⑲振りほどき苛烈
雛罌粟の紅が絨毯のように敷き詰められ、空の蒼と対比して描かれている絵画のようで。
その景色を一望できる少し高くなった丘の上で明音と伊扇が談笑している。
伊扇が感極まったように明音に飛びつくが、そんなに懐いていたっけというなんとなくの疑問が湧く。
一応彼女の身の上をざっと聞いた秋灯は、伊扇が極端に人との距離の測り方が不器用で、心底善人ということもあって。
偶然仲良くなれた人に対して親愛の念を向けやすい、ということを知っている。
それを知らない明音は多少面食らった顔をしているが、流石は高校の後輩女子支持率ナンバーワン。
動揺もすぐに薄れ、泰然とした雰囲気で伊扇を受け止める。
なんとも百合百合しい光景。
それを現実のモニターから眺めていた秋灯は、覗き見しているようで――伊扇が仮想空間に適応できるかチェックしていた――なんとも居た堪れない気持ちになる。
拒絶反応も特になく、伊扇が仮想空間に滞在できることを確認してから、秋灯は静かに部屋を離れる。
嵌め込まれた簡素な玄関戸を開け、隣の家に移動する。
薄紅の大気が白塗りの屋根を貫通し、湯気のように昇っている。
本来可視化されるほど濃い魔力は、魔術師の中でもそういないはずなのに。
同じく鍵もない簡素な玄関戸を開ける。
「うっ‥‥‥」
部屋の中に立ち込める、あまりに濃い魔力に意識が眩む。
魔力量に恵まれる伊扇であれば問題ないが、一般人とほとんど変わらない秋灯にはこれだけできつい。
この一週間、改めて魔力に慣らしているが、それでもまだ身体が反応を示す。
「‥‥‥先輩」
足元を確かめるようにゆっくり近づき、明音の姿を見止める。
頭に嵌め込まれたヘッドギアと諸々チューブが取り付けられた手首。
鼻と口元を覆う肺機能を補助する人工呼吸器。
重病の患者のような明音の姿に、堪らず拳を握る。
今も魔力の放出は止まらず、身体は徐々に衰弱していっている。
アスリート並みに体力を持つ明音が意識を保てないほど重篤の状態。
あまりに過剰すぎるその魔力は、魔術師として才能をありありと感じさせるが今は邪魔なだけだ。
ヘッドギアから下、僅かに頬が見えるがその色は青白い。
その肌に手の甲で触れ、立ち込める色と同じくあまりに熱い。
秋灯は悔しさから涙が滲みそうになる。
世界の時間が止まり、神を決める試練が始まり。
奇跡の縛りが徐々に解(ほど)かれていっているが。
國の魔術師たちの悲願が、今まさにこの世界の状態だが。
その奇跡が明音の身体を蝕んでいる。
「‥‥‥‥また俺は、何も」
目を伏せ苦々しく言葉を漏らす。
握った拳から一滴、赤い血が床に落ちた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「あら、また来たの?」
「またって、そりゃ来るでしょ」
丘の上で大の字に寝ている明音。
眉間に皺をよせ何か考え込んでいた様子だが、その隣に腰を下ろす。
「体調はどうです?」
「どうもこうも普通よ。外にある身体は分かんないし」
「ま、そうですよね」
顔を上げずに少し棘を含んだ声が返ってくる。
今の状況、焦らないわけがないのだが、それでも抑えていることが分かる。
「私の身体はどう?」
「まだ魔力がすんごい漏れてます。どんだけ溜め込んでんですか」
「知らないわよ。勝手に使えてたんだから」
元々持っていた魔術師的素養に加えて、【星骸ノ世界】の高重力下での戦闘。
今まで止まっていた彼女の
【汚穢ノ世界】でも死にかけたこともあり、活性化されすぎてしまっているのかもしれない。
「あと何日?」
「残り今日を入れて五日ですね」
「そう」
短く、淡泊な声。
【微睡ノ世界】に滞在して今日で十日目。
第一試練終末紀行の期限まで残り五日間。
まだ終末再現都市一つを残しているため、移動も含めると今日出発しなければならない。
「あんた達は、そろそろ」
「嫌です」
「まだ言ってないんだけど」
「どうせ先に行けって言いたいんですよね。絶対嫌です」
