⑦静岡県浜松市

撓る弓のようなトラス構造を持つ天竜川橋。

淡い青色に塗られ少し錆びついた鋼材と黒く舗装されたアスファルトの道路床板。

橋が跨ぐ天竜川は水面が確かに揺らいでいる。


約一キロ。真っすぐ伸びる橋の上を歩きつつ、対岸の情景が徐々に鮮明になってくる。

静岡県浜松市の中央区付近。規定の通りなら東京市街と同じく終末が再現された都市が置かれている。


【汚穢ノ世界】。人の悪意と害意と執意と邪意が滞留し、それら穢れが形を成し世界に蔓延した世界。

堆積し続けた人の負の感情が世界の底より漏れ出て逆流し、いくつもの都市を飲み込み滅んだ世界。


概説の文章を読む限り、およそ人が住める世界ではない。

入りたくないし近づきたくもないが、ただどの《終末再現都市》も多かれ少なかれ剣呑な表現がされている。

東京を除き九つある《終末再現都市》のうち四つは滞在しなければいけないため、行程的にここで一つ稼いでおきたい。


たった一日だけ。二四時間を過ごせるかどうか。

滅んだ東京では人型機械アルフ・オートマタに殺されそうになった。

すでにある程度覚悟して、この場所を訪れた。

だが、


「なによこれ‥‥‥‥」


明音が口元を手で覆い、言葉を失う。

橋の直上に見える対岸の街は、街ではなかった。


何もない凪いでいる海面のように均された大地。

足元には光を反射し、鏡面のような輝きをもつ黒く暗い水のような何か。

見た目、粒度の低い泥が時間停止の影響で固まっているように見える。

それが見渡す限り大地の上を覆いつくし、家屋も畑も道路も車も。

現代の見知った街並みが何一つ残されていない。


「これは、流石に‥‥‥‥」


秋灯も同様、口をあんぐりと開け言葉が続かない。

あと数十メートルも進めば橋の終端だが、対岸に広がっている世界に足を踏み入れていいのか迷う。


「迂回します?」

「したいけど、横浜を飛ばしてきちゃったわよね」

「‥‥ですね」


短く意思を確認し合う。

すでに【汚穢ノ世界】に入ることは決めている。

白マネキンのように死の危険があれば全力で逃げるが、まだ景色を見ただけ。

ここで引き返しては、おそらく他の《終末再現都市》も踏破することはできない。


「行くわよ」

「はい」


決意を込めるように明音が声を上げ、それに続く。

鋼材のトラスが対岸に繋がれアスファルトの地面が終わっている橋の終端。

そこから先は世界が切り替わっているのか一面黒く暗い泥だけ。


振り切るように勢いよく歩を進め、明音と少し遅れて秋灯が泥の上に足を踏み入れる。

腕の端末が震え、画面に『24:00:00』の数字が表示される。

秒数が減少していることから一日の経過を自動で計ってくれるらしい。


「よかった。普通に歩けそうですね」


足裏で地面をぐりぐり踏みしめるが、見た目の質感と違って恐ろしく硬い。

今の世界の道路や建物と同様に時間が止まっているみたいだ。


「なんか寒くないかしら?」

「そうですか?」


隣に視線を移すが、明音が自分の身体を抱くようにして腕を組んでいる。

今の服装はスポーツ用のタンクトップとショートパンツのみ。

残暑をまだ感じるが、それでも十月の中旬。流石にその恰好は寒いだろうと思っていた。


バックパックから薄手のパーカーを取り出し明音に手渡す。

《時間解凍》の拡張ができるようになってから物資も潤ってきたので、冬用の服を調達してもいいかもしれない。


「とりあえず出来るだけ西側に進んでおきましょう」

「ええ。でもその前に、」


手を擦り合わせている明音が、顎で視線の先を促す。

暗い泥が佇む水面の先。ずっと奥のほうで灰色の壁が並んでいる。

比較する建物がないため遠近感が狂うが、おそらくビルくらいには高い。


「あれが何なのか気になるわ」

「行ってみますか」


とりあえずの進路を決めて、泥の大地を歩く。

残り二四時間が無事に過ぎることを祈って、終わった世界に残された建造物に向かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


