⑨ゾンビパニック

「‥‥‥鳩尾と背中と腰が痛い」


明音に頭突きをかまされ悶絶すること十秒。

すでに今いる小段の下の斜面には夥しい数の泥人形が這いずり回っている。


幸い人の形を模した泥はそれほど硬くないのか、ある程度衝撃を与えれば崩れ落ちる。

ただ、問題はその数。


さっきまで汚泥に沈んだ街の大学らしき校舎の中を探索していた。

屋内は意外にも綺麗で、東京市街ほど崩れ果ててはいなかった。

多少埃が積もったリノリウムの床をペタペタと歩き、現代の都市とそれほど作りに違いがなかったり、人の痕跡が極端に少なかったり、いろいろ興味深かった。

ただ散策に熱中している間に、既に眼下のグラウンドに泥人形が堆積していた。


始め校舎の窓からそれを目撃したときは軽く叫びそうになって、それでも即座に逃げ道を探し。

次々と泥の中から這い出てくる泥人形の上を全力で走り、持っていた懐中電灯やら鉈やらを振り回し。

市街を縦断する河川路とその両脇に併設されている高い壁をよじ登った。


そこから幅の狭い壁の上を再度全力ダッシュし堤防の天端まで辿り着き、やっとのことで明音がいる場所まで戻ってきた。我ながらこの短時間でものすごい運動量だ。


「大丈夫ですか先輩」

「‥‥‥‥あ、秋灯」


起き上がり、明音の両肩に触れるが震えがこちらまで伝わってくる。

普段の自信に満ちた自己肯定感マックス女はどこへいったのか、腕の中で怯える弱気な少女。


内心で「なんか似合わないな」と思いつつ、確かに泥人形を見ていると心がざわめく。

まるで子供の頃、夜中のトイレを怖がったような。深い闇に対する本能的な恐怖。


人の悪意と害意と執意と邪意からできた、人を模した化け物。

日中は何も起きなかった癖に、夜になったら出てくるとは。

端末の説明文にもっと詳しく載せておいてほしい。


「とりあえず逃げますよ!」


明音の両腕を掴み立たせるが、身体に力が入らないのかストンと落ちてしまう。

すでに背中で潰した泥人形以外にも、間近まで迫ってきている。


「‥‥だめ。震えて、足が、」


生まれたての小鹿みたいにプルプル震えている。

泥人形に強く当てられてしまったらしい。


「あんただけでも‥‥」


か細い声で先に続けられそうになった言葉を察し、少し苛つく。


「俺がっ!あんたを置いて逃げるわけないだろっ!!」

「ひゃあっぅ!!」


両腕で明音の身体を抱き上げ、予想より重たくて一旦下ろし。

今度は背中で担いで立ち上がる。


「‥‥‥‥‥なんでこんな重いんだ?」

「あ?」


一瞬底冷えする声が耳元で囁かれる。


「い、いえ。そんなことよりちゃんと掴んでください」

「う、うん」

「ほら、ちゃんと首に手を回して!」

「うん」

「もっと密着させて!」

「うん」

「もっとです!」


背中でそれを感じつつ、流石に悠長にしていられない。

堤防の小段を西側に進み、途中備え付けられた階段を駆け上がる。

石段一つ一つの段差が大きく、現代の世界の高規格堤防よりずっと高い。

さっきは無我夢中で転げ落ちたが、よくこの傾斜を降りたと頬が引きつる。


推定三十メートルくらい登った先。幅の広い天端に勢いよく躍り出る。

息を整えその先の市街と反対方向の景色を視界に捉える。


「‥‥‥こっちにもいるのか」

「ひぃぃぃいいいいいいい!!!」

「ちょっ!ジタバタしないっ!」


明音も見てしまったらしい。

日中は光を反射する暗い泥が一面に続いていただけ。

それが今は泥水の上で黒く暗い何かが蠢き、泥人形に加えて蟲や獸に似たものもあり、泥の水面の上を這いずり回っている。


市街の中も泥人形で溢れかえっていたが、その数を優に超える。


「こりゃ人が滅びるわけだ‥‥‥‥‥‥」


見渡す限り泥が堆積している場所全てから、化け物が湧き出ている。

これでは堤防の上を覆いつくすのも時間の問題だろう。


市街の奥。探索していた校舎や家屋群の先に、河川路の厚い壁と堅牢なつくりのビル群があった。

そこだけ少し近未来的で、頑強な要塞のような見た目をしていた。

都市の最も南部に位置するそこなら、一夜くらいなら籠城できるかもしれない。


ただ、


「通れないか‥‥‥」


さっき使った河川路の長壁の上にも泥の人形が伝ってきている。

天端ほど広くないその場所では、対面で向かい合う形になる。

一体、二体ならともかく、十を越えれば対処できない。


もう市街の奥まで行っている時間はない。


秋灯は当たりをぐるりと見まわし、近場で最も高い建造物に当たりをつける。

背に担ぐ一つ年上の少女の震えを感じ、気合を入れる。


天端の上を勢いよく駆け、その端の。

堤防を寸断する形で備え付けられた重厚な水門。

それを支える見上げると首が痛くなるほど高い堰柱を目指す。


「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」


