第52話 背中にいる人たち

 柱時計の音がしていた。


 規則正しい音を刻みながら、黄金色の振り子が揺れていた。


 メトロノームのように左右に揺れる振り子と、その度に特徴的な短い音が断続的に聞こえてくる。


 聞こえてくる柱時計の特徴的な音を聞きながら、俺は手の内にある紅茶を見つめていた。


 紅茶は美しい琥珀色だった。その美しい琥珀の水面に無表情の俺が映り込んでいた。


 水面に映りこんだ俺は、ひどくぼんやりとしていた。


 なにを考えているのかもわからない。


 そもそも、考えているのかもわからないようにぼんやりとしていた。


 そう、ただぼんやりと手の内にあるティーカップを見つめていた。


 両隣にはカルディアとプーレ、そしてカルディアの膝の上ではうたた寝をするシリウスがいた。


 健やかな寝息を立てるシリウスを抱っこしながら、カルディアは気遣うような目を向けてくれている。


 それは反対側に腰掛けているプーレも同じだ。


 カルディアもプーレも俺を気遣ってくれていた。


 気遣いながら、俺がどういう答えを出すのかを見守ってくれていた。


 俺の対面側に座るククルさんは、書類仕事でもしているようで、手をしきりに動かしていた。


 部屋の中はククルさんの書類仕事の音と、柱時計の音が静かに響いていく。


 響き渡る音を耳にしながら、俺は手の内にあった紅茶を啜る。


 紅茶はすっかりと冷めていて、渋みが前面に出てしまっていた。


 その渋みがかえって頭の中を冷静にしてくれていた。


 考えるべきことはひとつだけ。


 人を殺す覚悟を持つかどうかだ。


 異世界へと転移ないし、転生した主人公の多くが直面する問題。


 その問題が当時の俺に突き付けられていた。


 もっとも、そのときはまだ覚悟を持てというだけのこと。


 実際に直面したわけではない。


 そう、実際に人を殺すかどうかの選択肢を突き付けられたわけじゃなかった。。


 でも、遅かれ早かれ直面する問題ではあった。


 この異世界で生きていく以上、どこかで命を奪う選択肢を突き付けられることは間違いない。


 その状態で悩むよりも、余裕がある状況で覚悟を決めさせられるというのは、かなり優遇されていた。


 その優遇された状況下でなお、俺は迷いに迷ってしまっていた。


 人を殺すこと。


 いきなりその覚悟を持て、と言われても、すぐに頷けるわけがない。


 平和な現代の日本で生まれ育った俺が、いきなり人を殺す覚悟を持てと言われても、そんな覚悟なんて持てるわけがないんだ。


 それでも、いつかは必ず来る。いや、そのいつかは迫りつつあった。


 そのことを俺ははっきりと自覚できていた。


 だからこそ、ククルさんの言葉に俺は迷ってしまっていた。


 常識的に考えれば、人を殺すなんてできないと言うべきなんだろう。


 だけど、その先には大きなリターンがある。


 ギルド内の功績と報奨金。そのリターンはとても魅力的だ。


 魅力的だからこそ、迷いが出てしまっていた。


 手を汚せば、地球に戻るための足がかりが得られる。


 ただ、手を汚した俺がはたして地球に戻っていいのかという想いはある。


 手を汚してでも、地球に戻りたいか。


 その問いかけに、俺は揺れ動いていた。


 柱時計の振り子のように揺れ動いていた。


 断続的に響く振り子の音が、執務室の中で響いていた。


 響く振り子の音とともに再び紅茶を啜る。


 冷めてしまった紅茶の味が、真っ先に覗かせる渋みとその後に続くまろやかさを感じながら、俺はなかなか覚悟を決められずにいたんだ。


 それでも誰も俺を催促しない。


 催促しないまま、ただ時間が流れていき、そして──。


「さて、そろそろ一時間が経ちましたし、私は一度下に降りますね」


 ──ククルさんは書類を片づけると、ソファーから腰をあげた。


 顔をあげると、立ち上がったククルさんと目があった。


 ククルさんは特に気にしていないみたいなのか、穏やかに笑っていた。


「とりあえず、下で指示を出してきますので、その間も考えておいてください。急かすつもりはありませんからね?」


 くすりとククルさんは笑っていた。


 その言葉に「すみません」と謝るも、ククルさんは手をひらひらと振りながら、「気にしないでくださいね」と笑って、執務室を出て行った。


 執務室のドアが閉じる音とククルさんが立ち去っていく音を聞きながら、俺は大きくため息を吐いたんだ。


「……旦那様、大丈夫?」


 一時間、ずっと黙っていたカルディアが俺を気遣ってくれた。


「あまり考え込まなくてもいいと思うのです。カレンさんが人殺しをできないと言っても、ギルマスは気になさらないと思うのです」


 プーレも俺を気遣いながら、無理をしなくてもいいと言ってくれたんだ。


 その言葉に流されそうになってしまうけれど、こればかりは俺が考えないといけないことだった。


『……本当にバカ正直なんだから。あんただけの問題じゃないのよ? もっと周りに頼りなさい』


 香恋は少しぶっきらぼうではあったけど、やはり俺を気遣ってくれていたんだ。


 その言葉が素直に嬉しかった。


「……みんな、ありがとう」


 覚悟。


 たった一言でありながら、重たい意味を持つ言葉。

 