頑なな拒絶を感じてか、明音が諦めるように深く息を吐く。
けれど秋灯には元から世界を変えたいという願いも無ければ、なんなら神様になんてなりたくないと思っている。
今の状況で優先すべきは、明音の生存。ただそれだけで。
明るい話題もなく、二人とも黙る。
仮想空間に再現された心地いい風が肌に触れる。
「先輩‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥一旦諦めませんか?」
「何よ急に」
静寂を破って秋灯が提案する。
その声音は普段より若干落とされていた。
「幸いこの世界なら痛みもないし、会話もできる。今の景色だけじゃなくて、お城とか宇宙空間とか色々再現できて楽しめるみたいです。試練が終わるまで、あと少ししかないですけど。‥‥‥ここでゆっくりしませんか?」
「‥‥なんでそんなこと言うのよ」
「今の先輩の身体は、動かせば本当に死んじゃいそうで。四国に着いても先輩が死んだら意味ないし。それに、試練に敗退したからといって死ぬと決まったわけじゃないし。もしかしたら敗者復活とかもあるかも、」
「‥‥‥‥‥」
「伊扇さんも流石に試練ギリギリになれば先に進むと思いますし。‥‥だから、」
目を伏せたまま、どこか言い訳をするように秋灯が語る。
試練を諦めるよう明音を諭すが、それはつまり彼女の抱く願いが叶わないということで。
それが残酷だと分かっていながら、微かな命を優先するのは余りにも。
言葉を詰まらせる秋灯に、明音が問う。
「あんたはどうすんのよ。あんただって願いがあって」
「俺にも願いはありますけど、先輩を見捨てたら意味ないですし」
元から神様になる気なんて、世界を変えたい願いなんてない。
「‥‥‥あんたの願いってなんなのよ。どうしてそこまで、私を助けようとするのよ」
少し間を開けて、吐き捨てるような明音の声。
自分の生死がかかっていて尚、明音と運命を共にしようという秋灯の態度は献身を通り越して気味が悪い。
「世界の時間が止まって、扉に挟まって、それで助けてもらって。それも勿論理由ではあるんですけど‥‥‥俺は、」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥」
言いかけて止まり、長い沈黙。
最初のほうこそ真剣な顔をしていた明音だが、眉間の皺が深くなる。
「早く言いなさいよ」
「いや、やっぱこの話は後で」
「気になるんだけど」
「対して面白い話でもないので」
すごく歯切れの悪い秋灯。
洗いざらい話して楽になりたい気持ちはあるが、それでも。
今の明音にも自分にも酷だと思うから。
「ちっ、やっとあんたの願いが聞けるかもって思ったのに」
「‥‥先輩?」
大きく舌打ちをした後、力強く立ち上がる明音。
さっきまで深刻さが多分に含まれていた声音が、今は平素の状態。
何時の間にかシリアスが抜け落ちている。
「ふん。何が諦めませんか、よ。諦めるわけないでしょ」
「で、でも。今の先輩は」
「私が現実の身体を動かせば全部解決。あんたも風穂野も勿論私も次の試練に挑める。生きられる、生き続けられる、だから」
「ちょっ⁉なにして、」
「あんた達も私も。こんなところで終わらないし、終わらせるつもりもないわ!」
明音が手を十字に切り、空中にディスプレイが現れる。
仮想空間の状態変更画面と、現実の明音の生体データ表記。
それらをスクロールし、最下に位置するログアウトボタンに触れる。
『Error。身体機能に重篤な障害が発生しております。現在意識を覚醒させれば心神喪失になる恐れが、』
「黙りなさい」
機械音声の警告音と、ディスプレイの前に赤い警告の文字が浮かぶ。
それら全てを無視して明音は、もう一度ログアウトボタンを押す。
明音の身体の色彩が薄れ、雛罌粟が咲く丘の上から完全にいなくなる。
一切の躊躇もなく、あまりに突然すぎて止める間もなく。
「‥‥‥‥‥‥‥‥あんのアホ女ぁぁぁあああ!!!」
