ゴーストバター〜真夜中にやって来る幽霊といっしょにお菓子を作っています?!〜

石川葉

第1話 スコーン:Aパート

 ふっ、と鼻腔がくすぐられる。

 懐かしい日曜日の、午後の日だまりみたいな匂い。

 甘くて優しいそれは、目を輝かせている子どもの頃のわたしの姿を思い出させる。

 わたしはうしろにいる母に振り向いてこう尋ねる。

「ねえ、今日はなにをつくるの?」

 わくわくした自分の声を聞き、はっとして目を覚ます。スマホをかざせば、AM3:00ちょうど。

 ああ、またやってきたのか、と思う。


「おはよう」

 わたしの頭上から声が降ってくる。ベッドに体を起こし、眠い目をこすりながら、くんくん、と匂いを嗅いでみる。

 やっぱり、いい匂いがする。


「おはよう。今週も律儀にやってくるんだ」

「もちろん。だって成仏したいじゃない? あ、違うや。あたしクリスチャンだから成仏じゃなくて、召される、だ。あたし、天国にゆきたいの」


 わたしはベッドから起き上がり、キッチンに向かう。

 水道の蛇口をひねり、マグカップに水道水を入れて飲む。

「水道管に溜まっていた水は澱んでいるから少し流してからの方がいいよ。ていうかミネラルウォーターくらい用意したら?」

「うるさいなあ」

 わたしは声にかまわず、ごくごくと水を飲む。その間もいい香りがふわふわとわたしの周りを漂っている。

「さ、はじめようよ。週末、午前三時のキッチンスタジオ」

「ん。分かった。今日は何を作るの?」

 わたしの目の前には、白い衣を着て宙に浮いている人影がある。その人影から漂ってくるバターの香り。

 わたしの元にやって来るこの幽霊はいつでも柔らかくて温かい記憶、そんなバターの匂いを纏っている。


   ゴーストバター


向坂さきさかは今日もすぐに帰るわけ?」

「はい。おつかれさまです!」

 わたしは、タイムカードを切り、冷蔵庫に入れてあった買い物袋を抱えて、すぐさま出口に向かう。

「ねえ、なんか最近付き合い悪いじゃん」

「先輩……。すみません。同居人が、ちょっとうるさい人で」

 いや、存在としては静かなんだけど。


「あー? 恋人できたん? さいあく〜。ちょっと今度紹介しなさいよね」

 わたしはあいまいに頷き、先輩の手を振り切って

「おつかれさまでした!」

 足早に職場を後にする。

 あの人、先輩の目にはどう映るんだろ。いや映んないのかな。


 ともかく。わたしは急いで家に帰らなくてはならない。買い物はお昼休みに済ませてあるから、寄り道をしないでまっすぐ家に向かう。

 都心から少し離れたところにあるアパートは、最近引っ越してきたばかりだ。家賃は安いし、それに今のところ階下と隣の部屋に住人がいない。とっても快適な住環境だ。こんなに部屋が空いているなんてなんでだろう、と訝しく思うけれど。

 まあ、思い当たる節は、すごくある。


 わたしは二階の角部屋へ向かい、鉄の階段をヒールの裏で、コツコツと音を鳴らして上がってゆく。

「ただいま」

 部屋の中はしん、としている。

 同居人は、ただいま留守か、それとも気配を消しているだけか。


 わたしはスーツをハンガーにかけ、消臭スプレーをした後、スチームアイロンをかける。そしてすぐにシャワーを浴びる。浴室を出ると、素早く保湿。スキンケアをしたあとで、ドライヤーで髪を乾かす。


