第9話 一緒に
ぽちゃん、ぽちゃんと水の滴る音が聞こえてくる。
天井からのものだろうか。
それとも、目の前の女性の肌が滴り落ちるものだろうか。
「……」
転移した俺の目の前にいた女性は、いや、入浴直前の女性の前に俺は転移していた。
女性からしてみれば、これから入浴というところで、いきなり見知らぬちんちくりんが転移してきたんだ。
唖然としてしまうのも当然だ。
現に女性は相変わらず、きょとんとした様子で俺を見詰めていた。
その様子はあまりにも美しかった。
煌めくような銀髪も、宝石のような紅い瞳も、そしてバスタオルで隠されている凹凸がはっきりとした肢体も。
すべてが美しかった。
湯に濡れていることでより美しさが強調されているということもあるのかもしれない。
いや、湯に濡れていなくても、彼女であればきっと美しいのだろうとさえ思えていた。
その美しさをいつまでも見ていたいという欲求に駆られるけれど、そのときは状況が状況だった。
「あ!」
いまがどういう状況なのかということを思い出し、俺は慌てた。
俺が慌てたことで、女性は何度も目を瞬かせていたが、次第にその顔は穏やかな笑みへと代わっていく。
その変化がより俺を慌てさせてしまう。
「──あ、あの、これはですね」
異世界転移。
ネット小説ではありがちな展開。
だけど、そのありがちな状況にいきなり放り込まれてしまった。
それもいままで見たことがないくらいにきれいな人の、とびっきりの美人さんの入浴中に転移するという、「どういうことだよ」という状況でだ。
同性であろうとも、他人の入浴中に突撃をかましたら、あらぬ誹りを受けるのは免れない。
美人さんの音沙汰次第では、犯罪者のレッテルを貼られてしまいかねない状況だった。
その状況をどうにか脱しようと、誤解であることを伝えようとした。
「言葉って通じるのか?」というまたもやいまさらなことに思い至ってしまった。
同じ地球でも、異国ならば言葉は通じないというのに、異世界であればなおさら言葉は通じないんじゃ?
いまさらすぎる疑問にようやく気付いたところで、賽は投げられていた。
ここからどうやって事情を伝えろと、誤解だと伝えろというのか。
背中に冷たい汗が伝っていくのを感じながら、どうしようと本気で悩んでいると──。
「慌てないでいいよ。お嬢ちゃん、いったいどこから来たの?」
──こてんと美人さんが首を傾げながら尋ねてきたんだ。
不思議なことに美人さんの言葉を理解できたので、「あれ、ここ日本なの?」とつい思ってしまった。
が、美人さんの背中で揺れる尻尾を見れば、そうではないことは明らか。
ならこれはどういうことなのかと幾重もの疑問が浮上していく。
状況把握ができていない俺をじっと眺めながら、美人さんはしきりに首を傾げていた。そして──。
「……あー、もしかして「旅人」かぁ」
「「旅人」?」
言われた言葉を反芻すると、美人さんは「うん」と頷いた。
「異界と呼ばれるところから来る人たちのことだよ」
「異界……異世界ってこと?」
「そうとも言うかな? この世界の常識を知らなかったり見かけない服を着ていたりする人たちのことを総じて「異界の旅人」って呼んでいるの」
「それで「旅人」?」
「うん。少なくともあなたの着ている服を私は見たことないし」
そう言って俺の来ていた繋ぎを美人さんは指差した。
実家が経営しているなんでも屋の制服である繋ぎ。
この世界には繋ぎというものは存在していないようだった。
「それでお嬢ちゃん、お名前は?」
「……香恋」
「カレン?」
「鈴木香恋です」
「それが名前? 少し長いね」
「あー、「鈴木」は名字、うーん、ファミリーネームでわかるかな?」
「あぁ、家名か。ってことはやっぱり「旅人」かぁ」
なるほどと頷く美人さん。
ファミリーネームでわかってくれたことは喜ばしいが、ひとつ伝えることがあった。
「あと、お嬢ちゃんって年齢じゃないんで」
「え? そうなの?」
「はい。こう見えても今年で十六歳になるので」
「……え? 同い年、なの?」
「……え? 同い年、だったの?」
お嬢ちゃん呼ばわりだったのをやめて貰うべく、年齢を伝えると美人さんは驚いた様子で「同い年」だと言っていた。
その言葉に俺も驚いてしまった。美人さんがまさか同い年だとは思わなかったからだ。
というか、まさか目の前の美人さんがミドルティーンだとは思わなかった。
若くても十九歳くらいのハイティーンか、二十歳を少し超えたくらいかなと思っていた。
なのに、まさかの同い年。その衝撃は凄まじく、思わず美人さんを指差してしまうほどだった。
当の美人さんも俺みたいなちんちくりんが同い年だったとは思わなかったようで、あんぐりと大きく口を開きながら俺を指差していた。
そうしてお互いを指差しながら、お互いに驚くというなんとも言えない雰囲気が漂っていた。