呼吸が荒くなり、人二人分の体重を支える足に乳酸が溜まっていく。

空は日が完全に落ち、ほんのり薄明るさを残すだけで濃い紺色をしている。

灰色の堤防の上は虫が湧いたように人間大の泥人形が蠢き、その数を増やしていっている。


「ははっ!!」

「‥‥‥なに、笑ってんのよ」

「いやなんか映画みたいだなって」


東京市街で人型機械アルフ・オートマタに追われたときは、まだ生死の緊迫感があった。

今のこの状況は、大群のゾンビに追われる洋画のワンシーンみたいで。

あんまりにも非現実的すぎて、笑いがこみ上げてきた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


一心不乱に天端の上を走り、堤防の端に到着する。

眼下には市街に続く河川路と外の泥を塞ぐように降ろされた鋼製の水門。

そしてそれを支える太く分厚い堰柱が屹立している。


更に上にはコンクリートで作られた四角い箱のような部屋。

堰柱の上に出っ張ている形でついていて、おそらく水門の操作室。


「あそこまで行ければ‥‥‥」


流石に追ってこれない。

視界の端で観察していたが、泥人形の頭はよくないらしい。

急な傾斜に足をもつれさせ、下段に転がり落ちている泥人形もいるくらい。

ただそれらが折り重なり足場になって、徐々に天端まで到達する個体が増えている。


本当に映画の中の数だけがとりえのゾンビみたいだ。

生きている標的に向かって闇雲に身体を動かし、追い縋ってきているだけ。


堰柱の隣には鋼材で組まれた管理用の螺旋階段があるが、なぜか市外に向けて大きく傾いている。

時間が止まっているから辛うじて倒れていないだけで、もし時間が動いていたら堤防とその先の泥の海に頽れているだろう。


他には堰柱ののっぺりしたコンクリートの表面に申し訳程度に着けられた雨樋。

両手で握っても掴みきれないほど太い筒が、堰柱の先の操作室の屋根まで続いている。

塩化ビニル管の軽そうな見た目だが、これも時間が止まっているため異常に硬い。


「‥‥行ける、か?」


自分に問いかけるように小さく零す。

推定二十メートル強。下手したらもっと高い柱を人一人を背中に抱えて。

背中では未だ小刻みに震えている明音。息が荒く、首に回された手には力が入っていない。


もう少し雨樋が細ければ。

なんなら螺旋階段が傾いていなければと思ってしまうが、それを言っても仕方がない。


すでに堤防の法尻から二段目の小段にかけて、直視できないほど黒い泥が蠢ている。

蟲かご一杯に詰めたカブトムシ、腐った切り株の中の蛆虫、巨大なスズメバチの巣。

それらを連想させるほど密集した泥の群れ。見ていると集合体恐怖症にでもなりそうだ。


悩んでいる時間はもうない。


「いっけっ!!」


気合を入れて雨樋に手を掛ける。

太い塩化ビニル管を脇を締めてガッチリ掴み、太腿で身体を固定。

腕に力を入れすぎないよう注意しつつ、二人分の体重を支える。

管に縋りつくように全身の摩擦を使って登っていく。


「はぁ、はぁ‥‥‥‥」


焦りから息が切れる。額から汗が伝い瞼に落ちる。

それを拭うこともできず、ただ必死に身体を真上に向かって持ち上げていく。

昼間はあんなに暇していたのに、こんな決死の登攀をするはめになるとは。


「あ、秋灯‥‥」

「大丈夫。これくらい、余裕です」


耳元で明音が心配の声を漏らすが、まだ小刻みに震えを感じる。

すでに背中にかかる双丘に意識を割く余裕すらない。


少し顎を引き真下の景色に視線を移すが、堰柱の根元の天端には相当な数の泥人形が到達している。

これでもう落ちることはできなくなった。


深く息を吐き、視線を上に戻す。

徐々にだが四角く出っ張ったコンクリートの裏面が近づいてくる。


「はぁ、はぁ。‥‥‥‥とりあえず、ここまで」


堰柱の先端。水門の操作室の真下まで到達する。

雨樋は操作室の裏面に水平に伸び、出っ張っているコンクリート壁から再度垂直に続いている。


この出っ張り部分は腕の力だけで通るしかない。

雲梯のように雨樋を全力で握ってぶら下がり、二人分の体重が全て上腕にかかってミシミシと筋肉が軋む。


「ふんぬぅぅうっ!!!」


歯を食いしばり、ずらす様に腕を前に運ぶ。

掌と手首で管を掴み、なんなら肘も巻き込んで。

眼球が飛び出るほど目をかっぴらき口から苦悶の声が漏れ出る。


水平に伸びた管の終端。

またそこから更に垂直に続いているが、もう指に力が入らない。

腕を管に絡め、かろうじてぶら下がった状態で背中の明音に声を掛ける。


「すみません。ちょっと先に登って、」

「う、うん」


明音が管に手を伸ばし背中から離れる。

未だ震えているものの、確かに雨樋に組み付くのを確認して、もう腕が限界だった。

