【おまけ】接待看病

 ログが風邪で寝込んだ翌朝。

 グッスリと眠り続けたためか、いつもよりも随分と早い時間帯に目を覚ましたログは重く怠い体をモゾモゾと動かして、半無意識的に胸の中にいるだろうカルメをギュッと抱きしめた。

 だが、簡単につぶれる布の塊のような感触に違和感を覚える。

 寝ぼけ眼をこじ開けて確認すると、腕の中にはカルメではなく毛布の塊が突っ込まれていた。

『毛布……カルメさんじゃない? 何で?』

 身代わりのように置かれた毛布に首を傾げ、辺りを見回すがドレッサーの前にもタンスの前にもカルメの姿は見当たらない。

『カルメさん、どこに行ったんだろう。ご飯でも作ってるのかな』

 耳を澄まして台所の音を聞いてみるが、包丁を動かしてトントンと野菜を切る音や卵にベーコンを焼く音、スープを煮込む音なんかも一切聞こえてこない。

 それどころか、家の中で自分以外の人間の気配を感じなかった。

『外に行ってる? 花に水やりにでも行ってるのかな。少し待つか』

 昨夜までは大変なことになっていたログのメンタルだが、今はもう随分と落ち着いている。

 カルメが近くにいなくても決して狼狽などはせず、大人しく布団に潜り込んで彼女を待つことにした。

 そして二度寝してしまいそうになった頃、ようやくカルメが部屋まで戻ってきた。

「おはようございます、カルメさん」

 眠っているだろうログを起こさないために静かにドアを開き、そっとカタツムリのような速度で部屋に入ってくるカルメへ、彼が明るく声をかける。

 すると、驚いたカルメがビクッと肩を跳ね上げて「ふぇあ!?」と間抜けな悲鳴を上げた。

 それからバクバクと鳴る心臓を抑え、キッと鋭くした涙目でログを睨んだ。

「急に声をかけられたらビックリするだろ! 脅かすなよな」

 ポコポコと怒りながら自分の元へやって来るカルメにログがクスクス笑いを溢す。

「ごめんなさい、カルメさん。部屋に忍び込む姿がかわいかったから、つい。驚いた姿もかわいかったですよ」

 泣き笑いで浮かんだ涙を指先で拭うログにカルメがぷぅッと頬を膨らませる。

「そんなに笑うなよ。かわいいじゃ誤魔化されないんだからな、全く。そんな風に意地悪するってことは、ログはもう、体調はいいのか?」

 問いかけられて初めて、自分の体調を顧みる。

 喉は痛むし頭もぼやけたままで全身が怠かったが、それでもカルメとイチャついたり、食事をとるなど簡易的な日常生活を送ったりできる程度には回復していた。

 少し心配そうなカルメにログがコクリと頷く。

「まだ完全に調子を取り戻したわけじゃありませんが、随分と楽になりましたよ。ところでカルメさん、カルメさんはこんな朝早くにどこへ行っていたんですか? 花壇に水やりにでも行っていたんですか」

「いや、確かに花壇にも寄ったが、そもそもは先生の所へ行くために家を出たんだ」

 先生というのは、カルメとログの勤務先である診療所の院長であり、二人の師匠的な存在にも当たるミルクのことだろう。

「どうしてミルク先生の所へ?」

 ミルクは老人あるある、超早起きを体現した健康的なおじいさんなので職場化家に行けば嫌な顔をせずに出迎えてくれるだろうが、カルメはいったい彼に何の用事があったのか、不思議がったログがキョトンと問いかける。

「ログと、できれば私の休みをもらうためだよ。倒れ込んだログを体調がマシになったからって、すぐに仕事に復帰させるわけにはいかないだろ。特に私たちの職場は診療所なんだ。それにログの風邪は過労由来って感じがするから必ずしも他人にうつるって決まったわけじゃないけど、だからって無理して働いて、万が一にでも患者さんにうつしちゃ悪いだろ。それと、私だってログが心配だからできれば看病したい。だから、ログにお休みを、私にはお休みか早上がりする権利をくださいってお願いしてきたんだ」