「いまだぁぁぁぁぁぁ!」
そんな空気の中、不意に浴室のドアが開く音が聞こえてきた。
それもただ開くのではなく、妙な飛行物体の影というおまけ付きで。
そしてその飛行物体はあろうことか──。
「カ・ル・ディ・ア・ちゃーん」
──と宣いながら美人さんへと突撃をかましていた。
その突撃はまるで某大泥棒三世を思わせてくれるもので、あまりにも突然な光景に俺はまたもや唖然となっていた。
だが、当の美人さんは「はぁ」と小さくため息を吐くと、その飛行物体めがけて腕を振り抜いた。
美人さんが振り抜いた腕は、飛行物体改め、変質者の頬に突き刺さった。
変質者は「ごはぁ」と叫びながら、浴室のドアへと逆戻りしていった。
いや、逆戻りどころか、ドアとぶつかり、そのままずるずると浴室の床に体をぴくぴくと震わせながら横たわってしまった。
「……変態勇者め」
やれやれとため息を吐くと美人さんは俺に振り返ると手を差し伸べてきた。
差し伸べられた手を反射的に掴むと彼女は穏やかに笑った。
「私はカルディア。カルディア・フォン・アルスベリア。よろしくね、カレン、でいいかな?」
「あ、うん。それでいいよ。カルディアさん」
「さんはいらない。同い年なんだから、カルディアって呼び捨てでいい」
「いや、でも、ミドルネームが」
美人さんこと、カルディアは名乗るとき、ミドルネームで「フォン」と言っていた。
たしかドイツ系の貴人に使われるのが「フォン」だったはず。
つまりカルディアは貴族ということだ。あくまでも元の世界と同じであればだけど。
でも、広すぎる浴室にいることと、雰囲気からしておそらくはカルディアが貴族であることは間違いない。
貴族嬢相手に、呼び捨てなんてできるわけもなかった。
「あぁ、気にしなくてもいいよ? たしかに貴族だけど、もう没落しているようなものだし」
「そう、なの?」
「うん。名前だけの爵位を持っているけれど、本当に名前だけだもの」
「名前だけって」
「なにせ領地もなければ部下もいないもの。まぁ、財産はちょっとだけあるけれど、それだけだからね」
「そう、なんだ?」
「うん。お家は再興したいとは思っているけれど、再興なんて夢のまた夢ってのが現実だよ」
「……そっか」
「それこそ、地位と財産持っているじいさんの妾にでもなった方が再興の近道じゃないかなぁと思うくらいだし」
あっけらかんととんでもないことを言うカルディア。
たしかに、カルディアはとんでもない美人さんなうえ、すごくスタイルがいい。
地位と財産持ちの好色家の爺さんであれば、是が非でも妾にしたいと言い出すだろう。
言い出すんだろうけれど、なぜか嫌だなぁと思ったんだ。
その嫌だなぁがどういうことなのか、当時の俺にはわからなかった。
だからなのか、カルディアの一言に俺はなにも言えなくなってしまった。
俺の反応を見て、カルディアはくすりとおかしそうに笑った。その笑顔に不思議と胸の奥がどくんと高鳴るのがわかった。
「もしくは、「旅人」さんの、カレンの女にでもなれば、ワンチャンスあるかなぁといま思っているけどね?」
カルディアは目をすっと細めて笑った。それまでの穏やかさは消えてしまっていた。
まるで肉食獣に睨まれているかのような緊張感が全身に走る。
「知っている? 狼は一度狙った獲物は逃さないんだよ?」
目を細めたまま、カルディアの口元は弧を描いた。とても怪しい笑み。
でも、その笑みになぜか目が奪われてしまい、体も動かなくなっていく。
そんな俺を見てカルディアは妖しく笑いかけながら、距離を徐々に縮めて──。
「──女の子同士なんて、不潔よぉぉぉぉ!」
──縮めてきたと思ったら、さきほどカルディアに伸された変質者が俺とカルディアの間に割り込むように体ごと突貫してきた。
突貫してきたものの、俺もカルディアもすぐさま避けた。
が、変質者にとっては想定外だったのか、「へ?」と素っ頓狂な声を上げたまま、ごちんという音を立てて浴室の底に頭をぶつけた。
変質者はすぐに土左衛門の如くぷかりと浮かび上がってきた。体をびくびくと震わせているのを見る限り、死んではいないというのはわかった。
「……こういうのって本当にいるんだ」
あまりの光景に、語彙が死にかけていた。
語彙が死にかけながらも俺が思ったのは、「現実でも百合に挟まろうとする男って本当にいるんだなぁ」ということ。
まぁ、百合というには関係が浅すぎるし、そもそも現状を完全に飲み込めていなかった。
それでもその場の状況だけを見れば、その変質者がいわゆる「百合の間に挟まろうとする男」という万死に値する人間であることはなんとなくわかった。
あくまでもネットミームというか、俺にとってはネタの一種という風に捉えていた。
そのネタを現実でやらかす人がいるというのは、なんとも衝撃的だった。
