第4話 マドレーヌ:Aパート
「マドレーヌって聞いて何を思い出す?」
ハイネに問われてわたしは答える。
「『失われた時を求めて』」
「えっ、カレンすごいじゃん。あの長い物語を読破してるの?」
「ううん、違う。途中で挫折して、それで心に引っかかっているの」
「あ、そうなんだ」
ハイネは尊敬の眼差しから、がっかりのそれへと変化する。
「本棚を見てみてよ。5巻までしかないでしょ」
ハイネはゆらゆらと揺れながら本棚の方へと飛んでゆく。
「ほんとだ。これって十巻まであるよね」
「そう。一巻読み終わったら次のを買うっていうのをしていたんだけれど、途中で躓いちゃった。で、しかも五巻までの内容もちっとも思い出せない」
本当に内容を思い出すことができない。かろうじて章のタイトルは思い出せる。スワン家のほうへ。花咲く乙女たちのかげに。印象的な副題となっていて、それだけで絵になる感じがする。
「内容は覚えていないって言ったけど、マドレーヌのことは覚えているんだ」
「有名だからね。プルースト効果? だったっけ。香りを嗅いで記憶や感情を思い出すこと。だからきっと、本文を読んで覚えているのじゃなくて、きっと他の書物とかからの情報によって記憶しているのだと思う」
こうやって思い出すこともプルースト効果と呼べるのかもしれない。それは違いますって指摘されちゃうんだろうけれども。
「まあ、でも、これから読めばいいじゃん」
ふわふわと漂ってハイネがキッチンに戻って来る。
「ま、ね。もしかしたらマドレーヌを作って食べたりしたらその気になるかも。ハイネはマドレーヌで何か思い出す?」
「うん、そうだな。マドレーヌってその名前の由来にいろいろな説があるんだけれど、作った人の名前というのが多いみたい。その作った人が、女中だったり、菓子職人だったり、巡礼者に提供していた少女だったり。でも、それとは少し違う由来があるんだ。カレンはマグダラのマリアという人を知ってる?」
わたしは、知らない、と答える。
「でも、きっと聖書に由来する人なんでしょう?」
ハイネは、ご名答、と答えて聖書を取り出し、ぱらぱらとめくる。
「マグダラのマリアは復活したイエス様にいちばん初めにあった人物です。それってなんだかすごいことだよね。教会って家父長的で男性が権力を持っているミソジニーなイメージがあると思うけれど、イエス様の姿はそれとはまるで違う。復活して、いちばん最初に会うのは女の人なんだ。だからイエス様の姿を見ていると教会のあり方に時々疑問符が浮かぶことがある。もちろん伝統であったりいろいろな要素は絡むのだと思うのだけれど、純粋にイエス様だけを見ていたら、もう少し世界の見え方が変わってくるような気がする」
「ハイネがキリスト教のことをそんな風に言うなんて結構、意外かも」
ハイネは長い髪の毛を指でくるくると巻いている。
「あたしは信仰が大事なのであって、宗教には興味がないんだよね」
「信仰と宗教ってなにか違うものなの?」
髪の毛をほどきハイネはわたしの方を向いて答える。
「宗教は儀式的、律法的なものかな。決まり事とかそういうことを重んじる。信仰は全く別で、イエス様を信じること、それが大事なことだということ」
「へえ。でもわたし、キリスト教の儀式的な感じ好きだけどな」
うんうん、とハイネはうなずく。
「あたしも、そう。好きなところはあるよ。あたしはプロテスタントなんだけれど、カトリックの聖体拝領とか、ちょっと憧れがあるんだよね。ビクトル・エリセ監督の『エル・スール』という映画があるんだけれど、主人公のエストレリャの初めて聖体拝領の時の衣装とかとびきりかわいくて、そういうのいいなあって思ってる」
「今のハイネの格好だってかわいいよ」
ふふっと笑ってハイネは空中でくるっと回ってみせる。ワンピースの裾がひだになって揺れている。
「カレンにそう言ってもらえて嬉しい。あたし、なんだか天使みたいな格好になってるからな。それって本来の自分の姿とはギャップがあるんだよね」
ハイネはワンピースの裾をちょっと手繰る。
「で、そのギャップの話でもあるんだけれどね。マグダラのマリアっていうのは七つの悪霊をイエス様に追い出してもらった人なの。七つの悪霊ってなんだかただごとじゃない感じがするじゃない? そこからの連想だと思うけれど、姦淫の場で捕らえられた女のエピソードがあって、その女の人がマグダラのマリアだと言われることがあるの。ただ、それは本当にマグダラのマリアなのかどうかは意見の分かれるところなんだけれど。この聖書箇所に描かれている」
