第38話 私が香恋なのよ

 木漏れ日が目にしみそうだった。


 てっぺんが見えないほどに背の高い木々の隙間から差し込む日の光を、ぼんやりと眺めることしかできなかった。


 森の中が薄暗いからこそ、余計に日の光が目にしみるのかもしれない。


 まだ時間帯的には夜には早い。夕方もまだもう少し先になる。


 それでも、森の中は薄暗い。


 少し先すらまともに見通せないほどに、森の中は薄闇に覆われていた。


 そんな森の中で、俺はひとり大木の幹に背を預ける形で座り込んでいた。


 俺が背を預けていたのは、シリウスたち群れの居住地である洞窟のすぐ脇にある大木だった。


 ガルムやマーナからもあまり遠くに行かないようにと言われていたので、洞窟を出てすぐにあった大木の幹に背を預けることにしたんだ。


 そもそも、どうして洞窟を出たのかは、自分でもわからなかった。


 理由は本当になかった。


 ただ、なんとなく。


 そう、なんとなく、外に出たかっただけ。


 外に出てなにかをしたいわけじゃなかった。


 ただ、外の空気を吸いたいと思った。外の空気を肌で感じたかったんだ。


 そうして外に出たものの、やることはなにもなかった。


 せいぜい座り込みながら、木漏れ日を見つめることだけ。


 そうして見上げた木漏れ日は目にしみた。


 鬱蒼とした森の中だから余計に。


「……眩しいなぁ」


 ため息を吐きながら、ひとりぼやいていた。


 感傷に浸っているつもりはなかったのだけど、感覚的には感傷に浸っていたようなものだった。


 はぁ、とため息を吐きつつ、大木の背から、大木の根を枕変わりにして寝転んだ。


 背中をゴツゴツとした根とむき出しの地面が触れていく。


 それでも木漏れ日は容赦なく、俺の視界に飛びこんできた。


 眩しいとまぶたを薄めつつ、手で顔を隠していた。


「……こんなところでなにをしているのです?」


 手で顔を隠すのと同時になぜか影が差した。


 顔を向けるとそこにはプーレが呆れた顔で立っていた。


「……青」


「え?」


「いや、見えているから」


「見えて? ……っ!」


 寝転がっていたのが悪かったんだと思う。あと、プーレが腰に手を当てて立っていたのも。


 おかげでプーレを見上げると、同時にスカートの中も見えてしまっていた。


 それとなく告げると、プーレは最初意味を理解していなかったが、すぐに顔を真っ赤にしてスカートの端を押さえて座り込んだ。


「……忘れてくださいなのです」


「……努力します」


「努力ではなく、忘れるのです。むしろ、忘れろなのです」


 耳まで真っ赤にしながら言い切るプーレに、俺は「あ、はい」と頷いた。


 頷かないと忘れるまで物理的な行動に取られる可能性が大いにあった。


 それくらい、当時のプーレの目は据わっていて、怖かったんだ。


「……とりあえず、そんなところで寝転がっていると、見回りのウルフさんたちに踏まれてしまうのですよ?」


「そう、だね」


 プーレはスカートを抑えながら、いわゆる女の子座りをしていた。


 寝転がったばかりだったけれど、起きあがって再び大木に背を預けて座った。


 プーレとは違い、女の子座りではなく、胡座を搔いてだったけれど。


 そんな俺の座り方にプーレは若干呆れていた。


「カレンさんも女の子なんですから、それはどうかと思うのですよ」


「でも、こっちの方が慣れているんだよね」


「……いままでいったいどういう生活をしていたのです?」


「ん~? そうだねぇ。母親が蒸発してからは、父親と祖父母に育てられたね。祖母は俺が五歳くらいの頃に亡くなっちゃってね。祖父はそれがショックでぼけちゃってね。それからは親父や兄貴たちに育てられたって、いまってところ?」


