第3話 カトル・カール:Bパート
「まずは、バターをクリーム状にします。でも暑くないからなかなか常温に戻らないね。ちょっとレンジで温めようか」
ハイネの言葉にわたしは、それでいいの? と思ってしまう。
「トラディショナルな作り方って言ってなかった?」
うーん、と腕組みをしてハイネは唸っている。
「そこはいいことにしよう。文明の利器を使うことも大事だよ!」
なんか、いい加減だなあ、と思う反面、そういうゆるさがあるのは助かるなあ、とも思っている。でも、だから、昇天できないんじゃない?
「じゃ、レンジで温めるよ」
少し温めるだけでバターはゆるゆると流れ出す。すぐに取り出して、わたしはゴムベラでバターを練ってゆく。柔らかくなっているから、ぐにゃりとバターは伸びてゆく。
「うんうん、いい感じ。ではそこに粉糖を混ぜ合わせます。ここが前回失敗したポイントかもしれないね。ちゃんと混ぜてくれていたと思うんだけれど」
「いやいやいや。わたしハイネのこと夢で見ているんだと思っていたから、全然真剣に作ってないよ。残されたケーキを見て、本当だったのかも、と思ったくらいだから」
「そうだったんだ。じゃあ今回はより丁寧に作ってゆこう」
バターが入ったボウルに粉糖を加える。
「ねえハイネ。粉糖って普通の砂糖とは何が違うの?」
「いい質問だね。粉糖っていうのはグラニュー糖を細かく挽いて粉末状にしたものだよ。粉物と混ぜ合わせるのに適したお砂糖なんだ。ここで粉糖を使うのは、バターに馴染んで空気が入りやすくなるからだよ。そうしないと焼き上がった時、綺麗に膨らまないからね」
「なるほど。やっぱり寝ぼけながらやってちゃダメってことだな。しっかり混ぜるよ」
力を入れて混ぜ合わせてゆくうちにバターがどんどん白っぽくなってゆく。いい感じじゃない? 混ぜ合わせるのだから変化があって当然のことなんだけれど、それを自分の手で行ってみるとなんだか不思議な気持ちになる。空気を含ませるというのがどういうことか、いまいち分からないけれど、ヘラを大きく使いながらぐるぐると混ぜてゆく。
「そこに卵を加えます。一度にではなくて数回に分けて入れてちょうだい」
別の容器に卵を割り入れ、それを菜箸で溶き卵にする。満遍なく溶き終わったそれを少しずつクリームのボウルの方に注ぎ込む。ゴムベラから、今度は泡立て器に持ち替えてまたひたすら混ぜてゆく。
卵が混じりあってゆくと、バターは、ぐっと重くなり、さらに力が必要になる。でもこの重さが混ざり合うのを実感させる。溶き卵も入れ終わり、ぐんぐんとバターを混ぜてゆく。
「うん。いい感じ。つやが出てきた」
バターはすっかりクリームの状態になる。
「では混ぜ合わせの最後に薄力粉を入れてゆこう。ふるいを使って、細かく少しずつね。これも110g。四位一体の完成だよ」
薄力粉をふるい入れる。
「じゃあ、またゴムベラに持ち替えて最後の仕上げ。粉気がなくなるまで混ぜ合わせて」
ハイネに言われた通りに混ぜ合わせてゆく。なんだかんだ言って、お菓子作りは結構、握力が必要だ。ゴムベラを握る手が、すごく疲れてへろへろになっている。でも根気強く混ぜ合わせてゆくと、一度失ったつやが、また戻ってくる。やっぱりお菓子作りは寝ぼけたままじゃできないよ。すごい力仕事だ。
「うんうん。すごくいい感じ。これだけつやが出ていれば、きっと綺麗に膨らむよ。さあ、型に流し入れよう」
生地をパウンドケーキの型に流し込んでゆく。紙の型はなんだか頼りなく感じるけど大丈夫かな?
「表面を平らにするように、ゴムベラで整えてみて。あ、オーケー。それで大丈夫。生地の準備はできたからオーブンレンジを160度で予熱してもらえる?」
いよいよこれで焼く作業に入る。型の半分くらいしか生地が入っていないけれど、本当にこれが膨らむのかな? また失敗したりしない?