 カルメの予定ではログが目覚める前に行って、彼が眠りこけている間に用事を終わらせ、帰宅するつもりだたらしい。

 確かに報連相は素早い方が良いのだろうが、それにしても仕事が早い。

 ログは驚きで目をパチパチさせつつも尊敬の目でカルメを見た。

「すみません、助かりました、カルメさん。それで、先生はなんて言っていましたか?」

「三日くれるから、ちゃんと体を治して来いってさ。私に関しては今日がお休みで、明日から二日は早上がりで大丈夫らしい」

 元々はミルクが一人きりで運営していた診療所だ。

 別に忙しくはなかったし、長らくミルクが若者の雇用者を求めていたのも勤務に無理を感じたからではなく後継者を探していたからである。

 そのため、無理にログを出勤させずとも診療所を回すことができたし、老人には重労働となってしまったシーツの洗濯や力仕事行ってさえもらえれば、カルメを早くに帰すのにも特に問題がなかった。

 だが、そういった事情を日々の労働環境などから察することができても、実際に大きく休みをもらってしまうと何だか悪い気がしてくる。

 今も一人で診療所の準備をしているだろうミルクのことを考えると余計に罪悪感が募った。

「なんだか申し訳ないですね」

 眉を下げるログにカルメもコクリと頷く。

「そうなんだ。だから、もしも今度先生が倒れたら看病するし診療所も二人で回すって約束したんだ。そしたら先生、『僕が倒れたら看病じゃなくてお葬式をお願いすることになっちゃうかもね』だってさ。不謹慎にもほどがあるよな」

 笑うべきか、あるいは諌めるべきか。

 非常に反応に困るお年寄りのブラックジョークだが、カルメは、

「縁起でもないこと言うなよ! 流石に嫌だからな! 先生、奥さんいるだろ。泣かせちゃ駄目だぞ!」

 と、けっこう真面目に彼を叱ったのだとか。

 だが、そうすると今度はミルクに、

「カルメちゃんが言うと説得力があるねぇ。まあ、孫みたいな君たちもいるし、できるだけ頑張ってみようかねぇ」

 と、朗らかに笑われてしまったらしい。

 真面目な若者を揶揄ったりあしらったりするような雰囲気のミルクを思い出すとちょっぴり腹が立つようで、カルメは未だにポコポコと怒っている。

 この反応の良さと初心さが、カルメが周囲の人間に遊ばれてしまう原因である。

 ログは苦笑いを浮かべると怒れる彼女の頭をポフンと優しく撫でた。

「まあ、倒れた時の看病うんぬんは一度、置いておくとして、復帰後に何かお礼でも持って行くようにしましょうか」

「そうだな。それなら先生と先生の奥さんが好きだって言う、ミニモモのジャムでも作って持って行ってやるか。今時期、森の奥の方に入ればいくらでもなってるし」

 ミニモモというのはカルメたちの村の近くの森で群生している果実の一種で、手のひらサイズの小さな実とパリンと弾けるパツパツに張った皮、そして、みずみずしく甘い果肉が特徴的な非常に美味しい果物である。

