷瑞希と申します。よろしくお願いします。あの、杉ちゃんさんっておっしゃってましたよね。こちらの、お着物では、お稽古に着ることはできませんか?」
彼女はタブレットを杉ちゃんに渡した。
「どれ見せて。」
と咲がそれを取って見てみると、赤い色で、細かいゆりの花が刺繍された、かわいい感じの着物だった。杉ちゃんもタブレットを眺めて、
「はあなるほど。ちゃんと光ってるじゃないか。これは、紋意匠かな?よしよし、これならお琴教室に着用しても良いや。じゃあ、この着物で次のお稽古に行ってね。頑張って。」
と、にこやかに言った。
「それでは、良かったね。お前さん、どういう理由で、お琴なんか習おうと思ったの?苑子さんも生半可な気持ちで習いに来るなっていうタイプの人だし、気軽にどうのこうのという感じじゃないでしょ。なにか理由があるんかな?」
「ええ。実は、お琴を習うのが必要だったからです。学校で和楽器を教えることが義務付けられまして。それで、子どもたちにお琴を教えることになりましたが、なにしろ、お琴なんて触れることはありませんでしたから。」
と、土谷瑞希さんは、静かに言った。
「そうなんだ。じゃあお前さんは学校の先生なんだね?」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ、支援学校ですけどね。生徒たちもみんな訳アリの生徒ばかりで、みんな、勉強することで救われるじゃないかなっていう可能性のある子たちばかりなんです。」
と土谷瑞希さんは答えた。
「そうなんですか。それはまた大変だ。一生懸命やっていることでも、通じないこともあるでしょう。その時は、辛くても頑張ってね。」
咲がそう言うと、瑞希さんは、ありがとうございますと言って頭を下げた。
「それにしてもびっくりしましたよ。お琴教室がこんなに厳しい場所だったなんて思いませんでした。ピアノ教室だってここまでうるさいことは無いんじゃないですか?」
「負け惜しみを忘れないな。まあ、着物というものは、洋服とは違うから、それを頭の中に叩き込んでおけよな。」
と、杉ちゃんがでかい声でいうと、奥の四畳半で、水穂さんが咳き込んでいる声が聞こえてきた。ああまたやってらと杉ちゃんがいうと、どなたか病気の方がいらっしゃるんですか?と、土谷瑞希さんが聞いた。杉ちゃんがまあねとだけ答えると、
「大変、ほっとけ無いわ。」
と、土谷瑞希さんは、すぐに椅子から立ち上がって、四畳半へすっ飛んでいった。すぐにふすまを開けてしまい、大丈夫ですかと水穂さんに声をかける。水穂さんは、咳き込みながら枕元においてある吸飲みを取ろうとしたが、咳き込んでそれを取ることができなかった。土谷瑞希さんは、これですねと言って、急いで吸飲みを水穂さんの口元に持っていった。水穂さんは、それを、口で受け取って、中身を飲み込んだ。
「大丈夫ですか?病院にいったほうが。」
「ああ無理無理。水穂さんは、病院に行くのは難しいよ。学校の先生であれば、それくらいわかるだろ。少なくとも日本の音楽学ぼうとしてるんだから、それくらい知ってるね?」
やっと追いついた杉ちゃんがそういったのであるが、
「そうかも知れませんが、でも、そういうことなら、余計に病院につれていかなければならないのではありませんか?あたしたちは、見捨てては行けないと思います。」
と瑞希さんは言った。
「だけどねえ。銘仙のきもの着てるやつを受け入れてくれる病院なんてあると思う?学校の先生は、士農工商を知らないなんて言わせないよ。日本の歴史くらい知ってるんじゃないの?」
杉ちゃんに言われて、瑞希さんは、小さくなってしまって、
「ええ、学校で確かに習いましたけれど、それはもう明治時代になって、撤廃されたと聞いています。だから、もうそこから何十年も立ってるわけですから、もう言及しないでもいいのでは無いかって、言われたことがありました。」
と言った。
「そうかな?」
と、杉ちゃんが言った。
「だったらどうして、銘仙の着物が今でも生産されて、販売されているんだろう?もし、完全に撤廃されているんだったら、そういうことは無いと思うけど?それを学校で教えてないなんて、職務怠業だよ。学校の先生だろ、お前さんは?」
「ということは、この人が着ている着物が銘仙の着物なのですか?そもそも、銘仙の着物を着ていると、不利になることは、もう終わってしまったと思っていますけど。」
土谷瑞希さんがそう言うと、
「いやあ、終わってないね。こういう人種差別は、いろんなところであるんだよ。明治期に撤廃されたとお前さんは言ってるけど、そんなことは絶対ない。だから、銘仙の着物着てるやつを、平気で見てくれる病院なんてあるか?まだまだ、法の下に平等なんてありえない社会だよ。着物を見ればそれもわかるの。だから、もうちょっと着物を通して、勉強し直してくれると良いよねえ。」
と、杉ちゃんが言った。
「そうなのねえ、着物は、華やかで素敵でというだけでは無いということなのね。確かに紬を着る人が、お琴を習えるということはないし、それより低い身分とされた人の着物が銘仙であるということも、あたしちゃんと知らなかった。それじゃあ行けないわ。ちゃんと考え直さなくちゃね。あたし、がんばりますよ。」
土谷瑞希さんは、考え込むように言った。
「全く、右城くんも、そうやって誰かの役に立つこともあるのね。」
咲は、この有り様を眺めながら、ちょっとため息をついた。
牛首の女 増田朋美 @masubuchi4996
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