第6話 あの日・前編

 あれは感覚的に言えば、ついこの間のこと。


 感覚的にはこの間だけど、実際にはもう数ヶ月も前のことになる。


 過ごしやすい春が終わり、気の早い蝉が鳴き始めた頃で、ちょうど真夏のような、うだるように暑い日のことだった。


「こんにちは、一心さん。「助人」から来ました香恋です」


「こんにちは、いち兄。同じく「助人」から来た希望です」


 その日、俺は昔から馴染みの住職である一心さんこと、希望の従兄にあたる小野寺一心さんがご住職を務める空廻寺に希望とともに来ていた。


「やぁ、久しぶりだね、香恋ちゃん。しかも希望も一緒ということは、あぁ、もしかしてデートかな? お寺デートとはなかなか趣味がいいね?」


 山門へと続く長い階段を上り終えた先、縁日を開けるほどに広々と境内をひとり掃除をされていた一心さんは、俺と希望を見つけると、からかいながらも迎え入れてくれた。


 作務衣姿で頭にタオルを巻いた一心さんは、ご住職とはとてもじゃないけれど見えなかった。


 当時の俺と希望の格好もとてもではないが、デートをするようなものではなく、揃いの真っ黒なつなぎ姿という、色気もなにもない姿だったわけだけど。


「なに言っているの、いち兄」


 一心さんの言葉に、希望は完全に呆れるも、当の一心さんは「だって」と若干唇を尖らせていた。


「僕にとって実妹同然の希望と、かわいい妹弟子である香恋ちゃんが恋仲になってくれたら、僕としてはこれ以上嬉しいことはないし」


 しれっととんでもないことを告げる一心さんに、再び希望が「なに言っているの」と呆れ顔をしていた。


「私と香恋は幼なじみだけど、女の子同士なんだから。そんな関係になるわけないじゃない」


「……そうっすよ、一心さん。あんまりからかわないでください」


「ん~? そう? お似合いかなぁと思うけど」


「そうやって、いち兄はすぐからかうんだから」


「からかってはいないつもりだけどねぇ?」


「はいはい、そういうことにしておきますよーだ」


 言い募る一心さんに希望はひらひらと手を振って、おざなりな対応をしていたが、一心さんは怒ることなく、「希望は冷たいなぁ」と唇をまた尖らせていた。


 そんなふたりのやり取りに俺は苦笑いを浮かべながら見詰めていた。


 いや、正確に言うと苦笑いしかできなかった。


 一心さんの言葉は、当時の俺にしてみれば「放っておいてくれ」としか言えないことだ。

 