手汗でべたつき、力が入れられなくなった秋灯の両腕が管から離れていく。


「ぐへぇっ!!!」

「な、なに落ちそうになってんのよっ!!」


頭上から泣きそうな声。

両足の太腿を秋灯の首に巻き付け、間一髪身体を支える。


「せ、先輩。キマッてる!首が締まる!頭が取れる!!」

「なら上がってきなさいっ!!」


首を絞められ宙づりになっている秋灯が必死に太腿をタップするが。

上の明音がさらに必死になって叫ぶ。


血が頭に登って段々意識が遠くなる。

縄じゃなくて女子高生の太腿で首を吊られる奇怪なプレイ。

死にかけているからだろうか、残った力を振り絞って雨樋に手を延ばす。


ギリギリ、というかほとんど落ちかけて雨樋の垂直に曲がった下端に足をつける。


「し、死にそうになってんじゃないわよ!」


少し上で管に掴まり未だに太腿で秋灯の首をホールドしたままの明音。

宵闇の中で目じりに浮かんだ涙が光っている。


「ごほっ、うぇ。‥‥ありがとうございます」

「それは‥‥‥‥‥私のセリフよ」


空咳をしつつ、首が取れていないことを確かめる。


「あと少しなんだから。その、頑張りなさい」

「はい」


四角いコンクリートの操作室の屋根まで目算で三メートル。

垂直に伸びる管と頭上にいる明音。

首を回しつつ、軽くなった身体を何とか動かした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「はぁはぁはぁ‥‥‥」


十畳くらいのコンクリートの屋根に大の字に転がる。

身体に全く力が入らず最後辺り明音に引っ張り上げられていた。


「ここなら、大丈夫よね‥‥」

「おそらく」


さっきよりいくらか震えがましになった明音。

自分の身体を抱くようにしながら、恐る恐る下を覗くが。


「ひぃぃぃいいいいいいい!!」


一瞬で後ずさり屋根の中央に戻る。

怖いなら見なければいいのに、と秋灯は思う。


水門の操作室である立法体のコンクリート。

屋根上まで到達するには雨樋を登るぐらいしか方法がない。

鋼製の螺旋階段は壊れ、時間が止まっているため堰柱を壊される心配もない。


眼下に広がる天端にも泥人形が這いずり、直下の堰柱の壁に手を伸ばしている。

けれど、それだけ。雨樋を伝う知性もなければ、数が折り重なっても流石にこの高さにはならない。


「ここで夜が明けるのを待ちましょう。日が登ればいなくなるはずです」

「そ、そうね」


寝袋や食料やらは全て置いてきてしまった。

既に泥の中に呑まれているだろう、いい感じの工具とキャンプグッズ。

せっかく夜な夜な調達していたのに、これでは解凍し直しだ。


ほんの少し残念な気持ちになりながら、この後を考える。

今日は徹夜することになりそうだが、流石に少し休みたい。

せめて下の操作室を《時間解凍》して中に入ろうか。

いや扉が施錠されているだろうし、安易に時間を動かせば壊される可能性も出てくる。


上体だけを起こし悩んでいると、明音が申し訳なさそうな声を掛けてくる。


「その‥‥ごめんなさい。足手まといだったわ」

「先輩も助けてくれたじゃないですか」

「あれは咄嗟で。そもそも私が動けてたらあんたは‥‥」


太腿絞めのおかげで事なきを得たが、あれが無かったら今頃は泥の中だ。


「マネキンのときもそうだけど、足を引っ張ってばっかで、」

「いや、そんな。俺も先輩に助けられてますって」


微かに震える声音。

相当自信を失っているらしい。こんなしおらしい姿は始めて見る。


「なんであんたは‥‥‥‥あれが怖くないのよ。だって、あんな、」


視線を斜め下に移し、すぐに戻す。

確かにあの泥を見ていると身体の底が強張って恐怖が湧いてくる。


「いや、怖いですよ」

「じゃあなんでそんな普通にしてられるのよ」

「‥‥‥‥‥さぁ?」


確かに怖い、怖いのだが、身動きが取れなくなるほどではない。

単純に慣れの問題だと思う。


「多分人によって感じ方が違うだけだと思います。先輩は純粋、というか本能が強そうなので当てられたんじゃないですか?」

「本能?」

「死の気配を察知する本能がきっとびんびんなんですよ。俺はその辺鈍そうなので」


特に根拠も無く適当に返す。

敏感か鈍感か。感情か理性か。直観か理屈か。

普段の考え方の癖やら価値観が影響しているだけだと感じる。


「それに先輩が柄にもなく怖がってたんで、そっちに驚いてましたし」

「‥‥うるさいわね」


口のへの字に曲げていじけたような声。

できれば普段の強気な態度に戻ってほしいが、これはこれで新鮮だ。


「とりあえず一旦休みましょう。最悪ここからも逃げないといけないかもしれませんし」

「‥‥分かったわ」


しょぼくれた先輩を励ますのは、意外と難しいと感じた。

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