予熱完了のブザーが鳴る。わたしは天板に型に入れた生地を乗せ、投入する。
「それでまず15分焼きます」
時間を15分に設定して待つ。
「この間に顔を洗って部屋着に着替えてくるね。パジャマで作業したの間違いだった。粉まみれになっちゃった」
洗濯もしなくちゃな。カーテンの外はうっすらと明るくなっている。晴れるかな。ふとハイネの方を見やると、彼女は聖書を開いて読んでいる。不思議な同居人は、ほんとに幽霊なのかな?
着替え終わってキッチンに戻る。ほどなくしてブザーが鳴る。
「一旦取り出してちょうだい」
取り出した生地は膨らむ様子もなくて、また失敗したか、と思う。
「まだ膨らまなくて大丈夫。焼き上がりの表面に割れ目を入れたいから、ナイフで縦長に切り込みを入れていってちょうだい。浅くていいよ」
わたしはハイネの指示するままにナイフで生地の表面に切り込みを入れてゆく。生地は全然柔らかで膨らむ気配はひとつもなかった。
「じゃあ、あと25分焼きましょう。きっとパンパンに膨れてくれるよ!」
切り込みを入れた生地を再度オーブンレンジの中に入れる。どうか膨らんでくれますように。
「今日の飲み物は何がいい? なんか出来上がった焼き菓子がお店のものみたいにしっかりしているから、飲み物もインスタントな感じじゃない方がいい気がしてきたよ」
「またコーヒーを挽いてよ」
「うん。今度は紅茶の茶葉も用意する。チャイとかも合わせてみたいしね。カトル・カールに合う飲み物ってなんだろう」
「コーヒー、いいと思うよ。あたしはマグを持てないから飲めないけどね」
「そうだった! ハイネ、お菓子は食べるけれど、飲み物、飲めないんだよね。それってむせない?」
「大丈夫だよ。あたしはお菓子が食べられれば、それで幸せなんだから」
わたしは、そんなに気にしていない風を装ってさりげなく尋ねてみる。
「カトル・カール食べたら、ハイネ、天に召される?」
「どうだろう。あたしカレンに出会って、すごく嬉しいの。こんな風にあたしと一緒になってお菓子を作ってくれる人って始めてだから。これで本当に昇天することができるかもしれない」
わたしは、ふと浮かび上がった疑問をぶつけてみる。
「この部屋の家賃が安いのって、もしかしてハイネがいるから? そういう理由?」
「結構な人数の人に驚かれて、みんな、すぐに退去しちゃったなあ」
「ハイネ、全然怖くないのに、どうしてみんなそんなに驚いたんだろう。しかも美少女じゃん」
「その美しさにみんな、おそれをなしたのでしょうね」
ふふん、とハイネは髪をかき上げる。
「中身とのギャップがすごいけど」
「どういうこと?」
ハイネはジト目で見つめてくる。
「すごく気のいい幽霊だってこと。わたし、ハイネのこと好きだよ」
「あたしもカレンのこと大好き!」
幽霊と友情を結ぶことはできるんだろうか。ハイネ、焼き上がったカトル・カールを食べたら消えちゃったりするんだろうか。そのためにケーキを焼いている。それなら、今回も失敗する方がいいんじゃないだろうか。
「ほら、見てみて!」
オーブンレンジの中を覗き込んだハイネが手招きをする。わたしもハイネの横からレンジの中を覗き込む。
「あ、膨れてきた!」
「バッチリじゃん! きっととびきりおいしいカトル・カールだよ!」
ブザーが鳴り、オーブンレンジの火は消える。
わたしはオーブンミトンをして天板を取り出す。
「すごい。本物みたい!」
「何言ってるの。本物のカトル・カールだよ」
「ううん。お店で売ってるみたいに焼き上がってる」
わたしたちはカトル・カールが冷めるのを待っている。その間に外は明るくなり、わたしはブラインドを開ける。明るくなるとハイネの輪郭は少しあやふやになる。本当に消えてしまいそうで心配になる。
ハイネはそんなわたしの心配に気づくことなどしないで、しきりにおいしそうだね、楽しみだね、とわくわくを抑えない。
いよいよ型からケーキを取り出す。紙でできている型だから、糊付けされている四隅を開いて取り出す。
「焼き色もすごく綺麗。断面も見てみよう」
わたしはハイネに促されて、包丁で厚さ2cmくらいに切り出した。
「わお! 断面もすごく綺麗。みっしり詰まっていておいしそう!」