少し遅れて、秋灯の絶叫が仮想世界に響いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
――痛い。
まず初めに感じたのは、身体の芯がひび割れるような激痛。
右胸の奥が鮮烈に痛み、筋繊維の一つ一つが引っ張られ押し込められ捩じられ身体を支える骨が軋む。
全身に余すことなく巡る鈍痛と不快感。力を入れようにも、そもそも力を伝える神経さえ摩耗しているような。
なるほど、自分が意識を落とした理由がはっきり分かる。
呼吸一つさえも神経を使い、普段感じることのなかった瞼の重み。
僅か数センチ。その開閉だけで痛みが現れる。
これまで生きていて感じたことがない、あまりの激痛に目尻から涙が漏れ出す。
だがそれも、立ち昇る炎のような魔力に当てられ、すぐに乾く。
――痛い。
身体の奥底が燃えるように熱く、温度差から吸い込む空気が冷たく感じる。
それに耐え新鮮な空気を思い切り肺に入れる。
その僅かな動作でさえ一杯一杯で、あまりの痛みから意識が飛びかける。
ベッドの頭部に位置する白い円環が回転。
頭を覆っていたヘルメット型のVR機器が明音の覚醒と共に外される。
未だ手首に巻かれていた点滴用のチューブと命を維持する各種呼吸器系の器具、銀製のロボットアームを無理やり外す。
頭部奥の白い円環が再度回転し、警告音と共に明音の生体活動を観察していたモニターにエラー表示が点る。
対象の異常を検知してか、銀製の腕が伸びベッドに縫い付けようとしてくる。
「じゃ、ま‥‥」
無理やり身体を起こし、機械の腕を払う。
その僅かな動作でバランスを崩し、リノリウムの床に倒れ込む。
今の動きだけでまた意識が飛びかけた。
病院の一室のような、無機質な床の上。
膝立ちの姿勢から立とうとして、けれどそこから力が入らない。
遠くのほうから秋灯の怒号。続けて伊扇の叫び声。
それらが近づいてくるのが分かるが、今はかまっている余裕はない。
未だ自分の奥底から際限なく漏れ出てくる、暗赤色の魔力。
世界の時間が止まって伊扇の姿を見て、何の気なしに使えた魔力。
「動くのに便利」くらいにしか思っていなかった摩訶不思議エネルギーの源泉が自分の身体を蝕んでいる。
――こんなに、要らない、のよ。
あまりに過剰。人体に害を及ぼす奇跡の源泉を。
身体に力を入れ、骨が軋み肉が引きちぎれ、それでも。
今は全て吐き出してしまおう。
「はぁはぁはぁ、、、」
微かな紅を残し、ほとんど黒一色となった魔力。
どこか【汚穢ノ世界】で見た泥人形と酷似しているようで。
けれど今は、身に溜まったその力を全て吐き出す。
「先輩っっっ!!!」
「明音さんっっ!!」
外のドアが蹴破られるような音と共に、二つの叫び声が部屋の中に反響する。
秋灯が怒って、伊扇が泣きそうで。
自分のせいで試練を諦めようとしている、ちょっと行き過ぎるくらいお人好しの二人を。
自分の心根に刻まれた願いのためにも、諦めるわけにはいかない。
「私には、どうしても‥‥欲しい。絶対に欲しい‥‥」
再度膝に力を入れて、地面に立つ。
痛みで全身が痙攣し、意識が何度も落ちかけて。
唇を強く噛みすぎて、口の中で血の味が滲む。
けれど、自分の中身を天に向かって吐き出す。
紅と黒が混ざった魔力が天井を超えて、無機質で白無垢の世界の空に伸びていく。
「叶えたい。失いたくない。手放したくない。‥‥もう諦めたくない」
忘れてしまったかつての自分。
記憶もなにもかも忘れ、今の両親に引き取られ。
自分が何者かもわからず、なぜかある罪悪感だけが心中に漂い続け。
けれど、覚えていないはずの自分が叫ぶ。
「私が、この世界を、救うのよっ!!!!!」
誰かのために。
けれど誰のためにもなれなかった幼い自分が駄々をこねるように叫んだ。
身の底に溜まった汚穢を吐き出すように、【微睡ノ世界】に赤黒い柱が屹立する。