 その重たさを、その日、俺はいままでにないほどに痛感していた。


 痛感しながら、突き付けられた言葉から決して逃げないように向き合おうとしていた。そのとき。


「ククル~? いる~?」


 執務室のドアがいきなり開いたんだ。


 そうして開いたドアの向こう側には、まさかの人が、レアさんが立っていた。


 それも普段の痴女っぽいドレスではなく、町人風、いいところのお嬢さんっぽい服装をしたレアさんが俺たちのいる執務室に入ってきたんだ。


「レア、さん?」


 いきなりのレアさんに俺は目を丸くしたんだが、当のレアさんは「あ、カレンちゃんだ」と嬉しそうに笑うと、ククルさんが座っていた対面側にいきなり腰掛けたんだ。


「数日ぶりだね、カレンちゃん」


「そう、ですね」


「なんか、雰囲気変わったね? なにかあったの?」


 レアさんは楽しそうに笑っている。


 笑いながら、両隣にいるカルディアとプーレを見つめると、「ふぅん?」と訳知り顔で頷いていた。


「カレンちゃんってば、手を出すのが早いなぁ」


「……え?」


「だって、カルディアちゃんか、プーレちゃんのどっちかはもう抱いたんでしょう?」


 いきなりの発言に、俺は言葉を失った。


 対してカルディアは「むふぅ」と鼻息を鳴らし、プーレは顔を真っ赤にして「あわわ」と慌てている。


 ふたりの反応を見て、レアさんは「なるほどねぇ」としきりに頷いていた。


「カルディアちゃんを抱いたんだ? 貴族のお嬢様を抱いちゃうなんて、カレンちゃんはやんごとなき立場の子に惹かれちゃうタイプ?」


「そ、そういうわけじゃ」


「でも、カルディアちゃんをもう何度か抱いているでしょう? カルディアちゃんはやけに余裕のある態度を取っているし。まるで「自分こそが一番の女」だって言っているみたいだもの」


「そうでしょう?}とレアさんはカルディアへと声を掛けた。カルディアは「もちろん」と自信満々に頷いた。


「なるほど」としきりに頷いてから、レアさんは手を組みながら背伸びをすると──。


「じゃあ、カレンちゃんの正妻の座は諦めるしかないかなぁ~。ねぇ、お姉さんとしては、カルディアちゃんってどう見えるの?」


 ──何気ない口調で、香恋へと尋ねられたんだ。


 いきなりの問い掛けに、俺たちは全員が揃って驚いた。


 が、当の香恋だけは驚くことはしなかった。


『……やっぱりあなたには気付かれていたみたいね。さすがは蛇王レヴィア。慧眼だわ』


「それほどでもないよ。ただ、お気に入りの子のことだから、わかったってだけ」


『そう。あと、カルディアのことだけど、少し肉食すぎるところもあるけれど、カレンのことをよく支えてくれそうないい子だとは思っているわよ。私のかわいい妹を任せても問題ないかなとは思うくらいには』


「そっか~、妬けちゃうなぁ。これからはプーレちゃんと一緒に頑張らないとだね。ね? プーレちゃん」


「な、なんでプーレがそこに出てくるのですか!?」


「え? だってプーレちゃんは、っとごめんね? さすがにまだ言えないよねぇ~?」


「だ、だから、なんのことなのですかぁ!?」


 香恋の率直なカルディアの評価に、レアさんはため息を吐いてから、プーレを弄り始めた。


 なんでプーレを、と当時の俺は思っていた。そんな俺を見て、カルディアは呆れ半分って顔をしていたね。


「まぁ、プーレちゃんのことはいいかな? それで、カレンちゃん、なにを悩んでいるの?」


 プーレへの弄りをやめて、レアさんはまっすぐに俺を見つめた。


 青い海のような瞳がまっすぐに俺を射貫く。海の瞳を眺めつつ、俺は俺が迷っていたことをゆっくりと。だが、はっきりとレアさんへと語っていった。


 俺の迷いを聞きながら、レアさんは「うんうん」としきりに頷きながら聞いてくれていた。


「そっかぁ、人を殺すか殺さないか、ねぇ」


 最後ははっきりと俺の悩みを口にすると、レアさんは再び背伸びをした。背伸びをしてからレアさんは俺を改めて見やると──。


「私が言えることがあるとすれば、ひとつだけだね。あなたの背中にいる人たちのことを考えてみて、ってことかな?」


「背中にいる人たち?」


 ──なんとも抽象的なことを言ってくれたんだ。

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