ハイネは聖書をめくり、その場面を朗読する。
「"すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」"
ヨハネの福音書 8章3~7節」
「あっ、それ知ってる。ネットで有名なやつだ!」
わたしは思わず声をあげていた。これって聖書由来のネットミームなんだ。
「で、結局誰も石を投げることができないで、イエス様はその女の人を罪に定めない、と言ってくれるんだよね。姦淫ていうのはこの場合、売春ということになるのかな? でもそういう大きな分かりやすい罪でなくとも、誰しもが罪を抱える罪人であるということを端的に示してくれる箇所なんだよ」
ハイネは聖書をパタンと閉じる。
「確かに、わたしも石を投げることなんてできないなあって思うよ。全然、立派な人間でないことは分かりきっているわけで。そんなふうにして女の人を助けてあげるなんて、なんかイエス様って優しいんだね」
そう! とハイネは大きな声を出した。
「そうなんだよ! 神様って厳しいイメージがあると思うんだけれど、イエス様は優しい。でも、その女の人にこうも言うんだ。「今からは決して罪を犯してはなりません。」ただ甘やかすだけの優しさじゃないんだよね」
「ふうん。わたし、ちょっと聖書に興味を持ってきたよ。なんかおもしろいこと、いっぱい載っているんだね」
「ま、ね。で、これがあたしがマドレーヌで思い出すことかな。『失われた時を求めて』も頭をよぎるけれどね」
もう一度『失われた時を求めて』にチャレンジしてみようかな。なんだか興味が湧いてきたよ。
「じゃあ、そろそろ準備を始めようか。マドレーヌの型は用意してくれたかな?」
「もちろん。マドレーヌといえばこの貝の形だよね。でも、なんでこの形なんだろう」
わたしがその疑問を呈すると、待ってました、とばかりにハイネがいきいきと答えてくれる。
「マドレーヌがシェル型、この貝の形になったというのは、いくつかの説があるの。どれも巡礼にまつわるものなんだけれどね」
「巡礼? さっきも巡礼者がどうとか言っていたよね」
「そう、聖地巡礼ってあるでしょ」
「アニメや漫画の舞台になった場所を訪ねることだ」
わたしも実はある童話の舞台となった場所というか路線を旅したことがある。そういうのってなんとも言えない満足感があるよね。
「そう。それの本来の使い方は宗教的な聖地を訪問することだよね。で、スペインの聖地にサンティアゴ・デ・コンポステーラというところがあるのだけれど、サンティアゴっていうのは聖ヤコブのことで、イエス様の弟子のひとりなの。その人の遺骸が安置されている場所なんだけれど……」
ついてきてる? とハイネがわたしに目配せをする。わたしは黙ってうなずく。
「ヤコブは英語読みだとジェイコブとかジェームスになるかな。で、その場所を目指す旅の途中に振る舞われたお菓子がマドレーヌらしいの。聖ヤコブのシンボルがホタテなんだよね。どうしてそのシンボルになったのかは諸説あるみたいだけれど、ヤコブが死んだ時にその遺体を運んだ船の底に帆立貝がたくさんついていたから、と言われているらしい。あたしはもっとシンプルにヤコブが漁師だったからじゃないかなと思っている。でもガリラヤ湖でホタテが獲れるのかは分からないし、詳細は不明だよ。でも、とにかくその巡礼の旅のシンボルが帆立貝なんだ」
「へえ」
「で、そのシンボルを元に焼かれた巡礼用のお菓子と言われているの。他にもマドレーヌという名前の少女が貝型を使って焼き菓子を作って巡礼者に振る舞っていたという説とか、色々あるみたい」
「まあ、でもそのヤコブっていう人にまつわるお菓子であることは確かなんだ」
わたしはマドレーヌの型を見つめ、指でなぞってみる。
「そうみたいだね。でも、そんなこと全然意識しないで、貝の形はマドレーヌ、と思って食べていたものだけれどね」
「わたしも一緒。この貝の型を買うまで、マドレーヌは貝の形、としか認識していなかった。そのフォルムになっているっていうことはそれぞれに意味があることなんだろうね。そう考えると、お菓子ひとつとっても奥深い歴史があるんだろうなあって思うよ」
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