【蛇足】明音のご褒美

目の下に隈をつくった男女が背中合わせに体育座りをしている。

二人とも膝頭に額をくっつけ、僅かに頭をもたげることさえ億劫そうに泥に揺蕩う街の先を見やる。

太平洋の奥。東の地平線の先に一閃橙色の光が仄かに灯り、暗い紺青の空が僅かに白けてくる。


「‥‥‥‥やっと朝ですね」

「‥‥‥‥ええ」


水門の操作室の屋根上に登ってから、だいたい半日。

堤防の上に這い出る泥人形は夜が深くなるごとに数を増し、灰色のコンクリートの躯体が見えなくなるほど天端の上を覆いつくした。途中低い獣のような唸り声や人の怨嗟のような声が響いてきたり、市街のほうから明らかに試練者プレイヤーと思しき甲高い叫び声が聞こたり。


こちらの神経をガリガリと削ってきたが、それでも泥人形たちが操作室の上まで辿り着くことは無かった。

泥人形たちが折り重なって櫓のようなものを作ったときは肝を冷やしたが、普通に壊れ法面に頽れていた。


途中仮眠をとれたものの、それでも眠気が酷い。

身体の疲れもそうだが、それ以上にずっと張りつめていたため精神のほうが擦り切れた。


空の暗さが薄らいでいくのに比例して泥人形は数を減らし今は全くいない。

ただの濃い闇色の泥に沈む静かな街が広がっているだけ。

reデバイスの表示画面は『02:11:32』。残り二時間と少しでようやく一日が経過したことになる。


「‥‥‥そろそろ降ります?」

「‥‥‥そうね」


疲れているからか、それとも単に気まずいだけか。すごくしおらしい。

横になったときはしがみつき、下を監視しているときも服の裾を掴み。

今もわざと背中に触れてきたり。

いつもの強気な態度が鳴りを潜めている。


「おんぶします?」

「大丈夫」

「そうですか。足元気を付けてください」

「ええ」


雨樋に足を掛け、四角いコンクリートの真下へするする降りていく。

見上げ心配の声を掛けるが、返ってくる声は素直だ。


「ここ滑るんで、慎重に」

「うん」


操作室裏の塩ビ管が水平に伸びる箇所――秋灯が落ちかけ明音の太腿に首を締め上げられた――を慎重に渡り、また再度長く垂直に配された雨樋を降りる。

我ながらよくこれを登ったなと感じる。必死だったとはいえ、ただの生身で。


なんとか天端に降り立ち周りを見やるが、やはり上から見た時と同じく泥人形はもういない。

続いて明音も灰色のコンクリートに足をつける。


「大丈夫そうです」

「ん。良かったわ」


なんだろう。覇気がない明音はすごく違和感がある。


「先輩」

「ん。なに?」

「キャラ違いです」

「‥‥‥は?」

「しおらしいのもいいですけど、先輩がやるとちょっとぶりっ子です。それは同性の女子から嫌われます」

「‥‥‥は?」

「小鹿並みに震えて使い物にならなかったことを気にしているのか、それとも夜中にぴったりくっついてきたのを気にしているのか知らないですけど。そろそろキャラを戻してください。違和感がすごいです」


秋灯のど直球の苦情。

弱気になり震えている少女に向かって、優しい言葉を投げかけるとは正反対の。

あまりに無遠慮な言葉。


「先輩にそんな姿は似合わないです。もっと苛烈で強烈でいてください」

「‥‥‥なによそれ。あんたが私の何を知って、」

「知りません。でも強気じゃない先輩だとこっちの調子が狂います」


まだ行動を共にして半月。

明音の願いも人となりも詳しくは知らない。


「‥‥励ますならもっと他にあるでしょ」

「すみません。でもこういうときの優しい言葉って苛つきません?」

「普通に嬉しいと思うけど」

「なら今度からそうします」


明音の語気に少し力が戻った気がした。


「ふん。生意気は後輩ね」

「すみません」

「いいわ。普通にしてあげる。でも覚えてることね」

「えっと何を?」


いつものように腰に手を当て、太々しいしく言い放つ。


「この借りは必ず返してやるわ」


どうせ助けられたことに罪悪感でも覚えていたのだろうが、それはそもそもの話。

お互い様なことだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「それはそれとして、俺今日一日すんごく頑張りましたよね」