「……悪いことを聞いてしまったのです」


「あははは、気にしなくていいよ。事実だし」


「ですけど」


「気にしなくていいよ。別にトラウマになっているってわけじゃないし」


 あはははと空元気に笑った。


 プーレはじっと俺を見つめていたけれど、すぐに小さくため息を吐いた。


「……そんな空元気に笑われても、気になってしまうのですよ?」


「……やっぱりわかる?」


「すぐにわかるのですよ。いまのカレンさんは少しだけ病んでいます」


「病んでいる? どこも痛んでないけど」


「体はです。でも、ここはいま病んでいるのです」


 そう言って、俺の胸に触れるプーレ。俺はその手をすんなりと受け入れていた。


「やはり衝撃はあるものなのですか?」


「……ん~。どうだろう。自分でもよくわかんない。言われてみればと思うことはあるし、そんなわけがとも思わなくもない。なんとも不思議な気分、かな?」


「よくわからないのですよ」


「あははは、俺も同じ意見だね」


 自分で言っておいてなんだったが、そのときの自分の感情はいまもよくわからない。


 時化の海のように荒れているわけじゃない。かといって凪いだ海のように静かなわけでもない。

 

 常にさざ波が押し寄せているというのが一番近いのだろうか。


 なにか言いたいようで、なにも言いたくない。


 そんな相反する気持ちで胸が一杯になり、気付いたら外に出てくるとカルディアたちに言って外に出たんだ。


 先述したとおり、外に出たところでなにかしたいことがあったわけじゃない。


 ただ外に出たかった。


 外に出て、外の空気を吸いたかったし、浴びたかった。


 でも、そうして外に出て、空気を吸い、全身に浴びても、俺の心は落ち着いてはくれなかった。


 次々に押し寄せる小さな感情の奔流が止まらなかった。


 止まらないまま、ただひとり木漏れ日を眺めることしかできなかったんだ。


「……神子様、って本当におられたのですね」


「……自覚はないんだけどね」


「それはそうなのです。普通の人のように生きていたのに、まさか神子だったなんて言われても普通の人はそう簡単には受け入れることはできないのですよ」


「そう、だね」


 プーレの言葉に俺は素直に頷いた。


 ショックだったというわけじゃない。


 俺をこの世界に呼び寄せられたんだから、母さんが常人ではないことはわかっていた。


 それでも超人的な力を持つ人の娘という程度の認識だった。


 が、蓋を開ければ実際は、超人ではなく、超常的な存在の娘だったなんて。


 それも、この世界における絶対神とされる母神スカイスト。それが俺の母さんの正体らしい。


 ガルムとマーナに告げられたときは、最初なにを言っているんだろうと思った。


 でも、ガルムとマーナははっきりと俺が神子であると言っていた。


「我ら魔物にとっては、母神様は人族や魔族よりも関わりが深いため、母神様に連なる存在であることはすぐに理解できるのです」


「カレン様が神子様であらせられることはすぐにわかりました。あなたと母神様はとてもよく似ておられますから」


 淡々とした口調でふたりは告げていった。


 予め渡されていた台本でも読んでいるのではないかと思うほどに、流暢にふたりは語っていた。


 それがかえって信憑性を生じさせていた。


 そしてそれが俺が黙って聞いていられる限界だった。


 気付いたときには、立ち上がり、外に出てくると言っていた。


 ガルムたちからはあまり遠くまでは行かないようにと言われて、無言で頷いた。


 そうしてガルムたちの家から出て、洞窟内の道中を歩いていると、ウルフたちの視線を感じた。


 客人だからではありえないような視線。まるで崇拝するような視線を投げ掛けられていた。


 その視線はとても居心地の悪いもので、俺は逃げるようにして道中を駆け抜けて、洞窟のそばの大木にと辿り着いたんだ。


「自覚みたいなものはあるのですか?」


「……ないよ。神子だと言われても、俺は自分が常人だとしか思えない」


「プーレとしては、それで常人と言われても困るのですが」


「え?」


「だって、カレンさんほどに強い常人なんているわけがねえのですよ」


