第51話 覚悟
湯気が立っていた。
こぽこぽとかわいらしい音を立てて、ティーカップの中に、紅茶が注がれていく。
芳しい紅茶の香り。その香りに部屋の中が充満していく。
充満する香りを感じながら、俺はカルディアとプーレに挟まれながら、縮こまるようにしてククルさんの執務室の中で、ククルさんと対峙していた。
ククルさんは俺の対面側に座りながら、ティーポットから熱々の紅茶を注いでくれていた。その手つきはとても慣れてスムーズなものだった。
手慣れているのだけど、なぜかやけに高い場所から紅茶を注がれていた。
とある刑事ドラマのワンシーンのようだと思いながら、ククルさんが紅茶を注がれているのを眺めていると、ククルが持つティーポットが傾きを戻して垂直となった。
「どうぞ」
ククルさんはすっと俺の前に紅茶を差し出してくれた。
差し出された紅茶を受け取り、「いただきます」と口をつけると、レアさんのところで飲んだ紅茶と甲乙付けがたい味わいが広がっていく。
「……美味しいです」
「そうですか、それはよかったです。はい、こちらはカルディアさんとプーレさんの分ですね」
「ありがとうございますなのです」
「ありがとう、ギルマス」
素直に感想を口にするも、ククルさんはあっさりと受け流して、カルディアとプーレにも紅茶を差し出された。
ふたりはそれぞれにお礼を言って、紅茶を啜っていた。
「わぅ~、シリウスのぶんがないの」
ふたりが紅茶を啜り、感嘆の息を漏らすと、カルディアの腕の中にいたシリウスがひとりだけ不満げに頬を膨らましていた。
紅茶は配られていたものの、シリウスの分はなかったんだ。
シリウスにはまだ紅茶は早かったというのもあるんだろうけれど、自分だけなにもないことにシリウスは不満を露わにしていたんだ。
「ふふふ、わかっていますよ。シリウスちゃんにはこっちです。キャラメル入りホットミルクですよ」
「わぅ!」
ククルさんはシリウスの催促に、優しく微笑まれながら、どこからか取り出した熱したキャラメルをホットミルクに入れて、馴染ませるようにして掻き混ぜたものをシリウスへと差し出された。
差し出されたシリウス用のキャラメル入りホットミルクを、シリウスは受け取ると嬉しそうに尻尾を振りながら、美味しそうに飲んでいく。
「わぅ! あまくておいしーの!」
ふりふりと尻尾を振るシリウス。シリウスの笑顔を見て、ククルさんは口元を押さえて愛おしそうに笑われていた。
とてもではないが、その後俺に無茶振りをするような人には見えなかったし、できることなら、そのままずっとシリウスに癒やされていてくださいと思わずにはいられなかった。
だけど、そんな俺の願いはあっさりと切り捨てられてしまった。
「さて、それではカレンさん。お話をしましょうか?」
笑顔を浮かべたまま、ククルさんはシリウスから俺へと視線を移された。視線を移されただけで、笑顔の質が明らかに変わっていた。
「……えっと、今回の戦の件ですよね?」
「ええ、その通りです。どういう内容なのかは、もうおわかりですよね?」
にっこりと笑うククルさん。その笑顔は明らかに「戦力を遊ばせておく余裕はない」と言っているようにしか見えなかった。
だらだらと冷や汗が背筋を伝って行く中、ククルさんははっきりと言ってくれた。
「あなたにも今回の戦に、参戦していただきます」
「……してもらえませんか、ではなくですか?」
「ええ。戦力を遊ばせておく余裕なんてありませんからね。それにこれはチャンスでもあるんですよ?」
「チャンス?」
「「深緑の翼」の首魁を討ち取れれば、多大な功績と賞金が手に入りますからね」
「功績と賞金、ですか」
功績と賞金。そのふたつは当時の俺が喉から手が出るほどにほしいもので、ククルさんはそれを俺の前にぶら下げてくれたんだ。
「ええ、「深緑の翼」は凶悪な盗賊団ですので、その首魁となれば、少なく見積もってもBランクの依頼達成レベルの功績ですね。賞金もBランク相当となります。具体的にはそうですねぇ~。金貨にして数百枚というところでしょうか?」
「っ、数百枚」
「ええ。あなたの目的から見れば、端金でしょうが、世間的には大金です。一気に大金を手に入れるチャンスでもあり、立身出世のまたとない好機でもあります。この機をみすみす見逃すというのであれば、私もなにも言いません。ですが、あなたの目的を踏まえれば、逃す機ではないでしょう?」
にっこりとククルさんは笑う。その笑顔に俺は自身の目的を、元の世界に戻るという目的を改めて突き付けられた。
そう、突き付けられたんだが──。
『……私は反対よ、カレン』
──香恋がククルさんにも聞こえるように、はっきりと言ったんだ。
その言葉にククルさんは、辺りを見回して「いまの声は?」と、怪訝そうに顔を歪められた。そんなククルさんに香恋は再び声を掛けた。
『初めまして。私は香恋。いまあなたの目の前にいるカレンの姉です。まぁ、姉妹なのに同じ名前なのは気にしないでいただけるとありがたいです』
香恋はすらすらと、まるで予め用意されていた台本を読むようにしてククルさんに話し掛けていた。