 時計の針はもうすぐ午後8時。金曜日の夜だというのに、わたしはそそくさとベッドに向かっている。楽しい夜の気配を断ち切るように、パチンと部屋の電気を消す。

 スマホの充電ランプが点っている。カーテンの向こうでは車が何台も行き交っている。

 こんな時間に真っ暗にするなんて、もしかしたら入院病棟よりも消灯が早いんじゃないのって思っている。


 お腹がぐう、と鳴る。でも夜ご飯を食べてこんなに早い時間に眠ったら、たちまち太ってしまうだろうから、我慢して眠りにつく。

 だって、わたしの朝は早いから。

「おやすみなさい」

 部屋の中は相変わらず、しん、としている。


***


「おはよう」

 わたしは、バターの香りで目を覚ます。

「ねえ、なんでいつもそんなにいい匂いをしているの?」

「あら、嬉しい。あたし、いい匂いなんだ。君を誘惑しちゃうぞ!」

 わたしの部屋の幽霊は、そう言ってウインクしながらわたしの顔を指差す。


「いや、そういういい匂いじゃなくて、おいしい匂いがする」

 はて? という顔をして幽霊は首をかしげる。

「どんな匂い?」

「バターの匂い」

 幽霊は、くんくんと自分の衣の匂いを嗅いでみる。

「そうかなあ?」

「するよ。するする。いつもいい匂いがするなあって目が覚める」

「君が幸せな気持ちで目を覚ますなら、それでいっか。あたしはバターの匂いのする女。って、なんか決まらないな」

 わたしは、バターの匂いのする幽霊でしょ、と心の中で突っ込んでいる。


「で、今日は何を作るの?」

 ふふん、と笑って幽霊は胸を張る。

「あたしの故郷の味! ソウルフード! イギリスといったらスコーン!」

「イギリス? 故郷?」

「そうだよ。あたしイギリス人だから」

 胸を張る幽霊の顔は、どうみても日本人にしか見えない。いやいや、そういう見た目で人を判断しちゃいけないな。ルッキズム、ここに極まれり、だ。

 自分のことクリスチャンだとも言っていたからイギリス人というのは確かなのかもしれない。あれ、でも、待てよ。


「名前、ハイネって言ってなかったっけ?」

「うん。あたし、ハイネ」

「ハイネってさ、ドイツ語じゃない? しかもなんとなく苗字のような気がする」

「う、鋭いところをついてきたね。ご名答。あたしドイツ生まれなんだ」

「へえ!」

 ふふん、と幽霊は自分の豊かな髪をかき上げる。


「ドイツで生まれてイギリスに渡り、そして日本にやって来た、小手毬こでまりハイネ」

「へえ。ハイネはミックスで帰国子女なの? でもさ、ハイネ、めっちゃ名前だし、しかも日本語の苗字じゃん。いい加減なことしゃべってない?」

 疑いの眼差しを向けると胸を張っていた幽霊の顔がにわかに曇る。

「たはは。バレたか」

 バレたも何も、出てくる言葉、なにもかもただの口からの出まかせじゃん!


「でもさ、カレンだって英語みたいな名前じゃない?」

 ま、そうか。わたしの名前は向坂カレン。両親がどんな思いでつけたか知らないけれど、カタカナだし、確かにわたし、ハイネのこと、とやかく言えないな。


「ま、いずれにしてもふたりとも素敵な名前だってことでいいじゃない」

 幽霊の言うことにわたしは頷いて、冷蔵庫に向かう。

「ちゃんと言われた通りの材料買ってきているんだから、さっさと作ろう」

「さっさと、とは何事じゃ。ゆっくり丁寧に楽しむのが大事なんだぞ」

 頬をぷうとふくらまし、幽霊のハイネは両手を腰に当てる。


「ていうか、そもそも、わたしはこんな夜中に起き出して、なんでスコーンを作らなきゃいけないんだっけ?」

「あたしの成仏……、じゃない昇天のため」

「そこんところがよく分からないんだけれどさ、なんでスイーツ作りがハイネの昇天に結びつくわけ?」


 こほん、と、咳をしてハイネはしかつめらしい表情を作る。

「あたしたちは、夜中に起きてお菓子を作る。それは、すべて喜びのためです。聖書の中でイエス様の弟子のパウロもこう言っています。

『いつも喜んでいなさい。』

 喜ぶということは人生にとって、とても大事なことです。つまり、あたしの人生が喜びに満ち溢れた時、あたしの心は満足し、この世の未練を断ち切って、昇天することができるのです!」


 じゃーん、と両手を広げるハイネの輪郭はほのかに光を発していて、もう、すぐにでも昇天できるのじゃないかと感じる。

「なんかさ、ハイネは幽霊のわりにちっとも怖くないしさ、今もこうやって楽しそうにしているでしょ。ほんとにこの世に何か未練を残しているの?」

 幽霊は、わたしの言葉を聞いて、ほんの一瞬、わたしの方を向いてその表情に陰を作った。でも、すぐに明るさを取り戻して

「疑うのは、よくないぞ。人の心は見えないものだから、何がしまわれているのか分からないものだよ。大丈夫。あたしの心が満足したら、きっとこの部屋を出てゆくよ」

 そんな風に寂しく笑う。

 そんな顔をされたらたまんないじゃん。確かに人が何を抱えているかなんてわからないことだ。分かった、いいよ。幽霊になってもわたしのところに来てくれたハイネの望み、叶えてやろうじゃないの。


「おいしいスコーン、つくろう。これが最後の晩餐になるかもね」

「おっ、カレンもクリスチャンみたいなこと言うじゃん! うん、喜んで楽しく作ろう」

「とは言っても、作るの全部わたしじゃん」

「だってあたし、なんでもすり抜けてしまうんだもの」


 ハイネはわたしの肩に触れようとするけれど、その手がすうっとすり抜けてしまう。わたしはなんだか不思議な心持ちになる。こんなにはっきりと会話ができているのに、相手には実態がないなんて。

 これはただのわたしの空想なのかもしれない。

 あ、でもそうだ、

「でも、お菓子を食べることはできるんだよね?」

「食欲はまかせて」

 どん、と胸を叩くハイネ。なんかそれって、いいとこどりでズルくない? まあ、でもいいか。おいしい思いをわたしだってすることになるんだし。


 ハイネが叩いた胸の辺りから、ふわっと香ばしい匂いが立ち上がる。やっぱりハイネが動くたびにバターの匂いがするんだよな。

 ん、待てよ。他にも不思議な現象があったのだった。

「ハイネ、買ってきてほしい食材のメモは書けるじゃん。あれがないとわたしお菓子の材料なんてさっぱり分からないよ」

 ハイネは、ちっちっち、と人差し指を左右に振ってこう、のたまう。

「あれは、カレンの体を使って書いているのです。やっぱり乗り移られている間って記憶がないのかな?」

 へっ。なにそれこわい。

「あのメモはわたしが書いているということなの? でも筆跡がわたしのじゃない」

「そう、あたしがカレンの体に沿うようにして動かしているの。いわゆる憑依ってやつ?」


 うーん、やっぱり幽霊って計り知れない感じがする。でも、憑依されているって聞いて、こわいな、とは思うけれど、そこまで嫌な感じがあるわけではない。メモに書かれているのがかわいらしい文字であることと、とにかくお菓子の材料一覧だけだからなのかもしれない。不気味な言葉の羅列だったりしたら、とっくにお祓いとか頼んでいるよ。


「そういう細かいことは置いといて、さっそくお菓子作りをはじめよう!」

 わたしの戸惑いを振り切るようにハイネが宣言する。


 まあ、いいか。なんだかんだ言っても、この真夜中のキッチンスタジオを楽しみに待っているわたしがいる。

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