「そうね」

「先輩を背負って逃げて、水門まで登って」

「むぅ‥‥‥そうね」

「夜中もずっと起きてて、先輩がくっつていきても特に突っ込まず」

「今度それを話題にしたら殺すわよ」

「あぅ」


語気がいつもと同じくらいかそれ以上に鋭い。


「なんで、ご褒美が欲しいです」

「は?」

「ご褒美が欲しいです」

「聞こえてるわよ」


怪訝な眼差しを向けてくる。


「何が欲しいの?」

「一回ハグとか」

「は?」

「一回添い寝とか」

「は?」

「もしくは一回頭を撫でさせてくれるとか」

「は?あんたが?誰を?」

「俺が先輩の頭を撫でるとか」

「あ?」

「それがダメなら、」


段々眉間に皺が寄って声が低くなる明音。

最後のそれはメンチを切っている。


「今日の夕食は先輩の手料理が食べたいです。昨日は食べそびれたんで」

「‥‥なによそれ」


以前明音に渡したガスコンロ。

昨日の夕方、堤防の天端に辿り着いた時は、ただ必死だったが。

あの時は明らかに泥人形と違う、お腹が空く匂いが漂っていた。


「疲れてるかも知れないんですけど、夜にでもお願いします」

「いいけど。そんなのでいいの?」

「じゃあ混浴で」

「調子乗んな」


すぐに欲望が漏れた。

内心、抱きしめるくらいはしてもいいのではと思うが。

明音の態度が戻ってきたのでよしとする。


「ふん、いいわ。今日は私が料理してあげる。すごいのを喰らわせてあげるわ」


長い黒髪をかき上げ、のびやかに言い切る。

その態度を見て今日は一応胃薬を解凍しておこうと思った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【汚穢ノ世界を出た夜 早々の就寝】


堤防の外にある暗い泥は未だ残り、それにびくつきつつ進み、reデバイスの表示画面が『00:00:00』になったことを確認し早々に【汚穢ノ世界】から立ち去る。

一応天端に残してきた荷物を確認したが、綺麗さっぱりなくなっていた。

せっかく工具やら服やら《時間解凍》して持っていたのに、また身一つになった。


眠気と疲れが残る身体に鞭を打ち、なんとかノルマの距離を歩ききり。

まだ日が登っていたが早々に休むことを決めた。


ごく普通の二階建ての民家の一階。

秋灯は誰の物かも知らぬソファの上に座り欠伸を噛み殺す。

眠気で瞼が重く、意識が今にも途切れそうだ。


リビングの奥のキッチンでは明音が、再度ホームセンターで解凍したガスコンロやら冷蔵庫に残されていた食材を使い、嬉々として料理をしている。


先輩は【汚穢ノ世界】から離れるごとに元気を取り戻し、徹夜からの三十キロ弱の距離を歩いたはずなのに元気だ。

体力のほうはまだまだ余力があるみたいだ。


「ふふん、できたわ!」


鍋掴み手にはめ、お皿を持ってくる。

憧れの先輩の手料理なのに、目が勝手に細くなる。


「昨日つくってたんだけど、食べそびれたからね。またカレーにしたわ!」


【汚穢ノ世界】にあった地面宜しく黒々としたカレー。

食材はごろごろと、というかそのまま入っている。


「ありがとうございます」


匂いはカレーなので美味しそうだが、野菜を切るという行為を知らないのだろうか。

いや、玉ねぎとじゃがいもは変にまばらに潰れている。きっと包丁という利器を知らないだけか。

それと、


「目が痛い?なんで?」


なぜか見ていると目が痛い。

目尻からちょっと涙が出てくる。


「市販のルーだけじゃ味気ないでしょ。冷蔵庫にスパイスが入ってたから入れてみたわ!」

「そ、そうですか」


水中眼鏡や工具のゴーグルを解凍しておけばよかったと後悔した。


「さ、食べなさい」

「い、いや。一緒に食べましょうよ」

「これはあんたへのご褒美なのよ。良いから食いなさい」


問答を言わせぬ強気な目でこちらを見てくる。

やっぱりご褒美はハグか添い寝で押し通せばよかった。


「い、いただきます」


スプーンを手に持ち、恐る恐る黒い液体を口元に近づける。


「‥‥‥意外と美味しい」

「意外とって何よ。ちゃんと食べれそうな物しか使ってないわよ」


意外と普通のカレーだ。

玉ねぎの皮と、ネギの青い部分と、なにかのへたが入っていることを除けば食べられる。

が、


「‥‥‥‥‥辛ッッ!!」


強烈な辛さが尾を引いて現れる。

ベロ先から口内一杯に広がる痛み。

最初の口当たりが不通のカレーだっただけに、油断してしまった。

なんでスパイスを入れただけでこんなに辛く出来るんだ。


ただここで言葉にしてしまっては、もしかしたら万が一明音が傷つくかもしれない。

最低限の配慮として、手料理を振舞ってもらった側として、全力でリアクションを押し殺す。

掌を口に沿わせベロを冷やし、そして噛んで人差し指の付け根を噛んで辛さに耐える。


「お、おいしひいでふ」

「そ、良かったわ」


ちょっと嬉しそうにはにかんでいる明音。

この笑顔を壊すわけにはいかない。


気合で一杯を食べきり、追加のおかわりを丁重に断り、そして二階の部屋に消えた秋灯。

途中から同じものを食べ出した明音は普通に美味しそうに食べていた。

あんたの舌はどうなってるんだ。

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