ククルさんは目を大きく見開いて俺たちを見つめていた。
「二重人格、いえ、体の内側にもうひとりのカレンさんがいるということですかね?」
でも、すぐにククルさんは表情を戻して、口元に笑みを浮かべられたんだ。
あっさりと状況を呑み込んだククルさんに、かえって俺が目を見開かされることになってしまった。
「それで、香恋さん? あなたはカレンさんが今回の戦に参戦することは反対ということですが、その理由をお聞きしても?」
『理由なんて決まっていますよ。この子には人殺しなんてさせられないからです』
香恋ははっきりと俺に人殺しをさせないためだと言った。
そう、戦に参戦するということは、「深緑の翼」の首魁を討ち取るということは、首魁を殺すということだ。
現代日本で住み慣れた俺は、当然人殺しなんてしたことはない。
そもそも、命を奪ったことさえない。
あるとすれば、夏の終わり頃に道ばたで転がっていた蝉を誤って踏み潰したとか、その程度だ。
一般人として現代日本で生きていれば、よほどのことがない限り、命を奪う経験なんてほとんどの人がしていない。いわば、当たり前だった。
でも、この地球の日本の当たり前と、この世界の当たり前には大きく乖離していた。その差を香恋は気にしてくれていたんだ。
だからこそ、俺には人殺しなんてさせられないと言ってくれた。その気持ちに感謝しつつも、「無駄だろうなぁ」とは思ったよ。
「なるほど、なるほど。素晴らしく妹さん想いですねえ~。麗しい姉妹愛、とても素晴らしいですよ」
ぱちぱちと手を叩きながら、まったく気持ちのこもっていない賛辞をククルさんは送られていた。笑っているのに、その目はとても鋭く細められ、まっすぐに俺を、いや、俺の中の香恋へと向けられていた。
「ですが、香恋さん? カレンさんがこの世界で生きていくには、冒険者として生きていくのであれば、必ずどこかで誰かを殺すことになりますよ? その度に「カレンには殺させない」と仰るつもりなので?」
『……できる限りそういう選択を突き付けられないようにするつもりですが』
「は、甘いですねぇ? そんな甘っちょろい考えが通用するわけないでしょう? こと冒険者という職業において、殺しを経験しないなんてことはありえないんですよ、お嬢さん?」
ククルさんは吐き捨てるように、笑いながら吐き捨てるように言い切った。
その一言に香恋は「っ」と息を呑んだが、ククルさんは攻め手を緩めることなく続けられた。
「そちらにいるカルディアさんだって、人を殺していますよ? プーレさんも直接ではありませんが、間接的には人の死に関わっています。誰もがその手を血で汚している。なのに、カレンさんだけは、あなたの妹さんだけはその手を汚させないなんてことはできないんですよ。わかりますか? 現実を知らない、甘っちょろいお姉さん?」
くすりとあざ笑うようにククルさんは言う。その言葉に香恋は苛立ったように唸るけれど、反論を口にできずにいた。
「……香恋、もういいよ。俺もククルさんの言う通りだと思うから」
『なにを言ってんのよ! あんたが殺す必要はない! 殺すのであれば、私が』
「どうやってだよ? 香恋には体がないのに」
『それ、は』
香恋が答えに窮してしまった。意地悪をするつもりはなかったのだけど、結果的にはそうなってしまい、申し訳なさが募った。
「それで、どうしますか? 参戦します?」
にこやかにククルさんは笑う。笑顔であるはずなのに、その笑顔は闇を感じるものだった。その笑顔を眺めながら俺は答えを出した。
「……参戦します。でなければ、俺の目的は叶わないと思うから」
「……そうですか。あなたの意思を尊重しますよ、カレンさん」
ククルさんは笑っていた。でも、その笑顔は少し前のとは違い、どこか気遣うようなものだった。
どうしてと思う俺にと、ククルさんは一枚の羊皮紙を差し出された。
その羊皮紙にはこの世界の言語で「特別参加依頼」と書かれていた。
詳細は今回の戦において、特別枠として参加することを許可するものであり、その際に生じた不具合に関してはギルドは一切関与しないというもので、他にもいろいろと書かれていたが、そのすべてがギルド側が圧倒的に優位になる契約が書かれていた。
『なによ、これ』
「ギルマス、これはさすがにひどすぎない?」
「そうなのです。これはさすがに無法すぎるのですよ」
詳細の内容を確かめた香恋たちが一斉に非難を口にするも、ククルさんは気に留めることなく、俺をじっと見つめていた。
「了承するのであれば、署名してください。それで契約は完了です。……よく考えてくださいね?」
ククルさんはそう言って自身の分の紅茶を注がれた。
芳しい香りが再び充満する中、俺はじっと羊皮紙を眺め続けた。自身の中にある葛藤と向き合いながら、署名するかどうかを、人を殺すかどうかの覚悟があるかどうかを確かめていったんだ。
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