第20話 嫁と娘ができました←

「──このひとが、シリウスのぱぱうえなの?」


 シリウスが何気なく、カルディアに尋ねた一言は、俺の思考を止めるには十分すぎた。


「……ぱぱ、うえ?」


 あ然となりながらも、自分を指差すと、シリウスはこくんと小さく頷いた。


 カルディアと同じ紅い瞳が、純粋無垢な瞳が俺をじっと見つめていた。


「うっ」と声を詰まらせながら、どうしたらいいのか、当時の俺にはわからなかった。


 なにせ、会ったばかりの子に「ぱぱ上」なんて言われても、どう接すればいいのかなんてわかるわけもない。


 だいだい、「ぱぱ上」ってなによ。


 俺の性別わかっている?


 こう見えても女なんですけどと言いたかった。


 だけど、あまりにも純粋すぎるシリウスの目を見ていると、否定することが非常に難しかった。


 だらだらと冷や汗が全身を伝っていく中、俺はどうにか。そう、どうにかするべく、この場で唯一場を収められそうなカルディアへと視線を向ける。


「お願いだから、どうにかして」と視線でカルディアに語りかけると、カルディアは一瞬きょとんとした顔を浮かべるけれど、すぐに笑ってくれた。


 あぁ、これでどうにかなるかなと思っていたのだけど──。


「そうだね。シリウスはどう思う?」


 ──なぜか、カルディアはシリウスに話を聞いてくれた。


 なぜ、そこでシリウスに話を振るのかなと思ったね。


 そこは「ううん、違うよ」とか「ごめんね」とかそう言ってシリウスに俺が「ぱぱ上」ではないことを突き付けるべきであり、シリウスに聞くべきではないはず。


 でも、なぜかカルディアはシリウスに委ねるようなことを言ってくれた。


 どういうことですかと言いたくなる中、「頼む」と願いつつ、シリウスが否定することを祈っていたのだけど──。


「……ばぅ。シリウスは、そのひとがぱぱうえならうれしい」


 ──シリウスは俺の願いをあっさりと否定してくれました。


 いや、まぁ、当然っちゃ当然かもしれない。


 そもそも、シリウス自身が俺を「ぱぱうえなの?」と言い出したんだから、シリウスの中では「俺=ぱぱうえ」という図式ができあがりつつあった。


 そこでシリウスに委ねなんてすれば、シリウスからの答えはひとつに決まっているよね。


「そっか、シリウスは、カレンがぱぱ上がいいんだ?」


 そして、当然カルディアもそのことを察していた。


 察していたくせに、わざとらしくいま知ったみたいな態度を取ってくれた。


 まるで驚いたみたいな口振りだけど、背中にある尻尾はふりふりと左右に振られている。


 どう考えても。


 誰がどう見ても、カルディアの返答は故意だ。いや、作為的と言っていいか。


 そもそも、あの状況でシリウスに話を振る時点で作為しか感じられない。


 おそらくは、シリウスがまっすぐに俺を見つめた反応を見て思いついたんだろうけど。


 純粋なあの子の目を曇らせたくないという、俺の気持ちを正確に読み取ったがゆえの言動。


 うん、いま思い出しても、当時からカルディアは策士だと思うよ。


「シリウスは、どうしてカレンにぱぱ上になってほしいの?」


 なにせ、その時点で半ば勝負は決まっているというのに、追撃まで仕掛けてくれたんだからね。 


 でも、それをおくびにも出さずに、カルディアは穏やかな微笑みを浮かべたまま、シリウスと向き合う。


 シリウスはちらりと俺を見やってから、カルディアと向き合った。


「……あのね、ぱぱうえから、やさしいにおいがしたの」


「優しい匂い、か。まま上と同じ?」


「うん。だから、ぱぱうえがぱぱうえならいいなぁっておもったの」


「……そっか。そっか、そっか」


 シリウスは俺から「優しい匂い」とやらを感じたと言う。


 が、どんな匂いなのかはさっぱりわからない。


 種族的な差からくるものなのかもしれないけれど、「優しい匂い」ってどんなものなんだろうかと思っていると、カルディアの笑顔が一気に変わった。


 穏やかな微笑みが、楽しそうな笑顔に変わってしまった。


 シリウスに向けていたのが慈愛に満ちた笑みだったとすれば、そのときの俺に向けていたのは獲物へと牙を剥いているかのようだった。


「で、どうする?」


「ど、どうするとは?」


「わかっているのに聞くんだ?」


 くすくすと迫力に満ちた笑みを浮かべながら、カルディアはシリウスを抱っこして近付いてきていた。


 カルディアに抱っこされながら、シリウスはこてんと首を傾げつつも、じっと俺を見つめていた。


 二対の紅い瞳が俺を完全に捉えており、逃げ場はなかった。


 仮に逃げ出したところで、シリウスはともかくカルディアは徹底的に追いかけてくるのは目に見えていた。


 だからと言って、カルディアを拒絶することは難しかった。


 というか、シリウスを拒絶するのが難しかった。


 シリウスを落胆させるようなことを言えなかったというのが正しいかな。


 仮に「ぱぱ上になる気なんかない」と言ったら、シリウスは「……そっか」と項垂れるだけだったと思う。


 そう、項垂れるだけで、駄々をこねることはなかったと思う。