 そのままでももちろん美味しいのだが、クタクタに似てコンポートにしたり、ジャムにしたりすると魅力が増す、甘いもの好きにはたまらない果実だ。

 一つの木に大量に実をつけるミニモモは人間たちにとって魅力的なおやつなのだが、同時に森の野生動物のご馳走でもある。

 森の奥で実ることも相まってミニモモの周りには危険なライバルたちが蔓延っており、カルメのように高い戦闘力を持つ者でなければ、なかなか果実を収穫することはできない。

 そのため、去年はビクビクとするサニーにミニモモをとってくるよう依頼されたほどだった。

 今年はミルクたちに送る分とは別に、頼まれずとも皆の分のミニモモも採ってくる予定である。

「いいですね。その時は俺も手伝いますよ」

 お料理上手なログがニコニコ笑って手伝いに立候補するが、カルメは渋い表情で難色を示している。

「無理しないならいいけど」

「ジャム作りに無理も何もないでしょう。大丈夫ですって。流石に懲りましたから。もう、周りに迷惑かけたりカルメさんを怖がらせないためにも無茶はしませんって」

 ログは元々、ニコニコと笑いながら無茶をして、ある日コテンと倒れてしまいそうな性格と雰囲気を醸し出している。

 昨晩は実際にそれで倒れ込んでしまったため、カルメは彼のことをあまり信用する気になれなかったのだが、同時にこれ以上文句を言っても仕方がないと思ったようで、

「約束だからな」

 と、釘を刺すのに留めた。

「それにしても、その様子だと本当に記憶がないんだな」

「何のことですか? もしかして、昨日のことですか? 覚えてはいるんですが、あんまり蒸し返してほしくないですね」

「いや、そっちじゃなくて朝のことだよ。行かないでって引っ付いて離れなかっただろ。ちゃんとあの時も、どこにどんな用事で行くのか伝えたのに、全く覚えてないみたいだし」

 実は、先ほどの説明をログにするのも二回目である。

 ベッドから出ようとしたらビッタリと抱き着いて来て離れず、ムニャムニャ唸るログをどうにか引き剥がしたカルメは、絶対にすぐに戻ってくるからと約束し、自分の代わりに毛布を抱き締めさせて家を出ていたのだった。

 カルメを困らせた本人は一切の記憶を持っていないようで、困ったように頭を掻いた。

「そう言われても、全く記憶にないです。起きたら既にカルメさんがいなくなっていたので」

「そっか。まあ、元々ログは寝起きが悪いもんな。なあ、ログ、もう本当に平気か? 具合が悪かったり、その、寂しかったりしないか?」

 不安そうに問いかけてくるカルメを元気づけたくて、ログはシッカリと彼女に頷いて見せる。

「ええ、もう大丈夫ですよ。昨日みたいに馬鹿な真似はしないので安心してください」

「そうか。それはよかった。でも、本当に無理をしてたりしないか? 抱っこして欲しかったりしないか?」

 元気に振舞うログへ心配を重ねて、カルメが彼の顔をチラチラと覗き込んだ。

 不安そうなカルメの姿には「過保護」の三文字を括りつけたくなってしまう。

 だが、ログはカルメを過保護にさせるほど心配をかけてしまったのだと思い直すと、改めてハッキリ、もう自分は大丈夫だと告げた。

 だが、どういうわけか、それでもカルメは「そっか……」と頷いて落ち込んでしまう。

 しょげるカルメにログは心の中でコテンと首を傾げた。

『なぜだろう。俺がカルメさんを元気づけるほど、かえってカルメさんの元気がなくなっていく。空元気に見えるのかな? でも実際、少なくとも自分で認識できてる体調は結構いいんだけれどな。元気って言葉を一切信じてもらえなくなるくらい、俺は信用を落としてしまったのか?』

 つられて不安になるログだが、仮にカルメが彼の体調不良を疑っているのならば何度でも直接問いただしてきそうなものであるし、最終的に「つべこべ言わずに薬を飲んで眠れ!」と怒ってきそうなものだ。

 モジモジとして何か言いたげに自分の顔を覗き込んでくるカルメには、何か別の意図を感じられた。

「もしかしてカルメさん、俺の看病をしたかったんですか?」

 まさかな、と思いつつ問いかけると、図星だったようでカルメが分かりやすく肩を跳ね上げた。

「カルメさん?」

 固まるカルメに声をかければ、責められているのだと勘違いした彼女がバツが悪そうにスッと目を逸らす。

「別にログが回復したのが嫌なわけじゃないんだ。弱ってるログを見てると心配になるし、早く元気になってほしいって思ったのも本当なんだ。ただ、その、昨日からずっと看病してあげたいなって言う看病欲が溜まってたし、たまにはログに頼られたかったし、それに、その、甘えてるログ、かわいかったから」