灰色のコンクリートで被覆された直高五十メートルはあるかというほどの高い壁。

急な傾斜の法面とその間の小段が三カ所。荒川の堤防も相当な高さがあるが、これは比較にならないほど大きい。


のっぺりした灰色の壁面と波返しがついた天端。

高さからしたらダム壁に近いが、見た目は頑強な堤防そのもの。

それが泥の大地を横一線にぐるりと敷設されている。


終末が再現された都市に明らかに人の手が入った建造物。

暗い泥の大地に屹立するそれは一種巨人が居並んでいるようで、よくこんな物を造れたなと畏敬の念が湧く。

法面に付けられた階段を進み、高い堤防を登る。


視界の斜め上の明音はさっさと階段を登ってすでに頂点の天端に着いている。

先に見える光景に絶句しているが、それよりもパックパックが重たくて中に物を詰め過ぎたなと感じる。


「秋灯、早く来なさいっ!」


階段の先で手だけをこちらに向けて煽ってくる

残り数段を早歩きで駆けあがり、ようやく視界が開ける。


「うぉ!すごっ!!」


そこには、暗い泥に沈む街があった。


おそらく民家の屋根が泥から僅かに顔を出し、背の高い鉄筋造りのマンション群は外観がはっきり残っている。

街区の奥には高い高層ビルが居並んでいるが、数本傾きかけて隣のビルに寄りかかっているものもある。

滅んだ世界。暗い泥が堆積し、終わった世界の街並み。


今いる堤防は都市の外周にぐるりと配され、近代の城郭都市に似た街並み。

おそらく泥の流れを堰き止めるために堤防が築かれたのだろうが。

結局決壊し、都市が呑み込まれてしまっている。


「‥‥‥どうやったらこんな世界になるのよ」


明音が奥歯を強く噛み、吐き捨てるように言葉を漏らす。

あまりに非現実的な光景で好奇の目で見ていたが、現実に戻される。


「穢れが逆流してきた世界。穢れってのはこの泥なんですかね」

「たぶん、そうね」

「起こるとしたら百年以上先って書いてありますけど。確率は東京の【機工ノ世界】より低いみたいですね」

「こんな終わり方なんて絶対嫌ね」


端末を取り出し【汚穢ノ世界】の文章を読み直す。

西暦と簡単な出来事しか書かれていないため、なぜこうなったのか判読できない。


「降りてみます?」

「‥‥堤防の上を行きましょ。入らないほうが良い気がするわ」

「了解です」


沈んだ街を見下ろしつつ、明音はすでに堤防の上を歩きだす。

車両が交錯しても余裕で通れるくらいには幅の広い天端。

それが、ずっと先まで続いている。


できれば都市に残されたものを見てみたかったが、それより浜松市の西端を目指す方が先か。

両肩を摩りながら終始寒そうにしている明音。少し小走りでその背中に追い付く。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「‥‥‥暇ね」

「‥‥‥ですねぇ」


天端から少し下がった平らな小段の上。

折り畳み椅子の上に座り、銀色のステンレス製の台に灯された焚火を眺める。

ついさっきの緊張感はどこへやら、気だるげな空気が流れている。


あれから三時間ほど堤防の上を歩き続け、浜松市の西側まで到達した。


終始視界の左側を占める泥に沈んだ街を観察していたが、堆積した泥がどこから流れてきたのか分からない。

海岸線とは反対の陸側にぐるりと配された堤防。途中堤防と堤防の間を寸断し巨大な水門が取り付けられていて、そこから伸びる河川路が都市を縦に斬るように太平洋側まで続いている。


通ってきた堤防の外。

まるで陸側のほうが泥の水位が高いような、そんな不思議なつくりをしている。


出来れば街に入って【汚穢ノ世界】で何が起きたのか調べたいが、何故か明音が入ることを頑なに嫌がる。

白マネキンのこともあったし安易に街に入りたくないというのも分かるが。

今は暇を持て余し、堤防の上で管をまいているだけ。


「何も起きませんね」

「そうね」

試練者プレイヤーもいませんね」

「そうね」

「あと半日以上ありますね」

「そうね」

「下降ります?」

「いや」


天端にいると風が強く吹いて他の試練者プレイヤーから丸見えなので、都市側に少し降りた小段の上にいる。

ただ、他にやることがなくて本当に暇だ。


目の前の焚火に薪を入れるが、そろそろ手持ちがなくなってきた。

何かあったときのために今日の分の《時間解凍》を節約しているが、明音がずっと寒いと言っているし、どこかから燃えるものでも調達してこようか。


周りには木々らしき影がさっぱり見えず、瓦礫とコンクリートブロックが少し散乱しているぐらい。

この前滞在したキャンプ場で薪をもっと持ってくれば良かった。


腕に取り付けられたreデバイスを点ける。残り時間が『18:32:11』。

ざっと六時間は経過したが、まだまだこの場所に居なければならない。


せめて何か時間を潰せること。

近くに試練者プレイヤーでもいれば、話しかけたのにと思う。

大抵、こういう場合は先に明音の方がしびれを切らすが今日は随分大人しい。

【汚穢ノ世界】に相当警戒しているのかもしれない。


都市の中に入ってみたいという好奇心を抑えるが、やることもなくて睡魔が襲ってくる。

頭がぐらつき、顎が胸骨の先にこっくり落ちる。

流石に終末の世界で不用意に寝るわけにもいかず、頭を軽く振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る