 それともあれは一心さんなりの気遣いだったのかもしれない。


「希望にはそんな気はないんだよ」と突き付けてくれていたのかもしれない。


 どうあっても叶うことのない感情に、さっさと見切りをつけろと諭してくれていたのかもしれない。


 もしくは「前途多難すぎるけれど、可能性はなくはないんじゃない?」という不器用なエールでも送ってくれていたのだろう。


 まぁ、単純にからかっていただけという可能性もあるけれど。


 どうにせよ、俺にしてみれば「放っておいてくれ」としか言えないことだった。


 叶うことがないなんて俺自身理解していることだった。


 エールを送られたところでありがた迷惑でもあった。


 からかっているだけならそれこそ「いい加減にしてくれ」とも言いたかった。


 それらすべてを引っくるめると、俺から言えることは「放っておいてくれ」となるのは、無理もない。


 が、兄弟子であり、実質の師匠でもある一心さんに、そんなことを言えるわけもない。


 俺にできるのはただ苦笑いを浮かべることだけ、まるで道化のように笑うことだけだった。


 俺の反応を見ても、希望はともかく一心さんはなにも言わずに、ただ笑っていた。


 俺の心の機微なんてお見通しであるかのような、穏やかな笑みを浮かべるだけ。そんな一心さんが少し苦手だった。


 子供の頃はそうでもなかったのだけど、希望への気持ちに気づいてから、一心さんとどう接していいのかがわからなくなってしまってから、一心さんは苦手な人になった。


 嫌いというわけじゃない。


 子供の頃から世話になっている人であったし、もうひとりの兄貴のような存在でもある、あの人を嫌うなんてことはできなかった。


 それでも自身の感情に気づいてからは、俺の隠している想いを完全に見通されているように思えてしまって、どうにも苦手な人になってしまった。


 それまでは実兄同然に懐いていた相手だったのに、些細なことだけで苦手な人へと変わってしまった。


 いま思えば、一心さんには悪いことをしていたと思う。


 いや、そのときから悪いことをしているとは思っていた。


 でも、当時の俺には自身の態度を改めようと思えるほどの余裕はなかった。


 希望のそばにいたいと思うのに、そばにいちゃいけない。


 希望を守りたいと思っているくせに、一番希望を傷付けかねないのが自分だという矛盾。


 そんな二律背反とでも言うべき感情に、日々精神的においやられていたんだ。


 相手が一心さんであっても、自分を改めることなんてできるわけがない。


 そんな俺でも一心さんは、希望への気持ちに気づく前のように、子供の頃となんら変わらない態度で接してくれていたんだ。


 一心さんにしてみれば、希望は実妹同然の存在だった。


 一心さんは実家である小野寺の家とは関係がよくない。特にお父さんとは冷戦状態だった。


 その代わりとばかりに、一心さんのお父さんの実弟であり、希望の親父さんとは非常に仲が良かった。


 それこそ一心さんが「実家」と言ったら、希望の家になるほどに、一心さんと希望たち一家は、まるで本当の家族のように仲がよかった。


 その関係で、一心さんは本来なら従妹である希望を実妹のように溺愛されていて、希望は希望で一心さんをやはり実のお兄さんのように慕っていた。


 一心さんが大切にしている希望を俺は傷付けかねない存在だった。


 なのに一心さんは優しかった。希望を傷付けさせかねない俺相手でも、とても優しく接してくれていた。


 それが余計に俺を苦しめていたわけだが、一心さんの態度はなんら変わることはなかった。


 希望は希望で、俺が希望にどんな感情を抱いているのかなんて気づいていなかった。


 気づいていたら拒絶のひとつやふたつはしていただろうに、それがなかったことを踏まえると、気づいていなかったんだと思う。


 俺の理想通りであれば、どんなによかったかと思うけれど、あいにくと現実はそこまで優しくはない。


 希望が子供の頃からまったく態度が変わらなかったのは、俺の気持ちを受け入れてくれたからじゃなく、単純に気づいていなかっただけ。


 気付いていないから、いままで通りの関係を、幼なじみという関係を継続してくれていたんだ。


「幼なじみ」という言葉は俺にとっては救いでもあるが、同時に超えられない壁でもあった。


「幼なじみ」だからこそ、誰よりも近い場所にいられる。


 その一方で「幼なじみ」だからこそ、その壁は途方もなく高く聳え立っていた。


 当時の俺は聳え立った壁に挑むことはしなかった。いや、挑めなかった。


 希望との関係を壊したくなかったから。 


 このままずっと気づ家内で欲しいと思っていた。


 一方で気づいて欲しいとも思ってしまう。ふたつの感情に日々俺の心は揺れ動いていた。


 それはその日も同じで、笑いながら自分の心が揺れ動くのをただ見ていることしかできずにいたんだ。


「それよりもいち兄。今日はどうすればいいの? さっさと済ませたいんだけど」


 揺れ動く俺を一心さんはなにも言わずに眺めていたのだけど、希望の言葉に「ん~?」と首を傾げた。


「なんか今日は機嫌が悪いね、希望? そんなに香恋ちゃんとのデートの邪魔をされるのが嫌だったのかい?」


「そんなんじゃないってば! 今日はこいつにいろいろと奢らせる予定なの。だから」


「それってデートって言わない?」


「だから違うってば!」


 希望はムキになって叫んだ。


 そんな希望を前にして一心さんはおかしそうに笑っていた。


 笑いながら、ちらりと俺を見て微笑んでいたのは、どういうことだったのだろうか?