 朝、置いて行かないでくれと強請るログに満更でもない様子で、

「すぐに帰ってくるから大丈夫だ。そしたら抱っこしてやるから、大人しく待ってるんだぞ」

 と約束し、

「家に帰ったらログを構うぞ!」

 と、ウキウキで帰宅したカルメだ。

 ログが元気になったこと自体は良かったし心底安心したのだが、それとは別にカルメはちょっぴり物足りなさを感じて消化不良を起こしていた。

 それでも看病したいと言い出せなかったのは、流石に自分の欲求がログを構いたいだけの我儘なものだと自覚できていたからだろう。

 なおもモジモジとして居心地が悪そうにしているカルメを見ると、ログの方が彼女を構いたくなってしまう。

「カルメさんは俺にどういう看病をしてくれるつもりだったんですか?」

「え? えっと、ご飯食べさせたり、薬のませたり、頭の冷たいやつ作ってあげたり、あと、お風呂に入れないのに体が気持ち悪いって言うなら、拭いたりしてあげようかと思ってた。あとは、その、寂しいなら抱っこしてあげようかなって」

 顔をほんのりと赤らめたカルメが少し恥ずかしそうに言葉を出す。

 すると、昨日の昼頃から何も食べていないログの胃が「ご飯」と聞いた途端にキュゥッと切ない悲鳴を上げた。

「ログ、お腹空いてるのか?」

「そうですね。考えてみれば長い時間ご飯を食べていませんでしたから。何か胃に優しいものが食べたいな」

「胃に良い食べ物……スープとパンとかかな。少し待っててくれるなら作るけど、どうする?」

「お願いします」

 ペコッと頭を下げるログにカルメがパッと表情を明るくする。

 思っていた看病の類とは少し違うが、頼られて嬉しくなったカルメがウキウキと台所へ向かった。

 そして、それから手際よくポトフを作り、パンも温め直して冷蔵していたヨーグルトを出すと、それぞれをお盆にのっけて楽しげにログの元まで戻ってきた。

 この時点でカルメの気分はかなり上がっていたのだが、気を利かせたログに、

「体がだるくて自分ではご飯を食べにくいな。カルメさん、食べさせてもらっても良いですか?」

 と、茶番臭ただよう接待看病のお誘いを入れてもらい、メーターが降りきれるほどテンションをぶち上げていた。

 コクコクと頷いて透明な尻尾をブンブンと振り、ベッドの隣に椅子を用意する。

 既にだいぶ元気を取り戻しているのにもかかわらず、自分の看病したいという我儘を叶えるためにログが接待看病を提案してくれたのだと分かっているカルメだが、つい、

「やっぱりログ、弱ってたんだろ。仕方がないな。食べさせてやるからこっちを向いてくれ。一応は冷ましたけど、気をつけて食べるんだぞ」

 と、偉そうな口ぶりでスプーンを向けてしまった。

 だが、ログは優しい大人なのでむやみにカルメにツッコミを入れたりはしない。

 大人しく口を開いてカルメから食事をもらった。

 ご機嫌でスープを食べさせていたカルメの調子が狂い始めたのは、従順なログが五口目を口にした時である。

 ログがスープを食べる姿を嬉しそうに見守って、黙々とスプーンに具材を盛っていたカルメの動きが明らかに鈍り始めたのだ。

 今ではすっかり動かなくなったカルメが恥ずかしそうに頬を染めて目線を下げ、スプーンを突っ込んだままの器を放置している。

「カルメさん、まだ器にはスープも具材もたくさん入っていますが、もうおしまいなんですか? 俺、まだお腹が空いてるので、もう少し欲しいんですが」

 困ったように眉を下げて催促するログだが、よく見れば微妙に口角が上がっていた。

 ログは、

「病気で弱り切ってモグモグと咀嚼をすることくらいしかできなくなった自分に食事をとらせるならまだしも、ジッと自分の顔を覗き込んで来たり、『美味しいです』と笑ったりする自分にスープを与えるのが気恥ずかしくなってしまった」