衝撃的な状況に俺は唖然としていた。
「……はぁ、本当にこれは」
変質者の唐突な行動にカルディアは興が削がれたようで、小さくため息を吐いていた。
「カレン。悪いんだけど、その変態勇者を連れて行って貰える? 私これからお風呂だからさ」
「あ、うん、ごめんね」
「いいよ。気にしないで。あとからかってごめんね?」
手を重ねながら頭を下げるカルディア。
いままでのは冗談だったと言われて、「そうだったんだ」とどうにか納得した。
冗談にしては迫真すぎた気もしたけれど、あえて気にしないことにした。
それに目の前でぷかりと湯船に浮かぶ変質者に関しては気にするべきと言うか、無視はできなかったし、カルディアからも頼まれていたからね。
当の変質者は完全に気を失っていたが、そのまま湯船に浮かばせたままなんてことは論外だ。
「これ、外に出した方がいいよね?」
「うん、そうしてくれると助かるかな」
カルディアはあっさりと頷いた。
「そっか」と頷きながら、変質者の襟首を掴んで湯船からドアに向かって放り投げた。
俺もそれなりに体を鍛えているとはいえ、大の男を投げ飛ばせるとは思っていなかった。
とりあえず、湯船の外に出せればいいかなぁという程度だったのだけど、どういうわけか、変質者は放物線を描きながらドアの方へと飛んでいってしまった。
「……へ?」
あまりにもあんまりな光景に呆然となる俺と、その背後で「おー」と感心したようなカルディアの声が聞こえた。
その後すぐに、「ぐえ」と妙な声とともに、変質者が浴室のドアを超えて、脱衣場に消えていったのだけど、やはり気にしないことにした。
「……あー、とりあえず出るね」
「あ、ちょっと待って。カレン、服濡れているよね?」
「あー、うん。下着まで行っている」
「やっぱり。じゃあ、ちょっと待っていて、連絡するから」
湯船を出ようとしたら、なぜかカルディアに止められてしまった。
「連絡って」
どうするのと尋ねるよりも早く、カルディアは手首のブレスレットらしきものに触れる。
すると、いきなり目の前にモニターらしきものが投影されたんだ。
「どうされましたか?」
「いきなりで申し訳ないんですが、女性用の下着と服一式用意して貰えませんか?」
「構いませんが、どうかなさいましたか?」
「いえ、実はお風呂場に「異界の旅人」さんが転移されてきたんですよ。笑い話ではなく、実際に。で、その転移してきた子が下着まで濡れちゃっているみたいなんで」
「……にわかには信じがたい話ではありますが、承知致しました。ただちに準備させていただきます」
「お願いします。あと、変態勇者がまたお風呂場に入り込んできたので、いまは脱衣場にほっぽり出してあるので拘束をお願いします」
「……直ちに対処致します」
モニター越しに誰かと会話をしていたようだけれど、どうやら変質者のやらかしっぷりに誰かさんがため息を吐いたようだ。
その後、カルディアは誰かさんと二、三言会話した後、モニターを消してしまった。
「じゃあ、カレン。その服脱いで、準備できるまで一緒にお風呂入っていようか」
ね、とウインクをするカルディアにまた胸が高鳴ってしまうが、俺は慌てて「わかった」と頷いた。
頷くも、よく見ると脱衣場のドアが開きっぱなしだったので、服を脱ぐ前に一度湯船を出て、脱衣場のドアを閉じに行った。
脱衣場に消えていった変質者は、仰向けになって白目を剥いていた。
白目を剥いていたが、ちょうどドアが閉じられない場所でおねんねしていた。
「カルディア~」
「うん?」
「脱衣場にほっぽり出すのはそれはそれで危険な気がするから、これ外に出してもいい?」
「そうだねぇ。そうした方が安全かな? 投げ捨てといて」
「わかった」
再び変質者の襟首を掴むと、今度はそのまま引きずり、風呂場の外にぽいっと投げ捨てた。
その際、また「ぐぇっ」と変質者が声をあげたけれど、無視して俺は浴室へと戻った。
「ご苦労様。じゃ、その服脱いで、一緒にお風呂入ろうか」
変質者の処置を終えて戻ると目の前にカルディアがいた。なぜか両手をわきわきと動かしており、妙に怖かった。
自分で脱げると言う間もなく、俺はあっという間に素っ裸にされてしまい、そのまま浴槽にまで連れて行かれてしまった。
(……なんだか、大変なことになりそうだなぁ)
浴槽まで連行される最中、妙にはしゃぐカルディアを見て、面倒事になりそうだなぁと今後の多難さにため息しか吐けなかった。
そうして俺とカルディアは出会ったんだ。
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変質者の正体はそのうちに。
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