⑧明音独り(秋灯散策中)

コンクリートに被覆された灰色の小段の上で片手片足の姿勢で腕立て伏せを行う。

息を切らすことなく、額に少し汗を浮かばせて地面スレスレまで身体を下げる。

胸の大胸筋と肩回りの三角筋を意識しつつ、負荷が足りないと感じる。


今度は片足立ちになりスクワットを行う。

大殿筋とハムストリングの収縮を感じつつ、地面に触れていない片方の足のつま先を伸ばす。

負荷が抜けないようギリギリしゃがんだ状態で姿勢をキープし、再度上体を上げる。


やはり重さが足りない。

試練が始まってからなんでか身体の調子がすこぶるいいが、これでは筋肉が鈍ってしまう。


世界の時間が止まる前から女子高生にしては相当な部類の筋トレをしていた。

運動神経は良い方だし高校ではいくつか運動部から声を掛けられて助っ人に駆り出されることも多かった。

秋灯が最初から知っていたのは、おそらくこのあたりの噂でも知っていたのだと思う。


ただ、ここまで負荷が足りないと感じたことは無かった。

自重だけだが、それでも時間が止まる前なら汗だくになるくらいの負荷をかけている。

これでほとんど疲れないのはおかしい。

まるで身体の奥底から力が湧いてくるような、妙な感覚がある。


「‥‥‥今度は重りでも解凍しようかしら」


日課の筋トレを終え、身体を伸ばしつつ周りを見やる。

泥濘に沈んだ街とその先の海岸線。すでに日が傾きかけ太平洋の先が赤い橙色に輝いている。


時間が止まった世界の夜は本当に真っ暗になる。

月が出ていればいくらかましだが、曇っていると本当に何も見えない。

日の出と共に起きて日中はずっと歩き、日が沈めばさっさと休む。

一カ月前は考えられなかったほどすごく健康的な生活をしている。


ただ高校から着いてきてなぜか今も一緒にいる後輩は、夜な夜な街へ出かけている。

《時間解凍》を広げられるようになって食事やら寝床に余裕ができて、その余った回数で余計な物を調達してくる。

暗闇の中に佇む街に嬉々として、勝手に一人で。ちょっと明音には考えられない。


昨日は近くにあったホームセンターから工具やらキャンプ用品やらを持ち帰ってきた。

つい「そんなの邪魔でしょ」と言ったが、頑なに自分のリュックに詰めていた。

その姿が子供っぽくて笑えてしまったが、一体何に使う予定なのか。


秋灯の《時間解凍》の恩恵にあずかっている手前、強く言えないが。

にしては日中重そうにしているので必要な物だけにしてほしい。


「‥‥‥‥にしても遅いわね」


ついさっきに暇に耐えかねた後輩が「薪か何かを取ってきます」と言って、泥に沈んだ街に駆けて行った。

あれから随分時間が経った気がするが、未だに戻ってこない。


なんでこんな不気味な場所で動けるのか内心では気が知れない。

この【汚穢ノ世界】に入ってから、身体の底が震えるような怖さがずっとある。

まるで自分の本能がこの世界に警戒しているような、下一面に広がる暗い泥の湖を感覚的に嫌悪してしまう。


このまま穏便に、何も起きずに時間が経過してほいい。


手持無沙汰になった明音は、一旦夕食の準備を開始する。

食事は基本出来あいのものか秋灯が作っていたが、今日は時間があるので自分で作ろう。


以前秋灯に解凍させたガスコンロをバックパックから取り出し、余っていた食材を握る。

洗い物が増えるので包丁は取り出さずに、玉ねぎを皮ごと握りつぶし、じゃがいもを皮ごと砕く。

アスパラは捩じ切り、ネギもあったので捩じ切り、ナスはへたを取らずにそのまま。

隠し味に温くなったウイダーと溶けかけのチョコレート。ずっと余っている乾パンも入れる。

水が入ったペットボトルを銀製の鍋に注ぎ、勢いがつきすぎて鍋から溢れたが、構わず食材を入れる。


普通のお肉は腐りそうだったので携帯していないが、代わりにサラダチキンを入れる。

一応保冷バックに入れていたので多分腐っていない。きっと大丈夫。

あとはルーを砕き入れ、適当に二、三回混ぜてカレーが完成する。


ごく普通の即席サラダチキンカレー。

料理について秋灯が何か言いたげだったが、やっぱり普通にできている。

これなら文句もないだろう。


「‥‥‥‥ちょっとルーが残ってるわね」


味見したら固形のルーが溶けていなかった。

ドロドロになるまで火にかけよう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


濃い橙と暗い蒼が入り混じる夕暮れ時。

汚泥に沈んだ街の先がコントラストに輝いて芸術的な絵画のように感じる。

滅んだ世界でもいつもと変わらない空の景色に、少しだけ安心する。


人力ミキサーよろしくお玉を高速で振動回転させ鍋の食材がドロドロになったころ。

ルーと食材が完全に溶けきった――固形物が無くなった――ことを確認して、夕食の準備を終える。

ついでにテントの設営も終えたので、これで本当にやることが無くなった。