 でも、駄々をこねずとも、耳や尻尾が力なく垂れ下がっただろうし、悲しそうに顔を歪めてしまっただろう。


 なによりも、きれいな紅い瞳が涙に濡れてしまったと思う。


 当時の俺でもそのくらいは予想できた。


 予想できてしまうと、その光景を思い浮かべてしまい、心苦しくなってしまった。


 悪いことをしていないはずなのに、まるで重罪を犯してしまったような気分になってしまった。


 おそらくはそれさえもカルディアの策略のうちなんだろうけれど、予想してしまった時点で俺の負けはほぼ確定したようなものだった。


「ほら、シリウス。ぱぱ上だよ。おてて振ろうね?」


 だというのに、カルディアは攻め手を緩めることはしなかった。


 むしろ、次々に攻め込んでくる。その攻め手にシリウスも無邪気に乗ってしまったんだ。


「はーい。ぱぱうえ~」


 シリウスは満面の笑みを浮かべて、カルディアと一緒に俺に手を振っていた。


 ……はい、正直に言います。


 ここで俺は落ちました。


 だって、かわいかったんだもん。仕方がないじゃん!


 それに、「ぱぱ上」呼びだって、カルディアにお相手ができれば自然とそちらさんに移行するだろうし。


 いわば期間限定の呼び名だと思えば。一時的な「ぱぱ上」呼びであれば、まぁいいかなと思ってしまったというのもある。


 ……実際はそんなことはなかったわけなんだが、その当時の俺はそこまで考える余裕はなく──。


「……わかった。わかったよ」


 ──俺はシリウスの「ぱぱ上」呼びを受け入れたんだ。


 そう、受け入れたんだが、カルディアはそれだけでは許してはくれなかった。


「なにがわかったの?」


 カルディアはとても楽しそうに笑いながら、そんなことを聞いてくれました。


 そんなのここまでの流れでわかるじゃんと言いたかった。


 だが、カルディアはともかくシリウスまでもが「どういうことなの?」と首を傾げてくれました。


 この時点ではっきりと言わないという選択肢は選べなくなってしまった。


 なんでこうなったんだろうと思いながらも、俺ははっきりと言いました。


「……シリウスのぱぱ上になります」


 肩を落としながら言い切ると、シリウスは満面の笑みを浮かべて、カルディアの腕の中から飛び出したんだ。


 いきなりのことだったけど、どうにかシリウスを抱きかかえることはできた。


 危ないだろうと言いたかったのだけど、シリウスはぐりぐりと俺の胸に頭を擦りつけていた。


「わぅ~。ぱぱうえなの」


 ふふふ、と無邪気に笑うシリウス。


 ……もうね、その笑顔に完全に膝が砕けましたよ。


 怒る?


 そんなことできる余裕があるとお思いで?


 できるわけがないでしょうに。


 俺にできたことと言えば、そんなのはひとつだけだった。


「……うん。ぱぱ上だよ、シリウス」


 取り返しがつかなくなりそうだなぁと思いつつも、シリウスの「ぱぱ上」であることを認めることだけだった。


 そうしてシリウスの「ぱぱ上」であることを認めると同時に、カルディアが、いつのまにかカルディアが俺の隣に立っていた。それもよりそう形でだ。


 いったい、なんのつもりだろうと思っていた俺に、カルディアは言いました。


「これからよろしくね、旦那様?」


 言われた言葉の意味を理解することができなかったです。


 いやさ、わかるよ。


 わかるんだけどさ。


 なぜ、この場で。


 そう、なぜその場でそんなことを言うのか。


 その場には俺とシリウスだけじゃなく、レアさんにククルさん、サブマスターさんもいた。


 衆人観衆というには少なすぎるけれど、立会人には十分すぎる人数がいた。


 そんな人たちの前で、「旦那様」なんて呼んだらもう引っ込みがつかなくなる。


「シリウスのぱぱ上になる」発言の時点ですでに引っ込みはつかくなっていただろうけれど、カルディアの一言は完全にトドメでした。


 だが、その一言がシリウスのオーバーキルを呼び寄せてくれた。


「そっか、ぱぱうえがぱぱうえになるなら、ままうえのだんなさんになるもんね。わぅ~。シリウス、うれしいの」


 俺の腕の中で元気いっぱいにはしゃぐシリウス。


 その姿を見て、「やっぱりなし」なんて言えるわけもなかった。


 気付いたときには、俺は天井を見上げていた。


 どうして世界はいつも「こんなはずじゃなかった」ことばかりなんだろうなとしみじみと思いながら、俺は──。


「アハハハ、ヨロシクネェ」


 ──感情をなくして笑うことしかできなかったんだ。


 そんな俺を見ても、シリウスもカルディアも穏やかに笑うだけ。


 この先どうなってしまうんだろうと、先行きの不安を覚えながら、こうして俺は一児の親かつ半ば強制的に嫁を得ることになったんだ。


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半ばカレンの墓穴ですが、かくしてカレンの女難が始まった瞬間でした。

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