超ミニカレー

紫鳥コウ

超ミニカレー

 ポストモダンは「ポモ」と揶揄やゆされたり、なんでも相対化する悪しき思想だと警戒されたりするし、それ故にというべきか、取るに足らないものだと思われてもいる(とくに「脱構築」という〈方法〉は、批判にさらされている)。

 そういうことは承知の上で、ポストモダンを取っ掛かりにして、中東部アフリカ史を「脱構築」しているわけだけれど、どれだけ説明をしても、総スカンをくらっているので、じれったい思いをしている。

 いや、そうした思いを「していた」のだ。もう誰からも評価も批評も得られないことに、反抗をする気にもならなくなっていた。だからこそ、この研究をやめてしまおう、アカデミーから抜け出よう、そう考えていた。

 大原おおはら先輩の研究報告を聴いて大学院に入ることに決めました――という、熱い言葉をかけられなければ、もう自分の机を片付けて去っていたことだろう。


「んーと、どうしたらホールドポイントのことを分かってもらえるんですかね。デリダのことはすんなりと理解できるのに、野球に関してはまったくで……困りました!」

 野球の講義は、今日はここまで。熱っぽく話し終えた里沙りさは、揚げ豆腐の入っていた小鉢に、ミニカレーを作ってほしいとせがんでくる。

 フォークでヒレカツを半分に切って、「超ミニカレー」の上に置いてやると、「ありがとうございますっ」とニコッと微笑んでくれる。

 この二口くらいで食べきれてしまいそうなカレーを、大切に食べている。最初からヒレカツカレーを頼めばよかったのではないか……と思いはしたが、今日は蕎麦そばの気分だったのだろう。

 ちょっと欲張りなところのある里沙だから、こんなおねだりをしてきたのに違いない。

 ぼく以外の誰かと一緒にいるところを見たことがない。里沙はいつも「せんぱーい!」と、ぼくを見つけると駆け寄ってくる。そのときに近くには誰もいない。

 一緒に、食堂に行きましょう。おやつを食べに行きましょう。図書館に行きましょう。バスに乗りましょう……という感じで、ぼくをどこかへ連れていきたがる。

 でも不思議と、迷惑だという感覚はない。「困ったやつだなあ」と苦笑するきりだ。そして最後は、一緒にいてよかったという気持ちになれる。そういう魅力が、里沙にはある。

 だからこそ、ぼくとばかりつるんでいるのが、不思議でならないのだ。友達になりたい、かわいがりたいというひとは、いくらでもいるだろうに。

「はい、先輩。手を合わせましょう……それでは、ごちそうさまでした」

 そして、礼儀もしっかりとしている。


「先輩って芥川の小説を読んだことあります?」

 茜色あかねいろの空から斜めに走ってくる、まばゆい光に包まれているバスのなかで、里沙は出し抜けにいてきた。朝のような騒々そうぞうしさのないバスなだけに、その言葉は、くっきりとした輪郭りんかくを持っていた。

「高校生のときに、ちょっとくらい読んでいたと思うけど……どうして?」

「少しマイナーかもしれないですけど『歯車』は知ってます?」

「それは、読んだことがないかな。少なくとも記憶にはない」

 なぜか里沙は、かげりのある表情を一瞬だけ見せた。

「その小説は、おもしろいの?」

「どうでしょう」

 どうしてか里沙は、急にこの話を打ち切りにしてしまった。ぼくが読んでいると返答をしたら、なにか、とっておきの話題が用意されていたのだろうか。

「やっぱり、ホールドポイントの説明の続きをしましょうか?」

「それは、また今度」

「じゃあ、明日も学食で、ですねっ」

 ニコッとした微笑みのなかに、どんよりとした感情がかすんで見えているのは、なにかの見間違いだろうか。駅前で別れてからも、しばらく里沙のことを考えていた。


 昨日発売された新書を買いに書店に入ったついでに、里沙が言っていた『歯車』が収録されている短篇集を手に取った。値段もそれほど高くなかったからレジへ持っていき、帰りの電車のなかで半分だけ読み、残りは寝る前に目を通した。

 なんでこの小説のことに言及したのだろう。

 ざっくりと言ってしまえば、芥川に似せた(と思われる)主人公が、あちこちで自分の「せい」を脅かす出来事にでくわす。しかしそれらはすべて、主人公の思い込みであったり、突飛な連想だったりして、読んでいる側からすれば、どこか滑稽こっけいにも見えてしまう。

 もちろん、自死をする前――最晩年の作品であるから、芥川が抱いていた恐怖心や切迫感がひしひしと伝わってくる。だから滑稽に見える思い込みや連想も、わらってはいられない。本来なら、厳粛げんしゅく面持おももちで読むものだと思う。

 だから、このんで目を通すような作品には感じられない。里沙はどうしてこの作品に言及したのだろう。

 もし、ぼくが読んでいたとしたら、里沙はなにを伝えてこようとしたのだろう。そんなことを考えていると、なかなか眠りにつくことができなかった。なんでここまで里沙のことを気に掛けてしまっているのか、自分でも分からなかった。


 ぼくと同じようなスタンスで研究をしていた里沙が、ぼくと変わらない扱いを受けるのは当然のことだ。でも、すべてを割り切ってしまっていたぼくとは違って、里沙は自分に向けられる冷たい視線に耐える力を持ち合わせていなかった。

 そういうことに思いが至らず、くっついてきた理由を、ただ同類だからというだけで片付けて、ちゃんと理解しようとしなかったぼくは、愚かなのだと思う。

 ぼくの研究を評価してくれて、大学院にまで追いかけてきてくれた里沙のメンタルを、なんでもっとケアしてあげられなかったのだろう。

 突然、自主退学をした里沙とは、もう連絡がとれなくなってしまった。どんな言葉を送ろうとも、なんの返信もなく、少し経つと、電話番号もメールアドレスも変えられてしまった。

 あのとき里沙が、芥川の『歯車』を持ち出してきた理由は、いまだに分からない。


 なんとか大学に収まることができて、研究者として、それなりに安定した地位にいることができるようになった。あれだけ冷遇されていた研究に興味を持ってくれるひとも、少しずつ増えてきていた。ちょっとした復讐ふくしゅうができた気分だった。

 ぼくのもとには、むかしのぼくのような学生が集まってきて、研究の指導を求めてくる。どうせ「爪弾つまはじもの」なのだから、長いものには巻かれず、学生が不当な処遇に置かれそうになったならば、徹底的に闘うことにしている。

 学生には、自由に研究をしてほしい。あまりに「暴走」してきたときに、そっと軌道修正をしてあげるのが、教育者としてのぼくの務めだと思っている。

 今日もまた、大学院に入りたいと思っている社会人の方の、進学の相談に乗ることになっている。どうしても、ぼくの指導のもとで論文を書きたいと、メールには書いてあった。

 約束の時間より少し早くノックの音が響いた。「どうぞ」と声をかけると、「失礼致します」と言って、彼女は姿を見せた。

「本当に久しぶりだね」

「ええ、お久しぶりです。先輩」



 〈了〉



【参考文献】

・芥川竜之介「歯車」『歯車-他二篇-』岩波文庫、1979年改版、29-75頁。

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