 というカルメの心の内をザックリつかんでおり、その上で彼女に催促を繰り返して困らせるという、少し悪い遊びをしていた。

 悪戯っぽく笑うログにつつかれたカルメが、「うぇ、あ、そう、だな」と、モゾモゾ口を動かして、恥ずかしそうに六口目を用意する。

 一口で食べきれるか怪しい量の具材が乗ったスプーンは、自分から始めてしまった羞恥のイチャイチャを早く終わらせたいカルメの心が具現化したものである。

 初めは増量される具を許容していたログだが、七口目、八口目と進むごとに増加率も上がり、具材が銀の縁から大きくはみ出し始めると、流石の彼も苦笑いを浮かべた。

「そんなに一気に寄こされても食べられませんよ。溢しちゃいます。そうだ、カルメさん。そろそろスープにも飽きてきたので、パンを食べさせてもらっても良いですか? スープに浸したパンが食べたいです」

「わ、わかった」

 ログの弾んだ声や食事を与えるための道具がスプーンから自分の手に映るところに悪い予感を感じたカルメだが、如何せんイチャイチャのきっかけは自分であるし、彼も変なお願いをしているわけではないので駄目だとは言えない。

 カルメは大きめに千切ったパンをスープに浸すと、水分を多く保有したパンから零れ落ちるスープでベッドを汚してしまわないよう、そのすぐ下にもう片手で受け皿を作りつつ、恐る恐るログの口元までパンを運んでいった。