 プーレは呆れ顔を浮かべていた。


 その言葉になんて返事をすればいいのか、わからなくなってしまった。


「正直な話、神子様だと言われて納得できたほどなのです。特別な血筋だろうなぁと思っていましたが、特別中の特別だったとはさすがに思っていなかったのですが」


「……特別、か」


 特別という言葉になんとも言えない感慨を覚えた。


 人はときにして、特別という言葉を追い求めてしまう。


 特別はその人によって往々で変わる。たとえば才能、資産、もしくは人。その人によって、特別はその形を変えるものだ。


 俺だって子供の頃は特別なものがほしかった。


 でも、いざ自分が特別な存在だと突き付けられると、どうしてか「これじゃない」という感じがしてならなかった。


「カレンさんがいまどんな気持ちなのかは、プーレにはわからないのです。カレンさんが特別な存在であることはガルムさんの言葉を信じれば事実なのでしょう。でも、カレンさんがカレンさんであることには変わらないと思うのです」


「……俺が俺であること、か」


「カレンさんはカレンさんなのです。人は誰かになりたがりますけど、人はその人自身にしかなれないのです。できることは、理想と思える自分に近づけることだけなのです」


「……そうだね。理想の自分か」


 プーレの言葉は否定できない事実だった。


 誰もが、憧れの人物のようになりたがる。


 でも、どんなに憧れても、憧れの人物になることはできない。


 だって、人は自分にしかなれないのだから。


 だから、憧れの人物になるではなく、憧れをとおして理想の自分像を作り出せばいい。そしてその理想に近付けばいい。


 プーレの言葉はありふれた物言いではあるけれど事実だった。


「ありがとう、プーレ。俺も俺なりの理想を追いかけてみようかな」


「その意気なのです。まぁ、とはいえ、プーレにはどんな理想なのかは想像もつかないのですが」


「それは俺も同じかなぁ。理想の自分なんて考えたこともなかったからね」


 プーレの言葉に苦笑いしながら、理想の自分についてを語り合っていた。


 この会話で見つけられるわけもないけれど、それでも取り留めもない話として続けようとしていたんだ。だけど──。


『なら、少し教えてあげてもいいわよ? カレン』


 ──その声は突然聞こえてきたんだ。


「え?」


「いまの声は、カレンさん、です?」


 それも俺だけではなく、プーレにも聞こえていた。俺そのものの声が突然として聞こえてきたんだ。


「いったい、いまの声は」


 聞こえてきた声に身構えようとした。だが、それよりも早くその声はまた聞こえてきたんだ。


『わからないのも当然よね。だって、あんたってば、私を抑え込むための存在だったものね。……まぁ、それでも私としては? 双子の妹みたいな扱いをしてもいいわけですけどぉ?』


 ……とっても面倒くさそうな雰囲気全開でだ。


「え? なに、この面倒くさそうなタイプ?」


「面倒くさいというか、うざさ全開なのですよ」


 プーレともども散々な感想を口にすると、声の主は震えながら叫んだ。


『面倒ってなによ、面倒って!? っていうか、ウザい? ウザいですって? この私が!?』


「「十分面倒でウザいんですけど?」」


『声を揃えて言うんじゃないわよ!?』


 きーきー声で叫ぶ謎の声。


 それだけで最初の得体の知れなさはなくなっていた。


 が、得体の知れなさは消えてなくなったが、うさんくささはかえって増していた。


「それで、どなた?」


「カレンさんそっくりの声ですけど」


『そっくりじゃないわよ。カレンが私に似ているの。だって、私こそが香恋なんだもの』


 ふふんと自信満々に言う謎の声。もし実体が目の前にいたらドヤ顔をしていたんだろうなぁと思いつつ、その言葉をオウム返ししていた。


「あんたが」


「香恋さん、なのです?」


『そうよ。私こそが鈴木香恋その人なんだから。ちゃんと敬うように』


 むふぅと鼻息を荒く謎の声と自称香恋はそう告げたんだ。

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