それはさも東京皇居に現れた神ノ御柱と酷似していて、神聖を孕んだ光景だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「‥‥‥明音先輩っ、明音先輩っ。明音。明音っ!!!」
朧気な意識の中、自分の名前を悲痛に叫ぶ声。
段々と意識が覚醒してきて、あまりに声が大きくて耳が痛い。
確か昔もこんなことがあったような。
「‥‥‥あき、ひ?」
「先輩、気がついて」
「ふふ。なんて顔してんのよ」
見下ろしてくる秋灯の顔は涙が滲んでいて、泣き顔なんて始めて見るのにそういえば昔は泣き虫だった気がして。
あまりに焦っている秋灯の顔が可笑しくて、つい笑みが零れる。
明音の身体に滞留し続けていた暗赤色の魔力が嘘のように消え失せ、今は静かな白無垢の世界。
機械のベッドが鎮座する元の無機質な部屋に戻っている。
「身体は?意識は?体調は?‥‥」
「もう大丈夫よ。今は怠いだけだから」
重そうに身体を起こす。
力が入らず倦怠感は残るが、右胸に響く心痛は無くなっている。
「なんて無茶をするんですか。あんなの下手したら死んでた」
「無茶しないと神様になれないでしょ」
「でも」
秋灯の苦言を制するが、横から小さい影が突っ込んでくる。
「明音さんっっ!!!!」
扉の奥から顔を出した伊扇が、手に持っていた桶を床に落とし、明音の身体に飛びつく。
普段ならいざ知らず、今の明音は受け止められず一緒に倒れ、後頭部を床に強打した。
「‥‥痛ったいわ」
「良かった。良かったですぅ‥‥‥」
「風穂野。‥‥心配かけてごめんね」
自分の後頭部を摩りつつ、伊扇の背中を軽く抱きしめる。
身体を震わせる小動物のような少女。これだけ心配させてしまって申し訳ない。
泣き出した伊扇をあやすが、秋灯は見ているだけで特に手を貸してくれない。
「ほら、風穂野。もう大丈夫だから」
「うぅ、すみません。私がもっと魔術師として強かったら、もっとちゃんと魔術が使えてたら。私のせいで明音さんが」
「そんなこと思ってたの?あんたのせいじゃないわよ。これは私のせいよ。自分の体調管理ができなかった私に原因があるのよ」
日々の食生活に加え筋トレ。
魔力の過負荷に身体が耐え切れないとはつまり鍛錬不足だ。
これからはもっと負荷を上げていこう。
「それよりごめんね、迷惑かけて。ずっと京都に居させちゃって。先に行っても良かったのに」
「嫌です」
「嫌ですね」
秋灯の声も混ざった拒絶の声。
後輩からの親愛が少し重い。
「ほらもう大丈夫だから。顔すんごいわよ」
「明音さんのせいですよぉぉーー」
胸に縋りつく伊扇が顔を上げるが、涙と鼻水が混じっていてちょっと汚い。
流石に顔を洗ってくるよう伝え、隣の家にタオルを取りに行く伊扇。
「あの娘、良い子すぎない?」
「ですね」
「魔術師ってみんなああなのかしら?」
「んな訳ないでしょう」
秋灯と顔を見合わせて、軽い雰囲気が戻る。
くつくつと笑いがこみ上げてくる。
「秋灯も心配かけたわね」
「ほんとですよ。勝手にログアウトしたとき、心臓が飛び出るかと」
「でもうまくいったでしょ」
「流石に怒りますよ」
にやりと秋灯に笑いかけるが、顔に怒気が現れる。
初めてちょっと後輩が怖いなと感じた。
気を逸らすように身体を伸ばし立ち上がるが、まだ膝に力が入らず体勢がよろける。
すかさず秋灯が支えるが、顔が近い。
「ちょっと気を付けて、」
「秋灯、私は絶対に神に成るわ。この世界を変えてみせる」
至近距離にある後輩の頬に手を添える。
不安気に覗き込んでくる秋灯を安心させるように、力強く言い放つ。
「だから私の傍にいなさい。私の隣で私を見ていて」
心中に深く根付く願いの理由も分からず、罪悪感と焦りだけが募って。
それを振り払うように、苛烈に闇雲に願いを掲げて。
昔の記憶なんてこれっぽっちも思い出せないけれど。
それでも。今はほんの少しだけ、願いを抱いた理由が分かった気がした。
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