 すると、ログが大口を開けてカルメの指ごとパンを口内に押し込む。

 そして、カルメがギョッと目を丸くし、肩を跳ね上げたのを確認するとガシッと彼女の両腕を掴んでその場に留めたまま、モシャモシャとパンを咀嚼した。

「ロ、ログ、手を放してくれ。パンは食べたんだから、もう必要ないだろ」

 この先のログの行動が読めるのだろう。

 カルメが震える声を絞り出して大慌てで両手を引っ込めようともがく。

 真っ赤な目元にはじんわりと涙が浮かんでいて、上半身ごと身を引く姿は必死に天敵から逃れようとするリスのようだ。

 何か精神的に著しいダメージを受けているとか、特殊な事情があるわけでもなければ、基本的に弱るカルメに対して嗜虐的な甘さを増加させるログだ。

「カルメ、変に動いたら俺が怪我をするからな」

 急なため口と効果的な脅しで捕食対象をピシッと固めると、それからログは美味しそうにスープの滴る指先や手のひらへ舌を這わせた。

 時折、鋭くなった甘い目つきで瞳を覗き込まれたり、見せつけるようにして指や手のひらを舐められるとカルメの中で渦巻く羞恥が激しくなる。

 スープを舐めとるだけではなく、段々に舌の這う位置が上がり始めたのを感じるとカルメも焦りを増加させた。

「ログ、まって、そんなとこにスープはないって。それに汚いから」

「汚くないですよ。だってカルメさん、料理前はちゃんと手を洗うじゃないですか。むしろ美味しいです」

「そういう問題じゃない! それに美味しいって」

 ログの若干変態じみた発言にドギッと胸を鳴らしている内に、アオイ血管の浮く手首まで舐められ、敏感な柔い肌がビリッと甘い刺激を受ける。

 そのまま唇であむっと手首を食まれると全身を巡る血液の勢いが激しくなり、体中から細かい汗が噴き出すようになった。

 角度を変えて甘噛みを続けるログの姿は生きたまま獲物を貪る肉食獣のようだ。

 カルメのような小心者の小動物には刺激が強すぎる。

「ログ、汗かいたから! 汚い! 恥ずかしい! 止めてくれってば! もう一口あげる! もう一口あげるから!!」

 一生懸命に身を引いたまま、カルメがブンブンと首を横に振って懇願する。

 すると、やめてくれと鳴く彼女には全く反応しなかったログが、「もう一口」という言葉を聞いてアッサリ彼女の両腕を離した。

 そして、楽しそうに目元を細めながらカルメがパンを用意する姿を眺めている。

 だが、彼女がスープに浸したパンを指でつかむのではなくスプーンにのっけたのを見ると、途端に不満そうな表情になった。

「カルメさん、ちょっと違いませんか?」

「違くないだろ。ちゃんとスープに浸したパンをあげてるんだから。ほら、口を開けてくれ。早く食べないとぬるくなったスープが完全に冷めて美味しくなくなっちゃうぞ」

 指ごとパンを食べられたり、手のひらを舐められたりするのよりはスプーン越しに食事を与える方がだいぶマシなのだろう。

 少し前のように食事を与えるカルメに笑いかけたり声をかけたりしても彼女が今一つ反応してくれなくなったため、ログは少しつまらなさそうに食事を進めた。

 黙々とした食事は一口に数分をかけていた先程までがバカらしくなってしまうほど早く終わってしまう。

 ログがスープとパンを平らげたのを見て、カルメが疲れ切ったように椅子に座り込んだ。

 当分はログの看病はしなくてもいいかもしれない、と思ってしまうくらいには満足させられ、つかの間の休息に癒しを求めているカルメだが、彼女に対してログの方はだいぶ物足りなさを感じていた。

 キュッキュと手の甲で口元を拭いながらカルメを構うきっかけを探していたログの視界に、ふとお盆に乗っかったままで放置されているヨーグルトの器が入り込んだ。

 ベッドから身を乗り出したログが器とスプーンを手に取る。

「俺の看病お疲れ様です、カルメさん。パンとスープでお腹いっぱいになっちゃったんで、ヨーグルトはご褒美も兼ねてカルメさんにあげますね。食べさせてあげますから、こっちに来て、口を開けてください」

 頼られるのも甘えられるのも好きだが、結局はログに甘やかされるのが一番好きなカルメだ。

 比率も、二か三甘やかしたら、七か八ほど甘やかされたい生粋の甘えん坊である。

 揶揄われて疲弊した心を溺愛で癒してもらいたいという気持ちもあって、素直に頷くとログの方へ身を乗り出した。

 それから少し恥ずかしそうに小さく口を開き、ドライフルーツの混ぜ込まれた甘くて美味しいヨーグルトが放り込まれるのを待っていたカルメだが、残念ながらログのスプーンは大きく狙いを外れて頬に不時着した。

「あ、ごめんなさい、カルメさん。間違ってほっぺに食べさせちゃいました。ヨーグルトは俺が処分しておきますね」

 あっけにとられたカルメが抵抗する間もなくログが彼女の頬を舐めとる。

「こら、ログ! 食べ物で遊んじゃ駄目だろ!」

「ちゃんと俺が食べてるんで、遊んではいないですよ。ほら、カルメさん」

 照れもあって怒るカルメだが、まだギリギリ彼女的には甘やかしてもらった判定だ。

 スプーンを差し出してくるログに負けてカルメがカパッと口を開けば、今度はシッカリ口内にヨーグルトが放り込まれる。

 モチモチとヨーグルトを咀嚼しながら、初めに頬に当ててきたのはちょっとふざけただけだったんだなと安心して、カルメが三口目をもらうべく口を開く。

 だが、次は微妙に軌道がそれて口の端にヨーグルトが引っ付き、食べきれなかった分をログが舐めとった。

 ログの気分次第でカルメがヨーグルトを食べるのか、あるいは反対に彼に食べられてしまうのかが決まるイチャついたゲームが始まったのだ。

 確かに普段の元気なカルメ的には意地悪されていても受け身でイチャイチャを受け取ることができていれば、それは甘やかされている判定になる。

 透明な尻尾をブンブン振りながら怒ったふりをしてログとイチャイチャに興じるのだが、今日のカルメは疲れのせいか、あるいは気分が乗らないのか、何だかいつも以上に我儘な女性である。