 いまでもあの視線の意味はよくわからない。


「しかし、いろいろと奢らせるって、いったいなにをしでかしたんだい、香恋ちゃん?」


「えっと、その、数日前にですね。クラスの掃除中に、誤って希望に水を掛けて全身ずぶ濡れにしたことがありまして」


「……あぁ、なるほど。その代償ってこと」


「そーゆーこと。もう放課後だったから、帰るだけだったからいいけれど、あれが登校してすぐだったら」


 なかなかに鋭い目で俺を睨み付ける希望に当時の俺はたじろでいた。


 俺と希望の姿を一心さんはおかしそうに笑っていた。


 ちなみになんで希望が全身ずぶ濡れになったのかと言うと、ひとえに俺の傲慢ゆえだ。


 自分で言うのもなんだけど、俺はちんちくりんと言ってもいい体型をしている。


 ちんりくりんだけど、女なりには体を鍛えているので、そこそこ力に自信があったんだ。


 でも、クラスメイトに「カレンちゃんだと、重いものを持つのは大変でしょう?」とからかわれてしまって、ついムキになってしまったんだ。


 いま思えば、あのクラスメイトも単純に俺を気遣ってくれたのかもしれない。


 当時の俺はその言葉についついムキになってしまった。


「重いものだって持てるわい」と掃除用のバケツの何個かに限界まで水を注いで一気に持ち上げるなんて、誰にも得にならないことをしてしまった。


 持つことはできたはできたのだけど、一気に持ちすぎたことでバランスを保てなくなり、転倒してしまったんだ。


 その際、支えようとしてくれた希望に、不運にもバケツの中身が降り注いでしまって、というのが事の顛末だった。


 もちろん、その場ですぐさま土下座をして平謝りをしたことで、どうにか希望の機嫌は直ってくれた。


 けれど、代償として、希望が望むままにいろいろと奢る結果になってしまった。


 そのときは、スマホのゲームに課金しすぎて資金難の状況だったのだけど、希望は聞いてくれることはなかった。


「なるほど、なるほど。じゃあ、そういうことなら、僕の用事はさっさと終わらせないとダメだね」


 一心さんは擁護してくれることもなく、そう結論づけてくれた。


「いち兄にしては珍しいね」と希望が訝しむほどにあっさりとした言い分だった。


 希望の「にしては」というのは、いくらなんでも失礼な気はしたのだけど、一心さんは気にした様子もなかった。


 それどころか、俺と肩を組むやいなや少し離れると、名状しがたい形で拳を作ると一言──。


「頑張りなよ、香恋ちゃん」


 ──と、なんともぶっとんだエールを送ってくれた。


 そのエールに俺が「あんたなに言ってんだよ!?」と過剰気味に反応したのは言うまでもない。


 だが、一心さんは「照れなくてもいいんだよ? 希望で「卒業」しちゃいなよ」とかなんとか抜かしてくださった。


 まぁ、残念なのかそうではないのかは定かじゃないけど、一心さんの言葉は希望には聞こえていなかった。


 それどころか、「遊んでいないでさっさと終わらせようよ」と呆れ顔だった。


 呆れた希望の手には一心さんが用意してくれていた箒が握られていた。


「そうだね。ちゃっちゃと終わらせようか。ひとりだと大変だけど、三人なら楽になるだろうし」


 そう言って、一心さんもまた箒を握りしめた。


 その日、俺と希望が一心さんの寺に来た理由。それは一心さんから依頼を受けたからだ。


 依頼内容は、「空廻寺の掃除のお手伝い」である。


 そもそも依頼をなぜ受けたのかと言えば、それは俺の実家が関係している。


 俺の実家は「助人」という名前のなんでも屋をしている。


 まぁ、なんでも屋とは言うけれど、実態は地域振興型の掃除屋さんだけども。


 俺のひいじいさんの代まではなんでも屋をしていたし、結構な売り上げがあったそうだ。


 でも時代の移り変わりによって、「なんでも屋」稼業では生計を立てられなくなっていた。


「なんでも屋」稼業は幅が広すぎて、かえってコストが掛かりすぎていたけど、バブル時はそれでもそれなりに稼げていたらしい。


 が、バブル経済がいつまでも続くとは当時社長だったじいちゃんは思わなかったようで、バブルが弾ける少し前に、「助人」の屋号のまま、一番依頼が多かった清掃系の仕事をメインに取り扱うようになったということだ。