明音は腕に取り付けられたreデバイスを起動する。画面を数回タップし、規定の文章を呼び出す。

そういえばこの端末の電池はどうなっているのだろう。配られてからずっと充電をしていない。

見た目スマートフォンに似ているが、何か神様的パワーが働いているのだろうか。


規定とこの滅んだ世界の説明文に目を通し、相変わらずSF的世界観だが流石に都市を見た後だとぞっとして、それもすぐに読み終えてしまう。


次は《時間解凍》の範囲を拡げる練習でもしようか。

ここ数日何度も練習していたが、まだ一度も成功してない。

逐次秋灯が「見た物を全て立体的に記憶してください」とか「奥も視るんですよ」とか解説してくれるが。

人間にそんな器官は備わっていないと突っ込んでしまう。

あいつの五感はどうなっているのか。きっとバグっている。


明音は周りを見やり解凍してもよさそうな物を探す。

人型マネキンの事もあるので、不用意に終末の世界の物は解凍したくない。


それは、何の気なしに見つめた堤防の真下。

急な傾斜の法面と法尻部分。暗い泥が堆積しているその上で何かが動いた気がした。


「‥‥‥‥‥‥なに?」


凝視するが、泥の中から一本細い棒が延びている。

薄暗くてよく見えないが、人の腕に似ているような。

それは水面の中を藻掻くように浮き上がり、その下からもう一本の腕。

更に人の形を模した頭と肩。瘦せ細った身体が泥の中から起き上がり、その下の脚が泥の水面を踏みしめる。


「ひっ!!」


それを見止め、堪らず叫び声が漏れる。

市街に揺蕩うだけの暗い泥が人の形をとり、時間が止まっているはずの世界で動いている。

泥人形ともいうべきそれが堤防の法尻にしがみつき、ゆっくり這い上がってくる。


見つめていると勝手に歯の奥がカチカチと鳴って身体が小刻みに震える。

背筋が凍ったように冷たくなり、本能的にただ怖いという感情しか出てこない。


泥人形が法面に四肢を預け、藻掻くように登ってくる。


「秋灯!!!帰ってこぉぉぉぉぉぉぉおおおおいいっ!!!!!!!」


反射で叫んだ。

何かあれば大声で知らせると事前に決めていた。

時間が止まった静謐に包まれたこの世界なら、遠くにいても声は届きやすいから。

ただ、そんな取り決めとか関係なく明音は叫んでいた。


「早く!早く!帰ってこい!秋灯ぃぃぃいいいいいいいい!!!」


力一杯叫ぶ。先輩の威厳とか、もろもろは捨て置いて。

明らかに異常事態。人型マネキンと同じく、きっと【汚穢ノ世界】に再現された人を滅ぼした要因の何か。


泥人形はまだ堤防の下端で藻掻いているだけ。

ただ、視線を移すと他の場所でも泥の上に動きがある。

腕や脚が伸びてきて、そこから暗色の泥人形が何体も這い出てくる。


「ひぃぃぃぃぃいいいいいい!!!!秋灯ぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいい!!!」」


自分の悲鳴で頭の奥がくらくらする。

勝手に目じりから涙が出てきて、身体が強張る。

せめて上に逃げようとするが、脚に力が入らず小段の上で小さく縮こまる。


普段の強気な態度と違い身体を抱くように腕を回すだけ。

無力な少女のように、得体の知れない泥人形に怯えることしかできない。


堤防の法尻にいた泥人形は次第に数を増やし、斜面の上をのたうつように登ってくる。

脅え縮こまるだけの明音と距離を詰め、徐々ににじり寄ってくる。


「来ないで。‥‥‥来ないでよッ!!」


手あたり次第に物を投げる。

作ったカレーを鍋ごと。バックパックに入っていた懐中電灯やら衣類やら。

座っていた椅子とテント。秋灯が持ってきた重そうな工具。

とりあえず手につく物すべてを。


けれど、いつのまにか泥人形は堤防の下段を覆いつくし。

数体、足の速いものが既に小段の上まで到達している。


投げる物がなくなり、身体の震えと恐怖から目の焦点が定まらなくなってきた頃。

一番先頭にいた泥人形が、明音のすぐ目の前まで距離を詰める。

泥で成形された人のような関節と手足。暗い光沢を持つ泥の腕が明音に延ばされる。


「い‥‥‥や‥‥‥‥‥‥」

「先輩っ!!!!!」


なぜかその声は上から降ってきた。

声と共に斜面を下り転がって、明音の眼前にいた泥人形と重なるようにべちゃりと落ちた。

秋灯の背中で押しつぶした泥人形は、コンクリートの上で本来の泥水に変わる。


「ごほっ、ごほっ!!痛ったい!!」


空咳を数回零し、自分の背中を摩りながら立ち上がる秋灯。

必死に走ってきたのか、着ていたTシャツがよれて汗だくになっている。


「先輩、大丈夫ですか?ぐぼぁらっ!!」


こちらに向き直り覗き込んでくる秋灯に向かって明音は躊躇なく抱き着く。

みっともなく震え、縋りつき。後で揶揄われるかもしれないと思いながら。

それでも今は人の温かさが欲しかった。

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