『今は素直に甘やかされたかったのに! 意地悪された!!』

 すっかり拗ねてしまったカルメがプゥッと頬を膨らまし、「付き合ってられるか!」とゲームを放棄する。

「ん!」と威嚇しながら口を閉ざし、ログから顔を背けた。

 しかし、これに対して意地でもカルメと遊んでもらいたいログがヨーグルトの乗ったスプーンを片手に彼女の隙を窺う。

 無言の攻防戦が約三分間続いた頃、カルメの顔付近でうろついていたヨーグルトが誤ってスプーンから落下し、彼女の胸元にポテンと乗っかった。

 キッチリと前のボタンが閉められたカルメのブラウスに灰色っぽいシミができていく。

「あ! 全くもう! 服が汚れちゃっただろ! えっと、布巾は……」

 汚れが落ちなくなる前にヨーグルトを拭ってしまおうと、カルメが辺りをキョロキョロと見まわして手ごろな布を探し始める。

 すると、すっかり油断したカルメをログがモギュッと抱き寄せてブラウスの胸元にモフッと顔を埋めた。

「コラ、ふざけてる場合じゃないだろ。汚れが落ちなくなっちゃ……ログ!? 何してるんだ! 無理だって! ログに布巾の代わりはできないって! 食べなくていい! 食べなくていいから!!」

 初めは甘えてくるログに呆れていたカルメも、かえってシミを増やすような彼の暴挙を見て著しく慌て始める。

「駄目だって、そこにはヨーグルトないって! ログ~!!」

 ヨーグルト以上に美味しそうな果実を頬張りたくなったログが一つ一つ丁寧にボタンを外す中、一生懸命に抵抗し続けるカルメがモチャモチャと髪をかき乱す。

『カルメさん、かわいいな』

 目尻に涙を溜めているカルメを想像するとゾクゾクして堪らなくなる。

 少し前に反抗されたから余計に嗜虐心がグラグラと湧き出して止めがたくなる。

 ログはカルメを溺愛した。

「ログの変態。お馬鹿。無理はしちゃ駄目だぞって、あれほど言ったのに」

 全面的にログに弱いカルメが胸元をはだけたままでベッドに突っ伏して瀕死になる。

 高熱になったログと同じくらい熱い額を毛布にグリグリと押し付けて、ボソボソと抗議を繰り返す。

 だが、本人に自覚があるのかは不明だが、怒るカルメの声は何処か柔らかくて甘えていた。

「昨日も今日も、無理をしたってよりも無理をさせたんですけどね。でも、おかげさまで元気になりました」

 弱り切ったカルメとは正反対に頬をツヤツヤとさせて嬉しそうなログは、まるで彼女の生気まで吸い尽くしてしまったかのようだ。

 カルメがチラッと睨むようにしてログの顔を一瞥する。

「それは良かったな。でも、後は本当に大人しくしてろよ。熱がぶり返したら怖いし、何よりも休むことがログの仕事なんだからな。私で体力使ってる場合じゃないんだからな」

「休むことが仕事……そういえばそうでしたね。なんか、今までで一番難易度が高い仕事な気がします。カルメさんを見てると、ついちょっかいを出したくなっちゃうんで」

 悪びれもせず爽やかに笑うログが少し憎たらしい。

 カルメはブスっとしたままモッチリとログの頬を摘まんだ。

「駄目だからな。ちゃんと、休むんだからな。お馬鹿なことばっかり言ってると、三日間、ログとは別の場所で生活しちゃうんだからな!」

 フン! と怒ったカルメが効果不明の脅しを口にする。

 しかし、幸いにも脅されてくれたログが、

「それは寂しいのでやめてくださいね」

 とカルメを抱き寄せると、彼女も、

「私だって寂しいんだからな! 絶対にやめろよ!」

 と偉そうな口ぶりで彼を抱き着き返して、何度も膨らませている餅の様な頬に大量の空気を溜め込んだ。

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