 もちろん、それ以外の仕事も請け負うけれど、メインは清掃系の仕事になった。


 清掃系以外の仕事は地域振興型であるため、ご近所さんからの依頼は新入社員ないしバイトの面々が行うこととなった。


 正社員ないしある程度経験を積んだらメインの清掃系の仕事に、企業からの依頼に参加するというのが、「助人」の仕事だった。


 俺はバイトの扱いだったこともあり、昔から清掃以外の仕事が割り振られていた。


 それは希望も同じだった。


 希望の場合はバイトはバイトでも臨時的なバイトであり、そこまでの頻度じゃなかったけど。


 そのときはふたり揃って一心さんからの依頼を受けることになった。


 一心さんの依頼はご近所さんのものではあるけれど、少々規模が大きかったということもあり、俺だけだと対処できないので、希望も助っ人として駆り出されたわけだ。


 その依頼が、一心さんの寺である空廻寺の掃除。それも境内どころか、ご本堂や墓地まで含めてだった。


 なんでも近々大規模な法事が連続であるそうで、そのために空廻寺の掃除をしたいそうだ。


 一心さんも少しずつではあるけれど、掃除を進めていた甲斐もあり、大部分は終わっていた。


 が、墓地の方まではさすがに手が回らなかったらしい。


 空廻寺の墓地には無縁仏もそれなりにあり、そちらはそのうちに手を入れるそうだった。


 だけど、中には無縁仏ではないものの、お参りに来ない檀家さんもそれなりにいて、苔むしたお墓も結構あった。


 俺と希望が行う掃除というのはもっぱら、苔むしたお墓の清掃だった。


 本来なら檀家さんに任せるのだけど、緊急措置ということで、檀家さんにも了承を貰っていたんだ。


「じゃあ、ふたりとも頼んだよ。僕も境内の方がもう少しで終わるから、そうしたら、手伝いに行くからね」


 一心さんに掃除道具を貰い、俺と希望は仕事場となる墓地へと向かうことになった。


 まぁ、仕事ついでに、おばあちゃんに顔を見せようと思ったというのも、この依頼を受けた理由でもある。


 おばあちゃん、俺の祖母の鈴木暁子はちょうど俺が五歳の頃に鬼籍に入った。


 おばあちゃんのことはそこまで覚えているわけじゃないけれど、とても優しい人だったということだけは覚えている。


 それくらいしかおばあちゃんのことは憶えていなかった。


 おばあちゃんが亡くなったとき、一晩中泣き続けたって親父たちが言っていたが、そのときのことはもう憶えていない。


 泣きじゃくる俺の傍らには希望がいてくれたということだったけど、それもよく憶えていない。


 泣きじゃくるくらいに俺はおばあちゃんが大好きだった。


 なのに大好きなおばあちゃんのことを、ほとんど覚えていない。


 なんとも罰当たりというか、申し訳ないことではあるのだけど、時間の流れというのは恐ろしいものだとつくづく思う。


 そのお墓参りを仕事ついでに片づけようというのも、考えようによっては罰当たりかもしれない。


 だけど、なんだかんだでお参りに来ないよりかは、いくらかましだろう。


「さぁ、やろっか」


「……だいぶ大変だよねぇ、これ」


「そう言うなって」


 仕事場所である墓地に辿り着き、事前に一心さんからもらったお墓のリストを眺めて、俺と希望は揃ってため息を吐いた。


 何度数えても十や二十じゃ済まない量だった。


 それを一心さんが来るまでふたりで清掃する。


 気が遠くなりそうになりながらも、俺と希望はお互いに励まし合いながら墓地での仕事を始めたんだ。


 励まし合っても、やっぱり仕事はかなり大変だった。


 苔むしているとも、荒れ果てているとも言わないけれど、長い間お参りに来ていないだろうなと思う墓はそれなりにあった。


 いくらなんでもそのすべてを掃除するのは、一日掛かりであっても難しそうだった。


 とはいえ、仕事は仕事であるため、俺と希望はひとつひとつ丁寧に掃除をしていった。


 幸い一心さんも早めに合流してくれたし、仕事自体早朝から行ったことこともあり、昼過ぎくらいには墓地の掃除は終わってくれた。


 早めに終わってくれたはいいが、かなり疲れたが、仕事というのはえてしてそんなものだ。


「あー、疲れたぁ」と仕事を終えた希望が嘆きつつ、一心さんを睨み付けていた。


「どうしてもっと早くからやらないかなぁ」とその目は雄弁に物語っており、一心さんは「あ、あははは」と苦笑いしていた。


 俺は俺で希望を「まぁまぁ」と宥めていた。仕事終わりで汗を搔いた希望の姿に胸をざわめかせながら。


 そうして朝からの仕事も無事に終えて、俺と希望は一心さんの勧めもあり、寺務所前の休憩スペースで一休みさせて貰うことになったんだ。

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3分割にしても長い。どんだけ書いてんだ、私は←汗

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