わたしは互いに二切れずつ食べるように切り出してお皿に乗せる。コーヒーもわたしの分をマグに入れる。
「いただきます!」
わたしたちはカトル・カールを口に入れる。
ふんわりとバターの香りが漂う。頬張れば、生地はしっとりとしていながら、噛むともちもちと弾力がある。甘いバターが口の中いっぱいに広がり、これは天国の味だ〜、とうっとりとしてしまう。はっとしてハイネの方を見る。
「はわわ〜、おいしい!」
ハイネも頬を緩めておいしさに身を委ねている。心なしか輪郭の燐光がまばゆくなったような気がする。
膨らまなかったカトル・カールも味は悪くなかったけれど、ボサボサしていた。今回の出来上がりはしっとりしていて、ぎっちり詰まった生地で本当においしい。表面の焼け焦げているところが、さくさくしていて、これがまた香ばしい。ハイネの頬は紅潮していて、本当においしそうに食べ続けている。
これがトラディショナルな味か。もし、ふんだんな材料があるのなら、昔の人でもおいしいお菓子を作ることができたんだ。ほんのひと握りの人しか食べられなかったものだろうけれども、今、わたしはそれを味わうことができている。
ハイネの笑顔も満足そうだ。これでハイネは昇天してしまうのかな、それは、やっぱりちょっと寂しいな。そう思いながら食べてると、急な眩暈に襲われる。目を開いていることができない。
体の感覚が戻ってくると同時に、ざわざわとした喧騒の気配が体にぶつかってくる。眩暈がようやく落ち着いてきて、瞳を開けると見慣れない光景が目の前に広がっていた。
お菓子を食べて、わたしはまたどこか知らない土地に飛ばされていた。
そこはどこかの駅の中だった。
行き交う人の声がする。でも、わたしはそれを聞き取ることができない。英語とも違う、どこかヨーロッパの言語のように思う。
その中に、小さな女の子がしきりにものを尋ねている姿が見えてくる。
「この電車は、ヘルシンキに行きますか?」
ハイネに似た女の子だ。前に見た時より背丈が伸びて、小学生くらいだろうか。電車の行き先がわからなくて困っているようだった。ヨーロッパのどこかの国で日本語を話していてもそりゃ通じないようなあ、と思ってわたしは彼女の方へ向かう。すぐにその女の子はわたしに問いかける。
「この電車は、ヘルシンキに行きますか?」
わたしはその電車の行き先を探す。電車の掲示板には「ヘルシンキ行」と日本語で書いてある。日本語? 変な話だ。わたしはまた夢を見ているのだろう。
「うん。ヘルシンキに行きますよ」
ハイネに似た女の子はぱあっと明るい顔を見せて、電車の乗車口に走る。
「Thank you!」
その発音はネイティブのそれだった。わたしはなんだか狐につままれたような気分になる。電車の掲示板はいつの間にかアルファベットに変わっていた。
電車はゆっくりと走り出す。その姿を目で追いかけるうちに、辺りの景色も電車に吸い込まれるように横長に伸びてゆく。あ、と思う間にわたしも吸い込まれるようにきゅうっと意識が伸びてゆく。頭を締め付けるような痛みが、ふっと軽くなると、わたしはキッチンの椅子に腰掛けていた。
ブラインドの隙間から光が溢れている。
テーブルには切り分けられたカトル・カールがお皿の上に並んでいる。
わたしはまた、ハイネの子どもの頃の幻想を見ていた。彼女は電車に乗ってどこか遠くへと行ってしまった。
キッチンにハイネの姿はもうない。
慌ててハイネの痕跡を探す。お皿の脇にメモ帳が置かれている。
わたしは、ほっとしてため息をつく。
ハイネの筆跡の、新しいお菓子の材料が書かれたメモ。
またハイネと一緒にお菓子作りができるんだ。
わたしはその喜びを声にする。
「オーケー。また材料を買っておくよ」
わたしは次の週末、午前3時のキッチンスタジオのことを、もう待ち遠しく思っている。
***
<参考文献>
これがほんとのお菓子のきほん 藤野貴子著 成美堂出版
お菓子の由来物語 猫井登著 幻冬舎
聖書 新改訳第3版©2003 新日本聖書刊行会
次の更新予定
ゴーストバター〜真夜中にやって来る幽霊といっしょにお菓子を作っています?!〜 石川葉 @tecona
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